アルトの一日(1)
文字盤に妖精のイラストが描かれた目覚まし時計から、ピッピッピッピッと小さな電子音が早朝の喫茶アルト二階に響き渡る。その目覚まし時計が一生懸命起こそうとしている主、三島美月は大小様々なぬいぐるみが置かれたベッドの上で、狭っ苦しそうに小さくなってすーすーと心地よさそうな寝息を立てていた。彼女の周りに散乱するぬいぐるみは全て妖精をかたどった物であり、中には全身が毛羽立ち禿げ始めているような古い物から、未だ値札が付いたままと言うような新品まである。
モゾモゾと、布団(やっぱり妖精のプリントがなされたシーツが掛けられている)から手を伸ばし、目覚まし時計の頭を叩き、彼をその役割から解放する。
「・・・寝むぅ・・・」
毎晩十一時過ぎにはベッドに潜り込むし、睡眠が浅い方ではないのだが、彼女の一日は毎回この言葉から始まる。寝癖の付いた長い黒髪、少々着崩れその小さな胸元がはだけたパジャマもそのままに、ベッドの端に腰を下ろしボンヤリとする。これも毎日の日課である。本当ならあと三十分は眠っていられるのだが、彼女は毎日この時間に起き、その三十分をベッドの端っこで過ごす。こうしないと頭が働かないし、彼女の唯一の同居人である祖父は、彼女が万が一寝過ごしても起こしにも来ないからだ。
「気持ちよさそうに寝てましたから」
嫌みでも皮肉でもなく、優しい穏やかな笑みでそう言うだけである。流石に学校に通っていた頃は、学校に遅刻する時間になる前には起こしに来ていたが、休みの日などは彼女が夕方まで寝ていたとしてもこの調子である。例え、店を手伝うことになっていたとしても、である。だから、逆に絶対に自分で目を覚まさなくてはならない。
ちなみに同居妖精も一匹いるのだが、ドアを開けて部屋にはいることが出来ないのでやっぱり当てにならない。
まぶしい朝日をたっぷりと浴び、ようやく頭が起動し始めると、そこから降り、大きな姿見の前で髪をとかす。飲食店勤務でこの長髪はどうなのだろうか、と本人も常々思っているのだが、産まれたときから毛先を整える程度にしか切ったことがない髪を切る踏ん切りも付かず、また、誰からもクレームが来たことがないのを良いことに伸ばしっぱなしにしている。失恋でもすればばっさりと切ってしまえるのかな?と思うが、残念なことにそう言う機会は未だ一度もない。失恋する前には恋愛をしなければならないからだ。
やっぱり妖精プリントのパジャマを脱ぎ、喫茶店アルトの制服に着替える。
喫茶アルトの制服は黒いスラックスに白いワイシャツ、臙脂色(えんじ)の蝶ネクタイ。女性が着るような服ではないが、祖父が数十年それで通しているので、彼女もそれに習っている。蝶ネクタイと髪留めの紐を結ぶと、頭は完全に営業モードに切り替わる。ただのボケねーちゃんではないのだ。
「さぁ、今日もがんばりましょう!」
鏡の中の自分に話しかけ、颯爽と部屋を後にする。そして帰ってくる。
「・・・エプロン」
やっぱりただのボケねーちゃんでした。
腰から下につけるタイプのエプロンを身につけながらとんとんと階段を下りると、祖父はすでにお気に入りの窓際の席に腰を下ろし、ブライヤーパイプをくわえていた。その席は良夜が始めてきた日に勧められ、以来、半ば良夜の専用になっている席。火はついてなく、ただ、パイプの吸い口をくわえているだけ。三年間におよぶ美月の嫌み愚痴泣き落とし、最終的には店内に「禁煙」とデカデカと書いた張り紙をする所にまで至った説得がようやく実を結び、この一年、パイプに灯がともったことはない・・・はずである、隠れて吸って居ない限りは。正直、美月は全然信用していない。
この血筋は祖父と父、二代にわたってのパイプ愛好家であり、美月が親元を離れここで祖父と二人暮らしなのも、父が大の嫌煙家である美月から離れたかったという側面もあったりする。
「おはようございます、美月さん」
「おはようございます、お祖父さん」
お互いに軽く頭を下げた後、美月はじーっと祖父の手に持つパイプを見つめる。もちろん、その視線には『火はつけてないでしょうね?』の気持ちをたっぷりと含めて。
