海だ!(2)
 良夜は美月が「幽霊がいる」と言い出した瞬間から、猛烈に嫌な予感を感じていた。もちろん、呪われるとか取り憑かれるとかというレベルの話ではない。全く違うレベルでの「嫌な予感」だ。天啓というか過去の経験と実績というか……何よりも「金色」というのが彼の頭の中で最大限の警告を発していた。
 だと言うのに……
「幽霊ですよ! 幽霊! 楽しみですよねぇ〜幽霊ってどんな顔をしているのでしょう?」
 だと言うのに、なんで彼女の瞳はこんなにも美し輝いているのだろう? くりくりの瞳は大きく見開き、恋人の顔をまっすぐに射貫く。そして、少し荒れた手の平は良夜の手をがっしりと握りしめている。シチュエーション的には美味しいのかも知れないが、疑問ばかりが良夜の大脳大部分を占領していた。
「あの……美月さん、幽霊とか、好きなんですか? 怖くないんですか?」
 美月は本当に満面の笑顔だ。満面の笑顔で良夜の質問にきっぱりと答える。
「全然! 妖精の親戚にみたいなものじゃないですかっ!」
 この場合幽霊に同列に扱われるアルトに対して同情すべきなのか、それともアルトと同列に扱われている幽霊を気の毒に思うべきなのか……良夜は美月の手の柔らかさに心を引かれながら考え込んだ。
 そうしているうちに偵察要員はその任務を終え、ふわりと良夜の肩に着地を決めた。そして、囁かれる端的にして予想通りのお言葉。
「タカミーズが覗いてる」
 そのお言葉に良夜はペチンと額に手をやり、頭を抱えた。突っ伏したテーブルの木目を数えながら大きく溜息を吐き、同時に吐いた量よりも多量の空気を吸い込む。新鮮な空気が肺腑を満たせば、準備は万端だ。彼は椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がり、奴らがいるの方向へと向け大音量の声を吐いた。
「後ろにお化け!!!!!!!!!!!!」
「なにっ!? うそっ!! やだっ!!!!」
 良夜の絶叫が窓を振るわせ、その震えた窓を逆方向からの悲鳴がもう一度振るわせた。悲鳴の主は聞き違う事なき吉田貴美の声であり、その後ボソボソとなにやら文句を言っているのは貴美の恋人直樹の物だ。窓の向こう側で金色の頭が飛び回るのを眺めていると、彼は自分の顔に底意地の悪い笑みが浮かび上がってくることを自覚した。
 が、浮かびかけた笑みは視線が窓から離れた時点で凍り付く。
「どこ!? お化けってどこに居るんですかっ!?」
 なぜならそこには、どたばたと大きな足音を立てて部屋中をかけずり回っている我が恋人がいたからだ。

 話は一週間前、良夜達が計画を立てた日にさかのぼる。その日、貴美は良夜達に三人での旅行を“一応”は提案した。三人が帰ってきたら今度は自分たちが一週間休む番。そこに他意はない。とは言え、全員で行ける物ならば行きたい。そこで彼女は一計を案じた。
 その夜、アルトでのバイトを終えた彼女は、肩と顎で携帯電話を挟みながら、遅い晩ご飯の準備に取りかかっていた。電話が繋がる先には、去年知り合った女性――三島清華その人がいる。
 去年、旦那の長期出張に合わせ清華が喫茶アルトに戻ってきた時、二人はお互いの携帯電話の番号を交換しあっていた。それから丁度一年、二人は取り立てて用事があるというわけでもないがたまに電話してはお互いの近況や愚痴を話していた。主にかけてくるのは清華の方。仕事に口出しすればへそを曲げる娘と、老人を自称する癖に油断したらすぐに無理をする舅という困ったちゃんな親族の話は、清華にとって関心事項だ。
「と、言うわけなんで一週間くらいこっちに戻って来られない? 七月の末から八月の頭」
