みんなで学ぼう!(完)
「吉田さん……本当に何か企んでたんですか?」
良夜と美月が肩を並べて、階段へと向かった後、直樹は隣で僅かに頬を膨らませていた恋人に声をかけた。
「全然、折角相合い傘でスキンシップって段取って上げようと思ったのに」
「……本当ですか?」
「なんよ! 私がたまに気を利かせたら、そんなに疑うんっ!?」
直樹は控えめではあるがはっきりとした口調でそう言った。すると、貴美は鳶色の瞳をカッと見開き、声を荒げる。思わず腰が引け、雨交じりの冷たい風が直樹の頬をそっと撫でた……背中に冷たい汗が流れたのはきっとそのせいだろう。
「全然企んどらんよ? ただ、りょーやんが帰ってきたら、いっしょにお酒でも飲もうかなぁ〜って思ってただけ」
フッと目力を抜き、彼女はポンと彼の小さな頭を一つ叩く。少し優しげではあるも何処かいたずらっ子を思わせる笑顔を見せ、彼女は僅かに湿気を含む髪をくしゃくしゃに丸めた。
「……思いっきり企んでるじゃないですか……どうせ、力一杯からかうつもりだったんでしょう?」
撫でられる頭を子犬のようにふりほどき、直樹は自室へときびすを返す。強い雨でこそないが風が出てきたせいだろう、屋根付きのろうかといえども屋外にこれ以上居るのは辛い状態になってきた。
「何言ってんよ。私はこう見えても相合い傘に深いあこがれを持つ女の子なんよ?」
先に帰ろうとした直樹を追い越し、貴美は直樹の手に自分の手を重ねた。少し強めの力で彼の手は握られ、握った当人は頭一つ分高いところから直樹の顔を見下ろした。
「……どうせ、僕と相合い傘したら自分が傘を持たなきゃいけないって言うんでしょ……」
もしくは直樹が背伸びをして歩くか。どちらに転んでも良く言われる『姉に連れられた弟』以外の構図になりゃしない。十年以上の付き合いの中、直樹と貴美が相合い傘をした経験などほとんどない。
「今度雨が降ったら……相合い傘しよっか?」
軽い調子の口調、彼女は明後日の方向を見ながら呟いた。その僅かに照れを感じさせる言葉に、直樹はたっぷりと逡巡し、やおら答えた。
「………………………………誰もいないところなら……」
そして三日後、その約束は夜の散歩という形で果たされることになる。直樹が精一杯背伸びをする……と言う形で。
雨が降っていた。しとしとと静かに降る雨。雨は国道を濡らし、音を雨音一色に塗り替えてゆく。雨と水玉の間、二つの傘、黒い傘と薄桃色の傘は寄り添い、歩いていた。
「でも、美月さんってホント、全然、ゲームとかしたことなかったんですね?」
「女の子なら、別に珍しくないと思いますよ」
「美月ほど徹底してるのは珍しいと思うけど……」
カチカチと傘の先端同士がぶつかり合い、三人の会話に雨音と共に合いの手を入れる。歩いているのは美月と良夜の二人だけ、アルトは良夜の頭を住処に歩きどころか飛びもしていない。歩いている二人の速度に合わせ、合の手は少しスローテンポで調子っぱずれだ。三人はそれを聞くともなしに会話を続けながら、やっぱり調子っぱずれでスローテンポの合の手を入れ続けていた。
「明日こそは一面をクリアーしたいですよねぇ……」
「無理ね、美月が一面クリアーできる頃には良夜はドイツ語の通訳になってるわ」
美月の言葉にアルトは冗談めかしたとも本気も着かぬ口調で答える。それを美月に苦笑いと共に、良夜は伝えた。
「えぇ〜!? 凄い……良夜さんって外国語、得意なんですか?」
美月の足がぴたりと止まり、彼の顔を尊敬の眼で見あげる。そこに一片の曇りもなく、まるで大人にあこがれる子供のように澄んでいた。
「いえ……物凄く苦手ですよ、俺」
そのまぶしい視線から顔を逃がし、良夜は国道へと向ける。僅かばかりに溜まった水を行き交う僅かばかりの車が跳ね上げ、ズボンの裾を無視できぬ程度に濡らし続けていた。
「そうなんですか? じゃぁ、ドイツ語もやっぱり駄目なんですか?」
「今回は二−三回の追試は覚悟する事ね……さようなら一葉さん」
そらしたままの横顔に美月が尋ね、それの答えは本人ではなく、その頭の上に座っていた妖精が答えた。その言葉に良夜はセンターラインにだけ苦り切った顔を見せながら、美月に通訳した。
「えぇ〜〜? 三回も追試を受けたら、終わる頃には八月になってません?」
「……なってるかも知れませんね……補講も入るそうですし……」
「仕方ありませんね、こうなれば、私がとっておきを教えて上げましょう!」
「とっておき?」
