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阿波の女医さん、稲井静庵(1800―1882)のこと。

江戸時代の厳しい身分社会にあって、人々から「芝原の化け医者」と
呼ばれた女性の医師がいた。世界的な視野でみると、ごく稀な人物です。

その伝記と資料
 
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   静庵墓誌(東面)

1 静庵墓誌 <稲井静庵の伝記>《年齢はすべて数えです。》


 彼女は、徳島城より二里西方の芝原村にあった豪農家の稲井利三郎の次女として、寛政十二年(1800)に生まれました。
母は宮本氏です。幼少より体が弱く、眼疾がありました。

 
 数え十五歳のとき、両親は軟弱と眼疾を憂え、医学を学ばせることにしました。二十二歳で学業成り、静庵と号して、家
で治療をしました。専門を産科、整骨術とし、内科にも熟達していました。治療を受ける人々は非常に多く、彼女の医療の
技が進むにつれ、ますます目が悪くなって、ついに失明しました。

 その人となりは、温かく、ものやわらかで、節を曲げず、もの静かでした。しかしながら、いざ患者に接するときは、言
葉振る舞いは男子と全く変わらず、毅然としていました。静庵の名は次第次第に遠くまで知れ渡りました。


 ところで、父、利三郎には男の子がいませんでした。そこで、高畠村から萬蔵を養子に迎え、姉の長女を娶せました。し
かし、萬蔵は放蕩無頼で、一家の財産を破綻させてしまったのです。そこで、静庵は萬蔵に離別を迫りましたが、彼はそれ
を拒んだので、長らく訴訟が続きました。ついに官裁が下り、静庵を稲井家の長とすることを許しました。静庵は老いた母
を安心させ、ついに家の多額の負債も返済しました。


 その後、静庵は、従弟の宮本重蔵を養子に迎え、貧しく苦しい生活によく耐えて、共に勤勉に仕事に励み、次第に家の財
を増やしていったのです。


 世が改まり、都は東京に移り、明治3年(1870)、重蔵は五十五歳で先に亡くなってしまいましたが、その時、孫の良衛
は十六歳でした。そこで孫の良衛を徳島の医学校へやりました。良衛は静庵の期待によく応えて医師の資格を得ました。静
庵は大いに喜んだということです。明治十五年、静庵は八十三歳の生涯を閉じました。


 翌年、新居敦という人が、以上のような内容を静庵の墓誌に書き綴りました。そして、最後を次のようにまとめています。
墓誌は漢文ですので、書き下し文のまま次に示しておきます。


 「嗚呼(ああ)、女流にして、医を善くすること、稲井氏のごときは古今稀(ここんまれ)に見る所なり。況(いわ)ん
や、身既(みすで)に失明して、窮(きゅう)を忍び、苦に耐え、終(つい)に能(よ)く其の家を興(おこ)す者は、吾
(われ)未(いま)だ其(そ)の比(ひ)を見ざるなり。豈(あ)に鬚眉(しゅうび)男子の能(よ)く企及(ききゅう)
する所ならんや。

   明治十六年九月 新居敦 譔并書 


2<考察>

 上記の墓誌を読み解いたときは本当にびっくりしました。なにしろ、私が子供の頃に母から聞かされていたことが本当
だったのですから。それまでは、母の言い伝えのみが、阿波の女医さん、稲井静庵の唯一の証拠でした。それと言うのも、
母は、5歳の頃に医者をしていた父を亡くし、苦難に耐えて生き、戦前は徳島市津田町に引っ越し、洋服の仕立てを内職
にして一家を支え、祖母や姉妹と暮らす日々でした。結婚後、夫である筆者の父は大阪で軍需産業に従事してしておりま
したが、戦局いよいよ酷くなり、徳島も1945年7月の米軍の空襲に逢い、保管していた稲井家の全財産を消失させてしまっ
たのです。稲井家についての資料となるものはそれ以後全く無かったのです。

 静庵墓誌の解読により、次に手掛かりとしたのは、稲井家の墓地と位牌調査でした。墓地は、新吉野川河口流域の三角州
内で、菩提寺境内と旧稲井家住居跡近くの二箇所にあり、一つひとつを丹念に調査しました。また、位牌は、空襲時に祖母
が抱えて戦火から逃れましたので、大阪の伯父の家にありました。それで先祖代々の知識を不十分ながら得ることができま
した。しかし、静庵は女性でしたので、死亡日や享年は知り得ても、位牌に本名が書かれていないという過去の悲しい実態
がありました。
 
