海だ!(5)
さて、良夜制作総指揮、貴美寝てるだけ、美月文句言うだけ、直樹怪我しただけ、アルト刺しただけのもつ鍋も完成した。陽と彩音の二人が完成直後をねらい澄ましたかのようにやってくれば、総勢人間様六人妖精様一人の飲み会は準備万端だ。
「あれ、ひなちゃん、今日、女装じゃないんだ?」
「飲み会は、しゃべれないと不便だから」
貴美に答えた陽の姿は、この糞暑いのに――室内はエアコンプラス扇風機で寒いほどだが――ダブルのスーツにネクタイ姿。アップだった髪も後ろでちょんまげにくくって、その出で立ちをアルトは簡単にこう表したものだ。
「ゲイバーのホステスがホストクラブのホストになったわ」
「こちらもこちらで良いのですが、わたくしはやはり……」
そう言って頬を染めてしまう辺り、彩音もまともな人間ではないな……良夜は半ば諦めたように頭の片隅で考えた。
「と、ともかく、乾杯しましょうか?」
最年長の美月がグラスを掲げて、居住まいを正す。息を吸い込み、勢いを付けて――
「乾杯!!!」
美味しいところを貴美にかっさらわれ、テーブルにのの字を書き始める。いつものパターンで真夏の鍋飲み会が始まった。
「二条さん、早いですよ〜」
「誰よ! 陽にお椀の代わりにどんぶり渡したのはっ!?」
「弱肉強食って良い言葉」
「おっ、お姉さま、少しは自重して下さい……あの、すいません。片手鍋で良いので……お姉さま専用のお鍋を……」
「カセットコンロ、二つもねぇ!!」
「あれ……えっ……あれ? お……お玉は?」
「なお! 何、ぼーっとしてんよ! 食わないと食い扶持なくなんよ!?」
案の定と言うべきだろうか? この飲み会の台風の目は二条陽、その人だった。何故か彼一人だけが汁椀ではなくどんぶりを手に持ち、そのどんぶりの中に鍋の具をよそったかと思うと、コマ送りの早さで胃袋へと流し込んでいく。肉も野菜も出汁もかなりの温度になっているはずだというのに、それを感じさせない食べ方だ。いくらあり得ないほどの肉と野菜を段取りしているからとは言っても、出来る片端から陽が食っていけば他の面子の口に物は入らない。自然とそれぞれも箸を握る手に力を込めて、奪い合いのような食事風景が展開され始める。
空調の設定温度は最低の十六度、その上に部屋の隅っこでは扇風機が二つ、全力運転。冷静になってみれば部屋の体感気温は「涼しい」を越えて「寒い」くらい。しかし、彼らの熱気は真夏の炎天下を越えていた。誰もが直径四十センチの鍋に手を伸ばし、我先に鍋の中身を食ってゆく。大きな鍋に山盛りに盛っていた具材が全てなくなるまでわずか十分、土鍋の中にはニラ一本残っちゃ居ない。
空っぽの鍋に新しい具材が投入され、新しく封を切られたレトルトパックの出汁が注ぎ込まれる。そして、蓋を閉めて沸騰するまで待つことしばし……
「良い? 抜け駆けは禁止、敵はひなちゃん、ただ一人」
大きなテーブルの真ん中では二杯目のもつ鍋がコトコトといい音を立て始める。それを前に、貴美が目配せすると喫茶アルト関係者五人はコクンと大きく頷く。そして、彼らの視線は一戦目で大勝をあげた男、丼鉢を片手ににこにこと微笑んでいる二条陽へと視線を向けた。
「でッ……では……参ります」
民宿で刺身の盛り合わせから始まる夕食を一人前、きっちり食べてお腹いっぱいの彩音が土鍋の蓋に手をやる。緊張に彼女が手を振るわせると、全員がお玉を握りしめ、その握りしめる手にギュッと力を込めた。
かぱっ!!
