東大医学部と付属病院側、政府厚生省は、「青医連」対策もあり、インターン制度に代わる「登録医制度」を提案。67年、「医師法一部改正案」が国会に提出された。これは、卒業後2年間の研修を義務づけ、当局側が、医師の研修を正規に終えたと認めた者を「登録医」とし、国家試験を通っただけの医師と区別させようとしたが医学連は、階層分断策であり、管理体制を強めるだけで、これまでのインターン制度の矛盾を何ひとつ解決されないままの「登録医制度」であるとして反対した。医局講座制の枠組での特権的立場に固執する医学部長、病院長をはじめとする当局は、登録医制度を推進していた。

● 1月 ×日 全日本医学生連合/「医歯大闘争全国化の動き 神戸、岡山、東大で闘いの火が」。

● 1月 ×日 反帝医学生戦線/「医科歯科大学生戦線結成の意義」文書。

● 1月13日 東大医学部M4クラス、内科卒業試験ボイコット。70対13.脱落者4名、説得できず。後2名がクラス会から抜け、『スト破り6人衆』といわれる。

● 1月14日 青学国ボ決起集会。自主管理権、国試ボ闘争の強固な突撃体制を打ち固めよ。(於・京府)。

● 1月15日 医学連中央委員会〔於・京都府立医大〕、大会議題・☆ベトナム・エンタープライズ・小選挙区制粉砕。 ☆再建全学連の位置と任務。 ☆闘争総括・(医者懇・管理権闘争中間総括)☆イ・医療情勢。 ☆国試ボ・管理権共闘・それ以後の総括。 ☆1・20全国統一行動。全学連(三派系)を支持し医学連から中執を派遣、☆三月国家試験ボイコットを通してインターン制完廃をかちとる等運動方針を決議。

● 1月16日 関ブロ(於・MD)。

● 1月17日 青医連九大支部、医学部附属病院長にインターン制反対の要請文を提出。

● 1月17日 神戸・M4研修でスト権確立。

● 1月20日 青医連・医学連、国家試験阻止全国統一行動に日本医大も参加。日比谷公園。

● 1月20日 慶応・M4と青医連は要望書を相沢病院長に提出。

● 1月21日 東大医学部M1、授業放棄決議。

● 1月22日 私学連絡協議会(於・東医1時)

● 1月23日 東大・卒試ボ、M3クラス授業放棄。

● 1月25日 東大医学部学生大会、インターン制完全廃止を要求してスト決議。全員留年決議。全学闘結成。(81対1対0対4)

● 1月26日 慈恵医大・41青医連クラスは国試ボを賛60・反6・保2で可決。

● 1月26日 東大医学部インターン制完全廃止を要求して26日無期限スト突入。(61日間スト)第一次研修協約闘争。

● 1月 ×日 神戸大医学部・青医連慈恵医大支部・など国ボ決議。

● 1月26日 41青医連慈恵支部は3月の国家試験ボイコットを決議。

● 1月27日 青医連・医学連、近畿医務局前で全府集会。2月8日まで連日30~50名でピケ。願書提出者説得活動。

● 1月27日 阪市・ストライキ、国家試験願書受付阻止闘争。学内共闘会議確立。

● 1月30日 東大・卒試阻止決定。

● 1月30日 関東ブロック会議(於・女子医)3月国試阻止に向けて。

● 2月 1日 全日本医学生連合/「自主調整権獲得のうえに青医連結成、仮免粉砕に闘争を集約せよ!!」文書。

● 2月 2日 医学連関ブロ・東大支援東大病院前決起集会。250名参加。

● 2月 ×日 第一次研修協約闘争東大全学闘争委員会/「研修協約とはなにか」文書。
  第一次研修協約闘争東大全学闘争委員会/「国試阻止闘争の意義」文書。

● 2月 3日 関西医大・学友7名の無期停学を含む処分を日共・東田教授(学生部)の手により発表。研修協約・学館闘争への先制攻撃。第12回全国医ゼミは開催主管・関西医大の処分攻撃で1973年まで中止される。

● 2月 3日 政府厚生省は願書締め切りを8日に控えた3日、諮問機関であ          る『大学医学部卒業後における教育研修に関する懇談会(いわゆる医者懇=慈恵医科大学樋口一成学長座長)の『現行インターン制は廃止すべき』との中間答申を出させ、ボイコット運動を分裂させようとしたが、全国の研修生は微動だにしなかった。
     
● 2月 ×日 鳥取大・スト敗北。

● 2月 8日 国試願書締め切り日。

● 2月 8日 青医連、イ制完廃・国試ボ貫徹、東北ブロック大会。(於・東北大学医学部講堂)福島、弘前、岩手、東北の4校・400人参加。

● 2月 8日 医学連・青医連関東ブロック第二波統一行動。(麻布公会堂)

● 2月 8日 青医連関西ブロック・近畿医務局前50で集会。上六から医学連デモで合流。

● 2月10日 10日現在、46大学中、国試ボイコット26校、願拒43校。

● 2月10日 慶応M4・青医連スト突入。

● 2月10日 42青医連全国結成大会。

● 2月11日  東大・同盟登校(建国記念の日反対討論集会)。

● 2月15日 医学連関東ブロック医自代・イ委員会合同会議(於、日本医大)。

● 2月16日 慈恵・昨年12月に古閑前病院長が口頭で内諾していた三項目(アルバイトの件、自主カリキュラムの件、他校より15名受け入れの件)を1月に、変わったばかりの土肥新病院長に三項目の確認を求めたところ、2月16日、そのようなことはまだなんとも言えないと。

● 2月17日 医学連中執会議(於・慈恵)中央執行委員会・木下信一郎委員長(慈恵)。

● 2月18日 医学連臨時大会(於、医科歯科大)。三月医師国家試験阻止に向けて最後の意思統一。国試阻止(医学連+青医連)共闘会議結成。 <スローガン> 1、イ制度敢然廃止! 2、国ボ貫徹から国試全面阻止を勝ち取れ! 3、医局仮免粉砕! 4、国大協・私学連の協約闘争弾圧を粉砕しよう! 5、関西医大不当処分を弾劾し、処分撤回を勝ち取ろう! 6、42青医連を結成し、青年医師運動の長期的展望を生み出せ! 7、学三交流会を開こう! 8、健保改悪反対!

● 2月19日 42青医連結成大会。

● 2月20日 全国医学生・青年医師決起集会(於・東大)。医学連中執の呼びかけによる。

● 2月 ×日 神戸大・卒試ボ。

● 2月20日 慈恵・三項目の要望書、及び会見申し入れ書が学生部長に提出。

● 2月20日 慈恵・国ボ決議「人間宣言」。

● 2月24日 慈恵・インターン制度完全廃止を要求、国ボ医師の研修医切り崩しに戦後初の全学無期限スト突入。団交へ。青医連学4の要求受け入れ、及び学校側が研修医に医育者にあるまじき切り崩しを行ったことに対する反省を。

● 2月26日 医学連・全学連とともに、労働者の反戦青年委員会と立川の砂川現地闘争。挺団を組み基地外周を駈足デモ。早大革マルが1人道端で偵察をしていて、「あっ、フランケン」だと三派全学連の中から声があがる。後に彼は自殺した。日本医大からも参加をし、60年安保時代の小豆色の日本医科大学学生自治会旗を機動隊に奪われ、一片の布が残された。

● 2月29日 阪大・市大等3日間の全国統一スト。

● 3月 1日 東大学生部、医全学闘の立て看板を盗む。

● 3月 2日 慈恵医大、研修協約勝利スト終結。当局は41青医連の国家試験ボイコットの方針を承認。医師国家試験ボイコットへ。

● 3月 7日 慶応5項目要求を第1回学生大会で採択。

● 3月 7日 全関東学内共闘連絡会議、<受験組への呼びかけ> イ制度の即時、全面的な撤廃と「医者づくり懇談会」の解散を要求して、国家試験受験を拒否し、戦線に復帰して共に戦おう。

● 3月 7日 閣議に於ける佐藤首相の発言『国家の威信にかけて国試を完遂せよ!』

● 3月 8日 全国国家試験阻止決起集会に日本医大も参加。医学連統一行動として各ブロックで戦わる。慶応医学部では青医連支部 学生大会でイ制完廃・医局改善要求でスト突入。

● 3月 9日 受験票交付阻止闘争、ピケを厚生省分室に張る。11日まで東京は中目黒で。有楽町でビラまき。

● 3月 9日 慶応・第2回全学大会。現行インターン制度に反対し、イ制度完廃などの6項目を掲げた青医連慶大支部とカリキュラム改正など4項目を挙げた医学部四谷自治会は研修協約で10日よりスト入り決議。

● 3月 9日 東大・第3回団交。

● 3月10日 慶応・病院前抗議集会・デモ。クラス会別にM1〜M4と研修生に分かれて討論。午後2時からは東講堂で第3回学生大会。

● 3月10日 東大・第4回団交。

● 3月10日 医師国試受験票交付にビラまき。

● 3月10日 福島・2年目研修に要望書提出。。

● 3月11日 医科歯科大・国家試験阻止医歯大共闘会議ニュース。全員泊り込みで「イ制度に告別の戦いを、友よ!」「明日の夜明けの戦いに全力を!」

● 3月11日 福島・教授会との間に妥協点を見出せず研修不可能となる。

● 3月11日 慶応・10時病院前抗議集会。午後2時半からは北里講堂で第4回学生大会。

● 3月11日 東大、180名泊り込む。

● 3月11日 日本医大青医連・学友会学内共闘会議を持つ。
● 3月12日 第42回医師国家試験ボイコット闘争。インターン制度完全廃止を叫び医師国試阻止と医局の改善を要求して国家試験をボイコット。青年医師連合が試験会場前に集結し、受験阻止の構えを取ったために、試験会場には機動隊が配置され、装甲車が並ぶ物々しい雰囲気に包まれた。 青医連(36大学・2400人が参加)・医学連全国統一行動には日大の卒業生も参加。青医連・医学連700は前夜から旅館など都内泊まり込み、午前六時半に駒込公園に結集し試験場「理研」突入をはかったが周辺を埋め尽くす青ヘル500の武装警官により医学連木下信一郎委員長等7名が公安条例違反で不当逮捕。木下信一郎(慈恵医大)は2泊3日留め置かれる。青医連(今尾貞夫委員長・東大)は医学部46大学中、36大学2400人加盟のボイコットにより全国10ヶ所での医師免許国家試験受験は、当日38校がボイコットし、受験生3150人中、受験者数は405人にとどまり九割(87%)がボイコットした。東京では千葉・昭和・女子医のみが全員受験だとされていたが、民青系の千葉大が「警官に守られてやる国家試験は正常なものではない」と56人が引き上げ、仙台会場では飛行機をチャーターして「今からでも遅くはない、試験場から出て下さい」と呼び掛け、福島医大は1名のみ受験。願書提出組みの慈恵・名大がボイコットへ。全員国試参加は昭和のみだった。大阪会場は医学連等が丸太でバリケードを作り府警機動隊と衝突、400人でデモ。北海道札幌会場へは100名でピケを張り、機動隊と衝突、1人が公安条例違反で逮捕された。
日本医大は会場に近い大学として、行動隊の最前列でデモした姿写真が翌日のAsahi Evening News(朝日新聞社)に紹介され、その後インターン闘争の標準写真に使われた。初めて医学連デモがかぶったのは工事用の白ヘルだった。メットは事後、逮捕された学友のカンパ入れともなり、メットにはずいぶんの千円札が集まった。全国で11名逮捕さる。
     医師国試阻止闘争の位置付け
@現行インターン制完全廃止の最終的締めくくり。
A国試ボを盟約の絆とした全国単一の横断組織=全国青医連の確立。
B全国青医連を基盤とする各戸別大学内での研修協約権闘争の展開。

国試受験者ゼロは群大・東邦・徳島。1名受験は東大・医科歯科・長崎・名市。
全国87・4%の国ボ成功。
東京医大の受験者は11名。

● 3月12日 広島大・鳥取大、広島会場へ20名で国試阻止デモ。

   『厚生省や大学当局の間には、インターン全廃が軌道に乗る来春になれば、国家試験ボイコット闘争は緩和されよう、という楽観的な見方もあるが、、、、インターン全廃を皮切りに、医局員の有給化や、大学卒業後の実施研修や医学研究全般について改善を要求するというのが青医連の方針であり、これには教授を中心とする医局が、医局員の研究テーマからアルバイトなどの生活面まで、すべてを握っている現医局講座制を崩壊させ、自主的な研究を望む意図も含まれている。』(週刊朝日67.3.13)

● 3月12日 北大・「北大では一応全員が願書を提出したが学生聞では、全国の趨勢に遅れるのではないかという不安も生じ、三、四年目学生はクラス決議で国家試験受験阻止を決め、そのために三月の札幌における受験者は10名に減った。しかも一部の学生及び研修生が「説得ピケ」で受験を妨害し、一名が逮捕されるという事態が生じた。
この時期になると、政府側も医育者側も、現行インターン制度は廃止すべきであるという点で意見は一致してきたが、しかしそれに代るべき卒後教育研修に関しては統一された見解がなく、学生、実地修練生の聞には、不安と不満が募るばかりであった。」(北大百年史, 部局史)

● 3月12日 東海ブロック・国家試験受験拒否は全国的には立ち遅れをみせたが、三重、岐阜、名市・名大の順にボイコット決議。全国平均87%と同率の受験拒否で受験者は三重3(内2名は41年度以前の卒業)、岐阜6(内1は留学生)、名市2(内1名は千葉大へ出るもの)、名大8名のわずか19名。
朝6時まず三重大の40名が、そして7時頃より名市・岐阜・名大の説得員が会場である国立病院正門前に集まり全国各地から押し寄せた60数名の受験者に説得、呼びかけを行い7名の賛同者を得たが、厚生省は陰険にも機動隊70名、中署員50の計120名もの警察官を配置。
午前10時、矢場町で医学生を加えて300名で抗議集会を持ち大津橋から国立病院、厚生省東海北陸医務局前まで示威行進をしたあと4大学の代表が医務局長に厚生大臣宛の抗議文を手渡し、一時散会、午後1時より名大講堂で「よりよき医療・医学教育を求めて」のテーマで討論会を持ち、今までの行動の総括と反省、現状分析、今後の方針などを話し合い、午後6時過ぎに散会。

● 3月12日 熊本大・国試阻止。国立病院まで白衣デモ「整然として行儀の良いデモ」と新聞に書かれる。             
ある時は厚生省までデモし、また京都のお寺で夜を徹して全国大会が開かれた。旅費は級友のカンパに頼った。とうとう国家試験ボイコットを決めた。8人の女性全員を含め、ほとんどがボイコットした。昭和42年春の国家試験は国立熊本病院(当時)で行われたが、当日われわれはそこまで駆けつけ気勢を上げた。 (熊本日日新聞 2010年04月23日熊本保健科学大学学長 小野友道さん)

● 3月14日 慶応・第4回学生大会。16日から4月4日まで行われる期末試験と、22日予定の卒業式ボイコットを決議。

● 3月16日 慶応・研修協約スト中のスト破り期末テスト、受験は1~3年生197人中2名のみ。

● 3月17日 東大・スト参加者に戒告処分。本田勝紀・山田真の両名には卒業式前日に無期停学処分。

● 3月21日 M3連絡会議。

● 3月22日 北大医学部・学生自治会と教授会との共催という形で、卒後教育研修の問題について「公開討論会」が聞かれ、同年一月に全国医学部長(医科大学長)会議インターン問題小委員会および全国大学病院長インターン問題委員会が公表した「臨床研修に関する試案」の10項目について、教官、副手、実地修練生及び学生の聞で話し合いが行われた。またすでに述べたように、同年五月にはいわゆる「登録医制」に関する答申がなされ、学生側は「登録」によって医師に格差が設けられるという理由で強く反発し、五月二十五日には医学連全国統一行動をとることになっていた

● 3月23日 関ブロ。於・東京。

● 3月23日 東大・入局者会議。

● 3月24日 東大・青医連支部、入局者会議スト突入。

● 3月24日 東大当局・青医連東大支部を認める。全学大会で「覚え書」調印。

● 3月24日 M3連絡会議。

● 3月27日 東大医学部・1月末よりのインターン闘争、無期限スト中だったが、当局が青医連東大支部を認めたためスト解除。春休みに授業を行う。

● 3月27日  IUS第九回大会〔ウラソバートル〕、全学連(民青同系)代表参加、日本への調査団派遣・書記局員石井保男の解任を決議、中国派三カ国ラテン・アメリカ十一カ国代表不参加。

● 3月28日 東大・8世代(S38・39卒生)共闘会議結成。

● 3月28日 医学連中央執行委員会。(於・医科歯科)

● 3月29日 医学連拡大中央委員会。研修体制の追求。

● 3月 ×日 福島医大・青医連研修放棄。

● 3月 ×日 岡山大・スト権確立。

● 3月30日 関東ブロック書記局、総括会議。

● 3月30〜31日 医学連拡大中央委員会不成立に終わり、中執の自己批判。

● 3月31日 M3連絡会議(於・医科歯科大)。

● 3月 ×日 文部省は、無給医に一日400円の診療協力謝金を支給することを明らかにした。しかしこれは根本的解決からは程遠いものであった。北大百年史部局史

● 3月 ×日 関西医大不当処分闘争・医学連より現地支援団を派遣、日本医大・大阪市立大などから長期宿泊オルグ。大学門前ビラまきなど。

● 3月 ×日 − 札幌医大・左翼学生により、大学院入試阻止が行われる。これが紛争の始め。以後、教授会との団交、校舎建物の封鎖、スト決行、学生各派間の対立、主導権を握った革マル派の勢力拡大、学生の処分、処分反対スト、暴力学生の教授会乱入、教授会の学外での開催、授業妨害など、遂には学内に機動隊を常駐するなど学の内外を混乱に陥れ、それに一部職員の学生への同調などもあり、大学の運営は常軌を逸するものがあった。
しかし紛争も次第に鎮静化し、3年6カ月後の昭和47年(1972)10月には漸く終熄するに至った。大学改革とは何だったのか。その間の経緯は年表には書き尽せないので省略する。詳しくは『札幌医科大学創基三十年史』の河邨文一郎の文によられたい。
平成17年4月1日北海道医報第1039号


● 4月 2日 41青医連大会(京都)。

● 4月4〜6日 医学連関東ブロック合宿開催、11校40人参加。女子医・順天学寮闘争も討議。

● 4月 8日 42青医連第一回大会(於・医科歯科大)。36支部加盟。インターン制度や医局制度が抱える構造的矛盾が次々に暴露されていき世に知られるようになった。。インターン制度は、国家試験を通った卒業生はまずインターンとして1年間を医局で働くことが義務づけられていた制度。「研修医」と言われ、無給で深夜や休日の緊急の当直医として下働きに使われていた。これに講座制と云われる徒弟制が結びついていた。「青年医師連合」が組織され、4月から医局研修を「青医連」による自主カリキュラムで行う等抵抗し始めた。

● 4月 8日 慶大医学部・青医連支部学生大会、新学期からのストを決議(20日無期限スト突入)。

● 4月10日 慶応・医学部再び研修協約闘争でスト突入。41青医連の要求。(@、身分として研修生。A、カリキュラム・人数・期間は話し合いで決定。B、青医連ルーム。C、バイト日の公認。D、同意事項は文書で交換すること。

● 4月10日 東大・「医学部スト解決す、覚え書きに署名」(『鉄門だより』記事より)。

● 4月15日 慶応・医学部創立50周年式典。41青~M1で式典へ抗議デモ。

● 4月15日 関ブロ。(於・東大)。

● 4月16日 青歯協結成。青歯協への機関決定なしの歯学連原委員長の出席が原因で日大歯・付属歯衛士学校の学生会が歯ゼミ非協力へ。日大歯学部が今年の第7回歯ゼミ主管校を降り、MDが主管。青歯協とは病院内実習などで出てきた問題を軸に歯学連運動から生み出されてきた政治課題にも取り組む全国単一の組織。
 
● 4月20日 関ブロ。(於・東医)。

● 4月22日 日本医大で団交。

● 4月26日 日本医大学内共闘会議と教授会団交で7項目研修協約に了諾。

● 4月27日 日本医大教授会名で「昨日の同意は私見であった」と回答。

● 4月28日 青医連・医学連・第一波仮免許粉砕闘争・仮免粉砕―内規攻勢拒否の戦いの中で国ボ体制の維持。日比谷野音からデモ、文部省前座り込み3人検挙(通算23人)。日大医学部からの600名を含めて研修協約闘争を戦っている日医、慶応など1500名が参加。機動隊に圧迫され日比谷公園になだれ込んだとき、権力への怒りではなく『酷いじゃないか、指導部は責任をとれ』という参加者の声が一部にあった。