しかし、祖父はごくごく自然な手つきと仕草で美月が見つめるパイプをケース納め、ポケットの中に大事に片付けられてしまった。
「もちろん、咥えていただけですよ」
にっこりと微笑み、朝食のコーヒーを煎れるためにキッチンへと消える祖父。この辺が美月の三倍以上を生きる男のうまさである。次に見つけたらそのパイプを捨てると宣言しているのだが・・・まあ、考えても無駄ですよね、と諦めると美月も朝食の準備に掛かるのであった。
美月達の朝食は基本的には、喫茶アルトで出しているモーニングセットと同じ物である。だから、彼女たちの朝食はパン食と言うことになる。ハムエッグにサラダとヨーグルトをかけたフルーツ、苦めにブレンドしたコーヒー、トーストにはバターと蜂蜜が付けられ好みで、どちらか、もしくは両方で食べる。美月はきっちり両方、祖父はバターだけで食べるのがパターン。
これを美月が用意している間に、祖父がコーヒーを煎れて、それを軽く打ち合わせと雑談をしながら取るのが通例になっている。
そのほぼ同時刻、ここは喫茶アルトの食器棚。そこに置かれたカフェオレボールからは細く白い生足がにょっきりと伸びている。傷一つない白磁のような脚、その脚がぴょこぴょこと時折動き、持ち主の目覚めが近いことを示していた。もちろん、その持ち主はアルト、自称可愛い妖精さん。アルトはすっぽんぽんというあられもない姿で、カフェオレボールの中で惰眠をむさぼっていた。寝るときはシャネルの五番だけを着るのだ・・・嘘、シャボネットとコーヒーの香りしかしない女です。
交差した脚と胸の前で組んだ腕のおかげで、彼女の大事な部分だけは見えないが、代わりに可愛いおへそやら小さめのお尻辺りは全て丸見えである。誰にも見えないのが非常に残念。
惰眠をむさぼり続けるアルトの鼻孔を香ばしいコーヒーの香がくすぐると、小さな鼻がピクピクと動き、長い睫が震え目が開いた。
「ふぅ・・・ふわぁ・・・」
軽く背伸びをし、カフェオレボールに引っかけていた下着を引き込み、そのそこでモゾモゾと身につけ始める。しかし、大きく湾曲したボールの底で着替えをするのはやりにくいのか、ころころと何度も転がってしまい、いつまで経っても終わることはない。転がるたびに色々と女性として大事な部分が見えているのだが、見える人間が居ないので気にしない。もし、良夜が居たりしたら、血を見ることになっていただろう。
数分間、ボールの底でのたうち回っていたアルトは、ようやくそこでの着替えは無理であると判断し、ツルツルに磨かれたカフェオレボールの壁をよじ登り始めた。
「どっこいしょ・・・」
若さのかけらも見あたらないかけ声を発し、その頂上に腰を下ろして店内を見渡す。うん、まだ、営業は始まっていない。誰にも見られることはないとはいえ、素っ裸で営業中の店内をうろうろするのは彼女のポリシーに反する。ならば、素っ裸で寝るのは辞めろと言う話だが、寝るときは素っ裸じゃないと熟睡できないような気がする。難儀な女だ。
下着を身につけるとぴょんとそこから飛び降り、何処かに隠していたドレスとストローを取り出し、それを身につける。一応、服も下着も毎日違うものに着替えているのだが、それをどこで調達しているのかとか、誰が何処で洗っているのか、そもそも、妖精が着替えなんて必要なのだろうかとか、その辺の質問に対して、誰も答えることは出来ない。永遠の謎なのである。謎を香水代わりに身に纏うようになって女は一人前なのだ。例え、身長が十分の一人前であったとしても。
二人の食事が終わり、開店の準備が始まった店内を横切りキッチンへと足を運ぶ。とは言っても、飛んできてるので運んだのは脚ではなく羽である。そして、周りを見渡し、美月と和明の二人が居ないことを確認するとシンクの中に入り、そこにある水の張ったたらいの中に手を入れ、ばしゃばしゃと顔を洗う。この際、良く注意しておかないと・・・
ザバザバザバ・・・
と、この様に、頭の上で朝食に使った食器を洗われる羽目になる。十日に一度はこういう目に遭う。なお、アルトをこういう風にするのは99%美月である。別に毎日美月が洗ってるわけではないのだが・・・