彩音が鍋の蓋を取れば四人の持つお玉が一斉に鍋の中にねじ込まれ、一気に具材をすくい上げる! おのおのの取り皿にその盛夏を注ぎ込めば、彼らの心に一つの言葉が浮かび上がる。
『勝利!!』
…………鍋にお玉をねじ込んだのは四人だけ。もちろん突っ込んだのは良夜、美月にタカミーズ。それぞれのお椀には山盛りのもつと野菜が積み上げられるも、誰一人として手を付ける物は居ない。代わりにその視線を一人、静かに日本酒のグラスを傾ける陽へと向けた。
「あっ……あれ? ひなちゃん……食べないの?」
貴美が代表して声をかけると、陽は大仰に頷き、一言言った。
「一戦目は軽い冗談」
ぶっ殺しかねない視線を陽は平然とやり過ごし、コトコトと煮込まれてゆく鍋に手を伸ばす。よそうのは丼鉢ではなく、最初に用意されていた普通の汁椀。それを口に運ぶ速度も至って常識の範囲内。彼は美味しそうに鍋と酒を交互に楽しむ。
(こっ……こいつはぁ……)
心の中でそう思う彼らに対し、彩音だけがぺこぺこと何度も頭を下げていた。
「あれ、そう言えば彩音さんは食べないのですか?」
ようやく落ち着いて食べ始め、心に余裕が生まれ始めた頃、お酒と鍋を交互に食べていた美月の手が止まった。彼女が目にしたのは、当初良夜担当だったはずの具材追加を一手に引き受けていた彩音の姿。お肉がなくなったと言えば下ゆでされたお肉を取りに行き、冷や酒を入れたガラスポットが空になったと言えば足しに行き、野菜を盛ったお皿が空けばそれをわざわざ洗いに行くと、一時も止まることなく、パタパタとなにがしかの仕事をし続けていた。
「わたくしは……一応、民宿で食べてきましたから」
「一人前、丸々食べてさらに鍋食うのは、ひなちゃんくらいだって。ごめん、あやちゃん、一味ちょうだい」
彩音が恥ずかしそうに答えると、貴美はその言葉に追加の言葉を加えた。しかし、その言葉を陽は否定する。
「彩音ちゃんはただいま絶賛ダイエット中。刺身の盛り合わせは各種一切れずつ。代わりに“つま”をバリバリ食べてた」
「いっ、いえ、ダイエットというわけではなく……夏ばて気味で少し食欲がなくて……」
陽が食事の手を止めずに行った言葉を、彩音はブンブンと赤くなった顔を振って否定した。しかし、続けざまに言われた言葉は彼女にとっての急所だったのか、ううっと彼女は言葉を詰まらせる。
「泳ぐことで消費カロリーを上げ、食べないことで入力カロリーを減らす。水泳ダイエット中」
そこまでいわれると彼女もギブアップ。小さな小さな、消え入るような言葉で「今の間だと……」とだけ答えた。
「ダイエット中はちゃんと食べなきゃ駄目ですよ? すぐに皆さん、絶食に走るんですから……困った物です」
と、一見まともそうな意見を言ったのはお酒で良い感じに頬を染め始めた三島美月だった。普段のペースならばそろそろ脱ぎに入る頃合いなのだが、今日はエアコンが鬼のように聞いている所為だろうか? 白いブラウスの一番上を一つ開けているだけ。安心九割に失望一割が良夜の感想。
その彼女が言った正論、それには一つだけ余計な本音が隠れていた。
「ダイエッターが増えると売り上げが減るのよ」
それまで良夜のお椀からモツを発掘していたアルトが、小さな声で呟く。客の半分は女子大生なのだから、その女子大生が絶食なんぞを始めたらドツボ。それがアルトの会計を預かる美月の本音だ。その本音に良夜は軽く苦笑い。
「もしかして……さっきからウロウロしてんの、ここにいたら食べたくなるから?」
「そっそっそっそそそそそそそそそ!!! そっそんなことはぁ〜〜〜あり、ありありありありあり、ありませんわ!」