● 4月28日 日本医科大学、研修協約・イ制廃止を要求したところ教授会の背信により無期限ストに突入。7世代スト中の自主カリ・スト座で『戦艦ポチョムキン』『キューポラのある街』を上映。医進中央委員会主催で『大地の歌』上映。

● 5月 ×日 医科歯科・米資導入阻止で2ヶ月スト始まる。

● 5月 ×日 福島・41青医連は各科教授をオルグ、医学生からも署名を集める。5月から付属病院内研修開始。

● 5月 6日 関東ブロック会議(於・MD)。

● 5月 7日 <阪大支部発>阪大医学部自治会戦へ民学同機関紙「民主主義主義の旗」掲載。 「インターン制完廃、仮免案国会上程阻止を大衆的運動でかちとろう。学生ホール、サークル室を保障するため本部に記念館を学生に開放させよう。五月ゼミを通じ、大衆的運動の中で自治会選挙の勝利を!」 <岡山大学支部発> これまで社学同が多数派であった医学部でも、社学同の分解の中で統一会議への指導権の移行は、ほば確実である。医学連のインターン制に対する闘いの重要性を考えるとき、医学部自治会選挙での勝利は決定的に重要である。

● 5月 8日 慶大医学部・青医連支部学生大会、新学期からのストを決議。200で学部長缶詰(20日無期限スト突入)

● 5月 8日 「医者づくり懇談会」へ青学中央闘争。

● 5月 8日 慈恵医大学生新聞 新しい学生会館の学生スペースが地下にとどまると特集。

● 5月10日 参議院予算委員会で社会党の小柳勇が米軍資金問題を取り上げ、研究成果が米軍に利用される恐れがあるとして政府を追及した(読売新聞J1967年5月20日付朝刊)。

● 5月11日 青医連主催・全国無給医局員対策会議〔大阪大〕、文部・厚生両省の諮問機関卒業生研修に関する懇談会≠フ答申に反対を決議、闘争方針を検討。

● 5月12日 青医連・医学連共催で仮免阻止へ第二波統一行動・医師法改正案国会上程阻止決起集会〔清水谷公園〕に八百名参加、横8列で行進をし、国会請願コースを途中旗竿を取ろうとする機動隊と正面から激突し、突破してジグザグ・デモで国会へ向かう。日韓以来の国会前座り込みを10分間行いシュピレヒコール。更に文部省前でも立ち止まってシュピレヒコール。2名の検挙者、更に厚生省前では殴る蹴るの機動隊の暴力に指揮者2名が検挙。日比谷に押し込められる。慶応はストのため参加できず。関西でも500名でデモ。

● 5月12日 徳島でも仮免阻止へ第二波統一行動で市中デモ

● 5月13日 東大医・当局はスト破りを説得ピケで阻止した41、42年度卒業生3名を大学内の研修の自由を侵したという理由で無期研修停止処分。

● 5月13日 慶大医学部学生大会、卒業生の研修権剥奪通告に屈して3月以来のスト態勢解除。(スト権凍結、処分凍結を決議)

● 5月14日 東大青医連・医学部学生百名、米軍資金導入問題で教授会に説明を要求して坐り込み

● 5月15日 日本医大・全学大会で13日の慶応医指導部スト解除を徹底的に批判。

● 5月20日 慈恵・学4クラス「イ」委員会は市川市で合宿。20年にわたるイ闘争を学ぶ。

● 5月21日 医学連中央執行委員会・M4連絡会議。

● 5月21日 東大シンポ・「医学部60日間闘争と青年医師運動」で青医連は「教授会自治は幻想」と指摘する中で、内部の弱さを克服していった。

● 5月22日 東大・五月祭・医学部ではいわば「戦う五月祭」としてもたれた。シンポ「明日の医療をどうするか」は、法大講師吉田秀夫、杉並組合病院長川上武、東大講師高橋晄正、都正連事務局長我伊野徳治の各氏が講演と討論。(医薬ジャーナル 67.7)

● 5月22日 阪市大。医学部が資金提供を受けていた大阪市立大学で、22日に学長と医学部長が米軍援助による研究を行っていたことを自己批判して「今後この種のヒモっき研究は一切しない」との確認書を学生代表に手渡した(毎日新聞1967年5月23日付朝刊)

● 5月23日 東京医歯大、青医連の学生三名、インターン制廃止を要求してハンストに突入。
病院外来外側にテントを建て、ハンスト者を囲み白衣で座り込み。

          5月24日 「朝日訴訟」は最高裁で「上告人の死亡により終了した」
「生活保護は低すぎるが違憲ではない」との不当判決が出された。

● 5月24日 ★大阪市立大医学部、学長との団交で米軍資金援助を受け入れていた医学部細菌学教室に契約破棄勧告を確認さす。「各学部教室の研究の自由を尊重しながらも、軍事協力と見られるような研究については、大学全体の問題として、協議会で話し合い、疑惑を招くようなことは一切避けたい」−渡瀬談話(『朝日』67・5・24)

● 5月25日 北大 医学部自治会、登録医制度に反対して白衣姿で市内デモ。医学連全国統一行動にあわせたが、北大では当日学生大会が成立しなかった。

● 5月25日 医者懇5・23最終答申粉砕統一行動、医学連・青医連共催。清水谷公園に2000名参加。国会前、厚生省前座り込み。北海道100デモ。関西700デモ。

● 5月 ×日 大阪市立大学では五月下旬に第六回自治会中執選挙が闘われ、過去二年間、自治会多数派として、市大自治会の"統一と革新″を担ってきた統一会議(民学同)は医学部でも中執1名を獲得。

● 5月 ×日 MD・米軍資金導入反対の二度に渡るスト。

● 5月27日 京大・部局長会議も米資辞退決議。医学部・理学部・ウイルス研究所が援助を受けていたと報じられた京大でも27日の部局長会議において「米軍からの研究費援助は好ましくなく辞退するとの公式見解をまとめた。(産経新聞J1967年6月25日付朝刊)。

● 5月27日 阪市当局・米軍資金を今後一切受け取らずと言明。5月19日の文部省発表によると日本の大学は延べ96件,3億8千700万を支出。

● 5月28日 医学連は全学連3000名・反戦青年委員会と共に砂川現地闘争に参加。重傷者の救対活動にも参加。慈恵医大16名派遣。

● 5月28日 東京医大・「流血の砂川」、映画と講演会を持つ。

● 5月30日 東京大・M4クラス会のスト破り追放パトロールに対して延期された卒業式前日に本多‐山田の2名無期停学、2名譴責の処分。撤回闘争を組めず。

● 6月 2日 関西ブロック会議(於・阪市大)。

● 6月 3日 朝日新聞に東大物療内科に米軍資金導入問題発生を告げる記事。「物療内科に米軍資金導入!人殺し研究をやめよ」の病院前立て看板写真。慶応・阪市・北大などで米資返上。
               
          しかし、奈良医大などではその後も日本脳炎ビールス発生研究など米資を受け取り続けた。
            奈良医大1967  5714ドル
                1968 10144
                1969  7090
                1970  8199
                1971  1696

● 6月 4日 医学連中央執行委員会(於・首都)。

● 6月 4日 新潟大医学部卒業生インターン拒否。

● 6月 4日 41・42青年医師連合合同書記局/41・42青医連合同大会議案「青年医師運動の目指す方向」文書。

● 6月 7日 関西ブロック会議(於・阪市大)。

● 6月 9日 青年医師連合入局者会議東大支部/「研修医に対する研修停止の不当処分反対! あらゆる弾圧内規を粉砕せよ!」文書。

● 6月 9日 慈恵・学館自主運営。

● 6月 9日 医学連関西ブロックは3府県学連統一行動に参加。(於・円山公園)

● 6月 ×日 全日本医学生連合/「医学・医療の軍事協力に徹底した痛打を浴びせよ!」声明。

● 6月11日 青医連主催、全国無給医局員対策会議(於・阪大)文部・厚生両省の諮問機関「卒後研修に関する懇談会」の答申に反対を決議、闘争方針を検討。

● 6月14日 東大青医連・医自治会学生100名、米軍資金導入問題で教授会に説明を要求して坐り込み。

● 6月15日 仮免国会上程阻止医学連統一行動。医者懇最終答申案阻止を目指す医学連統一行動が清水谷公園で開催され、デモ行進の後厚生省前で座り込み敢行。関東1500、関西1200、長崎でも市中デモ、北大・札医200デモ。

● 6月15日 女子医・医学生大会200人参加。カリキュラム委員会を設置。医学連統一行動へ参加。

● 6月15日 東京医大は医学連統一行動へ各学年クラス討論を踏まえて東大久保キャンパスで250名が授業ボイコットを行って学内集会をおこなった。最終的に清水谷公園のデモに参加した東京医大生は80名。

● 6月15日 MD・学生大会で学部授業のC繰り下げ反対。

● 6月17(土)〜18日 医学連第十四回全国大会〔於・東京医歯大〕、17日はインターン闘争を総括、18日は登録医制反対等闘争方針を決定、400人結集。 (年間収入38万円、支出46万円)。 
〔総括〕ベトナム反戦闘争、特に10・21闘争を中心とする戦いの総括。中大・明大を中心とする学費闘争の総括。全学連運動総括。3・12闘争を頂点とするイ闘争の総括。41・42青医連総括。東大・医科歯科大闘争を中心とする研修協約闘争の総括。医ゼミ・サマーキャンプ総括。その他。 〔情勢〕国際・国内(学園情勢・教育情勢)。〔医療情勢〕  〔任務方針〕砂川基地拡張、小選挙区制反対闘争を中心にした政治闘争の課題。青年医師運動と全学連運動。仮免・専門医制反対闘争の任務。9月国試阻止闘争、研修協約闘争の課題。医ゼミ・サマーキャンプについて。最後に闘う執行部を選出。
民青諸君の対案に対しては国ボを妨害したことや東大・医科歯科闘争でスト破りをしたことに抗議が集中し、彼らの案は医者懇と同じで反対運動を行えないことが明らかになり否決された。
砂川闘争に関しても共産党の主張する反米闘争ではベトナム戦争に加担をしている佐藤政府への批判がない。また一党一派でセクト的な民青全学連ではなく再建全学連が必要だとし、慈恵・東大・日医から民青系大学執行部に「東大闘争以外は全て敗北した」「研修協約闘争は理論的にも実践的にも破産している」という事実誤認に謝罪と訂正を要求する動議が出されたが対案が否決されているのでそれ以上の問題にはならなかった。
慈恵医大学生新聞317号によると「中央執行委員15名の選挙が行われ、慈恵から学部1年の池亀君が昨年度に引き続いて最高得票で再選出された。同君の医学連での一層の活動を期待してやまない。」とある。

● 6月20日 日本医大・対学部教授会徹夜団交・会場前廊下座り込みに白衣の暴力団(医局員)なぐりこみ教授連れ出し。第16回全学大会で54日間の研修協約スト解除決議、敗北。後に日本医大同窓会発行の「日本医大50年史」は感情的に学内共闘会議を非難。

● 6月20日 慈恵医大・拡大「イ」委員会。

● 6月24日 福島・登録医制粉砕市中デモ。

● 6月25日 原潜寄港反対闘争。全学連・反戦青年委員会と共に医学連は戦う。東京医大学友会70人を横須賀派遣。

● 6月26日 MDP・講演会「健保の問題点」講師は前医学連委員長木下信一郎。

● 6月26日 名大・400名を集めた医学部全学懇談会で小児科教授選への疑問が噴出。

● 6月29日 青医連・医学連統一行動、登録医制反対を要求して千名で厚生省にデモ、五名逮捕。
同日、東京医歯大、登録医制反対で全学スト。登録医制度が閣議に上呈。

● 6月29日 京大医・全学ストに合流できず(30日団交で総長自衛官の入学は好ましくない″と言明、部局長会議で九月以降入学拒否声明)

● 7月 2日 43青医連期成会議(43青医連結成を任務とする全国M4 連絡会議)。

● 7月 4日 医学連関西ブロック400名で仮免粉砕に決起。

● 7月5〜8日 鳥取大医学部学生会、学生寮規定適用反対・入寮拒否処分撤回等を要求して管理運営問題で授業放棄・試験ボイコット。 

● 7月 5日 北大医、無期限スト権確立。仮免国会上提時より発動。学生大会で「登録医制」反対、「無期限を含むストライキ権」が確立された。

● 7月 5日 京府医大・登録医制反対で無期限スト突入。この日以後、関西ブロックでは京大・関西医大・神戸・阪医・奈良、それに徳島、関東では東医が次々にストに突入し、10日、11日の中央闘争を保障した。

● 7月 6日 関東ブロック国会抗議行動・2時清水谷。

● 7月 7日 東京医大・和歌山県立医大・徳島大医学部、で全学スト。

● 7月 8日 京都府立医大・京大医学部も登録医制反対スト突入。

● 7月 8日 慶大医学部・青医連支部学生大会、新学期からのストを決議。

● 7月 8日 全国医学生砂川基地拡張阻止総決起大会。(於・医歯大)

● 7月 8日 京大・登録医制反対でスト突入。

● 7月 9日 全学連三派6000の砂川闘争に、砂川現地へ慈恵など医学連、医科歯科よりバスで出発。挺団を組んでデモ、日医大の安保時自治会の臙脂(えんじ色)の旗を機動隊に奪われる。

● 7月10日 仮免国会上程阻止闘争。青医連・医学連共催・医師法改正案国会上程阻止決起集会〔清水谷公園〕に北は北大から、関西からの100名の上京団を加え、1000名参加して国会デモは横10列にも15列にも、衆院議員面会所前坐り込み、4名逮捕。闘争の後、中央執行委員会を開催。関西中心に10数校でスト。

● 7月10日 京府・東医・福島・無期限スト突入。京大・無期限スト決議・同盟登校。
阪医・P1・2でスト。

● 7月10日 42青医連は京大・京府・阪大・和歌山で無期限スト権確立。

● 7月10日 徳島大教授会は仮免反対決議。

● 7月10日 北大登録医制度に反対してインターン生がスト。北大医学部250名市中デモ。北大・医学部教授会は仮免反対決議。

● 7月11日 北大医学部自治会も同調して無期限スト。

● 7月11日 医学連中央闘争へ2000名参加。福島医大250名の大上京団。東京医大の黒ヘルが先頭を担い、ジグザグ・デモ。国会前では横15列の座り込み、厚生省前では横30列の座り込み。指揮者を務めた慈恵の池亀信二君が逮捕され、2泊3日拘留された。
これら一連の闘争過程は医学連史上例のない20名の逮捕者を出す激しいものであった。全国で述べ18校スト。

● 7月14日 関西ブロック闘争。(於・京都)

● 7月14日 慶大医学部学生大会、卒業生の研修権剥奪通告に屈して三月以来のスト態勢解除

● 7月14日 関西ブロック闘争。(於・大阪)医務局前座り込み。

● 7月15日 医学連中央闘争。

● 7月16日 青医連全国大会。(9月国試ボへの意思一致)。

● 7月16日 民青全学連大会後、全学連医学生連絡会議(全医連)第3回全国大会。「何故に医学連を民主化できないか?」

● 7月18日  鳥取大医学部、学寮規定適用反対・入寮拒否処分撤回等を要求してスト突入。

● 7月20日 慶大医学部・青医連支部学生大会、無期限スト突入。

● 7月21日 札医・北大医と共に登録医制反対デモ。200参加。(学生・青医連札幌統一行動)

● 7月25日 日本医大・学生14名に無期停学を含む研修協約闘争報復、計27名処分。(日本医大50周年史・同窓会刊)

● 7月26日 医学連中央書記局・横市医学部学生委員会。第10回東医体(横市主管24〜29日)参加学友に29日の医学連中央闘争への結集を呼びかけ。

● 7月26〜27日 医学連関東ブロック箱根駒ケ岳合宿に処分が出た日本医大からも参加。
東大・MD・女子医・東医など多数参加。

● 7月29日 医学連中央闘争(於・日比谷公園)3時集会・4時半出発。

● 7月29日 医学連中央執行委員会(於・MD学生ホール)

● 7月31〜8月1日 医学連第二回中央討論集会。「9月国ボと研協闘争。」(東京駅・国労会館)医学生・青年医師200名参加。

● 7月 ×日 札幌医科大学 校舎12月まで封鎖。

● 7月 ×日 医科歯科大・臨時国会時に於けるM4の登録医法案粉砕無期限スト。

● 8月3〜4日 反帝医学生戦線結成大会。

● 8月25日 MD・新島学生部長名で、医学部病院5階にある学生休息室撤去の告示。産婦人科教室研究室として使うから学生は臨床講堂前の椅子を休息用に使うこと。

● 8月29日 MD・学部自治委員会、学館委員会、インターン委員会各執行部の共同でこの処置は「国大協路線」であると声明文。@病院建設計画には学生の厚生施設はおろかゼミ室などの教育施設も入っていない。大学病院営利化である。A夏休み中、学館、学生厚生施設、で学生部長とは話し合ってきたが学生には何も話さず「告示」は学生自治無視であり、国大協路線だ。B告示の撤回と学生に厚生施設に関して説明すべきだ。

● 9月 1日 医学連中央執行委員会(於・MD)

● 9月 2日 医学連中央委員会(於・MD)

● 9月 3日 全国インターン委員会連絡会議(於・MD)

● 9月 ×日 医学連関東ブロックによる日本医大前、処分撤回を呼びかけるビラ。参加者の顔写真を日医・高橋事務総長の手で全国医学部厚生補導課へ配布された。

● 9月 ×日 慈恵医大・電柱のステ貼りの3名が逮捕され、翌日釈放される。

● 9月10日 青医連・医学連共催・9月医師国家試験拒否闘争、東京〔小泉公園〕に150名結集して駒沢大にデモ、5名逮捕、大阪〔藤井寺駅前〕、100名結集して会場の四天王寺女子大にデモ、広島・福岡で100から300名の集会・デモ等。しかし全国で一割、東大・横市のみボイコット。京大などを中心とする200名を除いて41青医連は全員が受験した。400円有給化反対闘争。春の拒否組も大方受験をして外見的には一旦沈静したかのように見えたが、医学生・無給医の戦いは断絶することなく次第に国家制度の問題から学内の管理運営の問題に焦点が移り、学園闘争を爆発させる導火線となる。

● 9月 ×日 MD・病院内学生控室奪還、米軍資金導入反対闘争。

● 9月14日 MD・M4より学生部に厚生施設問題でクラス決議。

● 9月18日 鳥取大医当局、7月のストで14名の処分。学生会は19日臨時大会・学生処分撤回を決議。

● 9月19日 鳥取大医・学生会、試験中にもかかわらず、臨時学生大会に2/3が出席し処分撤回を決議。

● 9月20日 MD・M2より学生部に厚生施設問題でクラス決議。

 9月20日 「7・25日医大で大量不当処分ださる。むき出しの営利主義」全日本医学生新聞囲み記事。第50号。
同紙、1面トップ記事「国ボ・非入局6ヶ月契約更新で新たな医師存在様式の樹立を、43青医連の課題と展望」と題して43青医連の組織方針を述べている。
@ 大学結集(原則として自校結集)。
A 国ボ(現行イ制度、登録医制度下)
B 登録医・専門医・大学院・学位のボイコット。
C 全国自主調整(インターカレッジ構想)。
D 非入局(ローテイト・6ヶ月契約更新)。
E 長期カリ(3~5年)の設定。
F 研修項目の明確化
G 市中病院での労働力自主管理(青医連指定病院構想・研修・労働の一本化追求・労働協約締結)
H 全国統一共済制度の導入(自主防衛・相互扶助機関)
I 単一青医連の実体化(大学病院・市中病院での41.42.43を含めたチーム編成)
J 他職種医療労働者との共闘関係。
K 第二次研修協約。
 ○ 全国横断組織・青医連の承認。
○ 自主調整人数の受け入れ。
○ カリキュラムの受け入れ。
○ 全員有給化の理念追求。
○ 研修委員会(教授会代表と研修医で構成)。

● 9月25日 全日本医学生連合中央書記局・医学生運動資料第1号「健保問題」発行。

【 W 健保体制の抜本改革と医学生運動。−大病院の肥大化と開業医の没落− これらの健保改正の方向性は、保険制度の一元化を指向しつつ、「受益者負担の原則」により健保の赤字全てを労働者人民に転荷している。総医療費のほぼ8割は製薬産業、医療建設、機械へ流れていることは、現行保険体制が、労働者人民から吸い上げた1兆4千億円の大半を資本家へ流通するパイプに過ぎない。かかる把握から今後我々の社保闘争は、「国と資本家負担による社保拡充要求の」のインポ路線のおしゃべりではなく、職場での反合理化・賃上げの実力闘争を社保闘争の第一の環としなければならない。医学生運動内にあっては、社会保障の本質把握を踏まえての、健保体制、年金制度の徹底した暴露と、社保闘争を通じての医学生運動と、労働運動を結合させる環として、統一戦線形成の理論的実践的介在物として位置付けなければならない。 】

● 9月26日 MD・新島学生部長と土橋学生課長と学生30名で厚生施設問題を話し合うが進展なし、確認されたのは、学生厚生施設が一切ないのは教授会にかけ早急に設けるよう話す。A学生の厚生施設問題、当事者は学生自治会だが、日常的な交渉相手としては学館委員会とする。

● 9月29日 国立系無給医スト。全国入局者会議を中心にして400円診療謝礼金反対構想が提起された。

● 9月29日 慈恵医大学生委員会は42青医連と合同要望書を提出。当直料3500円要求など。

● 9月29日 医学連・青医連統一行動。東大・MD・日医等150名でデモ。第二次研修協約闘争への導入口として提起された。教育の名の下の労働収奪を許すな。「有給定員化」ではなく、「全員有給化」へ視座を持って未だ東大・医科歯科・慶応・慈恵・日医しか戦えていない研修協約闘争を全国化!

