散歩(3)
犬に追われ、咥えられ、挙げ句の果てに捨てられたアルトちゃん、彼女は今、見知らぬ土地にいた。
右を見ても民家、左を見ても民家、前は道で後ろも道。どっちを向けば国道か駅に着くのかはさっぱり解らない。演劇部の変人カップルは彼女が寝っ転がってるうちに何処かに消えてしまった。探せばその辺にいるのだろうが、二人が居るところにはタマ(ドーベルマン♂三歳)が居る。あまり探したくない。
「はぁ……」
大きな溜息を一つ。野生の勘を信じて回れ右。多分、こちらから来たような気がする。また犬に見つかったら嫌なので飛ぶ高さは、出来るだけ塀よりも低くした。
彼女が空を飛ぶ時、特に急いでいない場合はある程度羽ばたき、高度を取ったら後は滑空するに任せるというやり方をしている。こうすると、速度は遅くなるが労力は半分以下になるからだ。
パタパタ……スゥ〜〜〜〜パタパタ……
上がったり下がったり、雰囲気的には「へ」の字を何個も書いてるような飛び方。格好いいとはあまり言えない飛び方で壁際をのんびりと飛ぶ。早く帰りたいところなのだが、体力の方が底を突きかけている。いっその事、今夜は帰宅を諦めるのも手かな……と、後ろ向きの提案が心に浮かんだ。しかし、その後ろ向きになりそうな心をグッと飲み込み、彼女は羽を動かし続ける。
ゆっくりと西に傾いてゆく太陽、何時間くらいこうして見知らぬ土地をウロウロしているのだろう? 気を抜けば彼女の中に弱気が頭をもたげてゆく。しかし、彼女は立ち止まりはしなかった。立ち止まらなければ何処かにたどり着くと信じて。
そして、彼女はついに見つけたのだ――
「ばうっ!」
嬉しそうに彼女を見上げて吠えるタマ(ドーベルマン♂三歳)を……ついでにその両脇を歩く陽と綾音の変人カップルも。
「げっ!?」
お上品とは言えないうめき声を上げ、彼女は思わず陽の頭の上に飛び付く。編み上げた赤毛にギュッとしがみつき、そこから下を眺めれば、バウバウと嬉しそうに彼女を見上げるタマの馬鹿面が見える。
「うるさい」
吠えるタマを見下ろし、陽が低い声で一喝。途端にタマはしっぽを足の間に丸め込んで、クシュンとうなだれた。陽の表情はアルトから良く見えないのだが、綾音が「睨まないで」と怯えているところを見ると、どうやらよっぽど怖い顔をしていたのだろう。まあ、色々と追いかけ回された身からすれば、ざまー見ろと言う奴だ。
「今日のタマは様子がおかしくありませんか?」
綾音は陽に首輪をつかまれたタマを見ながら、不思議そうに首をかしげた。彼女が言うにはタマが塀を跳び越えて脱走したのはこれが初めてだし、無駄吠えもほとんどしない。今までそう言うことをしたことがないから、広い庭で半放し飼いの状態にしていたのだった。
説明を受けた陽がうんうんと何度も頷きながら、メモ帳を開いて見せる。そこに書かれているのは『春』の一文字だけ。もちろん意味のわからない綾音は、キョトンとした顔で陽の顔を見上げた。
左手でタマの首根っこを押さえている所為で、陽の筆談はいつも以上に端的だ。その端的な言葉で陽は綾音の疑問に答えた。
『サカリ』
「あう……」
メモを見た途端、綾音は途端に耳まで真っ赤にしてしまう。この程度でこんなのではいざというとき、どんな感じなのだろう? と、陽の頭の上から見守るアルトは、他人事ながら心配せずには居られなかった。
