散歩(2)
 アルトは犬が嫌いだ。犬という生き物は何故かアルトを追いかけてくるように出来上がっているらしい。見えているのか、それとも鋭敏な嗅覚で彼女の存在を察知しているのか、それは彼女にも判らない。一つの事実として、犬は彼女の存在を認識し、そして何故か嬉しそうに追いかけてくる。で……
「どうして追ってくるのよ!」
 今、彼女は犬に追いかけられていた。それもドーベルマンっぽい感じの奴。その口はアルトの小さな体などパクッと一飲みできそうだし、優れた身体能力はあまり高くないアルトの滞空高度までその口を運ぶ。冗談抜きでアルトは命の危機を感じていた。
 全行程二十八キロ――大学最寄り町役場までの距離、現実はもうちょっと長め――の帰宅コースに強い衝撃を受けたアルトだったが、よく考えてみれば電車という乗り物があった。国道に沿った形で延びる線路を飛べばいやでも駅に着くし、そこから無賃乗車をやれば大した問題ではない……と言う事に、彼女は一キロほど、約一時間飛んで気がついた。
 嫌味なほどの快晴と五月だと言うのに二十度近くにまで上がった気温のおかげですでにドレスは汗がしたたるほど。二十八キロを歩いて帰るのならば汗の事など帰ってから考えるべき所だが、電車で帰るのならば適当なところでシャワーが浴びたい。それじゃ……と言う事で、アルトは何処かで水道を使わせて貰おうと思った。ついでに食べ物も調達したい。そう思って選んだのが、適当に目に付いた一軒の民家。
 国道から道一本入ったところにある純和風の大きな家は、丁度昼食時だったのか、焼きそばか何かのソースが焦げる良い匂いが漂う。その香は小一時間の運動で良い具合に減ったお腹を直撃。まるで誘蛾灯に吸い寄せられる虫のようにアルトはふらふらと台所の窓へと引き寄せられていった。
 土壁の塀は頂点を屋根瓦で覆われ高級感を醸し出す。どこのブルジョアのお宅かと思わせる雰囲気に、言いようのない怒りが沸き起こった。その塀のちょんと着地を決め、改めて周りを見渡す。見渡してみて確信。
「金持ちね……」
 木造平屋建て純和風住宅、有り余る土地を贅沢に使った庭には鹿威しのある池と天を抱くかのように枝を伸ばす松の木。どこからどう見てもお金持ちのお屋敷。
「あるところにはある物なのね……」
 そう言えば、あの女装お姉様も家は金持ちって言ってったっけ……演劇部の女形の顔を思い出しながら、ぐるっと広い庭を斜めに視線を走らせる。上質、重厚、それで居て華美に走らないのは主が成り上がりではなく、本物のお金持ちなのだと言う事を印象づけさせた。
 と、そこで交わる視線、相手は一匹のドーベルマン。玉砂利の上に寝転がっていた彼はアルトの視線を感じたのか、ピンと立ち上がった耳を数回振るわせ、体を起こした。しなやかな体を動かし始める。玉砂利を肉球が踏みしめ、がさがさという音を立てる。そのテンポが段々とアップビートな物へと変わって行き、彼我の距離が一メートルを切った頃には、立派なロックに成り上がる。
 熱い汗が冷たい物へと変わっていく。全知覚神経が最大級の警鐘を鳴らす。なのに体は凍り付いたように動かない。
 そして、彼は自らを黒い矢と化し塀に向かって跳上がる! サラブレッドを思わせる体が二メートル近い塀を優に跳び越えた。
 寸でと言うにふさわしいタイミングだった、アルトが塀の上から飛び降りたのは。彼の作った風がアルトのドレスを揺らし、獣臭が鼻腔を刺激する。
 ザッと音を立てて着地を決めると、彼はきっとアルトを見上げ、バウッ! と鋭い咆哮を上げた。
 その咆哮をスタートの合図に、アルトは弾かれたように宙へと逃げ出す。しかし、彼女の羽は人の背丈よりも少し高いところにまでしか飛び上がれず、速度も駆け足程度。身体能力の差は歴然だった。
 ドーベルマンが飛び上がり、凶悪な牙をアルトに剥く。それを右や左、上に下にと交わしながら、住宅街を無軌道に飛ぶ。
「犬は鎖にっ!!」
 やけっぱちになって叫んでみても、飼い主はその辺にいやしない。
 命がけのおいかけっこが今始まった。
「良夜! 覚えてなさい!!」
 何故か良夜が逆恨みされつつ……

 ガタン。