● 9月29日 MD医学部学生大会・新島学生部長の厚生施設問題回答書。学生はあくまでも大学においては被教育者だという内容。

● 10月 1日 43青医連自主調整会議。

● 10月 2日 MD・医歯大新聞会。お茶ノ水祭講演会「個体・家族・共同性としての人間」(於・臨床第二講堂)講師・吉本隆明

● 10月 ×日 福島医大・医局解体への火の手を恐れ、学長・学生部長「登録医制反対」を表明。

● 10月 4日 MD・学生控室撤去抗議学生大会。教授会前座り込み。

● 10月 8日 医学連は全学連の隊列で羽田にて佐藤首相訪ベトナム阻止闘争(ジッパチ)を戦う。高速道路上・鈴が森ランプで機動隊の阻止線を強行突破。東大、医科歯科、東医、東邦、慈恵などから参加。慈恵の木野村君、高速道路上で角材輸送中を検挙される。日本医大学友会は市川市の旅館で合宿中、3名が遅れて参加。
京大生の山崎博昭君の機動隊による撲殺に関しては医歯大新聞152号が詳報をしている。

    10・8 ベトナム解放戦線のカイロ大使館は羽田闘争に熱烈な連帯の意を表した。北ベトナム労働党機関紙ニャンザン、中国の北京放送もまた支持表明を行った。
         日本共産党は当日は多摩湖畔に8万人を集めて赤旗祭りに専念、翌日からトロッキストの挑発反対キャンペーンを行った。

    死体検案 (1) ―死亡した山崎君のイタイは 午前11時過ぎ弁天橋付近の牧田病院へ。牧田病院は「運び込まれた時には頭から血を噴出し、ほとんど即死状態。頭の骨はメチャメチャに壊れ、ほかに顔や腹部にかすり傷が認められたが、直接の死因は頭蓋底出血と骨折。頭の骨折は何かに強く圧迫されたものでタイヤの跡など認められない。」 
院長の記者会見は正午過ぎに行われた。
             また解剖の為に運ばれた慶応病院でも一目みて「これは頭蓋底骨折によるものだ。なにかに打たれての骨折だろう」と傍に居た社会党の議員にうもらしたという。また小長井弁護士の『タイヤ痕などない。上半身はきれいで潰れていないが頭の骨が折れて陥没していた。』という所見はこれを裏ずけている。
         (2) 「8日に行われた警視庁鑑識課の発表は『死因は胸がつぶれまた胸腹部内臓が損傷した。右頬に骨折、また胸腹にも不完全骨折が見られる。右肩から前胸部にかけて長さ25cmの継続する表皮の剥奪があるがこれはタイアによると思われる」とし、
            学生の運転する「放水警備車の前輪と後輪に二度ひかれたための死亡である」とした。
            警視庁ではこれを受けて犯人学生のモンタージュ写真を作り、司法解剖の終わる前からマスコミを使って大々的に宣伝をしたが、明らかに(1)の牧田病院長らの見解と対立している。
         (3) 9日慶大法医学教室で行われた司法解剖では「タイヤの明らかな痕跡はないが、タイヤでついたと見られるような負傷が顔の左側にあるので、このような状況から重量にあるものにひかれて死亡した可能性が強い。」とはっぴょうしたが、これは(2)の警視庁鑑識課の発表「肩から胸にかけてのタイア痕、胸、腹が潰れている。」と全く矛盾している。
            しかもこの解剖が遺族を始め、総評弁護団、山崎君が籍を置く京大法医学教授上田政雄氏の立会い要求も拒否して行われたということは注目してよい。なお山崎君の父親は1時間半ほど立ち会ったが、その後7時間に渡る解剖から締め出された。しかもこのことが「気持ちが悪くなって自分から退場した」と報じられている。
         (4) 以上は遺体の状況から見た死因の問題点であるが、この他にも山崎君の死因を疑問視する事実が数多く提出されている。例えば警視庁の5000枚を超える現場写真、また弁天橋に向けて固定してあったビデオテープのいずれにも給水車が山崎君をひいた際の写真がないこと、また、11時過ぎ機動隊側にあった山崎君と見られる学生が1人、弁天橋の欄干に押し付けられてメッタ打ちされ、血まみれになって倒れ付したのを目撃した人が居ること、そのとき同時に警棒を振るっていた機動隊員が「死んだ死んだ」と口走りながら、指揮官の所へ駆け戻っていたのを目撃した人がいる等々。
                   医歯大新聞152号

           小川プロの羽田闘争記録映画「現認報告書」には現地で私も協力したが映画では京大青医連の羽藤医師が証言を加えている。

● 10月9日 京大文学部と医学部・主催 山崎博昭君追悼集会に千名参加、のち府学連集会に合流。

● 10月12日 日本医大進学課程・田上寮監(哲学)、寮友会で不信任される。

● 10月×日 全日本医学生連合中央執行委員会/10.8「山崎博昭君虐殺抗議! 官憲とマスコミのフレームアップを打ち破り、10・21(佐藤サイゴン入り国際反戦闘争)」闘争を成功させよう!」との声明。

   国大協:国大教は剣木文相との会談で、知識人を自他共に認める東大総長=大河内一男をして「大学の使命である『教育と研究』を阻害するものは、何であれ排除しなければならない。学生の自治活動が阻害要因であるならば当然排除されるべきだと考える。」

● 10月15日 反帝医学生戦線・(於・MD)社学同医学連委員会。

● 10月15日 名大で全国医学部無給医対策委員会・12月1日から7日間、全国無給医統一行動が提起された。

● 10月17日 医学連・山崎博昭君追悼中央闘争に参加(日比谷野音・6000人)。鶴見俊輔氏・樺光子氏らを発起人に追悼集会後、東京駅まで雨中デモ。
 
● 10月19日 大阪医大・看学生。強制的夜勤などで自殺を図る。当局退学を強要。

● 10月19日 横市医進新聞会主催・ベトナム反戦映画『真実は告発する』1年26名、2年19名参観。上映後4つのグループに分かれジスカッション。その後20分全体討議。自治会から10・21ヴェトナム反戦国際統一行動参加が提起され、翌日1年生でクラス討論が行われ、先生から授業を貰い集会に。2年は当日授業がないため同盟登校で集会へ。

● 10月20日 MD・学生大会。「佐藤のサイゴン入り抗議・虐殺弾劾」で(賛成146、否48、保留23、棄権73)。学生休息室一つない現状に「病院付属大学」だ、昨年ストへの報復で「大学の自治は教授会自治」の表れとの視点で厚生施設に関する特別決議も。

● 10月20日 全日本医学生連合/「医学連臨時大会に向けて」文書。

● 10月 ×日 青年医師連合入局者会議東大支部執行委員会/「10・21国際反戦=10・26東大病院職員組合休暇闘争を支援せよ」声明。

● 10月21日 医学連・国際反戦デーを取り組む。MD・学生大会成立し反戦スト。東大・新潟・京大・東医・京府・福島・慈恵等で多数が10・21反戦闘争へ参加。鳥取大医は米子の反戦を結成。青医連が医療団。京府・和歌山・京大スト。
大阪市大・授業放棄。

● 10月21日 横市はMガーデンにおいて1年を中心に60名、1、2年有志がおにぎりを用意する中、3つのスローガンが掲げられ各人の意見が述べられた。@雨リアkのヴェトナム侵略反対。A医学部施設拡充、研究費の増額を要求B第18回大学祭を成功させよう。集会は10・8佐藤訪ベト阻止羽田闘争支持の基調であった。集会終了後、約40名の学友が市長に学部の施設要求で面会、団交をしたが建設的な回答はなかった。

● 10月21日 慈恵医大・30数名参加。(慈恵医大学生新聞317号10月30日)

● 10月 ×日 京大医自・ビラ「学友山崎君の虐殺に抗議し、反戦闘争の高揚を勝ち取れ!」

● 10月 ×日 全日本医学生連合中央執行委員会/「山崎博昭君虐殺抗議! 官憲とマスコミのフレームアップを打ち破り、10・21(佐藤サイゴン入り国際反戦闘争)」闘争を成功させよう!」

● 10月25日 医学連関西ブロック会議。

● 10月25日 反帝医療戦線/「医学連総括の視点―東大41の総括から」文書。

● 10月29日 全日本医学生連合臨時大会(MD)。第三次研修協約闘争を!中執提案議案、相対多数ながら全て採択されず、11・5再度大会へ。

● 10月29日 慈恵・愛宕祭で「戦艦ポチョムキン」「キューポラのある街」を新聞会が上映。

● 10月 ×日 横市医進・学生に実習費の押し付け(一人年間5000円)に対して、予算増額要求で医進自治会がスト権を確立。

● 10月 ×日 横市・ニ教室に米軍資金が入っている様を暴露。

● 10月 ×日 新潟医自・『一〇・二一に山崎君虐殺抗議全国ゼネネストで起ち上ろう!』声明文に連署。全国学生自治会共闘 他(民学同系)

● 11月 2日 医学連関西ブロック会議。(於・大阪市大) 

● 11月 5日 医学連臨時大会(MD)。48全加盟自治会の参加で開催され、任務方針を採択!永続「国ボ―非入局」として青年医師運動の組織路線を確定した。

● 11月 ×日 全日本医学生連合中央書記局/「11・30登録医制国会上呈阻止医学連統一行動へ向けて」声明。

● 11月11日 反帝医学生戦線・MDに結集し、佐藤訪米阻止へ最後の意志一致、MD立て看撤去命令など当局妨害を企てる。

● 11月12日 医学連旗が東大駒場へ。10・8佐藤訪べト羽田阻止闘争に続き医学連70名、佐藤訪米阻止を三派系全学連の隊列で戦う。東大・MD・東医・慈恵16名・東邦・日医・女子医学友も参加。青医連、救急医療団を結成して、大鳥居付近で活躍。医学生、早朝小川プロによる「現認報告書」現地撮影に協力。

● 11月17日 医学連関西ブロック、43青医連結成準備会。(京府)

● 11月18〜19日 43青医連、全国自主調整会議。

● 11月19日 名大で全国医学部無給医対策委員会。

● 11月22日 医学連、登録医制国会上程阻止全国ゼネスト統一行動。

● 11月22日 新潟200名で登録医制全学討論集会。

● 11月 ×日 福島医大、自治会戦で10・8、11・12羽田闘争の評価を巡る論争で民青に圧勝。(256対120)

● 11月24日 医学連中央執行委員会(於・京府)

● 11月24日 横市・全学集会。「教授・学生の共闘」重視、学部長も共闘を訴える。学生は150名参加。

● 11月25〜26日 関西ブロック医ゼミ・(京都)。

● 11月25〜26日 第7回全国歯ゼミ・(於・MD)。歯学連主催。

● 11月25日 43青医連期成会議 (京府)。

● 11月26日 全国自主調整会議31校参加(京府)。

● 11月27日 弘前大・44卒クラス会で新研修医制度反対(登録医制)と卒業後ストレート入局はしないという非入局路線を決議。

● 11月29日 慈恵・21日留置されていた木野村君釈放される

● 11月30日 医学連・登録医粉砕全国ゼネスト。
東北ブロック、福島医大、全日スト。東北・弘前が午後授業放棄。
関東ブロック、慶応・千葉・MDC・昭和・順天で学生大会。東医、東邦、女子医、慈恵、で学生集会。清水谷公園より800でデモ。厚生省前座り込み。MD12時30分より学生大会=授業放棄。群馬全日授業放棄。MDC、民青執行部を粉砕して統一行動へ。新潟200で市中デモ。
東海ブロック、名市大で全日スト。東海4大学で400デモ。
関西ブロック、登録医制国会上程阻止統一行動、500名参加。京大・京府スト。
九州ブロック、長崎・熊本が午後授業放棄、市中デモ。

● 12月1〜8日 全国医学部無給医対策委員会・12月1日から7日間、全国無給医統一行動として無給医診療拒否闘争。

● 12月 4日 医学連・青医連書記局員、文部省・厚生省で登録医法を糾す。

● 12月 5日 医学連・青医連全国統一行動、医師法の一部を改正する一法律案が国会に上程される。医師法改正案国会上程阻止で診療拒否闘争展開。関東ブロック300でデモ(於・清水谷公園)。

● 12月 5日 阪大など『全国無給医局員対策委員会』の第4次統一行動として『無給医の有給化、登録医師制度反対』で一週間の診療拒否に突入。

● 12月 6日 日本医大新聞会主催 医科歯科大で「圧殺の森」上映会。後援MD自治会・医学連関ブロ。参加はMD・日医・東邦・女子医・東医・慈恵など70人。

● 12月5〜14日 無給医をなくし、登録医粉砕全国統一行動。

● 12月 8日 横市でも全医学部集会。無給医は13日まで診療拒否。教授会は無給医の診療拒否に遺憾声明、如何ではあるが要求、訴えの内容は理解し同情すると。
同日、学生大会50で不成立。(定足数120)。議題はイ闘争・医学部祭・文連結成。

● 12月 9日 MD・教授会前座り込み300人で。

● 12月 9日 横市・「横浜市立大学発展の為の集会」が大講堂で開かれ、教授、無給医、研修生、学生など130名が集まり、研究費・講座費の大幅増額、登録医制粉砕、教職員の定員増加、実習施設、実習内容の増加等が出る。決議として五者協を作ること、無給医の統一行動を支持することが満場一致で可決された。

● 12月10日 41全国青医連は9月国試を東大・横市を除いてはボイコットできなかったがその41入局者会議と合体。17校。

● 12月11日 41・42・43青医連東大支部が厚生省に要望書提出するも拒否される。

● 12月 ×日 岩手医大・学内医ゼミ。

● 12月12日 横市・午後1時半より無給医市内デモ。

● 12月13日 慈恵医大 池亀君学生会委員長に。(この頃、医学連中執)

● 12月13日 日本医大新聞会とMDP・イ委員会が共催 医科歯科大教養(国府台学舎)で「圧殺の森」上映会。両校より70人参加。

● 12月15日 登録医粉砕医学連中央統一行動。

● 12月16日 登録医制法案国会提出(医師法一部改正)。

● 12月19日 慈恵の「木野村君を守る会」(羽田11.12高速道路上で角材を運搬中に検挙されたもの)主催、医学生新聞連合後援。慈恵医科大で「圧殺の森」上映会。参加は慈恵・日医・順天より30人参加。「圧殺の森」は1967年春の高崎経済大学闘争を実写した小川プロ作品。
慈恵学内では署名とカンパ活動で一口100円を集めた。当該のクラスでは一口1000円を集めて保釈金とした。青医連慈恵医大支部は大口カンパとは別に患者からもカンパを募った。42青医連慈恵支部長は木下信一郎が勤める。

● 12月22日 「登録医粉砕」青医連中央闘争。清水谷公園よりデモ出発。

● 12月23日 医歯大新聞会総会を午後2時から大会議室で。

● 12月25〜26日 医学連・関東ブロック合宿(於・日本学生会館)

● 12月25日 京府医大生・北山修らザ・フォーク・クルセダーズによる「帰って来たヨッパライ」シングル盤発売。280万枚を売り上げる。 

● 12月28〜30日 反帝医学生戦線全国研究合宿(東京)

● ×月×日 東大・第二次研修協約闘争全学共闘会議/医学部全学大会への提案「第二次研協・無期限ストの方向性と勝利的展望」文書。





● ×月×日 金沢大医学部スト・教室封鎖と封鎖から除外された解剖実習。

● 1月×日 登録医制に伴う予算案上程。各医学部長はかなり緊迫、二回にわたって全国医学部長病院長会議が開催された。

● 1月11日 神戸大M4卒試ボ突入。

● 1月13日 MD・42・43青医連、統一3項目要求でスト突入。

● 1月13日 医学連・中央執行委員会と43青医連結成準備校合同会議。(於・MD)

● 1月14日 43青医連結成準備会(43青医連期成会議第五回大会)(於・MD)招聘者油井泰雄医学連委員長。(東大)

● 1月 ×日 九大医進の学友、羽田闘争参加を口実に沖縄国費留学生の待遇を打ち切られる。

● 1月16日 私立医大連絡会議にスト敗北後の日本医大からも参加。

● 1月16日 反帝医学生戦線関東ブロック総会(於・慶応)。エンプラ寄港阻止・登録医制粉砕・研修協約闘争勝利・関ブロ集会(社学同医学連委員会)

● 1月16日 京大医・上野勝輝君らエンプラ阻止闘争・佐世保で機動隊と肉弾。

● 1月17日 MD・スト権確立。第二次研修協約闘争。

● 1月17日 医学連関東ブロック・エンプラ阻止反戦委員会主催、中央闘争へ参加。

● 1月17日 岡大全学学生大会(7年ぶり)へ医学部からも参加。。学部集会とデモ(法経,文,医)を行ない,昼からの総決起集会には,法文大講堂に入りきれない800名以上による集会と次いで市内大デモンストレイションによって核空母佐世保寄港阻止を市民にアッピール。

● 1月18日 関西医大 佐世保へのエンタープライズ入港阻止闘争へ、田島隆興君もデモ参加(田島診療所院長・故人)。佐世保で機動隊と衝突。 

● 1月18日 MD・東京医大学生会、全学連の旗の下、エンプラ入港抗議で有楽町駅からゲリラ。

● 1月18日 岡大総決起集会(法文大講堂)800名以上の市内デモに医学部からも参加。

● 1月19日 MD・登録医制度反対で全学無期限スト突入。

● 1月 ×日 神戸M4卒業試験ボイコット。

● 1月20日 医学連関東ブロック・エンプラ佐世保寄港阻止全学連中央闘争へ参加。(於・日比谷野音)

● 1月22日 MD・大衆団交要求、対堀口実力行動。

● 1月24日 東大医学部医学科がスト権確立。

● 1月25日 医学連第一次登録医粉砕全国統一行動

● 1月25日 東大青医連がスト権確立。
● 1月27日、横市学生会・市財政局の予算拡大要求にゼロ査定、学生の憤激、
● 1月27日、東大医学部医学科が全学学生大会を開き、無権利状態のインターン制度に代わる教授連等の利益に固執する登録医制度に反対し医師法改正反対で不当処分を起爆剤に無期限スト突入5世代(医学部1年生から4年生までと卒業生の42青医連=四十二年度卒業の青年医師連合)全体が参加し、賛成229、反対28、保留28、棄権1で、無期限ストライキを決定した。医学部教授会および病院側にたいし、インターン制にかわる登録医制度反対の意思表示をもとめて無期限ストにはいったのだ。医学部で全学闘結成され、200人がピケをはって、四年生の卒業試験を中止させた。(東大闘争の発端・研修闘争)。東大闘争は医学部の闘争からはじまった。
「全共闘グラフティー」は次のように記している。
「東大闘争は医学部における青年医師連合の基本的権利を守る闘いと、医療部門における人民収奪の強化、及び医学部における研究教育体制の合理化−帝国主義的改編への闘いを発端として火の手を挙げた。そして独立資本との産学協同を推進する『国立大学協会自主規制路線』のもとに、この闘いを圧殺しようとした東大当局に対する叛乱として展開される」。
● 1月29日 東大医学部無期限スト突入。M4,M3,M2。
● 1月29日 新潟大医学部4年生・登録医制反対で卒試ボイコット決議。

