Trouble−Day
金曜日夜十一時、直樹はまた、例の峠に来ていた。今またがっているのは、ひと月ほど前までスクラップ一歩手前の状態で倉庫に押し込まれていたRGV−Γ(ガンマ)250。彼がいつも乗っているZZR−400よりもパワーもトルクも小さな2stバイクだが、タイトなコーナーが連続するこの峠では軽い車体と高回転域まで気持ちよく回るエンジンのおかげで、レコードタイム自体は悪くない。
彼は乗り慣れないバイクにまたがり、峠の中腹からてっぺんへと続くタイトなコーナーをいくつもクリアーしていく。そして、てっぺんの展望台をくるっと一周、そのまま下って友人達が待つ中腹の休憩所へと帰ってきた。
「お疲れ、どうだった?」
彼に声を掛けたのはこのバイクの持ち主、宮武哲也だ。彼は直樹達が住むアパートの一階に住む学生で、直樹と同じく二研の部員。彼は二ヶ月ほど前に自分が乗っていたバイクを廃車にしてしまった。詳しい話は聞いていないが、何でも燃えたそうだ。どうせすっ転んでタンクが割れるか何かして、そこから漏れたガソリンにプラグの火花が引火したって所だろう。当人が至ってピンシャンしているのだから、ただの笑い話にしかならない。
哲也の顔を見ながら直樹はファイヤーパターンのヘルメットを脱いだ。しっとりと汗を絡ませる髪にを手櫛で掻き上げ、大きな深呼吸を一つ。乗り慣れないオートバイは青年にいつも以上の負担を掛けた。
「下がなんだか凄いスカスカですよね、回さないとパワーがでません、ツーストってこういう物なのかも知れませんけど」
「怪しげなパーツばっかりで直したもんね……どこで止まってもおかしくないかも?」
続いて声を掛けたのは、哲也の隣でストップウォッチを握っていた青葉徹、彼も同じアパートに住む二研部員だ。直樹とあまり変わらない身長なのだが、中学高校と柔道をやっていた所為だろうか、そのシャツ一枚下は筋肉質な肉体美を誇っているらしい。彼はまだ冷え切っていないマフラーをペンライトで照らしながら、直樹の顔も見ずにそう言った。
「恐ろしい事を言わないでくれよ……俺、あと一回回りたいから、それが終わったら帰ろうぜ。吉田さんにばれたら直樹がマジで殺される」
そう言って直樹と入れ代わりにシートへと座る哲也に、直樹は「判ってるんなら呼ばないでくれればいいのに」と内心呟く。もっとも、バイト先まで呼びに来た二人に「待ってて下さい!」と言ってしまったのは直樹本人だ。彼に非難する資格はない。
「ひと月で良く直ったよねぇ〜」
走り去るテールランプを見送り、徹が直樹の隣に立つ。直樹も珍しく同い年で水平な視線で語り合える友人へと視線を向けた。
「掛かりっきりでしたもんねぇ」
「彼女サービスしてなくて、吉田さん、カリカリしてるよねぇ〜」
「……思い出させないで下さいよ。ばれたらコトなんですから」
ちゃかすように言う徹に直樹は苦笑いを浮かべる。
彼らがあのバイクを直していたのは、彼らが住んでいるアパートの駐車場だ。大学生達にとって車は少し維持費が高い。そういう事情もあって、彼らの住むアパートの駐車場は外部の人間が来た時くらいしか、駐車場として使われない。代わりにバイク乗りや自転車乗り達がそこをメンテナンスのスペースとして使っている。おかげで油断しているとビスが落ちてたり工具が落ちてたりして、バイクや自転車がパンクしたりもする。そして、それを直すのもこの駐車場という名のメンテナンススペースだ。
「でも、ひと月で直って良かったよ。哲也のバイト先まで送り迎えするの面倒くさいもん」
「……僕も免停の時はお世話になりましたね、徹君には」
「もう、これで毎晩哲也のバイト先まで行かずに済むかと思うと、気が楽だよね」
「哲也君がすっ転んでまた送り迎えしなきゃ行けなくなったりして?」