美月の言葉に良夜が足を止めると、彼女はすでに一歩前で足を止めていた。肩に傘を担いでえっへんっ! と胸を張る姿は……全然当てになりそう雰囲気を持っていない。その美月から視線を頭の上へと向ける。その視線には知っているか? との気持ちを込めているつもり。上下逆さまになった顔でアルトはそれを見下ろし、大きくかぶりを振った。
「物凄いくだらないわよ……保証するから」
帰ってきたのは案の定とでも言うべきお言葉。アルトは何となくやる気のない声でそう言った。
「なんと、全然勉強していなくてもテストが出来てしまう魔法なんです!」
しかし、その言葉を聞こえない美月は、タッと一歩だけ良夜の元へと足を踏み出した。再びぶつかり合う傘と傘、傘は先ほどよりもほんの少しだけ余計に重なり合う。僅かに触れあう二の腕同士に良夜の頬はその体温を上げた。
「良いですか? 試験の前に教科書をこうやってギュッと手で挟むんです」
触れあう肌にも気づく様子はなく、美月は力一杯に手の平を重ね合わせた。その姿は頂きますの挨拶か、神への祈りか? そんな姿を見せながら美月は口の中でブツブツと小さな呪文を唱え始めた。それは上がっていた体温と拍動も途端になりを潜め、良夜の心を妙に落ち着かせる物だった。
「妖精さん、妖精さん、テストの問題を教えて下さい」
良夜の顎ががっくりと落ち、頭上ではアルトが「ほらね」と投げやりな言葉を発する。しかし、美月は本気だ。肩と頬でかさを抑え、彼女はギュッと堅く目を閉じる。そして静かで穏やかに、まるでお経でも唱える尼のように同じ言葉を繰り返した。そして……
「えいっ! と、教科書を開くんですよ〜すると、不思議なことにそのページから問題が出ます!」
それまでの真剣な表情が嘘のように彼女の顔は崩れ、パッと大きく手を広げる。おかげで良夜とアルトの顔や体には傘の水しぶきが飛びついたのだが、彼らはそれに気付くこともなかった。
「……マジ?」
「マジです! 私は小学校のテストから専門学校の卒業試験までこれで全部合格しました!」
傘を両手で握りなおし、彼女は自信に満ちあふれた笑顔を良夜に見せる。彼女の笑みが自信にあふれればあふれるほど、喫茶アルトのこれからが不安でたまらない。
「おかげで全然勉強しなくても良かったんですよねぇ〜もう、アルトに感謝感謝です!」
「お願い、感謝しないで……世の中の衛生士とか調理師に申し訳が立たないわ……」
花が咲いたような明るい笑顔とこの世の終わりのような声、その二つを良夜は比べた。比べながら、どう考えても後者だよな……と良夜は内心溜息をつく、いな、にこやかにおまじないの解説をする美月は気付いていなかったが、彼の溜息はしっかりと現世の物になっていた。
「もう、これで良夜さんのテストは安泰ですよ〜明日からは良夜さんもいっしょにゲームが出来ますねっ!」
二つの傘がもう一歩深く重なり合う。そして、良夜の顔を僅かに低いところから、一点の曇りもない純粋な笑顔が見あげた。その笑顔にドキッとするも、ここで頷けば本当に明日から勉強せずにゲームに打ち込む羽目にだろう。
「いっ……いやぁ、ほら、一応……勉強はした方が良いかなぁ……って……」
「むぅ……信じてませんね? 本当なのに……良いですよ〜だ、良夜さんなんて、勉強のしすぎで馬鹿になっちゃえば良いんです」
プイッと脹れ、美月は大股で歩き出す。それを良夜は僅かに早めた足取りで追いかけた。僅かな間だけ鳴りやんでいた合の手がすぐに鳴り始め、三人の会話が再び始まる。少しだけ速まっていたテンポもすぐに元の調子へと逆戻り。
二人プラス一人の夜の散歩はおおむねこんな感じで、良夜の試験が終わる日まで続いた。
そして、問題のドイツ語の日がやってきた。ただでさえ苦手だというのに、こんな調子で毎晩美月と貴美が遊びに来ていたのでは勉強などはかどるはずがない。はっきり言って、全然自信なんてありません。すでに彼の中では追試と補講に対する覚悟が完了していた。
「……良夜君……自信、あります?」
「直樹は?」
そして、それは貴美に引きずり回されていた直樹も同様だ。隣に座る彼の顔にも深い影が差し、聞き返した質問の答えを雄弁に語る。そして同時に彼の恋人は高らかに正論を並べた。
「勉強は普段の積み重ねなんよ? ようは要領。要領の悪い二人はせいぜい大学を追試代で儲けさしぃ……“自腹で”」
二人の胸に突き刺さるお言葉。良夜はケッと舌を鳴らしそっぽ向け、直樹は自腹の言葉にガンッ! と額を机に叩きつける。机と顔の間からはメソメソと泣き言らしき物が聞こえてくるが、その声は誰の耳にも有意な形で届くことはなかった。