 温め直していたパスタのソースが煮立つ頃、貴美は昼間の話を一通り話し終えていた。途中、『美月と良夜はラブラブ』とか『でも実はアルトと美月が良夜を取り合ってる』とか『二世誕生も時間の問題って言うか、来年の五月には清華ちゃんはおばあちゃん』だとか……ないことないことをノリと雰囲気と勢いで言ってたような気がするが多分気のせいだろう。
『良いですよ』
 貴美の申し出に清華はごくあっさりと言葉を返した。その返事を聞き、貴美が有する灰色の頭脳は一ミリ秒で計画を組み立てる。当日、清華が帰ってきたら直樹と二人でバイクに乗って出発、休憩を取らずに行けば最終のフェリーに間に合うだろう。生暖かく二人の様子をのぞき見守るのも悪くない……等々。
「うん、ありがとう〜旦那さんにもお礼言って置いて」
『いやですよ〜吉田ちゃん、私…………――』
 ここまで、清華の口調は非常に明るく軽快な物だった。しかしこの直後、貴美の耳はぴしっと何かにヒビが奔る音を微かにだが、間違いなく拾った。
『私、独身ですよ?』
 感情が欠落したような声色はぶち切れた美月にそっくり。貴美は指先でミートソースをすくい上げ、それをなめながら考えてみた。そして一つの結論を出すまで僅か数秒。
「旦那さん、忙しいんだ?」
『えっ!? アレ? どうして判ったんですか!?』
 怒りよりも不思議さが先立つのか、感情の欠落していた言葉に驚きと困惑の感情が彩りを加える。
 貴美はその声を聞きながら、ゆっくりと口内に残ったミートソースの味を確認した。トマトの酸味に挽肉がアクセントが絶妙だ。シンプルにして奥深い味わいはキッチンを預かる者が代々創意工夫を加えてきた喫茶アルト自慢の逸品。アホの子的言動が目立つ美月でも、本物の包丁と鍋と食材でリアルおままごとをやって育っただけのことはある。
 ミートソースの味が口内から消えるまで数秒を貴美は焦らすように沈黙し続けた。そして、ゆっくりと後味を惜しむかのように唇を開く。
「外国帰りの栄転で部下と仕事とやりがいが増えれば、子供は外で元気だし、家庭なんて顧みないよねぇ〜と、うちのママも言ってた」
 貴美が一言言うたび、電話向こうでは清華のうめき声がミシミシという嫌な音と共に貴美の元に届く。携帯電話が壊れたらどうするのだろう? 貴美はちょっとだけ心配になるが、結局は他人の持ち物なので放っておくことにした。
「良いじゃん、ほっとけば。浮気してるわけじゃなし」
『吉田ちゃん!! 吉田ちゃんはなおちゃんがこうなっても良いんですかっ!?』
 貴美がほっとけと言うと、それまでうめきながらも黙って聞いていた清華は突然大きな声を出した。咄嗟に携帯を耳元から離し、改めて押しつける。
「なおなんてほっといてたらゴミと洗ってない洗濯物の中で餓死するから」
 掃除してたら余計に部屋が汚れて、料理しようとしたら材料全部パーにして、洗濯が終わってみたら白いTシャツが薄桃色になってて、その真ん中で全て諦め、眠るようにくたばっている直樹の姿が貴美には想像できた。もっとも、直樹がこうなったのも彼が家事をしようとするたび、その手順の悪さにぶち切れ、四−五発ぶん殴ってから部屋を追い出していた貴美にも一因はあったりする。
『うちの人なんてお義母様がお店でお昼寝ばかりしている人だったから……何でも出来ちゃうんですよぉ……』
 パチンとコンロのスイッチを切り、貴美はベッドへと足を向けた。替えられたばかりのシーツの上にポフッとお尻を投げ出し、その勢いのまま寝っ転がる。貴美がベッドに寝転がった後も清華の愚痴は続き、いつしか話題は旦那から姑へと移っていた。
「うわっ、親として最低じゃん」