「うわぁ〜ありが――」
冗談めかした口調で直樹が言うと、徹は大げさに肩をすくめようとした。しかし、それは最後までなされる事はなかった。胸元から彼の携帯電話が電子の歌声で歌い始めたからだ。
「……ヤな予感、しない?」
顔をしかめながら、徹はちかちかと光る背面の液晶へと目をやる。書いてある字は読まなくても判るが、宮武哲也の文字。
「……しますね」
二つ折りの携帯を開き、彼は耳に当てた。
「はいはい、とーる君だよ? 哲也? どうしたのかな? うん……ああ……うん……待って――握りゴケ」
徹が受話器を押さえて直樹に言えば、直樹は薄曇りで星の見えない空へと顔を上げる。そして、二人はゆっくりと頷き合い、一つ携帯電話に向かって叫んだ。
「「マシンは!?」」
『乗ってる人の心配もしろ!』
哲也の元気良さそうな怒鳴り声が聞こえる携帯電話を徹は、同情の余地無しとでも言いたげに叩き切った。
叩き切った携帯には――
通話時間1分50秒
00:03
こんな表示がなされていた事を、直樹も徹も気付く事はなかった。
直樹の、トラブルにまみれた一日が今始まる。
心配されたバイクはきっちりフロントフォークがぐしゃぐしゃになっていた。しかも乗ってる人間は傷一つ負っていないというのが気分が悪い。大怪我して病院に担ぎ込まれるような怪我でもしてれば良いのに……と、直樹と徹は思った。そう言うのも、走らないバイクを三人して数十キロ離れたアパートまで持ち帰ってきたからだ。同情心など小指の爪の垢ほども浮かぶはずがない。むしろ、死ねばいい。
「……悪かったな……」
「アルトでケーキ、食い放題ね」
「僕、ランチ三回……」
まず、徹と直樹の生きてるバイクで数キロ先行する。そして、直樹のZZRにタンデムしてかえる。帰り着いたら、直樹か徹のどちらかがZZRを押し、押してない方が哲也と二人でΓを押してそこまで歩く。たどり着いたら、またしても徹と直樹が先行。そんな事を十回以上も繰り返し、三人はようやくアパートにまで帰ってきた。時間は深夜の四時を少し過ぎている。三人が三人とも顔色を失い、失った顔には代わりに死相が浮かんでいた。置いて帰るという選択肢ももちろんあったのだが、現地は走り屋の徘徊する峠だ。Γなんて変わったバイクを置いていたら、明日にはフレームしか残っていないだろう。
「……吉田さん、怒ってるだろうな……」
下から見上げるアパート、大部分の部屋の明かりは消えているが、彼の部屋には明かりが煌々と灯る。やばいなと直樹は呟きながら、駐輪場にZZRを突っ込んだ。
「一緒に謝ってやろうか?」
壊れたバイクを駐車場の片隅に起き、哲也が直樹に声を掛ける。しかし、直樹は肩をすくめ、それを断った。
「……怒りが二倍になるだけですから」
直樹一人に対する怒りが哲也への怒りもわき上がって二倍になる。それが貴美という女の性質だ。
「んじゃ、お疲れさん、殺されない事を祈ってるよ」
徹は後ろ手に手を振り、彼も愛車のオフロードバイクを駐輪場に突っ込む。それが終わると三人揃って自室に続くエントランスへと歩を進めた。直樹は三階で哲也と徹は一階。直樹は二人と階段のところで別れ、よし! と息を吐いた。気合いを入れないと対応しきれないような気がしたからだ。
そして彼は自室のドアを開き、小さな声で「ただいま帰りました」と中で待つ彼女に声を掛ける。
「そこ、座り……」
彼を迎えるのは、パジャマ姿の貴美だった。ガラステーブルの前に座った彼女は、それを指先だけでコツコツと叩きながら、彼を斜め下から見上げる。その背後には怒りのオーラが幻視ではなく見えているように直樹は感じた。
「ごっ、ごめんなさい……」
「直樹……何してたんよ?」