その直樹の顔からチラリと階段状になった座席から正面に掲げられた時計へと、良夜は視線を向けた。開始時間まであと十分、教科書を“まとも”に広げたところで無駄な努力以外の何者にもならない。
「……鰯の頭……か?」
一応は持参した教本を取り出し、ギュッと力一杯両手で挟む。同時に目も力一杯閉じ、おまじないの言葉は心の中だけで唱えて、静かに心を……――
「何してんよ? ああ、この間言ってた、美月さんのおまじない? りょーやん、人間、そう言う物に頼ったら終わり……なお、真似すんな。ああ、何だろうね、この二人は? そんな物で試験がどうにかなったら、学校いらないじゃん。馬鹿馬鹿しいぃ」
その仕草を直樹が真似始めると、彼女はその直樹の向こう側から軽い調子で茶々を入れた。二人が反論しないことに、その言葉は言いたい放題だ。当然、全然集中できないし、心も静かになりはしない。それでも良夜は一応の儀式を済ませ、一気に教科書を開く。開いたページはテスト直前最後に習った辺りだ。いくつかの例文は今でも心の何処かに引っ掛かっている。
「……なおもりょーやんも、男らしくないよ? 素直に追試と補講受けな?」
「……吉田さんさ、そんなに俺らの不幸が楽しいか?」
「うん」
……こっくりと大きくうなずく貴美に良夜はマジで引っ越しをしたくなった。
そして、九十分後。
「……出たよ……」
「……出ましたよ……」
二人は半ば呆然としながら、手元に残った問題用紙を見つめていた。二人が開いたページは別々のページだったのだが、その見開き二つ分、四ページがもろにストライクゾーン。二人はその時出会った構文と答案用紙の上で再会を果たしたのだ。
「ちっ……こっちは当てが外れたってのに……」
思いも寄らぬ一発ゲットに良夜も直樹も、梅雨明け直後の空同様に晴れ晴れと晴れ上がっていた。それに引き替え、貴美は不機嫌を隠しもしない。張り出された名簿から自分の学籍番号を見つけると、早々に直樹の手を引いてその場を離れた。
「えっ? 吉田さん、ヤマ、外した? わっ、だっせー!」
「たまには吉田さんも痛い目にあったら良いんですよ。神様って居るんですよねぇ……世の中」
途端に表情を明るくする男二人。そりゃもう、この何日か、必死で勉強している横でゲームをされれば機嫌も悪くなろうという物だ。ここぞとばかりに「普段だけでじゃなく、試験前にも勉強しろ」だとか「ゲームばっかりしてたから罰が当った」と言いたい放題の言葉を貴美に浴びせかける。
「たまたまヤマの一つ当てたくらいで勝ち誇って……二人ともアホっしょ? アルトにご飯行くよ!」
直樹の手を引くことも忘れ、貴美は大股で講堂を後にする。その後ろ姿を追いながら、二人はパンッ! とお互いの右手と左手をたたき合わせた。
「うっさい! こんなところで手を叩くな! なおもりょーやんも、置いてくよ!」
吐き捨てるような言葉に二人のたまりに溜まった溜飲は下がる思い。二人は一足先に行く貴美へと駆け寄り、思わぬ金星をジックリとかみしめるのだった……が。
その日から十日ほどが過ぎ、梅雨明けが試験結果の発表と肩を組んでやって来た。その日、貴美はドイツ語の結果発表を見あげていた。その口元は苦虫に味に歪み、目元は睨み付けるような視線だった。なぜなら……
「ああ! もう! ドイツ語ごとき優だと思ってったのに!!」
彼女の成績が“良”だったから。そして、ゆっくりと貴美は振り向いた。
「ところでりょーやんとなおは?」
苦虫に歪んで居たはずの口元が裂け目のように開き、頬をゆっくりとほころばせる。
「さあ、夏休みだな! 直樹!」
「そうですね! 良夜君! 今年は海ですか!? 山ですか!?」
事務室横の掲示板から大きな窓ガラスへと二人は視線を向ける。真っ青に晴れ上がった空には巨大な入道雲、その空は試験開けの晴れ晴れとした心情にもよく似ていた。
「なおとりょーやんは!? ヤマ、当てたんっしょ?」
どこか遠くから賑やかな雑音が聞こえているが、良夜と直樹、ギリギリとはいえドイツ語を取った二人の心には届きやしなかった。
梅雨去り、夏来る。二年目の夏休みは今始まった。
補足。
「……偶然よ、偶然。真似して酷い目にあっても知らないから」
アルト周辺で『貧乳の方が教えてくれたおまじない』がにわかにはやり始めた頃、アルトはそれをまじめに練習している学生達を見てそう呟いた。そして後期の試験においてはこのおまじないを当てにし、『酷い目』にあったド阿呆様がダース単位で現れたことをここに明記しておく。