散歩(1)
今年のゴールデンウィーク初日は土曜日だ。そして、土曜日は我らが喫茶アルト貧乳の方――
「誰が貧乳の方なのでしょうか?」
訂正、黒髪の方がお休みの日である。彼女の本日のご予定は一週間分溜まった洗濯物をやり終える事、四月末だというのにお空は一足先に五月晴れの装い。洗濯物を片付けるにはまたとない機会だ。それが終わったら、現在お付き合いをしている男性とのデートが待っていた。
そして、そのお付き合いしている男性は……と言うと、喫茶アルトのいつもの席でタウン情報誌とにらめっこをしていた。
「どこに連れて行ったらいいのかいまいちピンと来ないって訳ね?」
「うるさい、黙れ」
タウン情報誌とにらめっこする良夜の肩口、そこにちょこんと座ったアルトが呆れた声を出した。ちなみに現在当日の朝九時三十分、美月の洗濯が終わり次第お出かけの運びになっているが、未だどこに行くかは未定だったりする。
当初、良夜は直樹にでも聞いてみようと思っていた。去年一年、貴美とデートに出掛けていたのだから、その手の情報を自分よりかは多く持っているはずだからだ。しかし、今日、彼はこの場にいない。もちろん、部屋にも居ない。今、彼はバイト先の本屋にいる。何でも、他の支店で唐突に欠員が一名出たらしく、彼はその欠員の変わりに朝から夕方まで、正社員と同じ時間でのアルバイトをやる羽目になったそうだ、と言う話を今朝になって聞いた。出来れば昨日のうちに聞いておきたかった。
他の友達はみんな独り身だし、聞いたら殺されるかも知れないし……となると、相談する相手は一人しかいない。それは肩の上から良夜の持つタウン情報誌を覗き込んでいる妖精さん。
良夜はちらりとアルトの顔に視線を向てみた。我が事以上に真剣な表情、ストローを上下に振りながら、彼女はまじまじと記事に目を通している。
そして、良夜はアルトに話を持っていった事を激しく後悔していた。未だに出掛け先が決まらないのは、何を隠そう、彼女にもその一因があったからだ。
「映画」
「ろくなのがないわ」
「カラオケ」
「安直」
「ドライブ」
「運転するの、美月だけじゃない。情けない」
「買い物」
「しょっちゅう行ってるでしょ?」
「……ホテ――悪かった冗談、マジで冗談だから、目にストローは止めて。洒落になってないから」
「私の目の黒いうちは和明に顔向けできない真似はさせないわよ……金色だけど」
何を提案しようとも彼女はうんと言わない。もっとも、アルトに相談しようとしたのが間違いだったのかも知れず、それを考えれば全て良夜の責任とも言える。ともかく、この調子では出掛けるまでに目的地が決まらないという間の抜けた事態に発展する危険性をはらんでいた。
「浅間君」
どれが良いかと良夜は悩み続ける。知恵熱寸前の頭上から澄んだ声が聞こえた。ん? と視線を上げればそこには顔に営業スマイルを貼り付けた吉田貴美が立っていた。
「美月さんとデートですよね? アレ、どこにいます?」
「俺の右肩」
落ち着いた声に小さく応えると、貴美の長い指がひょいとその辺を握りしめる。つかんだ手の感触に貴美自身が一番びっくり。彼女は握りしめた手をまじまじと見つめながら、その不思議な感触に首を何度もひねった。
「あれ、つかめた」
「顔面だ、顔面、目茶苦茶もがいてるから」
そう、貴美がつかんでいるのは哀れ妖精さんの首から上だけ。つかまれたアルトの方は溜まった物じゃない。文句を言う声も貴美の白い指に阻まれ誰にも届かず、彼女の腕の腕くらいはある小指を両手で押し広げようとするもかなわず……細い手足と羽をじたばたじたばたともがかせ続け……る事なく力尽きた。
「死にかけてるから離してやれよ……」
力尽きたと思えばまたもやじたばたと暴れる。生きている事は間違いなさそうなのだが、休憩を挟むたびに休憩の時間が長くなり、もがく時間が短くなっているような気がする。
「離したら逃げそう……とにかく、美月さんとのデートを楽しんでおいでよ。これはこっちで処理しておくから」
「処理って……殺すなよ、目覚めが悪いから」
大丈夫大丈夫とお気楽に左手を振る貴美、彼女を見送る良夜は思わず心の中で――
「吉田さんってもしかして良い人……?」
とつぶやくのだった。
そして、彼は半日後、それが勘違いであった事を知る。
さて、貴美にキッチンへと強制連行されたアルトちゃん、もちろん、彼女は怒り心頭に発していた。
「貴美! 殺してやるっ!!!」
貴美はアルトをキッチンに連れ込むと、その握りしめていた手をパッと離した。自由になればこっちの物。出来る限り見えない人を刺すのは止めておこうと心がけているアルトではあったが、今日という今日は堪忍袋の緒が切れた。むち打ちになりかけた首をごりごりとひねりながら、ストローを大上段に構える。狙う先はその風船のように膨らんだ大きな乳房……じゃなくて脂肪のかたまり。常々刺したらしぼんじゃうんじゃないか? と思っていた疑問を今日こそ確かめてやるつもりだった。
