アルトの一日(2)
いよいよ開店!と言ったところで、開店直後の店内は実に閑散としている。大学での授業も始まったとは言え、まだ春休み気分も抜けず徹夜で研究室にこもった学生も数は多くなく、毎朝モーニングを食べに来る学生や講師達が数人いるだけ。それも学生の方は卒業してしまった者もいる。
アルトはそんな店内を一望できる棚の上に陣取り、少ない客を相手にのんびりと働く二人を見下ろしていた。
「平和なものね」
ここはいつも平和、昨日とホンのちょっぴり違う今日、今日とホンのちょっぴり違う明日、それが永遠に続くけど、去年と今年は確実に違っていて、今年と来年も確実に違う。毎朝決まった席に陣取り、熱いコーヒーが冷えるまで待ってから飲む猫舌の常連客は最近全然見ないし、代わりに、見知らぬ顔が一つ二つと見える。
アルトは人の入れ替わりがあるこの時期が一年の間で一番好きな時期だった。この間まで毎日見ていた顔がなくなり、見たこともない顔がいつの間にか常連の座に納まっている。大きな変化のはずなのに、誰も気がつかない変化、それを誰にも見えない自分だけが知っていることに小さな喜びを見つけるのだ。
「いらっしゃい、私は何の歓迎もしないけどゆっくりくつろいでいって。そして、出来ればずっと通ってくれたら素敵だわ」
アルトは手に持ったストローを指揮棒代わりに振り、ゆっくりと静かな歌を歌い始めた。
何処かでアルトが耳にしただけの聞きかじの歌達は、途中から始まったり、途中で終わったり、さびの部分だけだったり、中には歌詞を間違えて覚えている物もある。そんな歌をクラシック、ジャズ、ポップス、ロック、アニメソングまで思いつくままに小さな唇でつづり始める。その誰の耳にも届かない歌は、アルトの店内を満たし、そして、聞こえていない客達の心も静かに満たしていった。
「ねえ、おじさん、ここ・・・BGM入れてないよね?」
丁度、和明に注文のモーニングセットを運ばれた学生が、ふと、何かを思いついたかのようにそう尋ねた。
「ええ、入れてませんよ」
老紳士は視線をテーブルの上に落としたまま、落ち着いた仕草でモーニングセットを彼の前に並べていく。
「だよね・・・」
耳に届くのは遠くから聞こえる車の音以外は、食器の擦れあう小さな澄んだ音だけなのはずなのに・・・
「もし、妖精の歌が聞こえたのでしたら、ゆっくりと聞いてあげてください」
彼はそれだけを言うと、学生の返事も聞かず恭しい一礼だけを残して、カウンターの方へと下がっていってしまった。
「えっ・・・あの・・・」
取り残された青年は何が何だかさっぱり、と言うような顔を数秒するが、すぐに『まっ、良いか・・・』と考える事を辞めた。別におかしな所はない。ただ、聞こえていた車の音がほんの少し遠くなって、やけに落ち着くような気がしただけ。そして、モーニングを食べ終わっても席を立つ気にならなかっただけ。それだけのこと。
「あっ、また、歌ってる・・・」
トースターに入れた四つ切りのパンが焼けるのを、ボンヤリと待っている美月の耳にも、アルトの歌声は全く届いてはない。ただ、店の室温がほんの一度の半分ほど上がったような気がする。でも、こう言うときは必ずアルトが歌っているのだと、美月は思っていた。幼い頃、彼女の祖父がそう教えてくれたから・・・
その聞こえない歌声にほんの少しだけでも近づけるように、美月は目を閉じ、どこからも聞こえない歌声のために耳を澄ませた。いくら耳を澄ませても歌声は聞こえない。でも、こうすると暖かな室温を肌と心で感じられる、そんな気がする。
そうだ、今日、もし、良夜さんがいらしたらアルトの歌声がどんな物か聞いてみようかな?でも・・・聞こえる人には聞こえる人の楽しみ方があり、聞こえない私には聞こえない私なりの楽しみ方があるのかも知れない。だったら、聞こえないことを楽しもう。だから、きっとそう言うことは聞かない方が良いのだと思う。
こうして、美月の聞こえない歌の鑑賞は、トースターの無粋なチンという電子音が聞こえるまで続くのだった。
観客が居ないようで居るようでやっぱり居ないアルトの独唱会は、二時間ほどで唐突に終わりを迎える。
「喉が渇いたわね・・・」
と、言うわけである。まあ、二時間も歌えば喉も渇こうと言う物だが、妖精の分際でそう言い出すもあれだし、第一、ここ何十行かの良い雰囲気がぶちこわしである。らしいと言えば非常にらしい話なのではあるが。
「ふぅ〜〜〜んぅ〜〜〜〜」
座っていた食器棚の上に立ち、ストローを体操の棒のように握り、座りっぱなしで固まってしまった節々を伸ばすようにストレッチをすると、ばきばきという心地いい音が聞こえた・・ような気がした。
さてと、誰か煎れたてのコーヒーを飲んでる客は居ないかしら?出来れば都合良く良夜が来てて、ブルマンでも飲んでればいいのに・・・と、思うがそんな都合の良い偶然はない。すでに授業が始まっている時間帯、良夜がどれだけの授業を取っているかは知らないし、興味もないが、真面目な学生をやってるんなら授業を受けてるだろう。ヘタレな良夜のことだから、さぼりはないだろうし。
そうなると、見知らぬ客のカップからコーヒーをかすめ取るしかないのだが、その際、どの客のカップから飲むかは良く吟味しなければならない。まず、清潔感のない客は絶対に嫌。かといって女性も微妙、ミルクと砂糖をたっぷり入れてたカフェオレもどきになっていることがある。甘いのは嫌いなのよね。