 稲井静庵は、墓誌にあるように、阿波の女医さんとして有名でした。それは母の幼少期まで知られておりました。静庵は、
芝原村で寛政十二年(1800)に豪農の家に生まれ、明治十五年(1882)まで生きた長寿の女性ですので、明治になっての人
物のように見られがちですが、主に江戸期に活躍した女性医師です。我が家の母の受けた伝承というものは、大正時代の人々
が伝えた静庵像です。だから大変不十分です。他に静庵の名が記されている郷土資料がありますが、名が残されていただけで、
静庵が女性であったという点や、より詳しい情報に欠けています。
 
 彼女の人生は、一口で言えば、艱難辛苦、勤勉努力、質実剛健に生きた阿波国で公けに認められた女性の医師の一人です。
封建時代の制約の中で精一杯生きました。静庵というのは本名ではありませんが、医者の号であり、公式名です。本名は「静」
という1字が入るのは間違いないので、「静」か、「お静」でしょう。


 当時の人々は、彼女のことを「芝原の化け医者」と言っておりました。「化ける」とは、異形のものに変わる、形をかえ
るという意味の他、色々意味がありますが、当時、医師は男性がなるものと決まっておりましたから、ちょんまげを結い、
刀を差し、馬に乗って出かけた彼女の扮装をはやしたものと思われます。
筆者の母、稲井高子(1918~1997)は、幼少の頃、
近所の女性から「お前の家は化け医者の家ぞ。」と云われたそうです。江戸期にあっては、女が医者になることは考えられな
いことでしたし、馬に乗ることさえ許されませんでした。それで彼女は侍のようにちょんまげをして刀をさし、男装して馬に
乗ったらしいのです。それにしても百姓家の次女が医者になれたのは全く不思議な話です。


 静庵の専門は、産科、整骨術、内科でした。当時名医とされた七条文堂に師事したそうです。七条文堂は、阿波の「合財
(がっさい)医者」と呼ばれた医師(1782―1854)です。なんでもかんでも一切合切を蒐集して合切袋に入れて持ち帰った
からです。文堂没後、静庵は彼の愛馬であった白馬を譲り受けたそうです(文堂の子孫、上板町の故鳥羽重夫氏の談話)。
旧稲井家屋敷跡の東に馬塚があったそうで(筆者一雄の伯父、故稲井唯良の談話)、七条家より譲り受けた馬の死後、丁重
にその馬を供養したのではないかと思われます。


 「阿波人物山脈」(毎日新聞徳島版、昭和37年1月5日より連載)に、稲井静庵も取り上げられています。当時の新聞
の取材記者が、稲井家から上八万町の田中家に嫁いだ静庵曾孫の故田中シゲリ氏に取材したものです。それによると、七條
文堂に師事し、「化け医者」と呼ばれ、晩年はソコヒで目が見えなくなったけれども、男装して馬で往診に出かけたり、薬
を器用に調合したり、針に糸を通したり、遠くからやって来る人の足音で誰かを言い当てたカンの鋭い人だったと書いてあ
ります。これは稲井家の伝承(筆者が母親の高子から聞いたこと)と大体同じです。静庵は、明治になっても、医業に携わ
っていたということでしょう。


 藤井喬著『七条文堂の研究』(昭和五十一年刊)に稲井静庵の名が見え、文堂の門人とあります。それ以上のことは書か
れておりません。藤井氏は、一雄宛の葉書(どこか、紛失)の中で、文堂と専門が少し合わないと書いてありました。七條
文堂は、藩医の林東儀を師として医学を学んでいます。林東儀の専門は本草学と産科です。また、文堂自身の記録の中に静
庵の名が見当たらないそうです。この点について、さらに葉書に、文堂晩年の親交かとも書いておられました。文堂と親交が
深かったことは、七条文堂の墓前の石灯籠に「芝原村稲井清(静)庵建」と大きく記されて、石灯籠が現存していることで分
かります。ただし、藤井氏は、静庵が女性だったことを意識されなかったようです。『七条文堂の研究』では、他の門人たち
と同列に扱っていて、名前以外のことは分からないとしています。七條文堂の墓地を訪れると、門人たちの名は文堂の墓の裏
側に連記され、静庵の名はなく、石灯籠に別に一人記されています。静庵との関り方が他の門人たちと違っていたのか、男女
を区別したためでしょうか。