『でも、上司としても姑としてもいい人だったんですよ? もう、好きにやらせてくれちゃって!』
「……そりゃ、全部任せて自分は昼寝がしたかっただけでは?」
 ゴロンと寝返りを打ち天井を見あげ、彼女は右手で携帯を右耳に押しつける。これですっかり長電話の体勢。向こう側からもゴゾゴゾと何かをしている雰囲気が伝わってくる。おそらくは清華も長電話しやすい体勢になったのだろうと思う。
 そして案の定、二人の電話は直樹がバイトから帰ってくるまで、概ね和やかに続いた。

 上記の話を良夜達に伝えたのは、貴美本人ではなく、その恋人直樹だった。貴美の方は持ち込んでいた大量の荷物を部屋に置いたかと思うと、「風呂!」と一言を発しシャワールームを使用中。
「……僕が帰ってきた時には『離婚して慰謝料ふんだくって、アルトの改装費に充てる』って話をしてたそうです」
 赤と黒を基調にしたレーシングスーツ、そのジッパーを胸元まで開いた直樹は良夜が出したジュースをぐびぐびと何本も開ける。
 タカミーズはここに自分たちのバイク二台に分乗してやって来た。そして貴美は交通法規絶対遵守の女だ。その彼女をほったらかして飛ばせるほど、直樹は図太い人間ではない。走るのは遅いが急いでいる、その状況で一番に削られるのは休憩時間だ。今日一日、炎天下の中、休憩を取れたのはフェリーでの三十分だけ。直樹の精根はすでに尽き果てかけていた。
「スーツは蒸れるし、吉田さんはとろい――」
 がんっ! 直樹の後頭部に白い肘が叩き込まれ、同時に彼が飲んでいたジュースが奪い取られる。犯人は背後でぐりぐりと直樹の頭に肘をねじ込んでいる吉田貴美当人だ。お風呂上がりの彼女は若草色のパジャマに身を包み、いつものへらへらとした笑みを浮かべていた……直樹に肘を喰らわせながら。
「私は普通、回りが早いだけなんよ。ほら、なおもさっさとお風呂に入っといで」
 ぽーんと頭をもう一叩き、貴美は直樹を席から追い出すと、彼が占領していた席に腰を下ろす。
「んで、お店の話聞いた? ……――うん、だからお店の心配はいらないよ。むしろ、私となおがやってるよりも倉庫が片付いて良いかも?」
 話が一通り終わっていることを確認すると、貴美は奪い取ったジュースを飲み干し、新しいジュースへと手を伸ばした。ぱしっと心地良い音を立て、プルトップを押し開ける。白い喉が上下に数回動くと、缶の中身はもう空っぽ。くしゃっと握りつぶすと、貴美は手近にあった袋にそれを叩き込む。
「店は良いけど……よくもまあ、他人の家庭に首突っ込んで、引っかき回すよな」
「良いのよ、清華と拓哉の喧嘩なんて犬も食わない奴なんだから。まじめに相談受けるより引っかき回してた方がお得だわ」
 頬杖をついた良夜が投げやりに言葉を発すると、それまで黙って話を聞いていたアルトが、彼の頭の上から声を上げた。良夜同様、やる気や覇気と言った者の全く感じ取れない声、うんざりとでも言いたげな雰囲気だ。
「うう……お母さんが離婚なんてしたら困っちゃいますよ〜」
 それに反して美月の方は多少深刻な表情をして見せた。大きな目を伏せ、どことなく落ち着きのない様子でソワソワとテーブルの上にのの字を書き始める。
 流石に娘としては心配なのかな? と良夜が変に感心をしていると……
「私のフロアチーフとしての立場がっ! 折角手に入れた地位と権力がぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
 大絶叫だった。大きな目に涙を浮かべ、美月はばんばんと何度もテーブルを叩く。そのたびに缶ジュースが大きく跳ね上がり、コロコロと転がり床の上に落ちてゆく。そのほとんどが空っぽであり、中身が入っているのは良夜と貴美の手により避難させられていたことは幸運な事だ。