● 1月30日 東大医学部卒業試験中止の告示。

● 2月1〜2日 横浜市大医学部・市当局の予算増額ゼロ査定に抗議スト。

● 2月 2日 医学連・東大闘争勝利全関東全関東総決起集会。(病院前・1時)

● 2月 3日 慈恵医大・「現認報告書」上映会。(於・東講堂)主催は木野村君を守る会。
小川プロ作品 1967年10・8羽田闘争で京大生山崎君死亡を描いた記録映画「現任報告書」では京大出身の青医連・羽藤医師が機動隊による殺害を証言。

● 2月 5日 東大41青医連東大支部(1966年度卒業の研修医)も無期限スト入り。

● 2月 6日 和歌山医大・M4スト突入。

● 2月 7日 東大・医全学闘、全教授に要請文。

● 2月 8日 医学連登録医粉砕研協勝利全国統一行動。

● 2月 8日 新潟大医学部で医学連統一行動に250名の市中デモ。

● 2月 8日 名大医学部・学生会が無期スト。

● 2月 9日 国大協(東大安田講堂本部)は「学園への警官導入も」を発表。
同日、東大医全学闘第一回医療シンポジウムを開催。

● 2月 9日 新潟大医学部・登録医粉砕でスト突入。

● 2月 9日 名大・医教授会が五者協の要求をほぼ受け入れ、小児科教授選考をめぐる争いである後任教授の決定白紙還元、3教授の辞任を決定、しかし5者協はこの決定の公表を禁ずるの付帯事項を持っていることを不満とし、学生会はスト続行。他組織も14日に全学スト突入の構えをみせ、14日の教授会はいわゆる『民主化声明』をだして、『深く反省』。(名古屋大学新聞1968年2月28日名大医学部 民主化のたたかい)医学部特集号。

● 2月 9日 横市・学内諸階層の医学部連絡会議結成に学生委員会が参加。

● 2月10日 MD・大学の掲示板破棄で7名が停学処分。処分撤回要求で医学連関東ブロック100名動員。教授7名と団交し、撤回させる。

● 2月10日 阪大・医学部M2、M3ストへ。M1は解剖の放棄は提供者に非礼になると言う教授の説得で一応授業を受けた。

● 2月13日 京大・青医連京大支部は医学部自治会とともに全学闘争委員会を結成し、2月13日から無期限ストライキに突入した。

● 2月14日 医学連関ブロ。(於・慶応)

● 2月15日 東邦・M4国ボ決議・

● 2月15日 東大41青医連スト突入。

● 2月16日 医学連・青医連、登録医制度反対・研修協約を要求して第三波全国統一行動に全国では2000人が参加。
関東10校400、研協スト中の東大で@研修協約闘争と登録医闘争の有機的結合、A学生自治規制のメッカ、国大協への抗議、B無給医の再組織化の視点を持つものとして構内医学連集会がもたれた後、雪中7キロデモ・東大→日比谷。同数の機動隊と私服50名、1名検挙。
油井委員長が『面倒を見てやる』と隊員に連れ去られ丸キのテロを受ける。
東大40青医連・入局者会議も参加。群馬16~17日スト。新潟・300で市中デモ。
関西700(阪大150、関西60、和医大20、京大130、府医大60、阪市大70、奈良5、神戸50、阪医0、金沢0) 岡大と阪大(9〜23日)でスト。

● 2月16日 九大130人で登録医制度反対市中デモ。

● 2月17日 全国大学医学部長・病院長会議(於・東京)は「学生の暴力のため開けない」という通達で流会。

● 2月17日 東大医卒試再開受付開始(M4より11名受験)。

● 2月19日〜20日 東大・「春見事件」。医全学闘・団交要求で上田内科に於いて、春見医局長などを15時間追及。春見医局長が学生に暴力を振るう。以後、当局は逆に学生研修医のたたき出し処分の道を進む。2月19日は登録医制やインターン制など医学部研究教育の改革問題について、医学生たちの要望への回答がこの日なされ、春見医局長にたいする学生・研修生の監禁、暴行事件のデッチ上げが発生した。当局側は『医局長缶詰め事件』と呼ぶ。

● 2月19日 阪大・M2がスト解除、20日にはM3が解除、M4も卒試を受けることを同意。その後、M4は国試を全員ボイコットした。

● 2月20日 医学連関東ブロック・王子米軍野戦病院開設実力阻止闘争に、貸し切りバスで医科歯科大構内から70名参加。全学連は2000名動員。

● 2月21日 東大・当局の『医学部スト対策委員会』が上田内科の医局員にタレこみ文書を求め、これが誤認処分の基となる。

● 2月26日 三里塚成田闘争へ関西医大・日医大・東大・MD・慈恵等参加。

● 2月27日 東大医学部全学闘争委員会/「本日、米陸軍野戦病院設置実力阻止第二波」。医学連が取り組み。

● 2月27日 和歌山医大M3スト突入。

● 2月27日 神戸大医学部・全学スト突入。

● 2月28日 青年医師連合札医大支部と北大支部、研修医の登録医制度に反対して国家試験のボイコットを決議。

● 2月28日 2.28現在、43青の30校。42青の29校が国試ボイコット。

● 2月29日 医師国家試験〆切。ボイコット続出。

● 2月29日 東大医学部全学闘争委員会/「我等は公聴会をボイコットする」声明。

● 2月29日 九大医学部教授会、インターン問題に関する全国医学部長・病院長会議声明文案を,九大から提案することを了承。

● 2月 末  阪大医・学4(現43青医連)は登録医制度教授会反対声明要求・研修9項目要求闘争で卒業試験ボイコット。学三学二の1〜10日スト。 

● 3月 1日 MD・学内ティーチ・イン。

● 3月 ×日 反帝医学生戦線/「帝国主義ブルジョアジーの処分攻勢に抗し、処分撤回実力闘争を反帝反政府闘争への飛躍の場とせよ!」文書。

● 3月 2日 医学連油井泰雄委員長(東大)、機関紙「全日本医学生新聞」51号で「医療の帝国主義的再編阻止」と新方針を述べる。医学新編集局も再建。

       * 医学連機関紙・医学新は協力していただいていた医科歯科大新聞会の吉本隆明風なスタイルから、直接に中央委員会が発行の責任をとる。広告の内容が度々論議を呼んだ、今号には東大ー医科歯科お受験の駿河台高等予備校の広告が掲載されている。

● 3月 2日 医学連、全国病院長・学部長会議に抗議行動。第一製薬での官憲に守られた会議内容は九大提案を修正したもの。

● 3月 3日 医学連・王子野戦病院設置阻止闘争に立つ。街路で警官隊がデモ隊後方から襲撃。路地に追い込み追随者も検束。

● 3月 4日 MD・100人で学内デモ。研修協約闘争を伝えるベニヤ22枚の大立て看板がお茶の水駅側に向かって立つ。

● 3月 5日 東大医・全関東国試阻止総決起集会。午後4時。

● 3月 6日 医学連中執会議。

● 3月 6日 43青医連国ボ決議校32大学に。

● 3月 6日 43青医連結成準備委員校・中執合同会議(於・医科歯科大)

● 3月 7日 医学連拡大中央委員会(於・医科歯科大)。苛烈に闘われている第二次研修協約闘争を踏まえ医学連運動を「全人民的政治闘争と研協闘争・日帝の侵略と抑圧に抗し、医療の帝国的再編を粉砕せよ」。昨年11・5臨時大会での政治情勢否採決をはね返して採択された。全学連との共闘を賛11・否1・棄2・保2で可決。
議案は次の諸問題を提起した。即ち、@エンタープライズ闘争、中央大闘争の総括と政治課題。、A医療の帝国主義的再編の内実、B第二次研修協約闘争の歴史的位置、C43青医連結成の意味と加盟条件の位置付け、の4点にわたって提起した。そしてこの4点に於いて一貫して主張されている、医学生運動の総括と展望方向性に関する問題は、@個別闘争の独自性と限界性の認識、A個別改良闘争と全人民政治闘争の結合の環について、B、@Aから帰結される個別闘争の独自的任務とは何か、としてまとめられる43青医連の結成はBの問題である。
43青医連国ボ校33校。九大・阪市・和医大・徳島に於ける国ボ医師全員受け入れ。阪大・群馬・福島・徳島での教授会登録医反対声明を契機に、東大・医科歯科・京大・京府・新潟・千葉・金沢・神戸をスト軸とする質的第一次研修協約闘争の不均等発展是正と、日帝支配の全社会的再編過程を羽田・エンプラ・王子野戦、成田闘争を通して、個別医学医療部門に於ける全人民的課題として把握し、その基本軸を健保改悪阻止闘争を果敢に提起することを前提に、今国会上程の医師法一部改正案を断固粉砕する第二次研修協約闘争の『階級的永続実践派』を醸成する部隊として、全国的に政治課題を抬頭させねばならない。全日本医学生新聞3・17 第52号(1面表題:3・20国試粉砕実力闘争 戦術国ボを総括し、永続実践的『国ボ=非入局』部隊の質的転換をかちとれ)

● 3月 7日 42青医連第7回臨会・37支部内実2500名の国ボ実行宣言。

● 3月 8日 医学連・第4波東京王子米軍野戦病院開設阻止闘争に、関ブロ医学生・貸し切りバスで医科歯科から東大生・関東私学他120名参加。

● 3月 8日 医学連・青医連中央闘争。3・8登録医制粉砕―国ボ非入局路線貫徹中央闘争
慈恵医大に700名が集まり国会前座り込み・厚生省へデモ。慈恵当局は集合会場の高木会館をロックアウトし駆けつけた医学生で慈恵医大構内はあふれる。

● 3月 8日 医学連・油井泰雄委員長『医療の帝国主義的再編阻止』を医学生運動の総括と展望として打ち出す。 全日本医学生新聞・第51号。
  「医学連の基本的任務は、各単位自治会に共通する問題に対して、それを資本主義体制の論理の中で解明し、その本質を暴露し、われわれの戦いを組織することにある……我々の戦いは支配権力そのものに対する戦いであり、闘いの舞台ではもはや、医学生という白衣を着けた特殊な学生組織ではなく、資本主義社会から自己を解放させたいと願う人間集団として、全体的な連帯の一接点となることが必要である。」(第9回医学連大会議案・1962)より油井論文が引用。

● 3月 8日 福島医大は3・8登録医制粉砕行動に400名参加。医学連・青医連中央闘争へ学友150名を上京さす。

● 3月 8日 京大・京府の3回生・東大・MD三年生が「登録医制粉砕!研修協約闘争勝利!」で、全国学三に「国ボ−非入局路線を貫徹すべく43青医連結成」をアピール。

● 3月10日 医学連・三里塚新国際空港設置実力阻止現地闘争へ東大、MD、関東私学他。救護団の青医連テントへ機動隊が突入。

● 3月11日 医学連関東ブロック会議。

● 3月11日 新潟大・国会へ代表3名派遣。

        ワルシャワの学生デモ激化

● 3月11日 東大・全学学部長会議で開設以来の対学4名を含む17名という医学部大量処分を決議。
東大医学部教授会は、イ制に変わる登録医制に反対してスト中、2月19日の春見医局長缶詰事件で学生12人に処分(退学4人、停学2人、譴責6人)、研修生が4人(研修取り消し2人、研修停止1人、譴責1人)、研究生1人が停学を発表,紛争拡大。
ところが、処分された学生のうち1名の事実誤認問題が発生し、学生側の姿勢をエスカレートさせていくこととなった。学生側は、単なる誤認問題ではなく、当局の体質を批判する運動にして行くことになった

● 3月12日 東大医共闘が、医学部教授会の上申による3月11日の東大評議会の処分決定に抗議して、その日のうちに学生は、200人で総長室前に座り込み、夜、学外での評議会(於神田・学士会館)に100名で押しかけ評議員を徹夜でカンズメにする抗議の団交開始。5名逮捕さる。医学部総合中央館・医学部図書館をバリケードで占拠。MDより30名応援。これがヘルメット着用の他大学学生の東大登場第一波となる。

● 3月12日 医学連関西ブロック会議(於・阪市)。

● 3月14日 東大大河内総長・医全学闘との会談拒否。総長宅へ面会求め30から40名。

● 3月14日 医学連関西ブロック統一行動。

● 3月15日 医学連国試阻止」関東ブロック青・学共闘、決起集会。(於東大・鉄門倶楽部)

● 3月15日 東大医全学闘・M4スト破り14名除名。

● 3月15日 京大・大学院入試当日、受験しようとした学生1名が暴行事件をでっち上げ。

● 3月16日 43青医連結成準備委員校・中央執行委員会合同会議(於・医科歯科大)。

● 3月16日 千葉市内で全国病院長会議、学生・研修医が抗議に駆けつけた。

● 3月16日 医学連関東ブロック会議。

● 3月18日 東京大学学生自治会中央常任委員会は12日医学部生のバリ封鎖について当局の、「不法勢力を学内から排除する為に重大な決意をせざるを得ない」旨の警官導入も辞さずとの「告示」全文をわざわざ掲載したビラを配布して、「それ(全学の世論の力を集めること)をすすめてゆく上で、無用に機動隊導入を招くような挑発行動は戦い全体をきわめて困難に陥れる」と警告した。

● 3月18日 医師国試阻止共闘会議(関東ブロック会議)。

● 3月19日 医学連・青医連統一宿泊。東大で国試阻止決起集会が開かれ、明日に備え都内旅館と大学に宿泊。

● 3月20日 医学連国試阻止・青医連国家試験全国ボイコット闘争。国試を6割強がボイコット。
<関東> 東大では早朝6時半、医歯大も合流し東大医本館前で50名がデモ(内30名がヘル)バスで小泉公園へ。医科歯科大よりも40名で小泉公園へ。
東京会場の国士舘大学へ向けて世田谷小泉公園で「関ブロ国試阻止決起集会」を開き、反帝医療・医学生戦線を主軸とする赤ヘル100を先頭に400人、丸太3本でデモ。都合4回構内突入を図った。東医・日本医大学友会・慶応医学部の旗、第一集団は東大・順天・東医など。第二集団は医科歯科大など。
竹光・木刀を持った右翼学生が『全学連から学園を守れ』と門内に待機。指揮団のうち慈恵医大生が検挙され3日間拘留され在宅起訴の恫喝。その後東京でのデモ指揮者・砂川正勝中執(MD)が起訴さる。
<関西> では関西ブロックと徳島大で400名の青医連と学友が雨をついて国立大阪大学病院内地方医務局前で座り込みを行い、機動隊を尻目に国試阻止集会を勝ち取った。
<東北> 東北ブロックでは福島大・東北M1クラス・岩医大でもって東北ブロック共闘会議を構成し、東北大自治会執行部民青の国ボはしないという反革命策動を粉砕し、試験場入り口での30分に亘る国阻集会をかちとった。なお、この座り込み集会に対して東北大学民執ゲバルトで医学連に敵対。
<北海道> 北大医自治会戦で圧倒的勝利を持って医学連主流派が勝利。新たな体制で国ボに取り組んだ。
<広島> 広島大が試験場前座り込みを貫徹。国阻集会を勝ち取り試験場を移させた。
<北陸> 金沢などでも試験場周辺デモなどを展開。
<九州> 九州でも国試阻止デモとビラ撒き。
<新潟> ストライキ闘争中の新潟大自治会・200で試験場に向けて雪中デモ。

● 3月20日 京大・博士課程入試阻止を貫徹した。

● 3月21日 順天堂大医学部・卒業式を延期し22日に秘密裏にホテルで卒業式。

● 3月23日 東大医全学闘・処分対象になった2・19現場に居なかった粒良(つぶらや)君の不当処分に抗議声明「粒良君は医学連のオルグとして久留米医大に居た。」

● 3月23日 MD・機動隊、教職員を総動員し、戒厳令下の入試。

● 3月24日 東大・大河内総長が記者会見を行い、警官隊導入をほのめかす(恫喝)があった。

● 3月25日 京大・医卒業式参加を取りやめ。

● 3月25日 大阪大・医学部近くの大阪ファミリー会館で「卒業生謝恩会」が開かれるという「事件」があった。

● 3月26日 東大・処分された学生のうち1人につき、東大側の誤認の可能性があると教授懇談会で医学部講師2名(物療内科講師・高橋晄正と精神科・原田憲一)が調査報告(高橋・原田レポート)でアリバイを証言。
処分された学生のうち1人が、同事件と同じ時間に久留米大医学部オルグの為、久留米市にいたことが立証され、東大側の誤認の可能性があると各学部教授懇談会で報告。医学部学生のストライキ闘争に賛同した学生有志で、「医闘争支援全東大共闘連絡会議」が結成され、安田講堂を一時占拠し、翌日予定されていた卒業式の実力阻止に入った。

● 3月27日 東大・大河内一男総長記者会見「処分は正しい。機動隊導入やむをえない」。
大河内 一男総長・処分に誤りなしと告示。東大医闘争支援全東大共闘連絡会議結成。東大医全学闘学生安田講堂占拠、卒業式の実力阻止へ。

● 3月27〜28日 卒業式の朝まで安田講堂前に医学部生など300人が登録医制・不当処分に反対して座り込み、卒業式を実力阻止。卒業式は中止され各学部で卒業証書の伝達式。

● 3月27日~29日 医新連合宿、静岡御前崎佐倉の神社で。日本医大・女子医・関西医大など参加。

● 3月 ×日 慈恵・江ノ島で慈恵医大学生新聞会が合宿。

● 3月26日 「医闘争支援全東大共闘連絡会議」が他学部も含めた学生有志によって結成された。

● 3月27日 医学連が成田新空港設置反対闘争へ。日本医大からも現地闘争に参加。

● 3月28日 東大・未明、登録医制・不当処分に抗議して、医学部全学闘150が安田講堂に突入し、卒業式実力阻止を図った為、大学側は卒業式を中止。医学連介入。
それに先立ち、医全学闘・学生大会を召集し、卒業式実力阻止・総長室前座り込みを賛成224人で可決。全学闘卒式粉砕を七者協が実力で妨害せんとにらみ合いのまま徹夜集会に。全学闘講堂前ポーチ占拠、300名が時計台前に座り込み。分散卒業式に。御殿下グランドのパーティは中止。

● 3月28日 医学連王子闘争、学内闘争中の東大医からも参加。

● 3月28日 都学連大会。

● 3月29日 全学連大会・以前からの慣わしで中執に医学連枠1名。

● 3月29日 登録医法案・衆院本会議で部分的に修正され付帯決議として可決。

● 3月30日 女子医・団交を教授会で検討の結果、全面拒否自宅待機、国試後ストレート入局せよ。

● 3月31日 医学連が成田新空港設置反対闘争へ。学内闘争中の東大医からも。

● 3月 ×日 札幌医大で大学院入試阻止行動。

● 4月 1日 医学連・王子米軍野戦病院設置反対闘争へ参加。東大からも。

● 4月 7日 京大早朝・京大大学院受験生1名への青医連の説得行為に「監禁」をデッチアゲ口実に京都府警の公安刑事・マル機300学内侵入。医学部構内を捜索し、研修医・学生5人逮捕、のち3名起訴。岡本教授・病院長代理の木村教授を50名で深夜まで追及。このマル機侵入事件は京大全学を動揺の渦にまきこんだ。同学会・民青は警官侵入への抗議文を当局に出させ共同体幻想に浸ろうとした。医闘委はそれはさせるとしても、同時に警官の学内侵入を公的に認めた昨年の10・19部局長会議声明(第一次羽田闘争の直後文部省の指示によって出された)を撤回させ、その徹底化である4・15教養学部長会議以下の各学部長会議への出席を勝ち取ること」においた。
5名を逮捕したことによって、運動は一挙に拡大した。

● 4月 8日 京大医闘委400で総長を追及。『奥田総長は、学生の要求に応じ4月8日から12
日にかけて3回にわたって「説明会J(学生側からは「団交J) を聞き、13日には京都府警および
川端警察署に対して「今回の事件が今後学内における学生の自治活動を侵す方向に発展しないよう配慮されたいJとの申し入れを行った。また、医学部教授会も4月中旬から6月上旬まで合計9回全学闘争委員会との話し合いを行い、卒後研修方式について合意が成立したので、6月13日の学生大会でストライキは解除された。」(京都大学大学文書館研究紀要第10号2012年)

● 4月 8日 東大・臨時研究所所長会議。粒良問題で総長始め当局苦慮。医学部長の発言「処分撤回しない限り民青に指導が変わる。高橋調査メモが出たため三派は反撃を感じている。」
同日、東大・粒良邦彦君、事情聴取のため教官に監禁される。