綾音が一言話すたび、陽が立ち止まってメモ帳に走り書きの返事をする。タマも陽の歩みに併せて歩くものだから、二人と一匹の歩みは非常に遅い。のんびりとした休日の夕方、まさに散歩と言った趣の歩み。その歩みは二人が駅前に戻るまで続いた。
「……どうしようかしら?」
陽の頭の上から駅を見つめて、アルトが呟く。
陽達演劇部はGW中にも練習があり、明日も大学に行くはず。だから、このまま陽にぶら下がっていてもアルトには帰れるだろう。しかし、それは最短でも明日の話だ。
それに引き替え、ここで陽の頭から飛び去り電車に乗れば今日中に帰れる。しかし、電車に乗って帰れば最寄り駅からアルトにまで一時間以上歩いて帰らなければならない。楽をしたいなら前者、早く帰りたいなら後者と言う事だ。一長一短の選択にアルトは悩んだ。
悩んでいるうちに陽はその足を一軒の店に運んだ。駅のすぐ隣に建てられた全面ガラス張りの大きな建物、大きなガラスにはこれまた大きく『山脇書店』とペイントされている。
「まっ……陽が出るまでに決めればいいわよね……」
陽が一歩店に入れば、ヒンヤリとした空調の風が汗と犬の匂いに包まれたアルトの体を優しく包む。その空気に包まれ、綾音と共に置き去りにされ、恨みがましく店内を見つめるタマに、アルトは目の下を指で引っ張り舌をぺろっと出してみせる。いわゆるアカンベー。
今日、高見直樹は疲れていた。
彼の普段のアルバイトは夕方六時から夜十時閉店までの四時間、仕事の内容も割と暇な旧市街外れの支店での返本作業だ。それが今日は朝一番十時前から働いている。しかも、住宅地ど真ん中の駅前にある支店は普段の支店よりも忙しさが段違いで、さらにやってる仕事はレジうち。
この店で働いている正社員の一人が事故で入院してしまったのだ。命に別状はないのだが入院期間は二ヶ月、その間新しい人を入れるのではなく手の空いてる支店から順番に人を廻す事で対応する事になった。そこで第一番手として本来なら昼間にいないはずの人手、学生バイトである直樹に白羽の矢が立った。愛車はチューンに金をかけたいし、ガソリン代も折からの中東情勢を受けて値上がりする一方。あまり裕福とは言えない学生にとって、その決定は渡りに船だった。
「ありがとうございます」
紙袋に包んだ雑誌を女性客に手渡し、頭を大きく下げる。あまり経験のないレジ作業でも大きな支障なくできるのは、高校時代に貴美がバイトしていた喫茶店を時々手伝わされていたおかげだ。それでも慣れない作業は心身両面に少なくない疲労感を与える。
「ふぅ……」
溜息一つ、人のいなくなったレジ前から店内へと視線を廻す。普段働いてる店よりも店舗規模は大きく、広い店内に客の姿が消える事はない。少なくない客が向き合う書架を多岐にわたる本が埋めていた。覚え切れていないレイアウトを案内表示と渡されたメモだけを頼りに対応というのも疲労感を増す一因だ。
そんな慣れない仕事もあと三十分程度で終わり。このまま、何事もなく終わればいい。
トゥルルル……トゥルルル……
直樹の甘い思惑を打ち破るのは、十年選手の古いFAX電話の控えめな呼び声。液晶も付いていなければナンバーディスプレイとかにも対応してない古びた電話だ。そちらを振り向き、受話器を持ち上げる。
「毎度ありがとうございます、山脇書店ひ……南駅前店、高見です」