 ボーリングの球がレーン端に刻まれた溝に落っこちる。
「ふぇ……また、ガターですか? ……この床、傾いてるんじゃないんでしょうか?」
「そんな事はないですって。えっと……初心者は投げるよりも置くって感じの方が良いらしいですよ?」
 まるでグリーンの芝目を読むゴルファーのように、中腰になった美月はレーンを覗き込んだ。それを後ろから幸せな笑みにほんの少しだけ苦笑いを混ぜた良夜が見つめる。
 彼らは今、郊外にあるアミューズメントパークに来ていた。一階がゲームセンター、二階がボーリング場とビリヤード場で、三階がカラオケ。良夜が大学の友人達とちょくちょく遊びに来るところだ。出掛ける場所をきめあげた挙げ句、結局美月の「良夜さんがお友達と遊びに行ってるところで良いですよ」という優しさあふれるリクエストに基づいてここにやってきた。
「次、良夜さんですよ?」
 美月に促され、良夜はベンチから立ち上がった。まずは送風口から吹き出す冷風に手をかざし、手を乾燥させる。そして、帰ってきたボーリングの球を用意されていたタオルで丁寧に拭く……と言う一連の動作にどういう意味があるのかは知らないが、良くいっしょにやる友人がやっているのでそれを真似ている。
 やっぱり友人がやっていた仕草を思い出しながら、数歩の助走の後投球! ボールはコロコロと転がって――
 ガタン。
「わぁい、良夜さんもガターです!」
 大きな音を立ててガターに吸い込まれて行くボールを見送り、美月はパチンと手を叩いて大喜び。良夜は見た目だけは立派なフォロスルーでがっくりとなだれる。実は彼もまた思いっきり初心者だった。三フレームで二人合わせて二十ピン程度しか倒れていなかったりする。
「おっかしいなぁ……ボールが重いのかな?」
「そうですよ! ボールが悪いんですねっ! 私、変えてきます!」
 ベンチから立ち上がり、美月はスカートを翻す。そして、ハウスボールのコーナーに向かって駆けだした。その後ろ姿を見送りながら、良夜自身が一番感じていた。そう言う問題じゃないと……
「……アルトいねーと、呆けられねーな……俺」
 BGMのラップと人々の歓声、そして他のレーンからしか聞こえてこないのはピンが倒れる音。喧噪に包まれながら、喫茶アルトでコーヒーでも飲んでいるであろう妖精のとぼけた顔を、良夜は思い出した。

 で、そののんきにコーヒーを飲んでるはずの妖精さんは、未だ全力でのおいかけっこをやっていた。もっとも、全力なのはアルトだけで、犬の方は確実に手加減をしている。アルトの高度が落ちれば下から「バウッ!」と吠え上げ、アルトを急かす。アルトが再び高度を取れば追い越さない程度にのんびりと背後を追いかける。その速度はおおむね人が歩く程度って言うのだから、犬の手加減具合が良く解る。傍目――アルトが見えない一般人――には、気ままなワンちゃんがのんきに住宅街をお散歩しているようにしか見えない構図だ。
「ひっ……ひと思いに食い殺しなさいよ……この、馬鹿いぬぅ」
 国道から一歩入ったところにある住宅街を縦横無尽、右や左は言うに及ばず、塀を乗り越え壁をよじ登り……と言えば聞こえは良いが、要するに目茶苦茶に飛び回った所為ですでに方向感覚もグチャグチャ、体力ヘロヘロ。小一時間にも及ぶ追跡劇でアルトの気力体力方向感覚は皆無に近い状態になっていた。
 この一時間という物、アルトは考え得る限りの逃走手段を試してみた。人様の庭を突っ切り近道をしてみたり、木の中に隠れてやり過ごそうとしてみたり……しかし、このドーベルマンには通用しない。近道をしても何故かアルトが道に出たらそこで待っているし、立木の中に潜り込めば彼女が出てくるまで根元でおとなしく待っていてくれる。
「惚れた?」
 普段なら出てくるこんな言葉も、今日は切れる息と回らぬ舌のおかげで――
「ほひょは?」
 こんな感じ。彼女は犬に追われながら、見知らぬ住宅街をふらふらと飛んで逃げていた。しかし、それももう終わりの時間が近い。
 民家と民家の間、細い路地に飛び込んだ辺りで、なんとか維持していた高度も緊張の連続から来る疲労で限界に達した。落ちかけていたところを犬に吠えられても、彼女の羽は舞い上がるどころからその活動を止める。