● 4月 8日 東北43准入局、9月までに全員ローテート、その後は新人教育。

● 4月 9日 東大医自の五月祭に当局クレーム。粒良邦彦君が医学部学生委員会(当局)に申し立てを行う。

● 4月10日 京大医闘委・同学会主催で奥田東総長と徹夜団交、700名結集。

● 4月10日 東大・全学闘争委員会が入学式闘争方針決定。

● 4月 ×日 東大医学部全学闘争委員会/「処分撤回闘争の経過」(68・3・12〜28)。

● 4月 ×日 広大医学部構内に県警導入、医学部バリケード封鎖へ。 

● 4月11日 東大全学闘・卒業式阻止で夕刻より安田講堂前に座り込み。

● 4月11日 京大入学式抗議デモ中にK君逮捕される。

● 4月12日 東大・100人の医学部生などがピケをはる正面を避け、大河内総長を安田講堂の裏口から入れて暴力的に卒業式を強行する。
東大当局は渦中の誤認処分医学生・粒良君を新潟県池ノ平の山荘に軟禁して事情聴取。
医新M1が医教授会に話し合いを求め拒否される。

● 4月13日 京大・新M1スト参加。

● 4月14日 京大・青医連の博士課程入試阻止に対して、京都府警は学生五人の下宿など五ヶ所を捜索。

● 4月15日 東大・新M1スト参加。(計8世代スト)40青医連入局者会議、スト態勢を確立。
昭和四十年(1965)に「インターン制度の完全廃止」を求めて闘ったが切り崩された40青医連がスト権を確立し、43までの各青医連と、医学部医学科の学生四世代、あわせて八世代がストライキに入った。卒業式、入学式闘争を経て、東大全学の有志学生の支援連絡会議はできたが、全学の自治会への拡大はできなかった。それは、日共系の自治会中央委員会と七者協の、医学部闘争への敵対が影響していた。彼らは、卒業式阻止闘争を行うことは、機動隊の導入を招くから反対という理屈をとっていた。

● 4月16日 和歌山県立医大・教授会決定の学外後任教授選任に反対して、助手・研究生・院生の三者会・白紙撤回を申し入れ。

● 4月16日 MD40・41青医連合同討論会。

● 4月17日 医学連150、京都府学連の成田空港設置粉砕・王子野戦病院反体操決起集会に参加。

● 4月17日 京大・医学部教授会と団交。

● 4月17日 東医・43スト突入。国ボ非入局圧倒的に決議。

● 4月18日 「登録医制粉砕」国会闘争・2時清水谷公園。200名。

● 4月19日 関西ブロック会議(於・京府)

● 4月20日 東大・医全学闘が全学シンポを開催。(医中央館)

● 4月23日 東大・時計台で開催中の医学部学生委員会を捕捉、24時間団交で総長・医学部長・病院長を含む医教授団と医学生・研修医との団交設定に努力する旨の確認事項を取り交わす。

● 4月24日 東大・医全学闘、40名で安田講堂突入。総長逃亡。

● 4月25日 MD・全学大会で圧倒的にスト続行を決議。中旬からの医学部各クラスの反共闘会議派のスト破壊工作を押さえ込む。

● 4月26日 関西ブロック国際反戦闘争に決起。京府・全学集会。

● 4月28日 東大・医全学闘は時計台で医学部学生委員会(当局)と団交、『大衆団交を斡旋する』との確約を得た。

● 4月29日 3・20闘争、起訴者に法廷闘争救援カンパを!全日本医学生新聞中央編集局救体部 (全日本医学生新聞53号)

● 4月30日 43青医連結成全国大会(38大学参加=参加資格は4原則で29校により結成)委員長中佳一。於MD。スローガン、国ボ―非入局永続派は大青医連傘下に統一ドッキングせよ!先進的医療労働者・学生は反帝医療・医学生戦線に結集せよ!院内反戦、病院社研、労研を結成し反戦青委に結集せよ!(全日本医学生新聞53号・「医学連運動総路線上における偉大な分岐部諸点と展望の指針」の最終スローガン) 。経済(ものとり・生活)主義を排して永続国ボ―非入局の統一青医連を追求。
43青年医師連合の組織4原則は大学結集(たてこもり)、臨床系大学院ボ、登録医制ボ、6月国ボ。

● ×月 ×日 東大病院労働運動研究会/「東大闘争と医療労働運動を結合せよ」

● 5月 1日 女子医・教授会の研修拒否回答に内科・外科を実力研修。

● 5月 ×日 新潟大・『インターン制廃止』を叫ぶ卒試験ボイコットで遅れて卒業。

● 5月 7日 医学連中央闘争・250名参加。雨中デモで厚生省へ(日比谷公園集合)

● 5月 7日 福島医大・イ闘争、単独市中デモに200人結集。

● 5月 9日 討論集会<入局者会議・42・43青医連・医学連>(於・東京)

● 5月 9日 登録医法案・参院社労委通過。

● 5月10日 登録医法案参院本会議成立・医師法改正公布.インターン制度廃止へ。
病院長に対するアンケートによる意見聴取をも含めて、医師法改正法案についての対策が協議された。このことに関連して、政府並びに国会議員に対して折衝がなされたが、結局この法律案は一部修正されて、3月29日衆議院、さらに5月10日参議院でいずれも付帯決議(教育病院の整備、医学教育研修体制に対する財政措置等)を付して可決された。修正された点は、「厚生大臣が臨床研修を行った者について、臨床研修を行った旨を医籍に登録することをやめて、病院の長が、臨床研修を行った者について、厚生大臣に報告するものとする」という内容。この法律は、として、再び学生や研修医の反発の対象となり、当座は多少の混乱もみられたいわゆる「報告医制」が、「厚生大臣に報告する」ことが実質化されなかったこと、さらに研修する者に対して不十分ではあるが経済的措置がとられたことなどから、新制度で研修を行う者もしだいに増加し、医師国家試験も、一九六九年度からは正常に行われるようになった。

● 5月10日 登録医法に対し反対『声明』。42青年医師連合委員長大渕辰雄 43青年医師連合委員長中 佳一 全日本医学生連合委員長油井泰雄。

● 5月11日 女子医・1日からの実力研修開始に病院長告示、@病院長の許可なしに研修拒否、A2年間の入局をせよ、B国試せよ、を父兄と本人に発送。

● 5月12日 弘前M4・40名出席でクラス会が持たれ27・11・2で国家試験ボイコットを決議。院内外6ヶ月づつ1年間研修へ。

           5・13 パリの学生・労働者 自由平等と自治を求めて ゼネストを決行
                カルチェラタン闘争 全仏 西欧諸国にも拡大…所謂 「5月革命」。

● 5月15日 東大当局業務日誌・10時から医科研で臨時学部長会議。学生の動き 6割アクティブ、4割は無関心。(学生集会にも出席しない。)三分の一全学闘。三分の一全学闘支持。三分の一全学闘の反対批判。全学闘は大幅に委任を受けている。

● 5月14日 長崎学館自主管理要求学生集会。

● 5月14日 群馬42青医連は6月国ボを決定。
● 5月14〜15日 京大全共闘、医学部校内を全面封鎖。学生部再封鎖。
● 5月15日 インターン制度廃止,臨床研修制度を設置〔法47〕。予算なし、指導者なし、身分保証や経済保証もなしのインターン制度は、ここに崩壊した。

● 5月15日 関東ブロック国立病院長会議に向け、医歯大で総決起集会。

● 5月15日 長崎大医・マル機導入。

● 5月16日 全国国立病院長会議。

● 5月16日 和歌山大三者会・教授選任撤回公開質問状を教授会に提出。

● 5月16日 千葉(帝国主義大学)岐阜(植民地大学)で病院長分裂会議に。医学連、千葉・塚本ビルでの開催へ80名で粉砕行動。8階ロビーで抗議行動。MD学友1名検挙さる。

● 5月17日 全国私立大病院長会議

● 5月18日 改正法下の第一回医師国家試験実施計画が発表される。(5月31日より願書受付、6月23、24日国家試験。7月下旬合格発表、8月より臨床研修。)
同日、全共連ビルで全国医学部長会議臨時総会。豊川・上田の正副会長は辞任。新会長に懸田 克躬順天堂大医学部長・副会長に牛場大蔵慶応大医学部長。

       全国医学部長・病院長会議・歴年就任者
       http://www.ajmc.umin.jp/m-rekidai.html

● 5月18日 群馬・国ボ体制を圧倒的に確認。非入局1年カリを認めさせる。

● 5月19日 信州・43総会で国ボ再確認。

● 5月19日 日医大研修協約闘争敗北総括・「医科歯科大、東大、日本医大と連続した研修協約闘争の長期化と敗北は、研修協約3項目の獲得を自己目的化した闘争として展開されたこととしてまず総括されなければならない。三項目の獲得はわれわれにとって最低限の要求としてあるが、闘争によって獲得しなければいけないことは、医育者教授会とその背後にある国家の根源的暴露であり、それを越える道を我々内部に確立することである。第一次研修協約闘争において、かつての医学生運動では見られなかった闘争主体の分解に対し、どのような指導を与えるのかが問われる時点で明確なる方針を出しえなかったことは厳しく総括せねばならない。なかんずく日医闘争の最終局面で現れた右派による「国庫補助要求」路線に対する対応を確立出来えないで躊躇しているとき、白衣の暴力団と化した医局員群のゲバルトに背走したことを思い起こさねばならない。単なるゲバルトに敗北したのではなしに「スト集約―国庫補助要求―」路線に対し理論武装ができえていなかったが故に敗北したことを」。5・19中央討論集会総括、於東大。全日本医学生新聞54号 

● 5月19日 医学連・青医連中央討論集会。於・MD.「登録医粉砕闘争総括と今後の戦いの方向性」。第1回登録医制度下、国家試験ボイコット29校に。
▽ 43青医連速報
<北海道ブロック
● 北大・登録医法案通過までの国ボ決議の再検討。6月国ボ決議。
● 札医・12ヶ月ローテーションを教授会が認める。身分は特例研修医とされた。国ボ決。
  <東北ブロック
● 弘前・院内外6ヶ月づつ1年間研修。5月12日に40名出席でクラス会が持たれ27・11・2で国ボ決。
● 東北・4月8日に准入局、9月までに全員ローテート、その後は新人教育。院外ローテーとは最低2ヶ月から最高4ヶ月。6月国ボ。
● 岩手・6ヶ月までのカリ。
● 福島・教授会が1年間のローテートカリを認める。土、日に院外研修。福島県医師会が無免許医師の医療禁止通達を出し、事実上出来なくなる。国ボ追及。5月7日、単独市中デモに200人結集。
<関東甲信越ブロック
● 群馬・非入局1年カリを認めさせる。5月18日国ボ体制を圧倒的に確認。42青医連は5月14日に6月国ボを決定。
● 千葉・研協ストの敗北。全員外勤体制を圧倒的に確認、国ボ決。
● 東邦・54対17で国ボ決定。6項目要求全面受け入れ、自主調停。5月23日国ボ再確認。
● 順天・現在未卒業。国ボ者は見学者として受け入れ、医療行為をさせないと学校方針。43国ボ決、42国ボ追求。
● 慈恵・国ボ決定。教授会は自主カリ・バイト・ルーム・人数受け入れを認め、青医連の組織認定を拒否した。42も国ボ決定。
● 女子医・3月30日の団交を教授会で検討の結果、全面拒否自宅待機、国試後ストレート入局せよ。これに対して5月1日より内科・外科を実力研修。5月11日病院長告示、@病院長の許可なしに研修拒否、A2年間の入局せよ、B国試せよ、を父兄と本人に発送。
● 慶応・三項目の要望を拒否。43研修生会議で卒後研修を検討中。ストレート入局から半年ぐらい他所の科へ行きうるバーシャル・ローテーション。
● 昭和・90名卒中、28名外へ。44名大学院吸収。22名仮入局、43昭和青年医師の会を結成。
● 東医・4月17日より43スト決行。国ボ非入局圧倒的に決議。42,43による事務局本館前座り込み集会を含むストにより、@人数、A他大学(紹介状必要)、B自主カリ、C施設、ロッカーを考慮、D青医連の呼称を認める、の5点が出された。しかし、スト破り動議により、国試入局を目指した医局改良闘争を指向する一部執行部が成立。
● 日医・43卒業の会。学友会を80%の圧倒的信任で再建
● 信州・42,43が自主カリ要求。P会は6月まで自主カリ生を認め見学生を認め、大学は入局を要求。5月19日43総会で国ボ再確認。
● 新潟・検討を条件にストを終息。登録医制度反対を教授会が声明。
<東海ブロック
● 名大・4月から2年間カリ開始。一ヶ月を最低単位としてグロス二ヶ月以上、内外産必須。クラインは2回以上、国ボ決定。
● 三重・国ボ決定。
<関西ブロック
● 阪大・研修は内臓器別2年ローテートで外科、2年間の准医局ローテート。国ボ決定。九項目認。
● 奈良・国ボ決。42も国ボ決。
● 阪市・43青医連阪市大支部宛教授会回答。国ボ決。
● 大阪医大・国ボ決定。
● 関西医大・国ボ決定。
● 京大・42支部長以下2名訴訟 5・29青医連呼称認スト終結。
● 京府・ルーム・設備努力する。2年カリ認、スト権凍結処分保留。
● 和医大・国ボ決定、2年ローテート。
● 神戸大・国ボ決定。
<中四国ブロック
● 岡山・国ボ決。43は執行部決。
● 徳島・外勤と大学を半々とする1年ローテートカリ。国試ボ決。
● 鳥取・42国ボ執行部決議。
● 広島・研修は1年ローテートカリ。国試ボ決。身分は研修生。研修医室は考慮。42は仮入局。県よりバイトに圧力。
● 山口・9月までローテート。仮入局、国試ボ決。
<九州ブロック
6月上旬にブロック会議の予定。
● 九大・要求項目は教授会の近代化路線により認められる。
● 熊本・仮入局、国試か?
● 久留米・ストレート入局・国試。
● 長崎・1年間のローテートカリ認められる。国ボ決。医局が国試勧告。国ボ者はバイトに責任を持たない。
● 鹿児島・執行部は国ボを追求してきたが、当局の15000円支給路線により国試受験へ。

● 5月20日 3月医師国試阻止デモ指揮で起訴・砂川正勝医学連中執(MD)第一回公判闘争(東京地裁)

● 5月23日 東大医全学闘・時計台で医学生委員を追及し、

● 5月23日 東邦43クラス・国ボ再確認。

● 5月24日 東大医自・五月祭の警官パトロール阻止全学闘争委・結成。龍岡門にピケ。250で本富士署にデモ(医学闘100参加)。2名逮捕。

● 5月24日 MD・学内集会。150日を越えるスト最中に学部43年度前期自治会役員決まる。委員長に加藤君。42年後期皆川君の研修協約闘争が全力投球、学部自治委員会独自の活動も全学共闘会議支援という形にならざるを得なかった。

● 5月25日 42青医連、中央執行委員会。(京大研修医ルーム)

● 5月25日 東大医・五月祭警パト阻止、不当処分粉砕で東大医学部を中心に学内デモ。

● 5月25日 福島医大・定期学生大会で国ボ・非入局を決定。222名参加で成立、(定数208名)熊谷前医学連中執から情勢総括がなされる。民青修正案は賛28否85保留35で否決。

● 5月26日 42青医連、第2回全国大会。(於・京大)

● 5月27日 MD・当局の団交拒否に抗議して90名が病院正面に座り込み。MD・全学集会。MD青医連が医学部長室を占拠。

● 5月27日 日大全学共闘会議(秋田明大)結成へ医学部からも出席。

  ● 5月28日 医歯大新聞1面下コラム「楽苦我記」  ▼闘争はこのささやかな共同体のすみずみに鋭利な刃をつきつけた。それは潜在的な情況認識に対して、即時的な意識の表現を迫るものとしてまず現出した。長い長い困惑の季節―混乱し、逡巡しそしてほぼ6ヶ月。相対性と絶対性の、あるいは主観性と客観性の観念的な渕を果てしなくオロオロとうろつきまわる人たちの群。 ▼粉飾によってかろうじて保たれていた平和な環境は、一瞬にしてかなたに吹き飛んでいった。対決の回避は、自己の思想性の放棄以外の何者をも意味しない。という過酷な現実。 ▼意識の持続というほとんど観念的なカテゴリーに属する作業に耐えうる部分の輪郭がほぼくっきりと浮かび上がり、と同時に相対的な固定化が進行する。だがその背後には「一般」学生などというふやけた形容にも甘んじてひっくるめられつつも、闘争から離脱してゆく広範なクラスメイト達が厳然と存在する。 ▼闘争は人と人との再点検をも強いる。今までの溝はあるいはうすめられ、あるいは橋が渡される。しかし、一方では新たな溝を懸命に掘り続ける溝の再編成のプロセスは、純粋に思念の世界においてなされつつも、遂にはそれは生活次元にまで下降し不安定な定着を見る。 ▼自らの思想性の内部に於ける、「破壊」と「建設」は加速度的に進展しつつも、多くはその不慣れなスピードに酔う余り、発動機の加熱は不可避的であった。あらゆる方向に向けて始動したにもかかわらず、今やその蠢動自体が自らの軌跡に、おける「恥部」として意識され始める。そしてどよめきすらをも導き得ない倦怠だけが結果として残されている。時たまの行為といえば、斜視的にとらえた闘争実態に対して、「不毛」というレッテルをはって歩くだけ。 ▼最もよく闘いうるものが、最もよく闘争を語りうる。しかしながら、多くは学生としての「一般」性からの脱却を志向しつつも再び古巣の虚像へと自らを下降せしめてゆく。しかも「原体験」による加工であるが故の深い深い沈潜沈降真剣なものであればあるほど、彼らへの上昇は期待はますます絶望化してゆく。 ▼非常な過程にしか、もはや運動のダイナミックな励起を展望しえない我々。この闘争の重みに耐えることが、情況への自らの投企の一形態としてあるならば、逃避は歴史に対する「責任」の放棄でなくてなんであろうか。

● 5月29日 MD・教授会は刻限までに共闘会議声明の最終通牒に回答をよこさず。抗議する学生はシャッターの降ろされた中で集会、のち医学部長室とそれに隣り合う2、3の部屋とともに占拠。

● 5月29日 京大・42支部長以下2名訴訟 青医連呼称認めスト終結。

● 5月29日 MD・学生が深夜まで集会。医療労働運動指導者の高橋良彦氏(松本礼二1929−1986 1966年第二次BUND結成時議長)、現地指導。それに先立ち昼間全員ヘル着用で百数十名の学内デモ。

● 5月30日 MD・病院外来封鎖を研修医・学生100余名に全関東ブロック医学連、東大医など約50名の応援を得、150名で行う。午前1時より前年には病院新築祝賀披露宴が開催された正面外来受付ロビーをバリ封鎖。
5月18日の全国医学部長会議の再編に見られるような政府・厚生省と医育者の新医学研修体制再編に抗議する研修医・医学生運動として医科歯科での戦術エスカレート。
同日午後、堀口・落合医学部長両氏は機動隊導入を記者団に示唆したが歯学部・教養教授会の反対と学部自治会を中心とする学生の反対で導入されず、事態は膠着状態へ。医学部長室占拠と外来封鎖では歯学部各クラスの声明が発表され、無給医の側からはニ内教室員と、41年度卒業生の名で声明文が張り出された。教授側からはバリケードから退去せよというもの。

● 5月30日 和歌山医大三者会・外来部門の診療ボイコットへ突入。

● 5月31日 登録医制反対関西集会(於・大阪城公園) に大阪市大医・阪医・神戸医・奈良から150名参加。のち、大手前公園までデモ。途中、国試願書提出先である近畿医務局前で激しい渦巻きデモ。

● 5月31日 全日本医学生新聞54号 1面論文「第15回定期大会における医学生運動の『転換路線』とはなにか!」 全日本医学生連合中央委員会 中央執行委員長 油井泰雄

● 5月31日 弘前・医進生が医学祭市内パレード。

● 6月 1日 信州大・信濃毎日の同日記事。「付属病院整形外科では毎日おこなっていた外来の診療を、7月から1週間のうち3日間だけに制限することを決めた。いままでのように外来患者を診療していたのでは、大学本来の任務である研修と研究に手が回らない、というのが理由。市中病院との機能分担をはかって大学に過重に集中している医療体制の"効率化"をめざすねらいもある。
現在、整形外科には大学の正規の職員として教授から助手まで10人がおり、そのほか県内の病院から週に1,2回ていど診察を通じて技術を向上させるために、13人の医局員がきている。ところが、現状は毎日、新・再来あわせて百人くらいの外来患者があり、これらのスタッフは診療業務に忙殺され、本来の研修と研究の時間を大幅にさかれている。研修医が診療要員でないという立場で診療休制に組み込まれないため"人手不足"となり、こんどの外来診療日の制限となった。」 信州大整形への卒業生は43から44,45と入局せず自主研修の形となり正規に教室に入局したのは1972年である。