つい出そうになるのはいつも働いている支店の名前、それを慌てて言い直すと妙な早口になる。それが彼に変な緊張感を与えた。
『なお? 修行が足りてないよ?』
しかし、受話器の向こうから聞こえる声が聞き慣れた恋人の声となれば、逆に気が抜けてしまう。
「……吉田さん? 今、仕事中ですけど」
『知ってる、私もまだ仕事中だし』
じゃぁ、電話なんかして来ないで欲しい、どうせ大した用事でもない癖に。恋人が恋人の電話を受けているとは思えない気持ちを心の片隅に覚える。
『なんよ? 彼女が電話してきたら……いかんよね、仕事中なんだし』
受話器を手で押さえ、店内に背を向ける。声は出来るだけ控えめに。ボソボソといった感じを前面に出しながら、「切りますよ」とだけ貴美に伝える。
『本、買ってきてよ。今朝頼もうと思って忘れてたん』
猛烈に嫌な予感を感じながら、彼は「何?」と尋ねた。
『THE・少年愛スリー』
予感は当たっていた。
がちゃん! 速攻で電話を叩き切る。
「誰から?」
「悪戯電話です」
電話対応でレジの対応が出来なくなった直樹に代わり、レジには女性フリーターが入っていた。その彼女に直樹はきっぱりと言い切る。その言葉を彼女は「困ったもんだね」と素直に信じている様子。それに対してちょっぴり罪悪感。しかし、その罪悪感をかみしめるよりも先に、電話が再び鳴る。電話へと手を伸ばすフリーターを手で制して、直樹は再び電話を取った。電話の主は誰だかわかりきっているのだから。
『店長出せ』
案の定。貴美は直樹が挨拶をするよりも先に不機嫌な声をぶつけてきた。
「……どうしてですか?」
『客が電話してんのに、叩き切るような店員を飼育してるから』
「社員割引を期待して、人にエロ漫画買ってこさせるような人は客じゃないです」
『ともかく、買って来なきゃ晩ご飯、お茶漬けだから』
がちゃっ!
今度は貴美の方が電話を叩き切る。きーんと痛む耳から受話器を外して、じっとそれを見つめる。どうしてこんな人を好きになっちゃったのだろうか? と自身への疑問で頭がいっぱいだ。
「またイタ電?」
「…………いえ、彼女が本を買って来てって」
受話器を元に戻し、直樹は答えた。窓際隅っこに置かれたFAX、周りのガラスには送られてきたFAX用紙がぺたぺたと貼られ見栄えが良いとは言えない状況だ。視線をそこに移して、大きな溜息を一つ。買って帰らなきゃ本当に夕飯をお茶漬けにされてしまうのだろうな、と思うと頭が痛くなる。
「そっか、じゃぁ、高見君、もう上がって良いわよ。もうすぐ、宮宇地君も来ると思うから」
そう言ってくれるフリーターのお姉さんに「お疲れ様」とだけ言い残し、直樹は狭いレジの囲いの中から抜け出した。正直の所、気が重たい。これが普通の、極端に言えば嘆美なお兄様が裸で抱き合ってるような漫画ならまだ良い。嫌だけどまだマシと言うところだ。しかし……
「うわぁ……やっぱり」
少し隔離されたような所にあるその手のコーナーに行けば、貴美の言っていた本は平台に並んでいた。並べられる表紙は直樹の予想通り少女とも少年とも付かない子供のイラスト、モロというわけでもないが本屋の店員ならこれが何の本かはすぐに理解できる。
彼がこの手の本を買うと、まず最初に直樹自身が「そう言う趣味の人」と思われる。もちろん否定し「彼女の」という……と、どうなるか?
