色色々
 青天の霹靂という言葉がある。要するに物凄く驚いた、って意味だ。五月最終週の土曜日、まさに青天の下、良夜はこの言葉の意味を初めて理解する事になる。
 その日、良夜は昼まで惰眠をむさぼり、お昼少し過ぎに喫茶アルトにやってきた。彼がそこに着いた時、あまり広くはないアルトの庭先では美月がしゃがみ込んで草むしりをしている真っ最中だった。土曜日は、一応美月の公休日という事になっているのだが、彼女は何故かこの手の仕事を良くしている。おそらくは溜まった洗濯物や掃除の一貫としてやっているのだろうが、ここの草むしりは立派に仕事の一貫だと良夜は思う。
 洗いざらしのジーパンにこちらも何度も洗ってクタクタになっている長袖のトレーナー、それとアップにまとめた髪を無理矢理詰め込んだ麦わら帽子。あまりお目に掛からぬ格好は、一瞬知らない人が草むしりをしているのかと思うほど。
「美月さーん!」
 数メートルほど離れたところから声を掛け、大きく手を振る。緩慢に頭が上がり、帽子の下から覗く顔が良夜の方へと向いた。
 その瞬間!
「りっりっりりりりりょうやさん!?」
 居眠りしていた生徒が先生に声を掛けられたような対応……そう言うのが一番近いだろうか? しゃがみ込んでいた彼女は弾かれるように立ち上がると、帽子のつばを引きちぎらんばかりに引き下ろす。それだけでは足りないのか、頭も下げて首もすくめて、見せるのは麦わら帽の明るい小麦色だけ。初めて見る美月の対応に良夜は首をひねるばかりだ。
「……どうか……しました?」
「ひっ!? 見ないでください!!」
 一歩近づけば一歩引く。ん? ともう一回首をひねって、一瞬だけ考えてみる。そして、直後に「ああ」小さく納得。
「意外と、似合ってますよ」
「えっ? ほっ本当ですか? 今朝からお祖父さんにまで馬鹿にされて……」
 下がっていた足が一転、一歩良夜に近づく。帽子のつばからも手が離れ、その下から半泣きになっている大きな目が覗く。ああ、やっぱりかと心の中で小さくガッツポーズ。良夜はほんの少しだけ気持ちを良くして言葉を続けた。
「ええ、ジーパンも似合いますよね」
 着慣れないジーパンやクタクタになったトレーナーと麦わら帽子。野良仕事ルックが恥ずかしいのだろう。気にする事なんて全然ない。見慣れてなくて少し驚いたが、彼氏の欲目抜きにしてもよく似合っている。
 そんな気持ちで伝えた言葉に、美月はキョトンと一瞬その顔から表情を失った。
 その瞬間。
 喫茶アルトの庭先に一陣の風が吹いた。
「違うんで――」
 美月の言葉が詰まり、詰まると同時に風が彼女の帽子を巻き上げる。帽子は喫茶アルトの屋根近くにまで舞い上がり、二人の視線を一手に引き受ける。
 舞い上がった帽子が五メートルほど向こうの地面にフワッと落ちた。なにげなく落ちるところまで見ていた二人の視線がやっぱり何気なくお互いの顔へと戻ってゆく。
「最近、風が強いですね…………えぇぇぇぇ!!!」
 戻ってゆくがごとに声が小さくなり、アップに纏められた髪までたどり着いた時点で、悲鳴のような叫び声に変わった。
「ふえぇ〜〜〜だから、見られたくなかったのに〜〜〜〜!!!」
 見られた瞬間、美月はぺたんと地面に座り込み、その頭を両手で隠す。隠したところで隠しきれる物ではない。隠しきれないところから顔を出しているのは、彼女の髪。正確に言うならば――
 どピンクの髪、だった。
「見ないでください! 見ないでください! 見ないでください! 見ないでください!!!!!」
 蛍光色まぶしいピンクの髪は、アニメかコスプレ会場から飛び出してきたようだ。彼女は、比喩表現ではなく、本当に頭を抱え込んで懇願し始める。土下座みたいな格好で頼まれたところで、それは見ないではいられない代物だ。
「悪いのは良夜よね……」
「りょーやんが悪いんよねぇ……」