 静庵が医師資格を取るにあたっては、現代と違って複雑な事情があったのではないかと思います。江戸期にあって、医師
となるためには、医学の藩校に通う人もいましたが、大抵は、独立した医師の下で長期に亘って段階的に見習い修業をして、
最後に師から奥伝を受けるのが一般的でしたし、その後も別の医師からいろいろ学んだそうです。それで静庵の医学の師の一人
が七條文堂という人だったのです。また、実際に医師の開業をするためには、有力な人を介して藩に許可申請をしなければなり
ません。現代にも通じることですが、医師は、医師となれたとしても生涯に亙って知識を絶えず仕入れてゆかなければ通用しま
せん。


 筆者稲井一雄は、昭和63年(1988)に静庵の墓誌を解読しました。高校の国語教師だった一雄は、少年の頃に稲井家の
墓群(その頃は畑中にあった。)の一際高い墓に、漢字が一面に刻まれていたことを思い出して、親しい教師の手を借りて
墓誌の拓本を取ることができたからです。


 漢文で書かれてあり、解読の正確さを期するために、一雄は、徳島大学で漢文学を教えておられた文学博士竹治貞夫氏に
正確な訓読依頼をしました。採取した文は、内容に矛盾がなく、新居敦の書いたものに間違いないとのお墨付きをいただき、
正確な訓点を示していただきました。墓誌は、徳島藩家老新居水竹の子、当時、旧徳島中学校(現在の城南高校)の校長だ
った新居敦の揮毫です。孫の稲井良衛が作文と書とを彼に依頼したのでしょう。その内容が上記1に掲げた伝記です。


 高畠村から迎えた養子の萬造が家を破産状態にさせましたが、稲井家を立て直したのが、利三郎次女であった静庵でした。
姉亡き後、老母を養い、母方の宮本家から重蔵を養子に迎え、加藤家からツネを養女として迎え、二人を夫婦養子としました。
その二人の間の子が良衛であり、後に近代制度の下での医師となります。それでまた稲井家は続くのです。静庵は「稲井家中興
の人」と呼ばれています。そのことを伯父稲井唯良からも聞きました。

   
上板町にある七条文堂の墓前の灯籠に「稲井清庵建之」とあり、
           名前の漢字が一字違いますが、まちがいなく、これは稲井静庵を示したものです。


3<さらなる考察>

 稲井静庵は、封建社会、男性中心社会にあって、女性の中で医者になり得た稀な例です。なぜ女性が医師となることを
許されたのかが不思議です。江戸期にあっては、女性が馬に乗ることさえ禁止されていました。確かなことは封建時代の
庶民の女性で、男性と対等に生きた人物が存在したということです。


 百姓が馬に乗ってはいけないという証拠は、宝暦7年(1757)7月に出された「馬乗又は馬牽制御触」に、郷中百姓達が馬
に乗ることを禁じたことや、佐古1丁目(お城の西)の内、三ツ合より御山下(城山)までの町分は、馬に乗ってはいけない
ことや、町筋で馬を引く時は、けがをさせないようにとのこと(福井好行『徳島県の歴史』より)が書かれています。ただ
し、それ以降も、なかなか徹底せずに緩くなっていったのではないかとあります。馬に乗るのが楽だからです。しかし、百
姓の娘が馬に堂々と乗って出歩くことは考えられないことです。そうした掟は、身分制度を守ろうとした武士の都合です。
武士というものは、道の真ん中を堂々と歩き、雨が降っても慌てず、傘を差さずに泰然として歩くものです。武士が公務で
緊急時に馬を使用する以外には一般庶民が馬を走らせるのは危険だから禁止するのです。

 上の墓誌で、高畠の萬蔵がいかにも悪いという印象を与えますが、「無頼放蕩」ではなかったようです。良衛の子である郭
野正一(九州博多にて戦前料亭を開く。故人)によれば、萬蔵は、とてもよい人であったけれども、結核に罹り、隠遁したと
いうことでした。
信憑性が高い話だと思います。竹治貞夫博士が、一雄におっしゃった話ですが、墓誌のような後世に残す資
料は、自家の不都合なことは嘘も交え、事実と齟齬(そご)することがあるということでした。例えば、武士が仕事上の失策
で切腹をした場合、事後に病死として処理し、家の面目を保つことがあったらしい。当時、結核は、放蕩無頼より不名誉とさ
れていました。結核は感染力が強くて不治の病だったからです。萬蔵を墓碑で放蕩無頼としたのも、結核に罹って隔離された
ことを隠蔽するためで、決して悪人ではなかったらしいです。稲井家の位牌は曖昧な書き方で、何時何歳で死んだのかがよく
分かりません。こっそり葬ったのではないでしょうか。