しかし、その一撃は貴美の一言によって寸前で止められる事になった。
「アルちゃん、馬鹿正直に付いていってどーすんよ?」
「……どういう事よ……」
怪訝な顔を見せながら、ストローで軽く乳房を突く。下手な提案だったら、力一杯刺してやるとの気概を常備しながら。
「乳を触るな、ここはなお専用なんよ。良い? アルちゃんが素直に付いていったらりょーやん達なんもせんよ? ここはこっそり付いていくしかないっしょ?」
形の良い胸を押さえながら貴美がする提案に、アルトもなるほど……と、軽く手を叩く。
「まあ、りょーやんの事だからホテルにしけ込むとか、やれっこないだろうけど……キスするとか、抱きしめるくらいはやるかも知れないし。そこを押さえた方が面白いじゃん?」
貴美の提案はさらにエスカレート、彼女はアルトがその話に乗ってこないとは微塵も考えていないようだった。そして、アルトもそれに乗らないような女ではない。
にやぁ……
もし、この場に良夜が居合わせたならば「邪悪な微笑み。悪魔か悪の組織の女幹部」と表したであろう笑みが、アルトの顔に浮かび上がる。それと同じ種類の笑みが貴美にも浮かび上がり、アルトがグイッ! と親指を立てれば、貴美はブイ! とピースサインを送る。貴美からはアルトの姿が見えていないはずなのに二人の息はぴったりと重なり合っていた。
しかし、答えは簡単に出せるわけではないアルトは貴美の胸を一度だけ突き、さらなるプランの説明を促した……つもりになった。
「うんうん、やっぱ、協力してくれる?」
「どうやって付いていくのよ……って所は私が考えるわけ?」
微妙にすれ違う心と心。美月相手にやっているのと同じく、アルトは貴美の胸を二度突く。突けば貴美は「あれ、やんないの?」と落胆の表情と声を見せた。
そんな感じですれ違い続ける事十数分。二人は美月が洗濯物を全て干し終えるまで、キッチンの隅で誰にも判らない漫才を繰り広げるのだった。
そして三十分後、アルトは美月のハンドバッグの中にいた。
お財布と携帯電話、他にちょっとした化粧道具なんかを入れるとすぐに一杯になってしまう小さなハンドバッグ。その中でアルトは体を折りたたむようにして、まるでコントーションの芸人になったような感じで潜り込んでいた。ここなら良夜も覗き込んだりはしないだろう。どうせ出掛けるのは美月の車、車内に入ったら隙を見つけて抜け出せばいい、と言う貴美の発想だったのだが……
「……まさか、膝の上に載せたまま運転するとは……邪魔じゃないのかしら?」
寝違えそうになる首をバッグの口に向けると、首の辺りからぎちぎちという嫌な音がする。その音は聞こえないつもりで、視線を僅かに開いた隙間へと向ける。そこから見えるのは、美月の貧相な胸元とその向こう側の幸せそうな笑顔だけ。自称姉としてはその笑顔に安堵百グラムに嫉妬小さじ一杯の複雑な感情を抱いてしまう。
まあ、それは良い。小さじ一杯分の嫉妬は心の奥にしまい込む。問題は、どうやってここから逃げ出すか、だ。
良夜が居なくなれば良いのだが、狭い車内で良夜がいなくなれる場所は皆無。二人仲良く色々と会話をして居るんだから、良夜の視線が何処かよそを向く事もない。やけに遠く聞こえてくる声は二つとも朗らかで幸せそう。その幸せそうな会話を聞きながら、自分はハンドバッグの中で赤い皮財布さんと抱き合って盗み聞き。一時のテンションで貴美の口車に乗るんじゃなかったと後悔しきり。
そんな苦行の時間が十五分ほど続いた。いい加減、薄暗くて蒸し暑いハンドバッグにアルトが飽き飽きし始めた頃だった。
「あっ、そこの自販機で止めてくれません? 喉、乾いて……」
「それじゃ、私も……」
「良いですよ、ジュース代くらい」
道路端にある自販機の前に美月が車を止めると、一足先に良夜は車から降りた。そして、続こうとする美月を片手で制し、彼女に欲しい物を聞き、自販機に走った。
ここで、さっきアルトでコーヒー飲んだばかりなのに! と言うツッコミを入れるほどアルトは良夜との付き合いが浅くはない。
「……緊張して喉が渇いてきたのね……これだから童貞は……」
的確に良夜の思考を見抜き一度嘆息。すぐにそんな事をしている暇はないと、僅かに開いたハンドバッグの隙間から顔を出し、後部座席へと急いだ。ハンドバッグの中からハンドルに飛び移り、そこから美月の頭を飛び越え、後部座席に鎮座するぬいぐるみソプラノちゃんの頭に着地。彼女のふわふわな体と背もたれの隙間に体を滑り込ませ、頭だけをそこからひょっこりと出す。車が揺れるたびにソプラノちゃんの大きな体も揺れ、アルトの体をシートといっしょに挟み撃ちにし続ける。