 今年初めて空調を入れたフロアの中では、泣き叫ぶ美月とそれを唖然と見守る良夜を見ながら、アルトと貴美が呟いていた……

 話は一週間ほど前、五月中旬の日曜日にまでさかのぼる。その日も良夜はお昼過ぎに喫茶アルトを訪れ、少し遅めの昼食をとっていた。正面にはまだ黒髪のままだった美月と相変わらず金髪のアルトの二人、サンドイッチのセットを食べるいつも通りの日曜日だ。
「どーよ?」
 幸せな日曜日を打ち破ったのは、まぶしい金髪をまぶしい五月の陽にきらめかせる吉田貴美嬢の声。右手には妙に疲れ顔の直樹をぶら下げ、彼女はチョンチョンと良夜の肩を叩いてニコニコしていた。
「藪から棒だな……なんだよ、いったい?」
 背後に立つ貴美へと首をひねって視線を持ち上げる。営業人格とはちょっぴり違う笑顔、垂れ目の辺りが抜けたような印象を見る者に与える。その顔をまじまじと見ているうちに、彼女の笑顔がだんだんと陰りだし、仕舞には諦めた表情でポンポンと良夜の肩を二つほど叩いた。
「……美月さん、これと付き合うの、辞めな? 絶対に損すっから」
「ふぇ……何か……ああ!」
 良夜と同様に、貴美の顔を見ていた美月がポンと一つ手を叩いた。途端に沈んでいた貴美の顔にも笑顔が戻り、うんうんと何度もうなずいてみせる。
「リップの色が違います!」
「……そっちの方が細かいと思うんだけど……後、昨日はリップで今日はルージュ」
 美月の一言で喜んでいた貴美の肩からカクンと力が抜ける。もういいや、とでも言いたげな感じで手を数回振ると、彼女はそのまま隣のテーブルに着いた。
「バーカ、髪よ」
「――ってアルトが言ってるけど……髪って?」
「髪……切りました?」
 良夜と美月の視線が貴美の髪に集中。穴が空くかと思うほどに見つめるが、見つめるだけ。やっぱり二人とも不思議そうに首をかしげるばかりで、貴美の求めている答えにはたどり着く事がなかった。
「りょーやんはともかく、美月さんまで気付かないんや……なんか、人生に絶望しそ……美月さん、コーヒー、アイスで。それとレアチー、期限切れそうなのあるから、それ」
「吉田さん、脱色し直したんですよ、根元の所、黒くなってたから。あっ、僕もアイスコーヒー、それと……モンブラン、下さい」
「むぅ……セルフサービスは駄目ですか? 駄目ですね、行ってきます」
 貴美と直樹が隣のテーブルに着くと、美月は少し冗談めかした口調と共に立ち上がった。それを見送り、良夜は再び貴美の髪へと視線を向ける。大きな窓から入ってくる日の光を受け、貴美の金に近い茶髪は今日もまぶしい。そのまぶしい髪の毛、昨日はどうだったっけ? と思い出してみる…………よーく考えて思い出してみる……
 視線は上に行ったり、下に行ったり、右に行って、左に行って、貴美の髪に戻ってくる。
「……良夜、もしかして、昨日の事、覚えてない?」
 アルトの呆れ声を聞きながら、もう一分だけ考えてみた。
「おう、全然、覚えてねえ」
 胸を張って開き直った。頭の中で貴美の顔を思い浮かべる事は出来るのだが、その顔は全て今日の髪型に書き換えられている。いくら考えたところで、昨日の貴美はすでに今日の貴美と同じ髪型をしている。うん、人間の記憶力なんて当てにならない物だ。
「自慢しないで……」
 と、アルトは額を押さえて呟いた。
「はあ、彼は私が脱色するたびに嫌そうな顔をするし、上司とお隣さんは気づきもしない。不幸だね、わたしゃ」
「そうなのか?」
「まあ……黒髪の方が良いかな? って思うんですけどね……」
「黒いと頭、重たく感じんのよ。どうせ、美月さんみたいな綺麗な黒髪じゃないし」
 チラッと貴美の顔を見て直樹が苦笑いを浮かべると、貴美は自分の前髪を指にくるんと引っかけて目の前へと引っ張った。彼女の顔は少し不満げ。去年、高校を卒業し、卒業した翌日に美容室で脱色してきた貴美と、その脱色した髪を見て唖然とした直樹、二人の間でこの話題はずっと平行線をたどっていた。結局、直樹は黙認、貴美は好きにするというスタンス。
