散歩(完)
アルトが店内に入ってきた時、レジからは直樹ががっくりと肩を落として出てくるところだった。丸まった背、落ちた肩、表情はよく見えなかったがもしかしたら半泣きくらいにはなっていたかも知れない。
なんでここにいるのだろう?
最初に浮かんだ疑問はこれだった。直樹がバイトしている本屋はここの系列ではあるが別の店だったはずだけど……と考え及んだところで、アルトは今朝、良夜と貴美がしていた話を思い出した。
「今日は他の支店で正社員と同じ時間で働いてる」
要約すればこんな感じの事を言っていたような気がする。自分には関係がないと思いこんでいた所為で、詳しい事は聞いても居ないし、覚えても居ない。
「らっきー」
小さな呟き一つ、楽な上に早く帰れる最高の足を彼女は今見つけた。
綾音を置き去りにし、陽は小走りに目的地へと急ぐ。その頭をポンと蹴飛ばし、アルトは宙へと舞い上がった。喫茶アルトとは違い、GWの本屋には人が一杯。その人の頭と書架をトントンと踏み台にする。それはまるで水面を跳ねる小石のよう。そんな調子で彼女は直樹へと近づいていく。
軽くなったアルトの足取りと直樹のそれとは大違いだった。とぼとぼ、そんな擬音がぴったりと来るような歩き方は、亀のように遅い。まるで目的地に行くのを嫌がっているかのよう。
情けない、直感的にそう思った。男子たる物、疲れている時でも背筋を伸ばして歩くべきだ。それが仕事中なら特に、だ。
視界一杯にまで大きくなった背中に向け、トン! と書架を蹴る。そして、彼が大きな溜息をついた瞬間、アルトは彼の肩を思いっきり蹴っ飛ばした。
「シャンとなさい!」
「うひゃっ!?」
アルトの渇が聞いたのだろうか? 直樹の背中がピン! と伸びきる。
「出来るじゃない? 全く、そんなのだから、子供だって……子供……同士……?」
キョロキョロと不審者よろしく周りを見渡す直樹と、その直樹が胸にギュッと抱いた本を凝視するアルト。直樹の方は誰もいない事に不思議そうな顔をしつつも安堵の吐息をこぼすだけ。肩の上で握ったストローをぷるぷるさせている妖精がいるなど、想像も付いていない。
「へっ変態! 信じてたのに! 変態! 不潔!! 男同士だけならともかく! 子供!? ショタ!? 自分の裸でも鏡で見てなさい!!」
それでも良いからアルトは怒鳴りつけた。怒鳴りつけずには居られなかった。そして最後に――
「私にも読ませなさい!」
と付け加えた。
それから十分後、アルトは直樹の鞄の中で少年愛・スリーを読んでいた。漆黒の闇の中でも本が読めるのは、彼女の人よりも利く夜目のおかげ……と、多分、人よりも大きな好奇心の所為。
「……すごっ」
あなたの知らない世界、と言う奴がそこにはあった。
その頃の美月と良夜。
ギャバギャバとタイヤがうなりを上げる。良い感じに混み始めた国道を車幅ギリギリの隙間を見つけ一歩でも前へ、黄信号を見つければアクセルを吹かし、赤信号を見つければ「ああ!」と悲鳴を上げる。その走りは普段どちらかというとのんびりな美月とは思えない走り。
だったわけだが、その助手席でシートベルトに捕まっている青年は一つの疑問を持っていた。
「……どこに行く気なんだろう? この人」
口の中でこそようやく形をなせる程度の声は、タイヤのスリック音にかき消され、彼自身の耳にすら届きかねる。
その疑問をいつ言うべきか……鬼気迫る表情でフットペダルとハンドルを捌く美月の顔を見ながら、彼は二つ目の疑問の答えを探すのだった。
アルトは後悔していた。力一杯、心の底から。
彼女は今直樹のバッグの中にいる。ただのデイバッグだと思っていた鞄は、どうやらバイクのタンクの上に磁石で貼り付けるタンクバッグと呼ばれる物らしい。さっきまで、ほんの五分ほど前まで、彼女はこのバッグの中で直樹が貴美に買ってくるように命じたマンガの本をこっそりと読んでいた。
ちょっとエッチな本を読んでいれば、直樹の部屋、すなわち良夜の部屋にまで送り返してくれる。なんて良い足を見つけたんだろう? 彼女は素直にそう思っていた。明日、良夜を通じて直樹に礼を言っても良いと思ったくらいだ。
しかし……