それでも顔だけは引っ込める事はせず、アルトは運転席と助手席の間で交わされる会話に耳を傾けた。私、何やってんだろう? 的な疑問を並べ立てる理性を力ずくで封印して。
大学の事、喫茶アルトの事、その他諸々、知ってる話や知らない話を聞くのは、嫌いではない。普段だったらそこに自分も参加できるという部分を取っ払えば、喫茶アルトでやっている事とあまり変わりはしない。
「ある意味、いつも通りよね……」
コーヒーがなくて、居心地の悪いぬいぐるみとシートの間に挟まれている、と言う部分にも目をつぶる必要があるのだが。一時のテンションで馬鹿な事をするのは止めよう、彼女は軽く反省した。
「アルト……」
不意に名前を呼ばれれば、半分霧散しかけていた意識が会話に集中していく。それと同時に彼女の鼓動もドクンッ! とワンテンポ高まった。
「アルト……今日は付いてこなかったんですね?」
「なんか、吉田さんが説得したって言ってましたけど……」
「邪魔とか全然ないんですけどねぇ……」
「……邪魔って言えば物凄く邪魔なんですけど……」
「もう、酷いですよ。アルトに言い付けますね」
「あはは……勘弁して下さい。刺されますから」
美月が脹れた声を上げると、良夜が冗談めかした口調で言い訳をした。そして、二人で声を合わせてひとしきり笑い会う。それをぬいぐるみの陰に隠れ盗み見をしている自分という物を、アルトは寂しさと共に強く自己嫌悪するのだった。
「もう、良いわよね……」
彼女は小さく呟く。
ここで良夜の頭を蹴っ飛ばしでもすれば、彼は度肝を抜かれる事だろう。ぎゃーぎゃーと一通りの文句を言うのも、聞いてて楽しい。ちょっぴり幸福な未来にアルトの小さな胸が膨らむ。
意を決して隠れていたぬいぐるみの影からアルトは飛び出した。そして、恋人と楽しげに話す青年の名を呼ぶ。
「良――」
「――夜さん、窓、明けても良いですか?」
二つの「良夜」はほぼ同時。しかし、良夜が耳に出来たのは傍らに座っている女性の声だけ。もう一つの声は運悪く彼の耳には届かなかったようだ。
「良いですよ」
その証拠はたった一つしか返されない返事。返された返事に、美月の指先がパワーウィンドウのスイッチへと動く。弱い振動音と共に四つの窓、全てを一度に開け放たれる。時速六十キロを少し超えた速度で走る車、巻き込む風は風力十六メートル以上。それを縮尺十分の一は受け止めきれるはずがなかった。
舞い上がる小さな体。咄嗟に伸ばした手は、先ほどまで彼女をかくまっていたソプラノ女史のわずか数ミリ上空をむなしくつかむ。
「あれ……?」
その声が空に消えた時、彼女の体は車中どこにも見受けられなかった。
ぽつーん……
パステルカラーの軽四がアルトの視野からどんどん遠ざかってゆく。どんなに急いでも人の駆け足程度にしか速度が出ない羽では、どうやってもあれに追いつく事は不可能だ。
突風にも似た風がアルトの体を巻き上げ、彼女は後部座席の窓から外に放り出された。運良く後続車にひかれる事もなく、地面に叩きつけられる事もなく、アルトは宙をくるくると舞いながらもなんとか減速する事が出来た。ただ、出来た時にはパステルカラーの軽自動車が遙か遠くに霞んでいた、とそれだけの事だった。
周りを見渡してみる。片側に車線の太い国道、近くの看板を見上げれば喫茶アルトの前から繋がる国道と同じ番号がそこにあった。
「OK……ここをまっすぐ歩けば家に帰れる訳ね……まっすぐ……まっすぐ……二十八キロ……二十八キロ……にじゅうはちきろぉぉぉ???!!!」
いつも余裕という言葉を背後に背負って生きる事を心がけている彼女も、この数字がもたらす衝撃に抗する事は出来ない。その数字の持つ重みだけで彼女の滞空高度が一割ほど削り取られるほどだ。
アルトは人の縮尺十分の一の体格しかない。縮尺十分の一と言う事は、彼女にとって二十八キロは人の二百八十キロに相当する……ってのはまあ言い過ぎかも知れないが、それに近い物があると思ってくれてかまわない。前に二十キロ離れたところで忘れられた時は、帰宅するのに三日の期間が必要だった。そこから逆算すれば今度は四日程度か……
「飢え死にするかも……」
春の暖かな日差しの下、気の早い逃げ水が浮かぶ道路を彼女は眺めた。その背中に、一筋の冷たい汗を背負って。
両側に並ぶのはファミレスだのコンビニだの電気屋だの……疲れればその辺で休憩を入れればいい。大丈夫、死にはしない。
ともすればうなだれそうになる頭をグイッと正面に向け、彼女は羽を大きく広げた。喫茶アルトに向けて……
かくして、アルトの命がけの散歩が始まった。