「りょーやんは髪、何色が良い?」
「俺? そりゃ、く――」
「黒ってのはなし」
 良夜の答えをアルトのストローがピッと制した。テーブルの上に足を投げ出していた彼女は、したり顔で立ち上がり、言葉を続けるのだった。
「美月が黒だもの、黒って言っておかなきゃ、角が立つって思ってるわね? 良夜」
 まんま気持ちを読まれた良夜が、ウグッと言葉を詰まらせた。彼がが言葉を詰まらせると、タカミーズの二人もアルトの言葉を聞きたがる。ご希望通りにアルトの言葉を伝えれば、貴美の言葉は決まっていた。
「そりゃそうだね、黒は禁止、黒以外」
 黒と茶と金と白以外に髪の色なんてあったっけ……と、良夜は首をひねる。少なくとも、現実世界で見た事のある色はこれくらいだ。茶は貴美で、金はアルト、この色は言いたくない。白髪が好きというのかかなり変だ。となると……
「どーせなら、ピンクにしろ、ピンク、それもショッキングピンク」
 しばらく考えた後、良夜は投げやりに答えた。ほんの数メートル向こうで、美月が聞いている事も知らずに。しかも、聞いたのは『ピンク』の部分だけで、『黒禁止』の部分は聞いてない、なんて事には思いも寄らなかったのだ。

「べっ、別に良夜さんがどうこうと言うわけではないのですが……先日、お買い物に行ったら売ってたんですよ、ピンクのヘアマニキュア……それで……つい」
 物凄く体裁の悪そうな顔をしながら、美月は再び麦わら帽を目深にかぶりなおした。
 ピンク髪の美月という世にも奇妙な物のショックとそれを良夜に見られたというショックから二人が抜け出したのは、風の悪戯から十分ほどが経過した時の事だった。二人は『立ち話もなんだし』という事で、喫茶アルト店内のいつもの席へとやって来ていた。窓から差し込む光がまぶしい席は、二人だけの空間になっている。一応仕事中の貴美はもちろん、いつもはここにいる直樹もアルトもカウンター席でコーヒーを飲んでくつろいでいる。気を利かせた、と言うよりも触らぬ神にたたり無しを決め込んでいるに違いない。
 で、美月が言うには、要するに『何となく買ってみた。昨日、お風呂上がりにやってみた。そして朝起きたら、和明は腰を抜かしかけ、貴美は大爆笑、直樹は絶句』という事らしい。
「それで……急に恥ずかしくなって……恥ずかしく……ふぇ〜〜〜どーしましょぉ……」
 説明をする間も、風に飛ばされた帽子をぐいぐいと引っ張り、つばで顔まで隠す勢い。その帽子は絶対に脱がないぞという決意がそこから見て取れた。
「ああ……確かに驚きましたけど……そっそんなに無茶に似合ってないって事はないと思うんだけど……なぁ?」
「でも、良夜さんだって……大声出してびっくりしてたじゃないじゃないですか……」
 つばの向こうから大きな瞳が、恨めしそうに良夜の顔を見上げる。そこに溜まった涙はちょっと揺らせば、今に頬を伝って大洪水を起こしそう。
「そりゃ……びっくりはしますよね……ピンクだし」
「ふえぇ〜〜やっぱりですか!? びっくりするような髪ですか? 変ですか? 変ですよね? 笑っちゃいますよねっ!?」
「大丈夫ですよ、ホント、似合ってますから」
「本当ですか? じゃぁ、帽子、とっても笑いません?」
「……うっ……うん」
「……言葉に詰まりましたね?」
 またもや、彼女は帽子のつばを掴んでメソメソと言い出す。すでにまぶたのダムは決壊済みで、彼女の頬に大河を作っていた。はぁ、と大きな溜息が出てしまう。そして、良夜はついに強硬手段に出た。
 ヒョイと手を美月の麦わら帽へと伸ばして、掴んだ。不意を突かれた美月は、なすすべもなく良夜に帽子を奪われる。
「えっ?! 良夜さん! 返してくださいよ〜〜〜」
 ガバッと顔をテーブルにこすりつけ、彼女は頭を腕で覆い隠す。もちろん、長くボリュームのある髪を全て隠す事なんて出来やしない。白い腕や荒れた指の隙間からはやっぱりピンクの髪が見え隠れ。