 芝原村における稲井家は、江戸初期《1600年以降》、初代稲井又右エ門(?-1643)が一族と共に芝原村を開拓したのが最
初です。所領は村の広範囲に及んでいたようです。徳島県の代表的な川である吉野川は、その昔第十あたりから北へ流れてお
りましたが、そこから水脈を分けることとなった別宮川(べっくがわ)の方が次第に大きな川となって、新吉野川となりまし
た。所領はその辺にもあったようです。毎年洪水が起こるので、家の敷地を相当高くして石垣を組み、家を城構えにしなけれ
ば、普通の造りの家では流されてしまいます。人が住むには危険な地域でした。芝原における江戸期の洪水の被害状況は、資
料や遺物に残っている通りです。今も地域に石地蔵が多くあって、相当高く作られ、高地蔵と呼ばれています。しかし、そん
な洪水地域こそは、肥沃な土壌を土地にもたらし、畑作物や葉藍を育てるのに都合がよかったのではないかと思います。


 稲井氏は、白足袋、帯刀を許された家柄である(筆者の母の妹、叔母中村八重子談)と云われております。叔母はこんな話
をしてくれました。近くに八幡神社があり、そこで競馬が盛んに行われたらしい。八幡神社の馬場は、距離330m、幅10.5mの
廻り馬場で、鳥居から神社の前まで相当長い距離です。近隣の若い衆にまじって静庵も競馬に参加したらしい。ご覧になって
いた殿様が「稲井静庵は男か、女か。」と尋ねたということです。当時、競馬の際には、徳島藩家老賀島氏が遊覧したことが
資料にあるので、殿様というのは、家老の賀島氏のことでしょうか。身分の高い人を誰でも殿様と呼ぶようですから。
 
 郭野正一氏によれば、稲井家は元家老の家柄だったと述べており、稲井家と徳島藩の家老とはなんらかのつながりがあった
のはないでしょうか。「原士」(阿波藩独特の身分)か、あるいは七条文堂の家同様
「先規奉公人(長谷川氏配下)」だったの
かとも考えられます。郷土資料によれば、原士とは、藩政初期田畑を開発した在村の武士のことで、長谷川氏(徳島藩家老)
配下ということです。先規奉公人とは、藩政初期家臣団の不足を百姓で補った軍事要員制度の奉公人で、後に本百姓化しまし
た。稲井氏は、どちらか分かりませんが、百姓の中でも別格扱いされていたようです。墓は菩提寺境内と農地沿いの二カ所に
あり、2代目までのものと、3代目以降のものとでは、時代が変わってくるのか、様式的な違いが見られます。どれも真言宗
の墓で、4代目以降、庶民的なものとなり、砂岩で作られた粗末なものです。

 さて、この殿様の言葉、「稲井静庵は男か、女か。」は、よく考えると、興味深い言葉です。彼女が他の男達に混じって活
躍する様子が感じられるからです。彼女の勇ましい姿や、相手の男と互角に競争する姿や、出で立ちが浮かんできそうです。
殿様から尋ねられた人はなんと答えたのでしょうか。躊躇いながら言葉を選んだのではないかと思われます。ストーリー性を
はらんでいます。

 これも叔母の話ですが、静庵が診察を済ませ、その患者の家でお酒をいただいたそうです。そのお酒は、神棚に祭ってあっ
た御神酒を下げたもので、静庵はそれをちゃんと見抜いていたそうです。味で分かったのか、一連の人の気配、動きで感づい
たのかは分かりませんが、勘の鋭い人であり、また寛容な人でもあったと思います。