ゆっくりと一言一言を絞るように発せられる言葉。数年ぶりに呼ばれた『直樹』という呼び名は、貴美が心底怒っている事を示す。入れた気合いも一気に霧散し、ついでに彼の顔から血の気を失わせる。
「えっと……哲也君のバイクがクラッシュして……三人で押して帰ったと言いますか……」
「ふぅん……どこで?」
びくんっ! 目を細めた貴美の言葉に、直樹の肩が一センチほど跳ね上がった。それだけで彼女は全てを察したのだろう。再びゆっくりと形の良い唇を開いた。
「例の峠?」
「しっ、試運転、試運転だったんですよ! それに僕は乗ってませんから!」
「嘘つけ!! 直樹が目の前に変わったバイクあったら、乗らないわけないじゃんか!!!!」
がんっ! パジャマを着た貴美の拳がテーブルに叩きつけられる。直樹の耳にピシッて音が聞こえた気がするが、それはガラステーブルにひびが入った音なのか、彼女の何か大事な物が切れる音なのか? それを判断するすべを彼は持っていなかった。
この後、凄惨な折檻が行われた。それは、直樹の悲痛な悲鳴と貴美の怒鳴り声によって、お隣で熟睡していた良夜および同じアパートに住む奴らほぼ全員が知る事になった。
直樹が喫茶アルトに出向いたのは、それから十時間ほどが過ぎた昼一時過ぎのことだった。直樹は本当なら今日はアルトには来たくなかった。そう言うのも、貴美の怒りがまだ収まっているとは思えなかったからだ。貴美の折檻と説教は小一時間ほどで終わったものの、それは単に彼女が眠くなって中断したと言うだけの事だ。普通の人間は寝ると強い感情も落ち着く物なのだが、こと、貴美に限って言えばそれは嘘だと断言できる。
「はあ……まだ、怒ってるんでしょうね……」
大きな溜息をついてアルトのドアベルを鳴らす。多分、ここで他の店に食べに行ったら余計に彼女は怒るし、自炊しようとして失敗した日には比喩表現抜きで殺されるだろう。
から〜ん
そっと開けたつもりだったのに、ドアベルはいつも以上の大きさで鳴った……と言うのは直樹の錯覚だ。実際の所、ドアベルの音はいつもよりも少し小さいくらい。
そして、見つけなくても良いのに直樹はカウンターから立ち上がろうとしている貴美の姿を見つけた。くるんと明るい茶髪が揺れて、直樹の方へと向き直る。
「いらっしゃいませ、ようこそ喫茶アルトへ。お一人様ですか?」
入り口で固まる直樹の元へ、貴美がツカツカと近づいてくる。いつもよりもゆっくりとした歩調、射貫くかのようにまっすぐ向けられた視線、そして、指先が白くなるまで握ったトレイ……
外見こそいつも通りの営業人格だ。しかし、直樹には理解が出来た。彼女は未だに怒り狂っている、と。
開襟シャツに着替えた胸が直樹の鼻先にまで近づき、頭半分ほど高い位置から彼女は直樹を見下ろす。それはまるで蛇に睨まれたカエル。しかも睨んでる蛇は猛毒を持つハブかコブラだ。
「本日のスペシャルメニューはパンの耳のマヨネーズ掛けです……他は全部売り切れです」
びっくっ〜〜〜。地の底から響き渡ってくる声に直樹の背中がピンッ! と跳ね上がる。ドキドキと早鐘のようになる鼓動、全身全ての細胞が警告音を最大音量でならしていた。
「いつもの席に浅間君がいますけど、合い席で良いですよね? では……に・げ・ん・な・よ?」
口元は笑っているが、目元は座りっぱなしの視線で見据えながら、貴美はドスの利いた声でそう言った。そして言うだけ言うとプイッとそっぽを向いてカウンターへときびすを返す。入り口付近で一人取り残されても、彼の心臓はいつまでも落ち着きやしない。
結局、彼が良夜のいる席へと着いたのはそれからきっちり百秒後の事だった。
「って訳で、吉田さん、物凄く怒ってるんですよ……」
直樹と同じく少し遅い昼食を取っていた良夜に、直樹は両手をテーブルに投げ出した格好で、事のいきさつを説明した。もう普通に座っているのも面倒くさい。