「可愛いですよ、凄く」
 精一杯優しい笑顔を作ったつもり。それが成功しているのかどうかは、美月に聞いて貰わないと判らない。それでも、良夜は最大限の努力をしながら微笑んだ。
「本当ですか?」
 テーブルにこすりつけた額に赤い跡が浮かび、黒目がちの目元が少し赤い。髪はともかく、こっちの方は間違いなく可愛い。その顔を見つめていれば、微笑みに努力は必要なくなった。
「ええ、本当ですよ」
 良夜がうなずけば、美月は未だ信じられないという顔を見せながらも、頭を覆った腕を外すのだった。

 ようやく落ち着いた美月を庭へと送り出し、良夜は予定よりも少しだけ遅れた昼食を取り始めた。食べ終わったら少しだけ手伝う事になっている。
 そんな良夜の元に、先ほどまでカウンターでコーヒーを飲んでいたアルトが飛んできた。トンと肩に着地を決め、少しだけ意地の悪い表情で良夜の顔を覗き込む。
「お疲れ様、大変だったわね?」
「と、思うんなら、ちょっとはフォローしに来いよ」
 フロアーの向こう、国道側の窓の外ではピンクの髪が行ったり来たり。未だ被ってい麦わら帽には日焼け防止以上の意味はなさそうだ。そこから視線を、先ほどまでカウンターでアイスコーヒーを堪能していたアルトへと動かす。
「ねえ、良夜、一つ聞いて良い?」
「ああ? どうぞ、何でも」
 中断していた食事を再開し、良夜はたいして気にもとめずに答える。その声にアルトはほんの少しだけ間を開けて、ゆっくりと尋ねた。
「もしかして……ヘアマニ、一度使うとずっと落ちないって思ってる?」
「えっ? 落ちるの?」
 再び中断する食事、彼のフォークから絡まっていたスパゲッティがするすると落ちてゆく……
「ああ……やっぱりね……そうだと思ったわ。あんなの半月もしたら落ちるわよ……同じ事やらなきゃ良いわね、似合う、なんて言っちゃって……」
 肩の上でアルトがそう言うと、良夜の背中に冷たい汗が流れる。もう一度外の美月へと視線を向ければ、彼女は物珍しそうに自らのピンク髪を撫でて喜んでいる真っ最中。
「賭ける?」
「……それは成立する賭なのか?」

 そして十日が経った。上手に染められていなかったのか、それとも安物だったのか、二週間は持つはずのヘアマニキュアは跡形も残らず、美月の髪はすっかり烏の濡羽色に戻っていた。その美しい黒髪を挟んで――
「似合うって言いました!」
「全然似合ってません! 黒髪が一番綺麗、似合う!! 本当に!!」
「嘘つきましたねっ!?」
「フォローです! フォローって言ってください!!」
 言い合いをする二人の姿が、喫茶アルトの片隅で見受けられた。なお、良夜は美月を思いとどまらせるのに、半日の時間を要したという……

 おまけ
「なんで、髪染めようなんて思ったんよ」
「飽きたんですよぉ、この髪型」
 ようやく黒髪に戻った美月さん、後ろで結んだ黒髪を肩口へと流しながら貴美の言葉に応えた。
「折角伸ばしたの、切るのは怖いですし、ヘアマニならそのうち落ちるじゃないですかぁ〜」
「あれ、美月さん、ヘアマニ、落ちるの知ってたんだ?」
「もちろんですよ! ですから、落ちるまでずーっと帽子被ってようって思っただけです!」
「……麦わら?」
「いえ、コック帽買っちゃおうかなぁ〜って」
 等と楽しげに話すウェイトレス二人組、彼女たちから僅かに離れたところに座る良夜は、非常に居心地悪い物を感じていた。
「知らなかったのは良夜だけ。悪いのは全部良夜」
「あっ、安心してください、僕もよく知りませんでしたから……」
 アルトに馬鹿にされ、直樹に慰められ、良夜はテーブルの上でプルプルと拳を振るわせる事になった。
「どうせ俺はそう言う事に疎い男だよ!!!」

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