無言でびしょびしょのまま、美月の肩へと舞い上がり、その髪を少々強めに引っ張る。
「キャッ!えっ、また、やっちゃった?ごめん!」
気持ちよく皿を洗っていた美月の体が、びくんと大きく跳ね上がり、悲鳴のような声を上げた。
クイッと一回髪を引っ張り、Yesの意志を伝える。まあ、美月の白いブラウスの肩に水のシミが広がっているのだから、意志を伝える必要はないのだが、やらないとちょっと気が済まない。
「まあ・・・私も確認不足だったわね」
ほとんどあきらめ顔で、額に張り付く濡れた髪を手櫛で整える。うっ、ジョイが混じってた・・・髪が傷むわね、と普段はシャボネットを使ってる女が小さくため息をついた。
「怒ってる?ホント、ごめんね。タオル出しておくから・・・」
クイクイと二回髪を引っ張り、一呼吸置いてからもう一度髪を引っ張る。これで前者はNo、後者はYesという意味を伝えたつもり。
「ごめぇ〜ん、ホント、ごめん!!だから、そんなに髪を引っ張らないでぇ〜」
『アルトが怒って三回引っ張った』と解釈してしまった美月は、髪を押さえたままごめんごめんと何度も頭を下げるた。すると、髪にぶら下がったような形になってしまっているアルトの体は、そのたびに上下に大きく振れ、そして、意図せず髪を何度も引っ張ることになる。そして、また、美月が怒られているつもりになる。もはや、悪循環。
こう言うとき、姿も見えず、声も聞こえないのが少々寂しい気持ちになる。だから、姿が見えて、声が聞こえる良夜に八つ当たりしようと、心に決めた。良夜にとっては良い迷惑である。
はぁ、と軽くため息をついて、半泣きになって髪を押さえている美月の頬に軽く唇を押しつける。もう、二十歳だというのになんでこの子はこんなに子供っぽいの・・・教育を間違えたかしら?と、美月の両親の子育てを見てただけの妖精さんがちょっぴりだけ反省。非常に珍しい。十数年に一回の珍事である。
頬に柔らかな物が触れる感触に、美月はようやく落ち着きを取り戻し、恐る恐ると言った口調で・・・
「もう、怒ってない?」
と、アルトに声をかけた。もちろん、アルトはそれに髪を一度だけ引っ張って答える。
「あぁ、良かった。それじゃ、タオル、ここに置いておくからね」
真っ白い洗い立てのタオルが流しの上に置かれる。アルトはその上に転がり、そこにたっぷりと蓄えられた太陽の顔を胸一杯に吸い込み、その肌触りを楽しんだ。こうしていると、シャワーを浴びてくつろいでるような物よね、と穏やかな気持ちになるから不思議な物だ。基本的には美月には甘い。
「どうかしましたか?」
コーヒー豆の準備をしていた和明が、相変わらず穏やかな笑顔をたたえたまま、美月が一人で騒いでいたキッチンにヒョッコリと顔を出した。
「ええ、また・・・してしまいまして・・・」
小さな胸の前で手を組み、真っ赤になった顔をうつむかせて懺悔をする美月。その頭を、やっぱり穏やかな笑みを浮かべたままの祖父の節くれ立った大きな手が優しく包み込む。
「大丈夫ですよ。アルトはそんなことでは怒りませんから」
「いや、ちょっとは怒ってるわよ、ちょっとは」
優しく諭すような口調に、すかさずアルトが訂正を加える。が、悲しいかな、その声は誰にも届かない。
「でも、もう少し気をつけてあげてくださいね」
そう言って、和明は美月の頭を撫でていた手を離し、キッチンを後にした。その時、アルトの寝転がるタオルに、『もう、怒らないであげてくださいね』という気持ちを含ませた笑みが投げかけられた・・・ような気がした。
「本当に見えてないのかしら?」
時々、見えていないという和明の言葉が信じられないときもある。
「そうよね、アルトは優しい妖精だもの、それくらいじゃ怒らないわよね・・・」
恥ずかしそうに胸の前に組んでいた手は、いつの間にか祈りを捧げるような形になり、その表情は恋する少女のようにウットリとしていた。かくして、美月のアルトへの幻想がまた、大きくなるのであった。
「だから、ちょっとは怒ってるわよ!」
誰にも聞こえないアルトのテレを含んだ怒声が、開店直前の喫茶アルトに響き渡った。
そんなこんなで、喫茶アルト、いよいよ開店!