貴美の言葉に彩音は一瞬にしてしどろもどろ。顔を真っ赤にして、ブンブンと音が出るほどに首を振り回して否定する。もちろん、その否定を本気にするのは――
「あっ、違うんですか? ありがとうございます〜わざわざ、片付けまでしてくれて〜」
美月ただ一人だった。
「悪い男に騙されなきゃ……ああ……駄目だわ、すでに騙されてる」
チラリと良夜を見あげるアルトを箸の先っぽで頭を突いて黙らせる。突かれた頭を大袈裟に押さえ、アルトは一言二言文句を言っているようだったが、それも他の面々の会話が始まるまでのこと。それが始まるとすぐに興味をそちらへと移した。
「まあ、ダイエットもわかるけどさ、少しくらいつまみなよ。野菜は食べると痩せるよ?」
「そうそう、うちなんて吉田さんがダイエット始めると、いつも温野菜だけ――ぎゃっ!?」
直樹がこりもせずに余計な一言を言えば、貴美の右手が一閃。先ほど彩音から受け取ったばかりの一味唐辛子が、その小瓶ごとうなりを上げて直樹の額に向けて一直線に飛んでいく。しかも運の悪いことに小瓶の蓋は半分ほど開きかけていて、直樹の顔に大量の一味唐辛子をぶちまけた。
「なっお〜死にたいんなら、一キロくらい歩いたら良い崖があんよ?」
「痛いし、辛いし……死にますから……」
直樹は傷む額をギュッと抑え、その顔に付いた一味をパンパンと払う。払った一味が彼のお椀に降り掛かっているような気がしたが、良夜は何となくそれを言わなかった。決して、あれを食ったら面白いことになるんだろうなぁ……なんて事を考えていたわけではない。と言う事にしておく。
「うう……でも……ここでくじけてしまえば……」
ちらり……彩音の視線がコトコトと良い感じに煮込まれる鍋へと動いた。手招きするように踊る野菜とお肉、食欲を誘う香りが甘い誘惑となって彩音の「発泡スチロールよりも脆い」と評される決心を野分に吹かれる柳の如く揺らしに揺らす。
「そうですよ? 特にモツは下ゆでをして脂を落としているので、とてもヘルシーなんですよ? 唐辛子のカプサイシンは新陳代謝を高めてくれますし、お野菜の食物繊維はお通じも良くしてく――いったぁぁ。吉田さん、何するんですか?」
ぱっかぁ〜ん。
美月の頭を貴美の平手が的確にヒット。美月はかっこんと前に倒れた頭を起こすと、その大きな目を涙でウルウルさせながら抗議の声を上げた。
「飯時にお通じとか言わない!! 全く……これだから天然は……まあ、ちょっとくらい食べなよ? 折角なんだし」
「お通じが良くなるとお肌もぴかぴかなのに……」
ブツブツと口の中で何かの文句を言いながらも、美月は新しい汁椀にもつ鍋をよそう。一応は野菜の類を選んでいるつもりなのだろうか、その中身はクタクタに煮えたキャベツの山をすっかり細身になってしまったニラが彩りを加える物になっていた。もっとも、小さなモツを全て避けることも出来ず、そこに結構な量の持つが入っていることは想像するにたやすい。
彩音は美月からそれを受け取ると、ジーッと食い入るようにそれを見つめ始めた。
「彩音ちゃん、我慢は健康に良くない」
そう言って陽は新しい割り箸を取り出し、わざわざ、パチンと割ってから彩音の前に置く。それがとどめ。彼女は割り箸を黙って取り上げると、目の前に置かれたお椀から最初の一口を口に運んだ。
彩音の顔がぱぁ〜っと明るくなる。
「美味しい……ああ……本当に美味しいですわ。だっ、ダイエットはやはり明日から……」
パクパク、彩音はお椀の中からキャベツやニラ、そして当たり前のようにモツを箸でつまむと、いくつもその口の中へと運んでいく。さっきまでダイエット中を自称していた女性とは思えない早さと食べっぷり。そして、彼女は一口食べるたびに「美味しい」の言葉を発する。