● 6月 1日 青年医師連合中佳一委員長(東大)/「永続国ボ―非入局路線、六月第一回新制度国家試験をボイコットしよう!」声明。

● 6月 1日 MD・外来受付阻止貫徹。

● 6月 2日 九大工学部・米軍RFCファントム偵察機が工学部に建設中の大型電算機センターに墜落・炎上。

● 6月 3日 MD・教授会は共闘会議に双方5名の会談を提案してくるが、全学闘は責任のある話し合いにならず、臨床研修の具体的取り決めに関する責任ある態度ではなかったといういきさつ(2月11日、学長と落合医学部長が確認した「常時話し合う」という契約がその後、全く反故にされており、外来封鎖という事態においてやっと腰をあげたその醜態)があり、三項目を認める態度を示さねば全く無意味であると拒否した。(医歯大新聞159号)

● 6月 3日 虎ノ門共済会館で全国国立病院医学部長会議で6月23日の新制度下で行われる国試を前に開催。43青医連30校で国試ボ、42青医連も全国的に追及中で医学連も支援をして研修生と共に阻止闘争を強化、これに対して国立医学部長会議は「卒試・国ボの学生は大学病院にいれない」強硬方針を固めたと伝えられている。

● 6月 4日 九大評議会主催・「板付基地撤去」全学デモに5000人参加。

● 6月 4日 MD新M1クラス会、5日5時までを期限とし、3項目を要求。受け入れられぬ場合は上級クラスと同調してただちに無期限ストに入ると決議。

● 6月 5日 日大医学部学生委員会、全学共闘会議を承認。

● 6月 6日 MD・5月30日からP会は動きをみせず。C、DもMの150日全学ストに呼応して全学ゼネスト突入。400人で全学抗議集会。「研協勝利・医教授会弾劾・丸キ導入反対・健保改悪反対」のスローガンを採択し、御茶ノ水駅から神田・中央大まで学生300で無届デモ。医歯大の集会とデモとしては開校以来最大。教養より150参加。新M1スト突入。

● 6月 7日 慈恵医大生・全学連デモで検挙、拘留4日。

● 6月 9日 43臨時大会(於・MD)「六月国ボ体制の確立を六月国試阻止へ。六月国試阻止の確立を十二月国ボ体制へ」。

● 6月 9日 42青年医師連合臨時大会(於・MD)。

● 6月 9日 医学連中央委員会。

● 6月 9日 医学連関西ブロックM4連絡会議(京都)

● 6月10日 東大医全学闘「時計台占拠も辞さず」を大河内総長に通告。

● 6月 ×日 東大・勤勉手当の差別支給反対、東大職員組合のストを断固支持する。医学部全学闘声明ビラ。

● 6月11日 医学連・「神田を日本のカルチェ・ラタンに」街頭バリ闘争に医学連もMDを中心に参加。
お茶の水橋の揺れている振動がMD 病院外来バリ封鎖現地まで伝わって来る=ASPAC「アスパック闘争」。

● 6月13日 京大・卒後研修方式について合意が成立、6月13日の学生大会でストライキは解除された。

● 6月13日 「日大の民主化のために右翼学生の暴力と大学当局の責任を糾弾しすべての学友と教職員・院生は総決起しよう! 」の民青系「U部法学部学生会。U部経商短学生自治会。農獣医学部学生会。津田沼自治会。」ビラに日本大学医学部学生会も連署。

● 6月13日 東大・医学部病院・基礎連合実行委員会を400人で結成。

● 6月14日 東大・【東大当局による監視記録】19時現在医学部より21時5分。医学部中央館 3階302 40人。 300 50人。  333 20人(43青)。3階の空気は真剣な様子である。8時30分 本館の警部本部からの連絡によると車は14台あるという。

● 6月15日 医科歯科大 → 東大へ決起集会。深夜・油井泰雄医学連委員長(MD6年)が150名(100名がMD生)の学友に檄を飛ばし徹夜で意思一致をした。
未明、東大医全闘委30名を追うように、医科歯科大学生等の医学連50名で東大安田講堂占拠(第一次占拠闘争)に向かう。東大医全闘委・医学連関東ブロックのMD・東医・日医・女子医・慈恵・東邦・東歯の学友に関西医大からも参加。MD病院外来バリケードから早朝にうって出て東大龍岡門を小走りで入り、講堂正門を丸太で打ち破り突入するも、東大生にすら卒・入学式しか足を踏み入れさせぬ安田講堂であり、総長室の所在が分からなかった。
やがて階下で警戒宿泊中の職員を追い出し、蹴破って入った4階中央南西角の総長室には外国煙草、高級洋酒が並び、フカフカの絨毯が敷き詰められていた。卒業式で「やせたソクラテスになるとも、太った豚になるなかれ」と訓示をたれたと伝聞される清貧総長「社会保障論の大河内」らしからぬ居住まいは民青諸君の「大河内総長を守れ」というシュプレヒコールとの実態の乖離があった。その夜、真っ暗な安田講堂の中で、医療ソヴィェトの創出という構想が43青医連から語られた。
ここに至るまでには医学連の支持が東大医学部全学闘争委員会を支え、突入時点では4名に細った東大医学部学友が次々に安田講堂へ結集してきた。

『時計台占拠』は東大医学部の闘争委員会自体の分解をもたらし、局面の打開のためには積極的に占拠する他ないとする意見は闘争委員会でも一時少数派に追い込まれた。東大医学部M1〜4年の各クラス会では占拠方針には反対だった。各クラス会は「闘争の原則を無視して時計台に突入した学生に自己批判を要求し、安田講堂からの退去を要求する」なる決議を上げた。雨中100名ほどの突入反対派の学生が安田講堂前で話し合いを求め、クラス決議を読み上げた。
東大全共闘は言う「しかしながらわれわれはここで大きな壁にぶつかった。すなわち、各クラス会において『時計台占拠』に反対ないし保留が多数派をとり、各クラス執行委員が辞任していった。『多数派原理』『形式民主主義』の本質がこれほど厳しく問われたことは、医学部においてはかつてなかった。現実の矛盾を克服していく過程に、『多数派原理』の有効性の射程は、固定的にではなく、動的に判断されなければならないであろう。当初より一貫して闘争を妨害してきた学生の右翼的部分と、いま、このチャンスに一気にみずからの手に医学部の医学部大衆のヘゲモニーをとらんとする日共=民青の諸君が、まさにこの『多数決原理』を唯一の武器に、これまで一貫して戦いを担ってきた部分をパージするのを見た時、医学部の真にものを考える人たちは、『クラス会民主主義』のみならず、戦後民主主義の人民支配機能そのものの本質まにまで迫る認識を得たのであった。」と。

その日の午前中に、大河内一男総長は、「機動隊導入に関する大学告示」を出した。そのあと体調不良のため入院した。

思い起こせば、大河内氏は1959年11月22日、第5回全国医学生ゼミナールで『日本の貧苦』と題して記念講演を行っている。国民皆保険が施行される前の段階で同氏は「社会保障の前段階というべき日本の貧苦の問題を取り上げ、その要因として前近代的な賃金性による低賃金、完全失業者70万を抱えた雇用の不安定さ、更には全人口の10%を超えたボーダーライン層を象徴とする一般的な生活不安を指摘し、解決策として最賃制度の拡充」を強調された。

この日、占拠された時計台前の銀杏並木では「反戦・反安保のための全東大銀杏並木集会宣言」が300名の同集会で出され、東京の300団体、10000人の日比谷野外音楽堂における東京地評青年協中心の反戦デモ「第一期全国反戦は、社会党・社青同・総評のいわば日共を除く既成左翼主導と新左翼諸党派の連合デモ」に合流していった。

● 6月15日 医学連・関東.関西全学連安保記念集会に参加。

● 6月16日 42青の国ボ部分と43青の統一青年医師連合結成大会(於・MD)、全国M4連絡会議。

● 6月17日 東大・大河内一男総長の要請により、『大学の自治』の場に言語道断にも、午前2時に機動隊導入要請、午前4時半警察機動隊1200人が同大学構内に朝もやの中を侵入の暴挙。安田講堂内の医全闘委・医学連はレポの報告によりいち早く安田講堂から御殿下グラウンドに向かい、進行してくるトラック隊列の間を縫うように東大病院側へ全員退去。東大当局(大河内一男東大総長)は機動隊を導入したその日の午前中に、「機動隊導入に関する大学告示」を出し、体調不良と称して入院した。その告示は、「大学はおよそ力をもって問題の解決をするところでない。暴状にたいしてやむなく」と、国家最大の暴力装置である警察力に懇願して、封鎖を解除して大学の正常化を図ったという趣旨であった。これに対して全学の学生の反発が高まる。その後、医科歯科大を中心に医学連・社学同200人が支援に向かうが民青の妨害で参加出来ず。学内8時、12時に銀杏並木で抗議集会。
300人の講堂前東大全学集会で全学闘争連合(全闘連)を結成。イ闘争は医学部から全学化していった。43青医連・戦いに再度決起。

1968年6月17日、
文部省から派遣された事務次官が大河内学長に詰め寄った。
「あの学生たちを講堂から追い出せ」二〇日のうちに開かれた記者会見の席で、大河内総長は機動隊導入がやむをえない措置だったことを強調した。しかし、学生たちに対しては説得力をもたなかった。
なぜ機動隊導入に踏み切ったのだろうか。
 医学部教授だった山本俊一は次のように解説する。
「安田講堂にいるのは、文部省から来ている文部事務官たちです。その庶務部長が怒ったわけです。大河内さんにひざ詰め談判で、『われわれは利害関係がないのに、こんなに学生に迷惑を被っている。彼らを追い出してくれ』と。大河内さんはそうしたくなかったんだけれども、庶務部長には弱い立場だった。彼らはストライキと無関係な人間でしょう。それが学生に追い出され、部屋の中をめちやめちやに荒らされた。『こんなことは絶対に許せない。最高責任者として、これを追い出してくれなければ困る』と言われたら、『まあまあ』なんて言っていられないでしょう」 それまで安田講堂は文部官僚に占拠されていた より。

● 6月 ×日 社学同東大支部・社学同医学連委員会。安田講堂内で見つけた当局丸秘文書を「これがやつらなのだ」とまとめて発表し、激しい学生敵視と監視の赤裸々な資料に全学の反響を呼ぶ。第二集も発刊。

● 6月 ×日 社会主義学生同盟東大支部ならびに医学連全国委員会は訴える!

● 6月 ×日 42LUE自治委員・42SI22F自治委員/本部占拠は正当である。自治権確立の闘いに蹶起せよ「医学部闘争勝利のために」No.1。

● 6月17日 日大医自・6自治会主催の日大闘争破壊、民青分裂集会へ勧誘され参加。

● 6月18日 東大医43青医連クラス会決議「機動部隊導入、強制捜索、不当逮捕に反対する」
闘う執行部がまず43青医連で奪還された。他のクラスでも再び闘う方針が確立。民青は多数派をとれないとみるやクラス会脱退を宣言するなど、『民主主義の守護神』の姿を暴露した。
同日、全学闘争連合が「機動隊導入に6・20全学ストライキを!」なる闘争宣言を撒く。 

● 6月19日 日大医学部教授会が本部機構の簡素化を要求。

● 6月19日 九大・医学部長・附属病院長,臨床研究生制度の改善について文部省に要望書を提出。

● 6月20日 東大医民青の三浦聡雄君リコール、三日天下。

● 6月20日 砂川正勝君(MD)公判闘争。医学連・各ブロック別国試実力阻止総決起集会。

● 6月20日 東大・警官導入に抗議して8000人、時計台前で法学部を除く9学部が一斉に一日スト。1960年の安保闘争時以来初。民青の押さえる東大自治会中央委員会をはじめとする学内「七者協」は戦う医学部自治会には極めて冷淡で、前年のストにも何も支援はしなかった。委員長はフロントで全学学生が一致できる3スローガン@機動隊導入反対、A不当処分白紙撤回、B総長との大衆団交要求、に民青はC安田講堂占拠の一部挑発分子の糾弾、D七者協に団結せよ、の2項目を加えて委員長に発表させた。民青の自分達の方式で事を進めようとするセクト主義が学生に嫌われ、討議の結果、民青のスローガンを掲げたのは教育学部のみだった。

当時医学部の今井澄(後の国会議員)は次のように述懐している。
「私にとっても全く新しい経験だったんですけれども、学科ごとクラスごとにそれぞれ旗を押し立てて安田講堂に抗議に押しかけてきたんです。その光景を見て、私はもうたいへんびっくりしました。それまでの学生運動というのは選挙で選ばれた指導部があって、その指導部が方針を出すことによって運動が始まるものだったんです。労働運動もそうでした。 ところが、全くそうじやない。自主的に、下から、個々に、分散的に起きた。そういう人たちがほとんど安田講堂前を埋めつくしたんです。私はそこへ行って呆然として見ていました。これはいったいなんだろう、全く新しい運動の始まりだというふうに思いました

● 6月21日 MD・神田カルチェ・ラタンASPAC闘争に数十名参加、御茶ノ水駅前交番襲撃、機動隊と激突。

● 6月23日 京大公判闘争・全関西統一行動(京大病院前より京都地裁)。

● 6月23日 青医連・医学連 報告医制度下第一回目の33校医師国家試験ボイコット闘争、新制度国試に4割が試験ボイコット。東京では300名(うち赤ヘル50)が試験場の拓殖大学前で、全学連から拓大を守れとする日本刀を持つ600名の拓大生と対峙、機動隊に4名逮捕される。日本医大からもデモ参加。大阪では230名が集会してデモ・1名検挙(大手前公園)。仙台でも200名の機動隊が分断体制に入り、東北では共闘会議主催の国試阻止デモが行われ、試験場に向かおうとしたところ200名の機動隊が分断し東北大生1名・福島医大生1名が公務執行妨害と道交法で検挙され25日夕刻に処分保留のまま釈放される。東北では東北大・岩手医大が受験。中四国逮捕2名。九州130名(ヘル50名)で厚生省のゲバルト部隊を粉砕。長崎大の15名国試断念。

● 6月23日 弘前・43研修生を中心に学生を加え80名で研修医制度反対の白衣デモ。M4は43研修生の国ボに50名中38名の支持表明、クラス参加。

● 6月24日 第一回M4連絡会議。(於・MD)

● 6月25日 東大当局・「医学部の異常事態について」に全学的反撥。医学部長が医学部学生に送った手紙には医学部全闘委の活動を「暴力革命を企図する一部学生指導者」に支配されたものと公言。
<総長談話> この度の警官導入の問題および医学部問題については、私は今週中に本学学生諸君と親しく会見して私の所信を述べたいと思います。この集会をみのり多いものにするために多数の学生諸君の参加を望みます。なお諸君の側と大学側で、集会の方式、秩序の維持その他について早急に打ち合わせてほしいと思います。昭和43年6月25日 東京大学総長 大河内一男

● 6月25日 九大医学部・米軍機墜落事件説明会。

● 6月27日 慶応・医学部の米軍資金導入問題で理事を追及。1969年春に持ち越される。米資は医学連全国15校で取り組まれたがイ闘争の巨波の中で決着がつかなかった。

● 6月28日 東大・大河内総長会見後、粒良君のみ処分撤回された。3000人の学生が安田講堂に参加し、溢れた2000人は別教室でテレビ中継を見る。本部封鎖実行委員結成。体調不良で退出した総長を待って宿泊、このまま安田講堂占拠となる。

● 6月29日 京大全学ストで団交。自衛隊員入学反対。

● 6月29日 青医連中央執行委員会。(於・MD)

● 6月30日 医学連・成田闘争へMD他。

● 7月 1日 日大医学生委員会 パンフ「学園民主化の為に」を発行。

● 7月 1日 広島医・研修協約闘争でスト突入。

● 7月 2日 東大医全学闘、安田講堂第二次占拠に中心的参加。東大・百数十人の学生と大学院生は、夜の本部封鎖実行委員会に結集して本部再封鎖。

● 7月 3日 東大工学部学生大会「安田講堂封鎖」支持決議。法学部48時間スト開始。

● 7月 ×日 東大・『闘う研修医・学生を支持する東大医師の会』が「医学部処分白紙撤回、大河内総長・豊川医学部長及び上田病院長退陣まで

● 7月 4日 砂川正勝医学連中執(MD)の公判闘争、関東ブロック総決起集会。(於・MD臨二)1時半、地裁内集会。

● 7月 4日 九大医学部・大学側要請の「米軍機墜落事件」医学生集会。

● 7月 4日 慶応医学部が米陸軍極東開発局から受け入れていた研究費補助金問題を巡って、日吉自治会が24時間ストに入り正門入口にバリケードを築き、次いで無期限ストに発展,三田の全塾自治会が取り上げるところとなった。

● 7月 5日 油井泰雄医学連委員長(東大)、6月15日の第一次安田講堂占拠で逮捕される。

● 7月 5日 東大全共闘結成。安田講堂、大衆団交要求の全学集会。3000人参加。教養学部無期限スト開始。

● 7月 6日 福島医大新聞・「医学連の危機を乗り越え飛躍的発展をめざそう」T生(民青系論説)

● 7月 8日 MD全学大会・学4による全学大会・全共闘方式否定スト破り提案.賛121反128保12棄12、執行部提案 賛131反127保4棄11で共に採択されず、ストは9月に続行。

● 7月 8日 東大・医師を中心に100名でデモ。全医局員集会。

● 7月 9日 医学連系大学・全都学園闘争勝利連帯集会へ参加。

● 7月12日 広大・医学部当局と研修協約を締結・スト解除。

● 7月13日 東大医学部・大討論集会(於・医学部本館)、医連合実行委員会結成。

● 7月13日 福島医大・2百数十名の学生が第三回大衆団交で教授会は登録医反対声明と青医連による院内研修は認め、残りは青医連の公認へ。

● 7月15日 東大全共闘・青医連公認などで7項目要求。

● 7月15日 MD・全学大会でスト体制続行を決議。ストは200日を越す。スローガンは三項目貫徹・69年健保抜本改悪粉砕・無給医ストを実力防衛せよ。103名の無給医全日スト。

● 7月16日 東大全学共闘会議 <7項目要求> 1、医学部処分撤回。2、機動隊導入を自己批判し、表明を撤回せよ。3、青医連を公認し、当局との協約団体として認める。4、文学部不当処分撤回。5、一切の捜査協力(証人証拠など)を拒否せよ。6、1月29日より全学の事態に関する一切の処分を行うな。7、以上を大衆団交の場に於いて文書を持って確約し、責任者は責任をとって辞職せよ。我々は以上の要求を確認し、本部封鎖に結集して、全学無期限スト・全学封鎖で戦い抜くことを宣言する。

● 7月20日 MD全学共闘会議が声明、団交を呼びかける。

● 7月21日 全学連(ブンド系)第19回全国大会選出書記次長・村田恒有(MD)。社学同医学連委員会の部隊は中大学館屋上で朝を迎える。

● 7月21〜22日 医学連関東ブロック合宿。

● 7月22日 MD当局・本富士署に日本医大学友を不当逮捕し傷害・公文書廃棄デッチアゲで売り渡す。(起訴猶予処分)。新橋の杉本昌純弁護士に依頼。

● 7月23日 東大全共闘を支持する全学助手共闘会議結成。

● 7月25日 医学連機関紙55号・「反帝統一戦線を軸に学生運動の発展をかちとれ」論文。「東大・医歯大闘争を69年健保改悪70年安保闘争への飛躍の場とせよ。」論文掲載。
医学連中央書記局からの訴えとして「医学連加盟費未納自治会は医学連定期大会時納入することを要請します」。加盟費は1人年間30円。更に9月法廷闘争へ100万円カンパの要請。
東大では全学化の中で医学部の多くのクラスが再封鎖支持を表明している。

● 7月27日 厚生省、無免許医師を使うな。通達。

● 8月 2日 九大医自・機体引きおろし作業に強硬抗議してバリ構築に参加。

● 8月 3日 国際反戦会議へ医学連参加(於:中央大)。スターリン主義者に牛耳られている国際学連の再編など。

● 8月 5日  しかしインターン制度の実態は、次のようなものであった。
「教育要員の準備や研修者の待遇などを準備することなしに行なわれたわが国のインターン制度は、社会が権利だけを行使して、その義務を怠った形態であり、ために青年医師の人権を侵害した形でおこなわれてきたことは疑う余地がない。しかもこれは国家権力を背景としておこなわれてきたことも事実である」(東大医学部基礎・病院連合実行委員会『医学部闘争の本質について』一九六八年八月五日)。