「まあ……悪いのはお前だよな?」
「判ってますけど……目の前に新しいオートバイがあったら乗りたくなりません?」
「しらねーよ、俺、免許持ってないんだから」
良夜の目の前には大きなお皿に載ったミートスパゲッティ、その上でフォークをあっちやりこっちやりしながら、彼は直樹の言葉に応えていた。トマトの酸味の利いた香りが直樹の胃袋を直撃、これを見ながらパンの耳のマヨネーズ掛けを食べなければならないのかと思うと、より一層我が身が悲しくなってくる。
「ところでさ、直樹……」
「はい?」
「……お前、これからアルトに死ぬほど刺されるわけだが、言い残す事、あるか?」
不意に掛けられる言葉、直樹は突っ伏していたテーブルから飛び起き、「えっ?!」と大きな声を上げた。
「お前、座った時、どたーってテーブルに手を投げ出したろう?」
「えっ……ええ……しましたね」
「その時、奴が一生懸命積み上げた服の山をはじき飛ばしたんだよ……ちなみにそのうちの一ま――……いや一着はここにある」
そう言って彼がフォークで指したのは、彼が食していたミートソーススパゲッティ。どうやらその頂点に見えない服が乗っているらしい。もちろん、直樹にそんな事はわかりはしない。
良夜が言うには、ここに住んでいる不可視の妖精さんは朝からずっと服の整理をしていた。それもかなりの量を。整理した物は全て丁寧に折りたたんで、直樹が今額を置いてある辺りに置いてあったらしい。そして、それを今、直樹が全部床に落としてしまったというわけ……確かに怒るだろうな、と話を聞き終えた直樹は何処か他人事のように考えた。
「不可抗力だから三回で許して上げる、と言ってる……俺も汚れたドレスが被さったパスタを食う羽目になったので、お前を庇う気にはなれない。素直に刺されろ」
パスタの上で行ったり来たりを繰り返していたフォークが、何もない空間をすくい上げる。それがテーブルの隅に置かれていたおしぼりの上へと動いた。何も知らない人が見れば、危ない薬の中毒患者のような絵面だ。しかし、直樹はこれからそれが良夜の幻覚でない事を思い知る。
「歯、食いしばれ、だとさ……男の悲鳴はみっともないから」
ドレスの使ったパスタを食べる決心がついたのだろうか? 良夜はくるくるとフォークにパスタを巻き付けると、それを口元へと運んだ。やっぱり良い匂いがするのだが、今の直樹にそれを感じる余裕はなかった。
トンと頭の上に軽い衝撃が走る。
「今着地した。頭の上」
「ちょっと待って下さい!」
直樹の顔から再び血の気が引き、大声を上げる。その叫び声の対象が、美味しそうにパスタをすする良夜だったのか、それとも頭の上にいるであろう不可視の妖精だったのか、それは叫んだ本人にも判らない。判らないが一つだけ判る事があった。
「待たない、だと」
どちらが対象だとしても、その望みは叶えられないという事だけは確実。それを必要以上に冷たく感じる声で良夜が教える。その次の瞬間――
ざくっ!!! 頭のてっぺんで嫌な音が響き渡った。
「いったぁぁぁぁぁ!!!」
つむじの辺りにきっちり三回、ザクザクブスとストローが突き刺さると、直樹はフロア全部に響き渡るような悲鳴を上げるのだった。
「三回刺されたくらいで悲鳴あげんなよな……」
刺され慣れてる良夜が冷たく言うのを聞きながら、直樹はもう今日はご飯食べたら家に帰ってさっさと寝ちゃおう。バイトも休んじゃおうかなぁ……と、と心に決めるのだった。
が、根がまじめな直樹はバイトにもちゃんと行ったし……
「直樹、Γに合うフォーク見つかったんで、組み込んだんだよ。試運転、付き合う?」
「あっ、行きます、行きます。ちょっと待ってて下さい」
ひょっこりとバイト先に現れた哲也と徹に直樹は嬉しそうにそう答えた。それは悲しきバイク乗りのサガだった。