「昨日と同じ事言ってる。ちなみに昨日は寿司懐石」
ぴたり……陽がそう言うと彩音の箸が止まる。誰もが彼女の次の挙動を待つ中、彼女の額に一筋の冷や汗が落ちる。
「……来週からにしましょうか……」
そして大方の予想通り、彼女は再びもつ鍋を口の中へと運び始めた。
そんな彩音の様子に自然と笑い声が響き、リビングの中はさらに賑やかさと華やかさが充満していく。誰もが鍋をつまみにグラスを次々に傾けた。すでに顔が赤くない人間は誰一人としておらず、誰もが陽気な声を上げている。ただ一人の人物を除いて……
「あっ……酒がねえ……」
今日のアルコールは日本酒。よく冷えた日本酒をこれまた涼しげなガラスのポットに入れてた物が、テーブルでは興じられている。そのポットから良夜がグラスに注ぐと、グラス半分ほどのところで中身は空っぽ。冷蔵庫で冷やしていたお酒はまだあったかな……と少しお酒で鈍り始めた思考で考える。
「あっ、浅間さん。申し訳ありませんが、麦茶……おかわりいただけますか?」
立ち上がった良夜に彩音が声をかけると、良夜は「んっ」とだけ短い返事をした。そして、テーブルから冷蔵庫までの数歩を普段の三倍の距離をかけて移動する。
「りょぉやぁん、ふらふらだぞぉ〜〜〜ちゃーんと、まえにむけぇ〜〜〜ひゃはははは!! ん? んんんん??? あやちゃん、もっかしてずっと麦茶?」
右へ左へ、千鳥足の良夜を見送り、貴美は彩音の手元にあるグラスをじろじろとぶしつけに見つめた。中身は小麦色をした液体。ウィスキーの類でなければ、それが麦茶であることは明らかだ。
「はっ……はい、わたくし、お酒はちょっと……」
「あれ、飲めにゃいんですか? おいひいれふよぉ? もう、おいひくて私は!! あついので、ふくがぬぎひゃいれふ!」
そう言ってブラウスのボタンを外していこうとする美月に、貴美が無言で平手打ち。ぱっちーんと心地良い音が響き渡ると、美月は大きな笑い声を上げながら貴美の頭を叩き返した。それに対して貴美も馬鹿笑いを発して美月の頭を叩く。二人の笑い声は相乗効果でどんどん大きくなっていき、そして、お互いの頭を何度も何度も飽きることなく叩き続ける。
「彩音ちゃんはお酒を飲むと面白い……誰か飲ませて」
陽がやっぱり酔っぱらい気味の声で言った「誰か飲ませて」に返事をした女が居た。しかし、その返事をしたことに気づける人間は……何故か冷蔵庫にもたれスースーと心地よさそうな寝息を立てている。誰にも気づかれず、誰にも知られることなく、彼女は大きな返事をしていたのだ。
「面白くなんてありませんわ。大体、わたくし、お酒を美味しいって思ったこと、ありません」
そう言って彼女はグビッとグラス三分の一ほど残っていた麦茶を一気に飲み干した。
そこに……そこに人知れず、日本酒を“ペットボトルの蓋の杯”で日本酒が注がれていることを、彼女自身を含め、誰も知るものは居なかった。
「……あら、麦茶の味が変ですわ…………」
変だと言いつつ、彼女は気にせずに全てを飲み干していく。ことん……グラスをテーブルに置き、彼女はぼんやりとそれを見つめる。それからきっちり五秒の沈黙が過ぎた。彼女はすっくと立ち上がると、豊満な胸に手を当てて声を上げた。
「わたくしは舞台の華!!」
「誰だか知らないけど、ぐっじょぶ」
彩音の目が深く座り、陽の顔を真っ正面から見つめれば、陽は明後日の方向へと向け拳を突き出した。その方向にあるのは漆黒に星の明かりをばらまいた夜空だけが映る天窓だけ。
「私よっ!!!」
それに返事をするのは、すでに下着姿でへべれけになっている妖精さんだった。
良夜がちょっぴりおねむになっている間に、室内は一気にカオスへと突入していく……