● 8月 8日 名大医・教授選考で紛糾し、教授全員辞表提出。

● 8月 9日 九大医学部・米軍機墜落事件で医学部集会。問田学部長要請による説明集会。

● 8月10日 東大・医学部長、病院長辞任。東大当局は、緊急評議会を開き、医学部学生11人の再審査などの収支策提示「8.10告示」大学側最終案をまとめ一方的な告示を出した。被処分者の取り消しという形をとって学生をなだめようとした。機動隊の導入について、学生の自粛と暴力行為の抑止を説教していた。医学部ではこの告示を受けて、学部長、付属病院長が交替した。小林新医学部長は、総長名で告示を医学部学生宅に郵送し、対話とストライキ終結を呼びかけ、事態解決のため東京大学告示を全学生に郵送、医学部処分棚上げ・病院長辞任などの解決案を示し提案を行った。また、機動隊導入についての、今後の慎重な姿勢などを訴えたが、全共闘は断固としてこれを拒否。

● 8月11日 青医連臨時大会・10月国試ボを決議。(於:医科歯科)。戦術国ボを総括し、永続国ボ=非入局路線を再確認。広島・信州・神戸が新たに加盟。 <スローガン> 医療の帝国主儀的再編阻止。東大・MD・信州・福島闘争勝利。健保抜本改悪粉砕。70年安保粉砕。青医連ゼミ開催。10月国試ボ断固貫徹。新たに広島・信州・神戸が加盟。医学連は機関紙上で東大42青医連にみられる経済主義的な傾向を批判。
東大医学部が200日を越える長期ストで、全国医ゼミ開催主管が出来なくなり、青医連が11月に京都の地で第一回医ゼミを行うとされた。

● 8月15日 医学連大会の延期・本日開催予定の医学連大会は油井委員長、東大医学部学生自治会委員長、池亀中執の第一次安田講堂占拠事後逮捕と東大と全国学園闘争の爆発に対処するため、9月7~8日に変更。国家権力と結ぶ国大協の学生狩り。東大主管での医学連主催・全国医学生ゼミナールも実質的に開催不可能に。医学生の全国医ゼミの総括を医学生運動の止揚された組織、青医連はふまえて医療労働論の深化を青医連第一回ゼミで獲得しようとしている。

● 8月17日 医学連・東京地裁22部の1で3月国試阻止闘争指揮者の医歯大S君に対する起訴攻撃に反撃する第2回公判闘争が行われ、S君の発言中に裁判官は居眠りを始め、追及のヤジ。100万円法廷闘争カンパを呼びかけ。

● 8月17日 東大医当局・「臨床研修総則」「協議会」案発表。

● 8月20日 九大医学部・米軍機墜落事件で学友会・職組主催の全学総決起集会。

         チェコ事件、8月20日・国際学連書記局があるチェコスロバキアに
ワルシャワ条約軍が侵攻した。医学連は『全日本医学生新聞』55号
(1968.8.25)で『コミューン原則の復権による止揚を!』10・21
国際反戦闘争を全学ストで戦い抜きチェコ人民と連帯しよう、という
砂川編集長(医科歯科大)の論文を掲載した。

● 8月22日 東大医、右翼・「8・10告示」の誘いに医有志名でスト終結声明。スト破り118名宣言。

● 8月23〜25日 医新連夏季合宿に日本医大・関西医大など参加、(於・岐阜)。医新連全国代表者会議を9月7日、医学連大会第一日目が終り次第、東大安田講堂で行うと招請状を出す。全学新への加盟問題は個別の問題であると書き合宿で確認。(全学新書記局は専修大学新聞会気付)

● 8月23日 九大医学部・当局は強引に米軍機保管庫建設に1000名を動員、反対派学生ピケ突破、保管庫を破壊。

● 8月24日 東大医・小林医学部長が団交を約束、卒試・授業強行の有無を追及。「知らない」と答えた直後に裏切り、卒試再開を公示。9月に異例の卒業試験を行うと掲示した。対象は、春に受験していたものを除く医学部4年生109人だった。

● 8月25日 医学連機関紙56号・「反帝統一戦線を僕らの手で−医学連の再編を時計台でかち取ろう」筆頭論文。

● 8月26日 東大医・43青医連卒試拒否を決める。

● 8月28日 東大医本館で300人決起集会。この日安田講堂で総決起集会を開いていた東大全共闘は、逃亡した小林新医学部長が記者会見をしているということで追及団交するも卒試強行撤回せず拒否したので午後5時から医学部本館を封鎖した。この日、東大で9名がストライキ終結宣言(スト破り宣言)をした。小林新医学部長が、夜の7時すぎ学生との話し合いに応じると述べ、翌日、午前零時10分まで話し合いが続いた。結局もの別れに終わった。翌日、灘尾弘吉文部大臣が介入し「武装した大勢の学生が医学部長をつるしあげたのは暴行、脅迫とも言ってよい」と述べている。島泰三著「安田講堂1968−1969」より。この頃より民青との抗争が激化。
● 8月29日 東大医図書館3階で・デッチアゲ記事に抗議した際「読売谷川記者暴行事件」が起こる。暴行を受けたと本富士署に転がり込む。三吉譲君(東大医)起訴される。学部長団交を報じる読売新聞29日朝刊の記事だが、朝日紙は「小林医学部長もこれを了承して」と報道している。

● 8月31日 東大全学闘・読売の29日朝刊記事『学部長を同じ建物の中の南行動にこづきながら押し込めた』『角材を手に、大衆団交』という三吉君へのでっちあげに対して、読売の取材を認めぬと抗議文を発表した。医学連は「我々は一切の商業紙を信用してはならない」と機関紙『全日本医学生新聞』で声明。

● 8月 ×日 国際反戦集会に医学連も参加。

● 9月 1日 九大医学部・米軍機墜落事件で休み明けと同時にクラス討議。

● 9月 1日 東大三吉譲(東大医)君、「読売事件」で逮捕状が出る。

● 9月 3日 日大当局、9月11日からの授業開始を新聞に公告。
全共闘、日大病院駐車場で古田会頭に会い、大衆団交について折衝を要求するが拒否される。抗議する学友の座り込みに対し機動隊がゴボウ抜き、3名の学友が検挙される。

● 9月 3日 東大駒場で全学総決起集会に1000名参加、読売新聞でっち上げ抗議文採択。読売本社へ抗議団を派遣。

● 9月5〜7日 日本医大学友会夏合宿。長野県妻恋高原。

● 9月5〜7日 九大医学部・学生大会で前期自治委員会議案書否決・解散。

● 9月7〜8日 医学連・緊迫した情勢下の、医学連第15回全国大会(東大安田講堂)が32大学250名で持たれる。権利停止自治会8、自治会のない4校、未加盟自治会1を除く代議員権保有35自治会中19自治会代議員(北大・岩手・福島・東大・医歯大・東医・東邦・日医・慈恵・慶応・阪医・京府・関西・京大・徳島・鳥取・広島・九大・長崎)とオブザーバーが参加。臨床協約制粉砕・健保改悪阻止などを決定。スローガン「医療の帝国主義的再編粉砕」。大会は中央執行委員会提案の@反戦闘争と医学生運動の総括を賛成15、反対0、保留2、棄権2.A情勢と任務方針を14・2・2.1で採択した後、東大闘争への国家権力の弾圧に対する抗議と起訴された油井委員長他2名の法廷闘争を断固として戦い抜くことを満場一致で採択、14名の新中央執行委員を満場一致で選出。直ちに第一回中央委員会を開催、委員長三上君(東大)、副委員長渡辺(京府)・村田(東医)両君、書記長木野村君の三役を決定した。最後に三上委員長が日共民青の暴力から解放区時計台を守り抜く為、全員の泊り込み死守をアッピールした。大会は肩を組みインターナショナルの合唱で終った。
大会中は東大・MDのスト破り民青の入場阻止を行動隊80のピケで貫徹。民青系26大学、200名安田講堂前へ。対案議案書は札医・東北・信州・名大・三重・金沢・鹿児島が提案校。
周到に計画された医学連乗っ取り、東大闘争破壊=安田講堂バリ封鎖解除の陰謀に従い大動員された民青都学連ゲバルト部隊を事前配置。医学連に対して7月民青全学連大会決定の「戦闘的・民主的学生運動」の反革命ゲバルトを全国で始めて行使。深夜、商業紙の締め切り時刻が過ぎると御殿下グラウンドに水色、黄色のヘルを被った約1000名の闇部隊「暁部隊」を動員して突き、蹴りなど軍事訓練を行い、更には突撃訓練、安田講堂への五度ジグザグデモで挑発を繰り返し度々大会中断を余儀なくされるが参加者全員泊り込みで大会を守り抜く。8日、民青は彼らの予定通り医学連の正常な機能回復を目指す全国医学生集会を開催し、全国医学系自治会連絡会議をでっち上げる。
その後、新潟・阪市・神戸・岡山医学部自治会が自己批判文書を提出して医学連に再結集をする。
暁部隊は秋の流動化する学生戦線に周到に準備されてまず医学連大会破壊に投入されたが挑発にのらなかったので次の日は日共の指導で法政大学に現れ、同大学全共闘と流血に至った。
東大では時計台前テント村住民や43青医連の医師、病院前に集まってきた東大生に暴行を働く。
         
         全日本医学生新聞号外記事:1968.9.13 「民青、学生大衆に暴行」
        医学連大会に五度、ジグザグデモで圧力をかけた共産党直接指導の六百の民青
        都学連諸君は夜になると全員青・黄色ヘルメットに角材で『民青帰れ』を叫ぶ
        学生大衆を襲いY君に五針の頭部裂傷を、他の四名に負傷させた。
        そして商業紙の朝刊入稿締切りになるや病院前グラウンドで突撃、足蹴等、彼
等の言う『戦闘的、民主的学生運動』の為の軍事訓練を繰り返した。

     朝日新聞記事:1968.9.10東京版 『医学連が分裂』 東京大学安田講堂で開かれていた第15回全日本医学生連合定期大会は新委員長に三上凱久君(東大医学部三年)を選んで八日午前一時過ぎ閉会した。大会では@来年に予定されている健康保険抜本改定に反対し、闘争体制をねる。A10・21国際反戦デーに参加する、などを決議した。
    この大会は、医学連の主導権を握る反代々木系が、代々木系の参加をこばみ、30大学220人(医学連中執発表)で開いたが、大会に参加できなかった東北大、名古屋大など26大学の学生たちは大会の成立を認めず、医学連は事実上分裂した形。代々木系を中心とする学生たちは八日、32大学を集めて全国医学系自治会連絡会議を結成し、医学連の正常な昨日回復を目ざすという。

      岩手医大学生新聞:1968.10.22 記事 「第15回医学連定期大会開催」
     大会に先だって日共系の14大学は安田講堂前で「封鎖反対の抗議集会を開いた。これに対して医学連中央執行委員会は「封鎖反対の抗議文を撤回すること。それは大会会場で討論すべき問題である。集会を中止して、代議員は直ちに会場に入ること。但し傍聴者は民青集団として参加することは大会破壊を計画するものとして考えられるので、集団を解散し、一学生として入ること。」を抗議文の回答として呼びかけた。しかし日共系代議員は、民青集団をもって入れよということに固執し、大会結集を拒否した。
     大会は午後3時すぎより始まり、大会の途中、日共系医学生(医学部外の者を含む)による投石やヘルメットに竹やりを持つ集団のシュピレヒコールによって邪魔され、討論が一時中断することもあり、大会終了は8日の午前1時過ぎであった。


● 9月 7日 東大自治会中央委・院生協・職組等の7者協、患者をベッドから叩き出すとの鬼のような所業の病院封鎖デマ宣伝を行い300で病院前集会。夜間には更にゲバ隊は補充され、病院前を占拠、雨になり病院内に部隊を入れ都学連が東大病院を占拠し、抗議する数百名の東大生に殴る蹴るの暴力を振るった。学友1名は5針を縫う裂傷。東大医学部生も袋叩きに遭った。
医学部では付属病院長室を「あかつき部隊」のむき出しの暴力に屈せずに封鎖。教養部等で封鎖拡大。
この日、日大では全学総決起集会が機動隊の弾圧を受けて逮捕者が129名に及んだ。

● 9月 8日 医学連破壊の民青暴力部隊登場の為、。安田講堂で開催予定の医新連(全日本医学生新聞連名)代表者会議が流会。

● 9月 9日 東大・43年度卒業予定者に極秘卒業試験。受験対象者の内過半数に満たないスト破り45人が受験。春にスト不参加の11人が受験をしており、安田講堂占拠派を中心とする60余人が受験せず。

● 9月 9日 東大から転じた民青「都学連」ゲバ部隊による市ヶ谷法政大経済への襲撃が始まる。

● 9月 9日 九大総長・8・23事件に遺憾声明。

● 9月 ×日 福島・研修協約勝利。

● 9月10日 全日本医学生連合中央書記局・「医学連分裂」のデマ報道に抗議。「毎日・読売等(9月8日朝刊)商業紙による『医学連分裂』記事は事実無根で有るばかりではなく医学連破壊を狙ったものとして全国3万医学生の名に於いて記事掲載各紙に抗議する。」(全日本医学生新聞 9月13日号外)

● 9月13日 医学新・号外。「病棟封鎖を全学バリケードへ! 10・21反戦闘争のとりでとせよ!」。
同日、東大医学部緊急教授総会で、卒業試験を一時延期、当分休講。この頃東大闘争が拡大していくことになる。

● 9月14日 日大医学部スト権確立397対80。
 
● 9月15日 医学部封鎖解除を機動隊800と教職員で行う。
● 9月16日 東大本郷構内の5学部で学生大会、学部大会を開く。医学部の学部集会には教官、学生約1300人が参加。青空団交で小林新学部長から卒試・授業再開延期を勝ち取り、9月9日に試験を受けたスト破りの45名は落胆する。
● 9月18日 岡大学内集会・正門バリケード構築・西署並びに市中デモへ医学部よりも参加。
● 9月18日 東大医学部緊急教授会で、卒業試験を一時延期、当分休講を発表。
● 9月19日 日大医学部スト・11学部全部でスト入りして吉田会頭を追い詰める。
● 9月19日 慶応・中核派学生8名、医中央事務局をバリ封鎖。12時間後に自主解除。医学部自治会主催の討論会に300名参加。
● 9月20日 九大医学部・新しい自治委員会が発足。
● 9月21日 福島医大・青年医師などで福島反戦青年委員会結成。
● 9月22日 東大外科医局・研究棟封鎖、反対者は3名。全共闘の学生約250人が医学部付属病院外科系医局・研究棟にバリケードを築き、封鎖する。
● 9月23日 43青医連東大支部・医局解放闘争宣言。
● 9月24日 横市医・学生委員会は予算獲得にしぼり『医学部長と団交』、「医学部長と事務長が本学貧困の原因が政府の低文教費、低医療費政策にあることを認めながらも社会党飛鳥田市政がこれに従属した政策をとっていることには一貫して口をにごし、彼らが我々の要求を積極的に獲得しようとする立場でないことが暴露された」としている。

● 9月27日 東大医・午前3時医学部図書館3階での議論の後基礎病院連合実行委150名、臨床研究棟(赤レンガ館)研究者により自主封鎖。医全学闘など学生は玄関で夜がふける頃まで防衛隊。
     (山本義隆 バリケード封鎖の思想『情況』誌 1968.11月号)
9・27午後2時からの全学共闘会議、基礎病院連合実行委共催の卒試強行弾劾、医局封鎖貫徹、総長大衆団交実現、全学総決起集会は1500、安田講堂で行われ、東大病院分院職組の挨拶もあった。

● 9月29日 第2回M4連絡会議。(17校参加)於・東大医本館。

● 9月30日 東大精神科医局は教授会の猛省要求。

● 9月30日 京大医・87人全員に卒業認定、闘争終結へ誘引。

● 10月1日 九大医学部学生大会・4項目決議を採択。

● 10月2日 東大医・若手研。無期限スト突入。

● 10月4日 東大医・200名で医1号館、3号館封鎖。若手研も参加、自主管理へ。

● 10月 4日 MD学生大会。スト終結を決定。

● 10月 5日 MD外来バリ自主解除。296日間。

● 10月 ×日 阪市医・「医学部民主化綱領}3項目要求を掲げ闘争。 @、講座制=教授会独裁体制解体。A、教授会の公開性、枠の拡大を実施し学生・青医連・大学院生の対等な参加を認めよ。B、教授、教員選考の際、全構成層の参加を認めよ。

● 10月 8日 東北大・大学医学部反戦を結成し「10・8ゲバラ・山崎追悼行動」へ参加。

● 10月 8日 東大精神神経科医局・医局解散決議。

     ● 10・9 赤旗・東大闘争を日共は正門前のふたき旅館に陣取る党からの直接指導へ。東大闘争勝利行動委員会から東大民主化行動委員会へ改組。

● 10月 9日 横市・臨時教授会。自衛官入学は遺憾である、飛鳥田市政への統一行動は参加できないと。

● 10月 9日 東大・全闘連、基礎病院連合実行委員会主催『10・9全学院生・研究生総決起集会』が開催され500名の医局員・院生・研究生が結集し討論の後に集会宣言、学内デモ。

● 10月11日 君は今何を問われているのか・二百数十日に及ぶストライキ闘争の中から法学部の学友に訴える・ 東大闘争医学部連絡会議
1、医学部問題の根源
 独占資本の繁栄のもとで、生産第一主義が強調され、合理化が強行され、労働災害は年を追って激増している。おびただしい災害発生の氷山の一角を反映したものとして、労災保険にあらわれた数字は、毎年132万人以上が災害にあっていることを示している。毎日18人が殺され3670人の労働者が傷つけられている。炭鉱労働者を例にとれば、三池闘争の1960年と1965年では災害指数は111から168に増え、61年には月28人が殺され、355人が傷ついている。しかも最近、あらゆる職業において保安無視の生産増強、ひとべらしと労働強化の中で、労働災害は大型化している。職業病はキーパンチヤーのけんしょう炎、運転手のムチウチ症、配管工のガス中毒、化学薬品による職業病、全産業にわたる腰痛症が頻発している。

 資本のあくことを知らない搾取の強化のもとで、防止できる職業病も放置され、今やそれは、全産業の労働者の健康をおびやかしている。農民はどうだろうか?ー−同じだ。公害はどうか? 交通事故はどうか?--一同じだ。

 新安保条約以後、池田、佐藤両政府のもとに於ける日本資本主義の「驚異的発展」は資本主義世界第3位という「繁栄」をもたらしているが、この見せかけの繁栄は、一方に於ける労働者、人民の犠牲の上に築き上げられたものである。こうして人民の健康破壊の進行と増大する医療要求は健保財政を危機に追いこんだが→70年を目前にしてアメリカのアジア侵略に追随し、海外進出をはかりながらドル防衛や資本自由化の圧力のもとで国内体制の強化に狂奔している政府はこれを健康保険の抜本改悪=社会保障から営利保険へ=によって切り抜けようとしている。これは患者、国民の負担の一層の増加とともに医療従事者への低賃金、合理化攻撃として表われる。こうしたものの一環として登録医法案があったのである。‥‥‥

 我々はこの数年間のインターン闘争、医学生運動の中からインターン問題、無給医問題が総体としての医学医療の状況に規定されており、日本の医学医療全体の変革を展望しつつ闘かわなければならないことを理解した。そして卒業後こうした内容の闘かいを進めていく運動体=青医連を生みだした。この闘かいの過程で我々は、又、旧医局体制とその上にあぐらをかく医学部教授会が下からの新たな運動の高揚に反動的な恐怖と敵意をいだき運動を圧殺しようとしていることを理解した。当局に青医達の存在を承認させ、運動を進めるための政治的自由を獲得すること一切がここにかかっていた。その意味でこの闘かいは我々にとってどうしても勝たなければならないものとしてあったのだ。(中略)

3、法学部の学友諸君、君達に問いかけたい!
法学部の学友諸君、君たち一人一人に問いかけたい。君たちには僕らと同じような問題はないのか。
東大法学部の現状、社会的に果たしてきた役割に満足できるのか。辻清明をあのままにしておけるのか。教授会のスト破壊活動を許すのか。
旧への復帰・安易な7項目妥協路線に止まろうとするのか。今、学内には、又、全国の学生運動の中には7項目を乗り越えさらに徹底した民主化を実現できるエネルギーがあるのではないか。
君たち一人一人の未来、一人一人の全存在をかけて我々とともに無期限ストで闘おうではないか!
● 10月12日 東大・法学部が無期限ストに突入。全10学部が開学以来の無期限スト入り。若手医師を含む全医学部共闘会議結成(医共闘)して『医学部共闘会議結成宣言』。.
    (医共闘機関紙「炎」創刊号 68.10.25)