 ぽてこん。
 僅かに気温よりも暖かいアスファルト、油とお日様の匂いがする道路の上に彼女は落下した。跳上がる気力など小さな体、どこを絞ったところで一滴も出てきやしない。
「…………覚えてなさい」
 深い深い青の上、アルトはゴロンと寝転がり空を見上げた。空が蓋を何処かに忘れてきたような快晴。そう言えば四月はあまり雨が降らなくてダムの水が少なくなってるとか言ってたような気がする。断水になったら営業に支障が出るだろうな……等と愚にもつかぬ事を思い浮かべてしまう。
 思考をかき消すようにドーベルマンのシェイプな顔がニュッと彼女の視野を覆い尽くす。良く見れば間抜け顔、犬らしく息の一つでも切らしていればかわいげがあるのに、奴は食後の午睡から目覚めたようなとぼけた顔をしていた。
「……何よ……」
 もはや諦めの境地だった。まさか自分の人生が犬に食われて終わりだとは、彼女自身、夢にも思っていなかった。食べられるのなら、あの妙に濡れた鼻の頭をストローでぶち刺して一矢報いてやろう。その決意をストローを握りしめる右手に込め、アルトは体内に残った僅かばかりの力をかき集めた。しかし……
 じーーーーーーーっ
 いつまで経っても奴は噛みついてこない。ただただ、何処か愛嬌のある顔でじっとアルトの顔を見つめるだけ。もしかしたら見えていないのかも知れないが、いずれにせよ噛みつく事はない。それどころか、まるでアルトにかしずくかのように頭を垂れる始末。
「……噛みつかない?」
 特に返事を期待したわけでもないが、恐る恐る声をかけてみた。やはり返事はなく、彼は鼻の頭を寝転がるアルトのすぐ横に押しつけるだけ。
 お互いにお互いを見つめ合う時間が五分ほど過ぎた。もし、これがもう少し広い路地なら車にひかれて一人と一頭はあえなくご昇天の運びになっていたかも知れない。そう思うと灰色の壁に囲まれたこの場所に、この犬が連れてきてくれたのかも……と思ってしまう。
「……乗れって言ってるのかしら?」
 五分の休憩で息も整い、羽の元気も少しは帰ってきた。帰ってきた最後の力を振り絞って、鼻の上に跳上がる。そこから短い毛を手がかりに頭の上にまで這い上がった。その間、犬はじっとおとなしく伏せたまま。やっぱり、乗せてくれるつもりだったのかと思うと、胸の辺りがじんわりと暖かくなる感じ。
「もしかして、良夜より紳士なのかしらね?」
 そう思ったのもつかの間。それはアルトが頭の上に寝転がった瞬間だった。奴は石弓に弾かれたように猛然と路地を飛び出していった。
「うっそ〜〜〜どこに行くのよ!!!」
 犬の全力疾走はアルトの全力飛行よりも早い。激しく揺れる頭と逆巻く向かい風の中、アルトの冷静な部分は彼女の愚かさを責めていた。
「ヒッチハイクより当てにならないに決まってるじゃない……相手、犬よ?」
 と。

 この日、良夜は美月の知らなかった一面を知った。美月は意外に負けず嫌い。
 最初のゲームは二人合わせて四捨五入してギリギリ百に乗るスコアだった。ちなみに四捨五入する桁は十の桁。そんな低レベルの争いではあったが、最終フレームで三つピンを倒した良夜が二ピン差で美月に勝利を収めた。
「むぅ……」
 コンピュータがはじき出した最終結果を美月は腕組みして眺める。
「良夜さんの勝ちですね……」
 苦々しく呟いた次の瞬間、彼女は受付に向けて走り出していた。
「もう一回ですぅ〜〜〜!!」
「ハイハイ……子供だよな、あの人……」
 長い髪と長いスカートをなびかせ受付へと向かう美月を、良夜は微苦笑で見送る。多分、そこが彼女の最大の魅力であろうとも思う。もしかしたら、あばたもえくぼって奴かも知れないけど。
 そして、良夜はここから三連勝、合計四連勝を納めた。
「良夜さん……」
「いっいやぁ……なんででしょうね?」
 大きな黒目に涙を浮かべて美月が見上げる。そこから視線を引きはがし、良夜はスコアーを表示するモニターへと視線を向けた。今度は一の位で四捨五入しても百になるスコア(二人合計だけど)。やればやるたびに差は開き、四回目には美月にダブルスコアにまで達した。