「ああ、やっぱりね」
十人が十人、こういう態度を取られるのだ。ドチビの自覚がある直樹にしてみれば、こういう態度を取られるのは我慢できないところだった。しかも貴美の言動を見るにつけ、そう言う側面を真っ向から否定できないところも辛い。
「はぁ……やだなぁ……」
ポン
直樹の肩に軽い振動が走ったのは、彼がエロ漫画の書架の前で深い溜息をついたのとほぼ同時だった。
貴美は自分にショタっ毛がある事は自覚している。『男同士のマンガ』を買う時もそう言う奴を買う事が多い。だからといって小柄で何処か少年臭い外見を持つ青年を好きになったと言うわけではない……と、自分では思ってる。それと同時に直樹が自分に対してそう言う偏見を持っている事も自覚済み。判っててやっているから、余計タチが悪いというのもちゃんと自覚済みだ。
「一割引も馬鹿になんないんよ」
悪戯な笑顔を浮かべ、叩き切った電話をチョンと突く。突いた電話はレジ横にある古い黒電話ではなく、事務室に置かれた少し新しいFAX電話だ。店の佇まいと打って変わって妙に設備だけは新しい喫茶アルト。新しい物好きなのは真雪、清華、美月と三島家女三代の伝統らしい。
事務室のライトを消すと、窓のない倉庫兼用のそこはすぐに薄暗くなる。貴美は薄闇の中に鎮座する荷物達に別れを告げ、店長一人が廻すフロアに向かった。数秒後、戻った彼女を出迎えたのは西の空から差し込む赤い夕日とそれをバックにパイプを磨き続ける老店主だった。
「ごめん、お客さん、来た?」
老店主に頭を下げ、カウンターの向こう側と足を進める。現状客が居ない事を一度確かめると、ストゥールへ。営業人格のスイッチを切ってそこに腰を下ろした。
「いいえ、全然です。連休の初日ですからね」
穏やかな笑みと共に返された言葉に貴美は一安心。安心してしまった後で安心するのもおかしいなと苦笑いを浮かべる。
「今日、やけに静かでしたよね? お店」
「アルトが居ませんから」
和明の言葉に貴美は「ああ」と軽くうなずいた。あの妖精は貴美の口車に乗って、今頃良夜達のデートをのぞき見しているはずだ。どうせ良夜の事だからたいしたことはやらないだろうが、やらなければやらなかったでからかう口実になる。と思って貴美は追い出したわけだが、どうなっているのやら……
「アレは見えなくても賑やかな物なんですよ。見えるともっと賑やかでたまりませんがね……私の白髪、半分はアルトの責任ですよ」
見事なロマンスグレーを右手で書き上げ、老店主は穏やかに微笑む。彼が懐かしむ過去はおそらく自分が生まれる以前の物、貴美は直感的にそう思った。
カラン……
思った同時に喫茶アルトの聞き慣れたドアベルが鳴る。反射的に上げた目に見えたのは、何処か疲れ果てている青年と黒髪美しい女性の二人。
フロアは夕日の赤が鮮やかに染め上げていた。何処か寂しげな赤だった。それが、二人が帰ってきた途端、その赤が珊瑚のような色へと変わってゆく。
「お帰りなさいませ、ご主人様、とか言ったりして?」
「うるせえ、ブレンド、アイスな」
「それと、ミートソースパスタのセット、二人前ですっ!」
ウィンクと共に慇懃無礼な態度で出迎える貴美とそれを笑いながらいつもの席に向かう良夜と美月。それは喫茶アルトのいつもの風景だった。
「まだ、少しピースが足りていないようですけど……ね」
和明が小さく呟いく。彼の呟き通り、一番賑やかなのは、未だ帰還せず、だった。
そして十分後、良夜と美月は帰ってきた時とは比べものにならない早さで店を出て行った。取り残されるのは、さすがに不味かったと顔色を変えている貴美といつも通りの表情でパイプを磨き続ける和明の二人だけ……
「マズッた……そんなにドジとは思わなかった……」
どこで落としたのかも判らない、そんな状況に貴美の顔は血の気が引いて真っ白け。その貴美の頭をポンと和明のしわがれた手が一度叩く。
「致命的なところで妙に抜けてますからね……妙なところでは妙に知恵が回るのですが……」
「ごめん……私が変なことさせたから」
貴美は彼女自身、自覚できるほど神妙に頭を下げた。その下げた頭を和明の手は優しく包み込むように撫でる。
「大丈夫ですよ、この程度でどうにかなるくらいなら、私の髪はもう少し黒いですよ。それに……」
優しい笑みを浮かべながら、老人は自らの髪を指差しす。そして、彼はほんの少しおどけた表情を見せた。
「どうにかなるくらいなら、私がどうにかしてますから……半世紀くらい前に」
西の空に日が沈み、東の空は夜の装い。イベント盛りだくさんのゴールデンウィーク初日はもう少しだけ続く。