 もう1つのエピソードを付け加えましょう。これは、母から聞いた話です。
 亥の子祭りというものがあります。旧暦十月初めの亥の日亥の刻に、その年の新穀で作った亥の子餅を食べて万病除けを願
う風習です。宮中から民間へと広がったらしいのですが、昭和30年代頃までその風習が徳島の田舎に残っていました。おも
しろいことに、徳島県には、その日の晩に、近隣他家の生りもの、木に生っている蜜柑とか、柿など、なんでも盗んでもいい
という奇習がありました。と言っても、持ち主がそれを許すはずがないのですが、見つからずに余所の生りものを盗むという
スリルを、村人たちは味わったのでしょう。
 ある亥の子の夜、稲井家の裏庭の果樹に忍びよる男がいました。その男が実を盗ろうとした時、闇の中から怒鳴る声がしま
した。男は何も盗らずに逃げてしまいました。明くる朝、その男は静庵と顔を合わせて、何食わぬ顔で挨拶をしたのですが、
静庵は家人に言いました。「さっき挨拶した男は、昨夜盗みに入った男だよ。このわしの眼が見えぬから、あいつは知らんと
思っているのだろうが。」と。静庵は、遠くからでも足音で誰なのかを言い当てたそうです。

 前後しますが、静庵の医学志望の動機についてです。父利三郎には男の子がいなかったと墓誌で述べていましたが、実は、
男の子が生まれています。亦次郎、周吉、熊弥の3人です。しかし、それぞれ7歳、5歳、4歳の時に亡くなっています。おそら
く病死でしょう。3人の男の子を失った父利三郎と母の哀しみはいかほどであったか。両親の哀しみは当然娘達にも伝わったで
しよう。静庵自身の医者になる動機がそこにあったのではないかと考えています。想像するに、利三郎は、息子の異変に気づき、
当然のことながら、ただちに医師を呼んできたでしょう。しかし、息子3人とも失う結果となり、医師の力が及ばなかったこと
を痛感したのではないでしょうか。静庵は、自分の兄弟たちが将来生活を共にして一家を支えられる医学の可能性を夢見て、医
学の道を志したのではないかと思っております。彼女の幼少期の病弱、眼疾といったことは、藩への医師身分認可の為の表向き
の理由ではないでしょうか。又、母から耳にしたことですが、女性の患者は男性の医者を嫌ったそうです。だから、静庵は、主
に女性や子供を診る医師を志したのではないでしょうか。特に当時の賀川流産科は、世界的に見ても、レベルが高かったようです。
また、整骨術を専門にしたことも頷けます。

 静庵は江戸期の医師です。刻々と移りゆく時勢にも敏感でした。幕末になると、医学も従来の漢方より蘭学や西洋医学がよ
り重視されるようになりました。静庵もそのことをよく知っておりました。明治になり、巽浜に医学校が開設されましたから、
早速、孫の良衛を医学校に遣って激励しました。彼女は、その時、次のように言ったそうです。
「これからは西洋医術の時代じゃ。お前は西洋のものをしっかり学んで、新しい世の中の医者になってくれよ。」と。

 明治になってからの静庵に何ができたでしょうか。70歳を越えた頃です。幸い、静庵の専門のうち、産科と整骨術は、現代
にあっても通用するものですから、体力が許す限り、往診に応じたと思います。また内科の常識的な治療も差し支えなかった
と思います。現代の科学主義の視点で静庵を見るのは間違いだと思います。厳しい男尊女卑の社会に生きた女医としての観点で
評価すべきだと思っております。また、科学が威力を発揮するのは昭和になってからでもあるからです。

4<さいごに>

 稲井静庵は、阿波の豪農の家に生まれた女医でした。四国には、静庵に比肩する人物が二人ほどいたらしい。そんなことを
母から聞いたことがあります。それは一体誰と誰か。そこで、私はその一人が土佐の野中兼山の娘、野中婉ではないかと思い
ます。静庵と婉とは類似するものがあります。そして、もう一人は、伊予の国のシーボルトの娘、楠本イネだと思います。医
師で祖父の稲井純一が、家族の誰かに言ったのが母の耳にも伝わったのではないかと考えられます。それにしても、稲井静庵
の場合、なぜ一般庶民の女性でありながら医師として公けに許されたのかが、まだ謎です。封建体制の規制が緩かったとは到
底考えられません。静庵は男勝りで、どんな困難にも耐えた人です。現代にあっても、精神的にも身体的にも強くなければ女
性は自立できないのではないでしようか。

 一般論ですが、女性にとって、職業を持つことの大切さ、学問の大切さ、忍耐強さの必要性を痛感します。それは、単に自
分や家のためだけでなく、また、自分の生きた時代の他の人々のためだけでもなく、女性が職業を持ち、自立することによっ
て、未来の人々をも幸せにするということです。
 現代の日本は、未だに男性に有利な社会です。女性が子供を産んでからも、安心して仕事を続けながら家庭を築くことがで
きる社会であってほしいです。


              
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