ふわっ。
アルトの体が浮かび上がり、すでに前後左右も判らなくなった空間の何処かに向いて飛ぶ。もちろん、彼女の羽は動いちゃ居ない。動いちゃいないのに彼女の体は宙を舞い、ビニール製の内壁に体が叩きつけられる。叩きつけられた反動で、やっぱり前後左右上下すら判らなくなった何処かに向いてすっ飛ぶ。すっ飛んだところにエロ本が振ってくる。
それを彼女は何度も何度も何度も味わっていた。
「酔う! 酔っちゃ――いったぁぁぁ!! 舌、噛んだ!!!」
叫んでも聞こえず、代わりに舌を噛む。涙と涎で顔中グチャグチャ、真っ暗闇に一人きりで本当に良かった。
アルトがオートバイに乗るのはこれが始めてではない。良夜の原付にはしょっちゅう乗ったてるし、貴美の髪にぶら下がってバイクに乗った事もある。特に貴美の髪にぶら下がった時は風がきつくて死ぬかと思った。だから、今日はそれをふまえて鞄の中に潜り込んだ。なんの問題もなかったはずだ。
もっとも、彼女は一つの事を忘れていた。
貴美は後ろの人間がイラッと来るほどの道交法完全遵守の女、二研で『大名』と呼ばれるくらい。追い越し禁止車線で長々とした大名行列を作るから『大名』ナイスなネーミングだ。それに引き替え、直樹は今年の頭早々から免停になってしまうような男。当然、その運転は天と地ほどにも違う。
ばぅん!
直樹が清水の舞台から飛び降りたつもりで買ったマフラーがひときわ野太い咆哮を上げる。瞬間、彼女の体は(多分)後方へと向いてすっ飛び、すっ飛んだところに分厚いエロマンガが飛んでくる。本の厚さはあるとの顔半分ほど、それが一直線にアルトへと向けて飛んでくる。下手に夜目が利くもんだから、本の分厚さをはっきりと認識できてしまう。その認識した事実が彼女は恐怖へと誘う。
「ひっ!」
首をすくめても意味はない。本は彼女の顔ではなく、お腹の辺りに向かって飛んできたのだから。
「ぎゃっ!」
胸の辺り、薄っぺらな胸に本の角が食い込む。げっ! と一瞬、えずいた声が出た。朝からろくすっぽ飲まず食わずなのが功を奏した。何か入っていたら、必ず、出してしまっていたであろうから。
そんな責め苦は二時間ほど続いた……というのはアルト感覚のお話。客観的に見れば――アルトはそれを教えられても決して信じないだろうが――十五分ほどでしかなかった。
それから一分ほどの時間が過ぎた。エンジンは相変わらず低いアイドリングの鼓動を響かせているようだが、マフラーが咆哮を上げる事もなければ、彼女の体が何処かに吹っ飛ばされる事もない。
「終わった……? 着いたの?」
すっかり着崩れたドレスはそのまま、膝を抱え小さくしていた体から力を抜く。そして、彼女は恐る恐る体と手を伸ばし、天井にあるジッパーをほんの少しだけ開いてみた。
「あ……素敵……」
宝石箱をひっくり返したような夜景。空の星が地上に降りてきたような光景だった。おそらくは新市街から旧市街、もしかしたら再開発地区までも一望できる高台の中腹に彼女は居た。
あれはちょっぴり大人なネオン、あっちで光っているのは何処かの誰かがくつろぐリビングの明かり、その間を通り抜けていくのは家路へと急ぐヘッドライト……煌びやかな光は彼女の住む喫茶アルト周辺では見られない光景。その光景をアルトは素直に見惚れた。
「こう言うのは彼女を連れて見に来るべきだわ。男一人……一人?」
直樹は一人ではなかった。もちろん、浮気相手が居た、なんて言うサプライズな話ではない。周りにはアイドリングを続けるバイクや車達がいただけだ。どのバイクも車もそのエキゾーストノイズを聞いただけで、ノーマルでないと言う事が理解できる。なんと言っても藤○豆腐店って書かれた車もあるくらいだ。
「……暴走……族?」
正確に言えば暴走族ではない。いわゆる走り屋さん達だ。もっとも、アルトにとってここに集まっている連中が暴走族だろうが、走り屋さんだろうが、全く関係ない。
きょとん……これから何が起るのだろう? 不安も忘れ、アルトは小さく呟き、直樹の顔を見上げた。その瞬間、インパネの淡い光に照らされ、フルフェイスのヘルメットの中で、直樹が――
微笑んだ!
ばぁぅぅぅん!!!