「うう……お父さんが転勤になって早七年、高校卒業して、専門学校行って、バイトのお姉さん達を見送り、ようやく手に入れたチーフの役職! お母さんが帰ってきたら、また、私は下っ端ウェイトレスに転落なんですぅぅぅぅ!!!」
「って、チーフったって下っ端は私一人だし、何があんの?」
「そりゃもう! 吉田さんのお給料を決められます!!」
 ぱん! もう一度テーブルを叩き、美月は断言。目に涙こそ浮かんでいるが、その顔は真剣そのもの。それに良夜は素直に呆れた。
「お! そりゃ重大な権力やね。来月から給料上げて」
 調子を合わせるかのように、貴美も真剣な顔を作ってみせる。もっともその右手はコーラの缶を握り、それをチャプチャプ左右に振っているのだから、真剣味はほとんどない。
「はい! 重大な権力なので、来月からは吉田さんの時給は三十二円です」
「なんで下げるんよ! てか、何分の一?」
「冗談ですよ〜ここでフロアチーフの偉大さを示しておこうかと思いまして」
「ストライキすんぞ? 夏休み明けに」
 さっきまで半泣きだった美月もコロッと表情をゆるめクスクスと楽しそうな声を上げて笑い、貴美も同様に声を出して笑い会う。若い女性二人の声でテーブルを中心とした貸別荘は一気に華やいだ。
 のもつかの間だった。
「でもですね、吉田さん。お母さんが離婚して本格的に帰ってくると……吉田さんは要らない子になっちゃうんですよ? 適当に煽るのは良いですけど、次のバイト、探して下さいねっ!」
 美月は笑い顔のままでそう言った。言われた貴美はケラケラと上げていた笑い声をハタと止める。そして、指を折って何かを計算、フラフラと視線を宙に投げ出し考え込む。それを美月と良夜、アルトの三人はジーッと何処か冷めた視線で見つめていた。
 そして、彼女はパン! と手を大きく叩き、声を上げた。
「ああ! 確かに要らないかも……まかないお持ち帰り付きのバイトなんてないんよ!?」
「ですから、お母さんの離婚は絶対に阻止なんです! 離婚してもアルトに入れないとか!」
 我が意を得たり! 美月も大きくうなずき、貴美も頷き返した。そして二人の手はテーブルの上で一つになる。
「そだね! うん、清華ちゃんは追い出そう!」
「はい! お母さんは要らない子なんです!!」
 こうして喫茶アルトの(胸が)凸凹コンビの友情は一段と固くなるのだった。
「てか……店長って、美月さんの父方の祖父だったよな……」
「でも、もし本当に離婚したら迷うことなく清華はアルトに帰ってくるわよ、賭けても良いわ」
 ぼんやりとした口調で良夜が呟き、それをアルトが肯定する。そんな話をしながら、良夜は二人きり……アルト込みで三人の旅行がタカミーズをひっくるめて五人の旅行になったことに、九十九パーセントの失望と一パーセントの安堵を覚えるのだった。
「二人きりになったらどうしよう……とか思ってたんでしょ?」
「……うるせー、アホ妖精」
 アルトの言葉に明後日の方向を向き、良夜は吐き捨てるように呟いた。

 てな訳だが、この旅行は五人ではなかった。
 翌日、それぞれが水着に着替えて向かった海では――
「ひっ……ひなちゃん!?」
 向かった海の『海の家』では二条陽が大盛りの焼きそばをまるでイタリアンレストランでパスタでも食すが如くに食べる二条陽と、その隣でかき氷を食べている河東彩音が居たからだ。
 二年の夏は去年よりもひときわ賑やかしく始まる。

 ちなみに流石の陽も水着は男物だった。

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