もっとも良いのは、客に運ばれている最中のをかすめ取る事。これなら間違いなくブラック。しかし、欲しいときに都合良く運ばれている最中と言うことはなかなかない。
とりあえず、今日はアレで良いわね。と、一人の女学生の客が飲んでいるカップにねらいをつけた。外から見る限り、ミルクは入ってないし、彼女は手に持つ教本らしい書物に視線を落としている。チャンスである。
トンと食器棚の縁を蹴り彼女のカップへすーっと滑空し、そのすぐ傍に着地を決める。
「10点10点9点10点10点」
いつもの持ちネタをかまし、いただきま〜す、と礼儀正しく一礼をすると、ストローでチューチューといつものように頂く。そして、一気に曇る顔。ブラックで飲んでいることは期待してなかったが、砂糖の量がアルトには多すぎた。この半分なら許容範囲だったのに。それと、彼女はよっぽど読書に夢中らしく、そのコーヒーはすっかり冷え切ってしまっていた。
「冷えてるわ。それに砂糖入れすぎね、だから、太るのよ」
アルトにコーヒーを飲まれていることにも気がつかず、教本へ視線を走らせる女性に余計な一言を言う。名もなき彼女の名誉のために一言付け加えるなら、別に彼女は太っては居ない。ただ、アルトよりも少々胸のふくらみが大きいだけである。まあ、アルトよりも胸の小さい大学生を捜すとなると、かなり骨の折れる作業になるのだが。第二次性徴来てんのか?この妖精。
もう、彼女の甘くて冷えたコーヒーに興味を失ったアルトは、テーブルの端をトンと蹴り店の天井付近にまで舞い上がった。
美月に頭から水をかけられ、折角のコーヒーは温くて甘い、ツイてないのが二つ、知らない顔を一つ二つ見たのがツイてたこと。一勝二敗、負け越してるわね。
ふよふよとまるでタンポポの綿毛の如く質量を感じさせない飛び方で、店の天井付近を浮遊する。
モーニングを食べに来てた客もとっくにいなくなり、残っているのはアルトにコーヒーをかすめ取られたことにも気づかず、教本を見ながら難しそうな顔をしている女性客だけ。
店員の二人は何をしているのかしら?と思い、店内に二人の姿を捜した。
美月は・・・カウンターの隅の席に座り帳簿らしきノートを取り出して、真剣な顔をしてうなっていた。半年くらい前までは和明の仕事だったと思うが、それがいつの間にか美月の仕事になっている。どうやら、彼は仕事の大部分を美月に任せ、自分は楽隠居をするつもりのようだ。それでも、コーヒーを煎れる仕事だけは譲るつもりがないのが、彼らしい。
仕事を美月に譲り楽隠居一歩手前になっている老人は・・・あれ?
彼は客も居ないのに布製のドリッパーでコーヒーを煎れていた。この店ではいつも布のフィルターで煎れるネルドリップの方式でコーヒーを煎れている。サイフォンやペーパーよりも手間は掛かるのだが、そちらの方が美味しい、とアルトは思うし、オーナーである和明もそう思っていた。ちなみにサイフォンもこの店にはある。美月が二年ほど前に『あった方が喫茶店らしいです』といって買ってきたのだ。が、買ってきた当人すらも全く使わず、『喫茶店らしさ』を演出するための小道具として棚に鎮座している。そもそも、使い方を知ってるのだろうか?知らないわね、確実に。
そんなことを考えながら、流れるような手つきでコーヒーを煎れる老紳士をアルトはその真上からのんびりと見つめていた。香ばしいコーヒーの香りは、一日に何回嗅いでもそれだけで幸せな気分になれる。
そして、老紳士の手によってコーヒーで満たされたカップは一番隅の窓際の席、良夜の指定席に置かれた。もちろん、そこには誰も座っては居ないし、和明もそこから少し離れた席に腰を下ろしていた。
「ほんっとぉーーーに、見えてないのかしら?」
火のついていないパイプを咥えて静かに目を閉じている老人の顔を、アルトは入れられたばかりのコーヒーカップの前に立ち遠くから伺い見る。しかし、その顔には心を読ませない穏やかな微笑みだけが浮かんでいるだけ。
食えない老人になったわね。でも・・・それも素敵なことなのかしら?
外を見れば、桜色に染め上げられたいつもの山。山は四季折々に表情を変えてゆく。あと一週間もすればあの桜たちは花を落とし、葉桜になってしまうだろう。でも、来年にはまた同じ花を咲かせてくれるに違いない。変わらないけど変わる人と街を変わるけど変わらない山が見守っていた。
アルトの小さな体ではカップにいられたコーヒーの三割も飲みきることは出来ない。だから、と言うわけではないのだが、そのカップに背もたれにしてぺたんとテーブルの上に腰を下ろした。そして、温かなコーヒーの温度をその小さな背かなと羽で存分に楽しむのだった。
そして、いつもの時間と彼がやってくる。
「よっ、何、してんだ?アルト」
コーヒーカップにもたれかかりボンヤリと外を見ていたアルトの上から、最近よく聞く声が降り注いできた。
「花見コーヒーよ、風流でしょ?」
「あぁ、そう言えば満開だな・・・」
いつもの席にいつものように座る青年。彼もいつかは食えない老人になるのだろうか?想像がつかないわね・・・
「丁度良いところに来たわ、コーヒーが冷えてしまったの。貴方のコーヒーが届いたら交換して」
「お前は悪魔か・・・」
アルトで一番忙しいランチタイム、そしてアルトが一番楽しみにしている時間が始まった。