たっぷりと空ぶかしされ、エンジンは必要以上に盛り上がる。そして、直樹の手がクラッチレバーを放れば、それは一気にタイヤへと伝わる。
「うっそぉ!!!」
ぎゃんっ!
アルトの悲鳴とタイヤの悲鳴、二つの悲鳴が同時に上がり、直樹の愛車ZZR−400はスタートを切った。アルトがタンクバッグから顔を出している事にも気づかずに。
アクセルを吹かす。ブレーキを掛ける。車体を倒す。再びアクセルを吹かして、倒した車体を戻す。
そんな単純で恐ろしい時間は十五分ほど続いた。それは高台を中腹からてっぺんへと登るための時間。
高台の中腹からてっぺんへと登り続けている間の事を、アルトは語りたがらない。ただ、アルトはそれからしばらくの間、直樹のバイクどころか良夜のスクーターのエンジンの音すら、聞くと悲鳴を上げるほどのトラウマを背負っていた。
直樹はご機嫌だった。久しぶりに思う存分峠を攻められるからだ。
迫り来るガードレールを自分の限界にまで攻め込み、ギリギリですり抜けてゆく。決して早いほうではないが、それでも自分の限界という奴を確かめられる瞬間は何よりも好きだった。
直樹の彼女、吉田貴美は直樹が夜中に峠を攻める事を快く思っていなかった。と言うか、はっきり言っちゃうと、大嫌いだった。
こちらでの生活と引っ越し直前に購入したZZRにも慣れた頃、直樹は初めて峠の公道レースに参加した。その時の事だった。
「暴走族じゃんか……」
初めてのタイムアタックをした直樹に小さな声で言った。
それに関しては色々と反論もあるところなのだが、彼女との十数年に及ぶ付き合いで彼女に口で勝てない事は明確に理解している。直樹に分のある口論ですら、貴美に勝った事がないのだ。少なくとも法律その他で完全に分のない喧嘩で勝てない事はわかりきっている。それに……
珍しく貴美が不安そうな、泣きそうな顔になっていたのも彼の反論を口内に押しとどめさせた。
しかし、それでもやりたいのが男の子という生き物であり、バイク乗りという生き方だった。
今日は貴美よりも直樹の方が一時間近くバイトが先に終わる。この一時間は直樹の物。だから、直樹はその一時間を自分のために使用することにした。
まずはバイト先の本屋から二四研の部員達が利用している峠へと向かう。そこまでの道のりはエンジンを暖める程度に『流す』だけにしておく。本番はあくまでも峠のクライム。
そうは思っていても心が急く。
気がつけば免許が飛ぶような速度、気がつけば膝がすれるほどに車体が倒れている。
そして本番。曲がりくねった上り坂はあまり速度は出せない。出せないからこそ、腕が試される。震えるような恐怖と背中を凍り付かせるようなスリルの中、ブレーキのタイミングだけに心を集約させる。
朝早く働いていた疲れも、彼女にエロ漫画を買わされた疲れも、それを同僚に冷やかされた疲れも、ガソリンといっしょに燃やし、排気ガスといっしょに夜空に流す。これが直樹のストレス発散だ。
「ふぅ……良いタイムですよね……」
友人に計ってもらったタイムを覗き込み、大きく息を吐く。直樹は体力も腕力もあまりない。それでも、その全てを使い切った疲労感が心地良い。
「良いんじゃねえ? もう一回行くか?」
最近バイクを壊したとかで、タイムウォッチ係専門の友人が直樹に尋ねた。それを丁重に辞し、直樹は自宅アパートへと向かう事にした。これ以上やってしまうと、タイヤの目がなくなって貴美に気づかれるかも知れないからだ。
「ああ……気持ちよかった」
余韻を冷やすかのように、直樹はいつもよりもゆっくりとアパートへと向かった。
目の前にあるタンクバッグの中で、妖精が一匹、白目を剥いて死んでる事にも気づかずに。ついでに彼女の掛け布団が堅くて重たいエロマンガである事も、直樹は当然気づいていなかった。
彼女もまた、国道を爆走していた。多分、直樹のオートバイとほぼ同じくらいの速度。アッと思った時には美月は車線変更をしてて居て、背後からはきーっと言うブレーキの音が響く。チラリと見たバックミラーではサラリーマン風のおじさんが怒髪天。そこから視線を外すよりも先に彼女は再び車線を変える。右に左に良夜の体は全く落ち着く事が出来ない。