● 10月13日 京大・4・7青医連の説得行為に「監禁」をでっち上げ京都地裁裁判。被疑者(幸寺・大浜・田原)

● 10月14日 東大・午前3時・医図書館を300名の警官隊包囲。3時15分、数十名で押し入り、読売事件の医学部4年三吉譲君を310番教室で逮捕。本富士署前で500名の座り込み。

● 10月14日 九大基地対策委員会,「基地と大学−九州大学はうったえる−」を発表。カネミ油症事件原因究明等のため,医学部を中心とする九大油症研究班が結成される。
● 10月14日 東京大学医学部精神神経科医局解散(医局員総数116名 在外中を除き議決参加は92名、賛63:反26:棄3)「東大病院精神神経科医局解散宣言」。
● 10月15日 東大・医スト実・医連合実委・全共闘は「三吉君不当逮捕抗議集会」後、300名は内科研究棟封鎖。内科研究等封鎖。
● 10月16日 横市・民青学生委員会予算獲得対市交渉へ150名の院生・学生を動員。

● 10月17日 東大・基礎医学、社会医学若手研究者の会(54名)『封鎖闘争宣言』を発す。
● 10月18日 慈恵・42・43青医連合体−青年医師労組結成。
● 10月18日 東大医学部神経内科の医局員15人全員が教授会に抗議し、25日以降スト終了まで一切の診察を有給者のみで行うと決議。無給医診療拒否。
● 10月20日 国試を42・43青医連受験。
● 10月21日 国際反戦デーのこの日、京大医スト・大阪御堂筋を独自梯団でデモ。
医学連は防衛庁実力闘争に100名(女子医・日医・東大・MD・慈恵・東邦・千葉など)が参加。日本医大生と千葉大医学部生が逮捕起訴される。新宿騒乱罪適用。
民青「医学連の正常の機能の回復をめざす全国医学生統一行動」は中央では300名を集めたとし、厚生省の報告医制実施と健保改悪に抗議。
民青「全学連」黄・水色ヘルメット姿の行動隊を先頭に文部省前道路を埋めて座り込み。翌日の赤旗に白山道路をデモ中の{全学連}メット隊列が経済学部バリ封鎖中の日大全共闘と手を振り合う写真が掲載される。
● 10月21日 横市民自・スト。『公立大学への国庫補助の大幅増額』『報告医制度実質化阻止』。
● 10月21日 九大医学部・学生自治会は、130名で板付基地ゲート前に「基地を撤去せよ」とデモ。
● 10月21日 名大・名市・岐阜の医学生は国際反戦デーに50名が参加。広小路突破デモを行う。医自民青は同盟登校を呼びかけたが50名しか集まらなかった。華やかな医学部民主化闘争の果実とは裏腹に15回大会以来一度も学生大会を医学生会は成立させえていない。

● 10月21日 東大精神科医師連合結成(102名)設立宣言を出し、病棟を自主管理する。対抗して日共を含む守旧派は『教室会議』を1969年に立ち上げ外来に居座る。
この日、『読売事件法廷闘争本部』設立。

● 10月21日 徳島・C・M自治会共催『ベトナム反戦・アンポ粉砕』集会に150。

● 10月21日 京都府立医大・スト。大阪御堂筋デモに合流。2000の学友と安保粉砕を戦う。大阪市大でもスト。

● 10月21日 11時より3・14医学連関西ブロック統一行動に対する市条例違反容疑で京都地裁で裁判。

● 10月22日 岩手医大医学部自治会委員長・舘懌ニ「医学連大会と我々の今後の方向」
― 今大会の乗っ取りをたくらみ、犯罪的破壊行為をかけてきた日共−民青諸君の意気込みは凄まじく、医学連中執の講堂内で討論しようという呼びかけにもかかわらず、彼等はその党は利害からそれを拒み、講堂前で民青集会成るものを開き、又その後大会が開始されてから幾度となく大会に対する挑発的デモと妨害を行い、大会はそのため何度も中断せざるを得なかった。
さらに我々が今後の医学生運動の進め方について熱心に討議をしている間に、彼らは全都動員をかけ約1000名のヘルメット・ゲバ棒部隊を召集し、病院前に座り込みを行い、一般学生の「民青帰れ」の声にゲバ棒でもってこれをたたきつけるというハレンチな行動でもって多数の負傷者を出した、又おりから降り出した雨に「病院封鎖反対」を唱える彼らが、病院を占拠するという茶番まで演じた。このような日共−民青諸君による一連の破壊活動は東大生そして医学連を日共−民青のヘゲモニーの下に支配せんとする犯罪的行為の何者でもないだろう。 ―
                               岩手医大学生新聞61号

● 10月 ×日 群馬大・学生大会で医学連に結集する学友の議案、(賛103、否39、保留19、棄権)。民青執行部不信任(賛成104、否40)。

● 10月24日 大阪市大・M4クラス会で病理学教室の神戸教授と中島助教授が講義中、講義担当をめぐって激しく口論し、取っ組み合いにまで発展した事からM4クラス会は教授会に事態の真意を問う公開状を出し24日に医学部長名で回答。市大医学部闘争の発端となった所謂「病理学事件」。

● 10月25日 東大医共闘創立・機関紙{炎}
同日、泌尿器科教室医局会「教授会反省要求、封鎖解除要求」を声明。

● 10月26日 九大医学部・学生自治会は、10.21デモへの警官の弾圧に対して県警へデモ。10月以降大学当局は米軍機体問題に関して沈黙を保ったまま11月に入り、下旬全学集会を提案したが、予備折衝の段階で反対派は「説得集会」だとして7.9撤回を要求したまま全学集会は不可能となる。

● 10月26日 「東大闘争の決定的局面を闘いぬけ!」全学助手共闘会議
全学無期限ストライキで闘っている学生諸君、大学当局は常軌を逸した拙速主義をもって、またもや事態の収拾をはかろうと動き出した。彼らの動きは、腐敗した土台にあくまで固執し、その上に、一部の諸君の喜びそうな擬制民主化ないし近代化管理体制を接木しようとするものである。
腐敗した土台とは何か。
国家権力と癒着し、日本独占資本主義の高度な発展を支える純体制内的支配機構であり、年功序列・身分職階制に裏打ちされた権威主義・伝統主義・学問至上主義(アカデミック・フリーダム)である。この土台に対する徹底的な攻撃を欠いた「大学改革ビジョン」などは、たわごとであるにとどまらず、「よりよき管理化」への積極的協力を約束する犯罪をおかすものに他ならない。

 闘う学生諸君、冷静に大胆に(大学)を破壊せよ。
半焼家屋の跡に新しき家をたてたいと欲するならば、まず半焼家屋を焼き減ぼさねばならない。
われわれは、ここに、その最低の作業として以下の項目を掲げる。
 東大闘争を闘うすべての学生・院生・若手研究者・職員諸君、いま 一度不退転の決意を新たにして、この闘争を闘いぬこう!

○「8・10告示」撤回。
○7項目要求を受け容れ、直ちに大衆団交を開け。
○総長は即時辞職せよ。
○医学部不当処分承認以後現在に至るまでの全評議員は辞職せよ。
○医学部教授会構成員は全員辞職せよ。
○全学の各学部・研究所教授会構成員は、全員学生に謝罪し、自己の無責任・無能力を学生の審判に委ねよ。

 東大闘争を推し進めてきた唯一の組織的主体は全学共闘会議であり、全学の闘う学生諸君は共闘会議に結集している。従つて共闘会議のみが大衆団交の交渉主体となりうるのであり、他の集団がその闘争の成果に便乗することは許されない。
○全学共闘会議を大衆団交の唯一の交渉相手とせよ
○日・民の犯罪的闘争破壊を許すな。学内支配の近代的合理化に順応する「民化」路線・協議会方式の幻想を打破せよ。
○学部共通細則撤廃。
○公安警察と一体化した学生部解散。
○東大は国大協を脱退せよ。「大学自治こ関する東大見解」(大内パンフ)破棄。
○講座制解体。戦闘的医局員諸君による医局解体支持。
○10・21国際反戦デー新宿闘争の勝利万才!
 騒乱罪捜査を名とする官憲の学内侵入を許すな。
○すべての幻想を拒否せよ。われわれは遠くまで行かねばならないのだ。大学権力のあらゆる妥協と恫喝のつけ込むすきを与えぬ鋼鉄の無期限ストライキ体制を堅持せよ。ストライキ体制内部の空洞化の危機をはねのけ、全学バリケード封鎖によって、決定的に(大学)の死を宣告せよ!全学の戦闘的助手諸君、全学助手共闘会議に結集し、闘う学生諸君と堅く連帯して、全学バリケードの構築を追求せよ!
             1968年10月26日 全学助手共闘会議

● 10月26日 岩手医大教養祭・講演・むのたけじ 映画キューポラのある街 各クラス発表
於・歯学部講堂。
 
● 10月26日 名大M1クラスが民青に不信任決議。名大M1クラスが民青の学生会に対し、一年間に3度学生大会を召集しながら流会させていることを弾劾、自己批判を要求するクラス決議を行った。この自己批判に回答しない限り今後の協力はしない内容で、27日に出された『見解書』は了承できないと学生大会への参加を拒否した為、またもや大会は流会した。

● 10月26〜31日 日本医大・前年は学生祭は「研修協約闘争の革命的敗北」により中止に追い込まれたが、今年は第11回『千駄木祭』「現代のカタルシスを語る」テーマに復活。
映画『戦争は終った』『圧殺の森』『三里塚の闘い』『炎』『憂国』『若者達』『明日に生きる』上映。講演『看護は何故医療から独立するのか』法大教授・千葉康則、映画監督・篠田正浩、『現代の反戦運動とその限界』医療労働者・松本礼二、『日本の医師』産経編集者・野田衛。

● 10月30日 徳島・M4『永続非入局』決定。44青医連『結成条件』決定。4条件とは1、永続非入局・2、大学院ボイコット、チィチルボイコット(追及)・3、専門医制ボイコット(報告医制ボイコットを含む)・4、健保抜本改悪阻止。

● 10月30日 福島・M4クラス会『永続非入局』決定。44青医連『結成条件』決定。

● 10月31日 東大43青医連結成・単一青医連へ。スト破りを除く51名と他校出身者10名で結成。その場において医局員も含めた単一青医連への確認がなされた。

● 11月1日〜5日 熊本・第三回熊大祭で水俣病と公害を取り上げる。 「統一テーマは『世代は叫ぶ−この焦燥と不安の中から』。学生運動の中で学生とは何かを考えようという試みと水俣病および公害問題が大きく取り上げられこの二つの柱で熊大祭をアピール」『熊本日日新聞10月30日』
● 11月1日 東大評議会で大河内一男総長の辞任を承認。紛争の発端となった医学部の豊川行平前医学部長、上田英雄前東大病院院長の東大教授退官を承認。10学部の当時の学部長全員も辞任。
● 11月2〜3日 青医連ゼミ(於・京都)。青年医師連合中央書記局/青医連ゼミナール報告「国際・国内情勢」文書。
● 11月3日 医学連・全国M4 活動者会議(於・京府)。
● 11月 4日 東大病院労働運動研究会/「医師に対する管理体制の中核=講座制医局の解体を病院労働者の階級的・戦闘的労働運動への跳躍台とせよ!」文書。新学部長会議で加藤一郎法学部長を学長事務取扱(代行)に選出。
精神科医師連合実行委「医教授会解散と全員辞職要求」声明。

● 11月 5日 医学連中執会議(於・慈恵)

● 11月 6日 横市・教授会は11項目要求の予算獲得案をのみ医学部予算として計上。

● 11月 6日 社学同医学連委員会全国総会。(明治大学館)

● 11月 7日 東京大学医学部・「臺弘(精神科)主任教授不信任・退官」要求決議。

● 11月 7日 医学連・首相官邸中央実力闘争へ参加。

● 11月 9日 医学連・東北ブロックM4連絡会議開催。

● 11月 9日 東大全共闘機関紙・「進撃」創刊・スローガン部分『医療再編合理化阻止』。
● 11月12日 東大全共闘と民主化行動委員会(民青系 議長:三浦聡雄医学部生)が全学封鎖をめぐり乱闘。
● 11月13日 岡大・佐藤訪米阻止闘争で曽根崎署に連れ込まれ容態急変、大阪市北区浮田町の行岡病院に運び込まれた岡大生糟谷君は手術台の上に放置され,簡単な応急処置がなされているだけであった。しかも午前4時半までレントゲン撮影すら行れず,14日未明になってようやく,しかも完全な設備のないこの病院で,脳外科の門外漢の手で手術が行れた。午前6時半頃,京大病院脳外科の佐藤医師が援助を申し出たが,病院は全くとりあっていない。午後1時頃糟谷君の容態は悪化し,自力で呼吸することすらできない危篤状態に陥いり,そして午後9時,糟谷君は一言もしやべらぬまま死亡したのである。弁護士,佐藤医師の立ち合いのもとで行れた司法解剖の結果,死因は脳機能障害,脳挫傷,脳種脹,頭部打撲であり,遺体の情況は硬い鈍体による打撲跡が十数カ所にあり,頭骸骨の縫合部にズレが生じている事が判明した。
● 11月17日 医学連M4自主調整連絡会議(於・慈恵 中執主催)福島など33校の参加。
● 11月20日 東大医・民兵隊を組織し御殿下グラウンドで60名が武装訓練。全学(大隊)、学年(中隊)、5~6名で(小隊)編成。

● 11月20日 福島医大・自治会戦勝利。

● 11月21日 東大医学部図書館に医学連・BUNDが宿泊。この頃、日本医大千駄木祭終了後の資材を東大バリケード用に提供する。安田講堂前・徹夜で巨大な立て看板作成に日本医大からも参加。様々な電波が飛び交う。

● 11月22日 全国動員2万学友と共に「東大・日大闘争勝利決起集会」に医学連行動隊は赤ヘル100で登場するも、全学封鎖は出来ず、民青に政治的敗北。教養で駒場祭開催される。

● 11月22日 医学連中執会議(於・慈恵)。

● 11月22〜23日 歯学連主催の第8回歯ゼミが阪大歯自治会主管で開催。於・阪大歯学部。
第4回までは原因追及を、第5回からは問題の本質規定に。

● 11月23日 第2回・医学連M4自主調整連絡会議。

● 11月23日 福島・「本学イ闘争の歴史を探る」論文(民青系)。最後に問題点として「青医連は、医学教育の改革、医局の解体、全人民的要求などの課題ではなく、国ボという闘争手段を成立条件にしていた為、国ボが(41青医連の崩壊過程で述べた諸要因のため)不可能になると闘争形態が組めなくなった。また全国的にも、そのことが、医学連の分裂を導いた。」福島医大新聞29号。

● 11月24日 医学連・中央委員会。(於・慈恵)

● 11月24日 東大他、三里塚空港粉砕総決起集会へ参加。

● 11月26日 阪市大・教授会を教授・助教授・講師・助手まで拡大し、議決する議案は阪市大青医連、大学院自治会の合意を得なければならない、と決定。

● 11月27日 弘前大M4・報告医制反対、ストレート入局はしない、を決議。理由は報告医制度はイ制完廃後の中で要求してきた卒後研修の抜本的改革とは縁遠いものであり研修を保障する人的物的裏付けは無く、医師間の身分差別をもたらし政府厚生省の医師管理に利用される恐れがあること。ストレート入局はをすることは医局講座制のセクトを解決することにはならず、ますます種々の矛盾を助長させる結果となる。更に院内外の研修も医局の枠を超えた研修でなければ十分な実をあげることができないし、市中大病院での研修は、必ずしも大学病院に劣るものではなく将来の教育病院での観点、大学と市中病院の関係を改善する為にも是非必要である、、、等と。

● 11月27日 昭和大医・定期学生大会で4項目採択。▼医学連問題は@現執行部の連絡会議支持を承認するA連絡会議支持ということは東大、医科歯科大闘争を認めないということと同一ではない。B医学連加盟費は現執行部で保留する。▼報告医制度問題、@6年生に報告医ボイコットを指示する。A会員は報告医ボイコット運動を継続する。▼入試科目問題、医学部入試に数学をくわえることを大学側に要求する。▼出欠制度問題、講義における現出席制度を完廃する旨大学側に要求する。昭和大学新聞1969.1.2831号

● 11月29日 大阪市大医 授業中の教授と助教授の意見対立が発端となって教授会への不信が表面化。学部運営に諸自治機関(学生自治会、青医連、大学院自治会の三者で医学部民主化共闘会議結成)の参加と拒否権を制度化する確認書が学生との団交で交わされた。
しかし、先の「偏向問題」で世論の前に後退した自民党が「拒否権を学生に与えるのは条例違
反」と市議会で追及。教授会は確認書の拒否権から異議申立権を骨格とする改革案に後退、他方
学生側は、拒否権を骨格とする六項目を提案。これが紛争の火種となった。教授会は話し合い拒否。

● 11月30日 医学連関東ブロック会議。

● 12月 2日 北大医 4年目クラス会 クラス分裂で、統一青医連結成。

● 12月 4日 九大M4クラス会・

● 12月 5日 神戸大・12月5日午後9時20分住吉寮生は本部事務局の封鎖を宣言。その後、ストライキと封鎖は医学部を除く全学部に波及。卒業式、入学式が中止に追い込まれた。

● 12月 7日 北大医 4年目クラス会 45期・1年間の非入局自主カリ決定。

● 12月 8日 全国M4連絡会議(京府)。民青の妨害を実力で粉砕。

● 12月 9日 東大医学部保健学科執行委員会「加藤提案拒否」12.9声明。
同保健学科は1992年に健康科学・看護学科と学科名を変更。

● 12月 9日 長崎大医学部・民青と右翼のピケを破り、学館に突入。

● 12月12日 中核系全学連・臨時大会で副委員長に橋本利昭君(京大医)。

● 12月12日 北大医 自治会委員長戦、171対129で民青に敗北。有効投票数314.

● 12月14日 九大・水野高明総長、電算センターへの墜落米軍機「機体処理に関する本学の基本的な態度について」の9項目声明。

● 12月14日 日大・医闘委の学友5名が、医学部本館前で「スト解除阻止」を訴え百時間ハンスト。

● 12月15日 43青年医師連合・提案拒否。

● 12月16日 九大無給医会・全国医学部無給医対策会議の全国方針に呼応し、16〜23日の一週間ストに突入。九大病院800名の医者のうち、500名が無給医。

● 12月16日 名大医学部学生委員長に医進2年闘争委員会から自己批判が提出された。

● 12月17日 名大教養自治会常任委(民青系)主催の真相究明集会で同執行委員長に対する弾劾決議が採択される。

● 12月18日 青医連全国統一行動。

● 12月18日 九大無給医集会・全国統一行動で殆どの無給医が集会参加。精神神経科教室に東大精神科医師連合議長の町田助手を呼び会合。

● 12月18日 青医連京大支部がスト「スト破り破り追放宣言」。

● 12月19日 東大医学部図書館を民青ゲバルト部隊が襲う。

● 12月20日 九大・無給医会・研修医会の提案。1、従来の長期出張制度を廃止し、無給医就職の窓口は無給医会にする。2、パート出張は無給医で自主管理をする。3、従来の医局人事委員会を解散して、助手の任期に一定の制限を設ける。助手の選出は公募性にする。

● 12月21日 大阪市大・民主化基本綱領確認。

● 12月21日 九大・評議会と反対派学生団交。反戦学連により議場が封鎖管理される。15時間にわたる団交の末決裂。以後大学当局は実力で引き降ろしの行動を始める。反対は学生の阻止が続き冬休みに入る。

● 12月24日 東大医学部民青による・「医学部医学科学生大会」が454名中、180名ででっちあげに痛撃。闘争破壊学生大会開催への粉砕行動に医共闘行動隊60名と全共闘で突入し、71名負傷。手引きしたのは日共系「民主化行動委」の300名。つまり裏部隊の「あかつき部隊」。
民青は118名のスト破りに形式的な自己批判「8・22スト破り撤回」をさせ、ドッキングして闘争破壊を企てた。これに対して医学部保健学科執行委員会が「分裂医学科学生大会」に反対声明を出す。

● 12月27日 北大医 統一青医連が病院長13時間カンズメ団交。四年目学生十数名がクラス会議から離れ、「統一青医連」を結成し、卒後研修に関してはクラスとは全く別行動をとり、病院長との交渉を始めた。

● ×月 ×日 東大病院労働運動研究会/「東大闘争と医療労働運動を結合せよ」。

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