「……おとなげがありません……譲るくらいの優しさが欲しいです……」
 美月は良夜のお腹の辺りを弄りながら、ぶつぶつと口の中で文句を言い続ける。
 良夜にその優しさはあった。間違いなくあったのだ。ただ、そこがボーリングというゲームの面白さ。勝ちたい勝ちたいと思う美月の肩には余計な力がこもりガターを連発、逆に負けちまっても良いやと思う良の肩からは良い具合に力が抜けて、下手は下手なりにちょっとずつの進歩。その差が四戦目のダブルスコアーに出ていたのだった。
「私は怒りました……もはや、今日は勝つまで帰らない覚悟ですっ!」
「……マジですか?」
「マジです。つきましてはお腹が空きましたので、表のハンバーガー屋さんでハンバーグを買ってきて下さい。飲み物はコーヒー以外で良いです」
 なにがしかの決意を込めた低い声、美月はきっと涙を拭く。そして、彼女はレーンという名の戦場へと向かうのだった。
「……わざとガターに投げてみようかな……」
 呟きながら頭をかく。予定ではお昼は近くのハンバーグレストランって事にしていたのだが、それが何故かハンバーガーに早変わり。冗談としては良くできているのかも知れない。
 なお、この後、本当にわざとガターに投げた良夜は美月の機嫌をさらに悪くするのだった。

 あれから二時間後、アルトは見知らぬ土地に居た。もちろん来たくて来たわけではなく、あの馬鹿犬に連れてこられた……挙げ句に捨てられた。
 全力疾走する犬の背から見る地面は、飛ぶように背後へと流れる。それは疾走する車の屋根から飛び降りた事もあるアルトをして、躊躇させる物だった。しかし、それでもアルトは意を決して飛び降りた。このままではどこに連れて行かれるか判らないからだ。
 舞い上がる体。そして、咥えられる体。
「うっそぉ!!」
 丁度フリスビーをキャッチする要領だった。行きすぎる体を無理矢理ひねって宙へと踊らせ、パクッと咥える。それは一瞬の出来事。閃光のような動きで彼はアルトの体をとらえ、来た道を引き返してゆく。
「離して……もう逃げないから……」
 絶望の涙が頬を伝う。ほとんど悪い男に捕まった女の気分。このまま一生慰み者か……と思わず悲劇のヒロインの気分に浸ってしまうところだ。
 で、二時間。咥えられたまま、アルトは町中様々なところを散歩させられた。田植え間近で耕され始めている田んぼ、目的地だったはずの駅や本屋だとかスーパーだとか並ぶちょっとした商店街等々……犬は様々な場所を気ままに駆け回った。アルトを咥えたまま。
 それは地獄と言っていい二時間だった。アルトはすぐに乗り物酔いをするタイプの妖精だ。良夜の頭に座っていて酔った事も少なからずある。それが全力疾走する犬の口にくわえられて二時間、それはそれは想像を絶する乗り物酔いになっていた。
 ひと思いに殺せ、アルトがそう願わずには居られなかった時間は唐突に終わりを迎えた。ひと組のカップルの登場によって。
「たま? なんでこんな所にいますの?」
『大脱走』
 ポチャ系美人とメモ帳を掲げる女装美人のカップルは言わずと知れた、河東綾音と二条陽。その時はアルトを咥えたままだったドーベルマンは二人を視認するやいなや、アルトの事など最初からなかったかのようにポトッと地面に落として駆けだした。
「犬は鎖!!」
 ぐったりと地面に横たわり、それだけを怒鳴る。それと道のど真ん中に転がっていた体を誰かに踏みつけられぬよう端へとはうように動かす。それだけがアルトに出来る事だった。前者の方は全く意味をなしていないのだが。
「全く……迷惑な飼い主だわ……」
 溜息一つ、もう何処かへと歩いていったカップルに向けてこぼす。こぼして気づく。
「……しまった、アレに引っ付いてれば明日、帰れたんだわ……」
 気づいた時には二人はすでに何処かへと消え去っていた……もっとも、気づいたところで今の彼女に二人に追いつくだけの体力は残っていなかったのだが……
 喫茶アルトまで後二十四キロ、明日の方向はまだ判らない。
「それから、犬にタマはないわよ、犬にタマは」

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