シートとシートベルトがあるだけアルトよりもマシ。マシではあるのだが、アルトの状況など知らない良夜にとって、それはなんの慰めにもなりはしない。
「あの……美月さん?」
「なんですかっ! 話しかけないで下さい! 忙しいんです!!」
このやりとり、喫茶アルトを出てから何回目だろうか? 忙しいという言葉通り、美月は本当に忙しそう。それも鬼気迫る忙しさ。同じ車線に一分としていないのだから。
そんな時間が小一時間ほど続いた。たどり着いたのは、良夜達がボーリングをしていた大型アミューズメントパーク。美月はキキッ! とタイヤを慣らし、ほんの二時間ほど前までいた駐車場へと車を滑り込ませた。
「着きました!!」
「えっと……美月さん?」
「はい! ほめて下さい! 朝より、十五分も早かったんですよ! 知ってますか!?」
「目茶苦茶飛ばしてましたからね……ところで……アルト、ここに居るんですか?」
良夜が疑問の言葉を上げた時、シートベルトを外していた美月の手が止まった。そして沈黙。ゲームセンターになっている一階から、ゲーム機の効果音やBGMが小さくはあるが聞こえてくる。
「……」
「……」
二人は静かに見つめ合った。
「居ないんでしょうか……」
「知りませんって……」
なお、この後、二人はこのゲームセンターが閉店の時間を迎えるまで、居るはずもないアルトを探し続けていた。ちなみにここの閉店時間は夜十二時で、ただいまの時刻は八時少し過ぎ。良夜はこの日のバイトをお休みした。
精魂使い果たし、良夜は自宅に帰ってきた。薄暗いいつも部屋、アルトが行方不明と言うだけでいつもより最寄り薄暗く感じてしまう。
結局アルトは見つからず――
「良夜……タカミーズと美月をここに呼びなさい」
たった今、見つかりました。
慌てて電気を付けてみれば、ちゃぶ台の上には良夜が買い置きしてたお菓子が山となし、その上には妖精がちょこんと座っていた。服はほとんどその用をなさず、髪はくしゃくしゃ、目は真っ赤に腫れ上がってその周りにマンガみたいな青あざが出来ていた。一言で言ってぼろぼろ。
「今すぐ呼ぶか、刺されてから呼ぶか……好きな方を選んで良いわ」
地の底から響き渡る声、良夜はアホのようにコクンコクンと何度もうなずいた。うなずく以外にないじゃん!? と、刺される前に呼んだ三人が良夜へと詰め寄られた時、彼はそう言った。
「……吉田さんが妙な事を命令しなきゃ、こうはならなかったよな?」
「……なっなおが私の言い付け破って、峠に行ったからっしょ! なお、この件は別口で話し合うかんね!?」
「ひっ!? よっ吉田さん、その件は今は関係ありませんから! えっと、あの、その、ほら! 窓を開けたのは三島さんでしょ!? 三島さんが……」
「やはりここは良夜さんがちゃんとアルトを見てないのが悪いんだと思うんですよ!! ねえ、良夜さん!?」
醜い争いだった。お菓子の山の上で胡座をかくアルトの前で、四人はそれぞれにお互いの非をなじりあった。後に語る事だが、良夜を除く三人にアルトの姿は見えない。もちろん、この夜も見えなかった。ただ、部屋を包み込む空気の凶悪さだけは十分に感じていた。
「……良いの、誰が悪いかなんて……とりあえず、この怒りをぶつける相手が欲しかったの。それを良夜一人にぶつけたら――」
アルトは一端言葉を切った。そして、彼女は邪悪に微笑んだ。
「人殺しになっちゃいそうな気がしたの」
そう、良夜以外誰もこの言葉は聞こえていないはずだった。だと言うのに、良夜は言うに及ばず彼ら三人もはっきりと自覚していた。
「だから、三割殺しずつで許してあげる……合計十二割で私もお得ね」
ここが肉食動物の檻か閻魔大王の審判の場である、と言う事を。
そして、翌日、GW最初の日曜日。喫茶アルトでは――
「良いですか? 犬はちゃんとリードに繋いで下さい。ルールなんですよ?」
「そだよ、あやちゃん。誰に迷惑掛けるか判らないんだから」
手の平に包帯を巻いたウェイトレス二人組に、正座させられお説教されている綾音の姿が見受けられた。
そして綾音の家では翌日から、気ままに庭をウロウロしていたはずのタマ(ドーベルマン♂三歳)が首に繋がった鎖とじゃれていた。
『綾音ちゃんとタマ 怒られ坊主』
この一件、ただ一人、陽だけは難を逃れていた。