● 61年精神衛生法一部改正。精神衛生法第29条による措置入院の強化、私宅監置から実は病院という社会的施設への監置へ。

● 1月16日 全学連通達・(闘争スローガン) 授業料値上げ、国鉄運賃値上げ、道徳科目開校絶対阻止、池田内閣打倒に総決起せよ。(闘争スローガン部分)病院スト・春闘を戦う労働者との戦う団結万歳!

● 1月15〜16日 全学連第26回拡大中央委員会議案の部分。〔病院スト〕もうひとつ秋の労働運動の中で先進的闘争となった病院労働者の闘いに若干触れておかねばならない。@一律3千円、A強制斡旋反対、C一切の安定賃金反対を掲げて10月以降、東邦医大病院を大先頭に病院労働者は起ち上がった。東邦医大、北里研究所、東京女子医大付属病院の闘争は、全日赤、健保労連など全国165組合の闘争にまで発展したが、全学連は前記3病院のスト・ピケに大衆的支援で起ち上がることが出来た。原則的要求を失うような妥協も続いている中で、東邦医大など未だに一歩も引かぬ要求貫徹の闘争を続けている病院労働者を我々はさらに支援していくであろう。

● 2月 ×日 全学連・憲法公聴会阻止闘争、東京の会議場へ2回、20名突入。内10名は東大医学部生。安保後の学生運動の緒戦。

● 2月12日 医学連中央委員会開催・医科歯科学生ホールで弘前から九大まで13項の中央委員を集めて開催された。安保闘争・三池闘争以来の経過報告・国際国内情勢分析と行動方針が続けて書記局から報告され、討論がそれを巡って活発に行われた。採択は反対無しで書記局案がスムーズに採択された。最後に病院スト支援が再び採択され、特に3名の不当解雇者を出した順天堂労組の闘いを支援する決議を行った。中央委終了後に全員で順天堂労組を訪れて決議文を手渡して労働者を激励した。

● 2月15日 順天堂医自・病院スト支援の医学連に不満。順天労組のストは12月始めから行われ、第10波まで行っているが去る2月8日、経営者が労組3役を「教育上、信用上好ましくない行為有をした」という理由で解雇を通告して以来、無期限ストに突入していた。毎日張られる労組のピケに対し、順天堂の一部学生は強引なピケ破りまで試みるという。客観的には全く経営者側についた行為をとっているので医学連書記局では学生自治会と労組で話し合いを持つように工作をして、第一回の懇談会を持った。しかし、学生側は全くストそのものの意義を理解しようとせず、話し合いは平行線を辿った。(医歯大新聞84号)

● 2月16日 順天堂医自・病院スト支援の医学連から脱退。 書記局では更に順天堂大自治委員会の希望を入れて東京ブロック会議を2月15日に医科歯科学生ホールで行ったが、順天堂を除く全出席校が順天堂労組支援の意思表示をしたのに対し、順天だけが病院ストの必然性は認めるし、基本的には賛成だが、順天の場合は反対だ、ということを述べ、独りストを批判した。順天堂自治会は翌16日学生大会を開き、医学連と病院ストの見解を事にするという理由で医学連脱退を決議した。病院ストの起こっている大学で自治委員会が中心になってピケ破りをしたのは順天堂が初めてであり、国内ゼミのとき、病院ストを支援に賛成したことを考え合わせると、今回の態度は理解しがたい。見解の相違で、せっかく46校中42校まで加盟している医学連を脱退するのは、あまりの短見というべきものである。(医歯大新聞84号)

● 3月27日 砂川事件、日本医大生江田文雄君らへの差し戻し後の第一回判決。日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第3条に基く行政協定に伴う刑事特別法違反被告事件への刑事第10部 
判決主文 被告人椎野、同坂田、同菅野、同高野、同江田、同土屋、同武藤を各罰金2000円に処する。右罰金を完納することができない被告人に対しては、金200円を1日に換算した期間労役場に留置する。
■ 理  由
一 本件発生に至るまでの経過。東京都北多摩郡砂川町所在の立川飛行場は、大正5年飛行場として建設され、昭和16年さらに付近民有地を買上げて拡張し、今次世界大戦中は、陸軍飛行場として使用されていたところ、わが国の降伏と共にアメリカ合衆国軍隊が進駐してこれを接収し、さらに昭和20年9月頃から翌21年3月頃までの間に3回にわたつて、付近の民有地を接収し、同飛行場を拡張した。

● 3月27日 東大医学部・石井保男国際学連へ。依頼退学(休学扱い1972年復学)

● 3月 ×日 東邦附属病院・病院ストが深刻化に伴い、大学側が医ゼミ主管を禁圧してくる。

● 4月5日 全学連第27回拡大中委・マル学同へ移行した5中執による自己批判的総括。

● 4月5日 京大同学会、学生部次長設置反対抗議集会、医学部・立命館大・京都学大生等参加(6日学生部との話合いを条件に坐り込み解除)

● 4月27日 第7回医ゼミ主管を名大医へ移行・第7回医ゼミは神戸大での第6回医ゼミの席上、東邦大に決定していたが、病院ストの激化とともに病院側が態度を硬化、遂に三月に使用禁止を言い渡してきたので突如辞退。医学連書記局で急遽探し名大開催を引き受けてもらった。4月末に執行部、社研、セツルなどで主管引き受け決議、4・27学生大会で決定したもの。

     ● 4月 インターン問題から発足した医学連はこのとき、41大学42自治会。
         10年に及ぶインターン改善運動で1954.5インターン対策協議会全国大会
で「単にインターンだけの運動ではダメだ。医学生のぶつかる様々な問題を取り上げてこれらを解決していく中でしかインターン問題は解決しない。」

● 5月6〜7日 医学連第八回大会、全学連派の書記局と全自連派の四大学代議員(北大・金沢大・横浜市大・三重大)安保総括『敗北か勝利か』で対立。参加30校、130名以上。全学連分裂の影響が医学連にも見え始めた。関西医大、横市教養、女子医が加盟を認められた。
第一日目、衆議院第二議員会館。松江委員長が@安保闘争総括、A病院スト、B三池闘争、Cサマーキャンプ、D共闘に関して昨年の医学連の総括がなされた。安保闘争総括では「安保改定は日本資本主義の矛盾解決のため資本家階級から出されてきた突破口である。従って安保闘争は日本ブルジョアジーの階級支配を許すか否かの問題にあった。しかし闘争の結果は、日本資本主義の産業構造、企業の合理化に決定的な打撃を与えることなく終結した。従って闘争が比較的幅広く行われたという理由でこれを勝利であるということは出来ず、本質的には敗北であった」とされた。一方、4大学による対案は、『安保改定は極東における反共軍事ブロックの維持と米帝国主義に隷属して経済的結合を強めることに意義がある。安保闘争は全人民的統一によって日米独占に打撃を与え、形式的には安保は通過をしたが、実質的には闘争は勝利であったとして、書記局案とは全く対立した。第一日午後より報告をめぐって討論が為されたが、中心問題は終始安保問題にあった。討論は活発だったが時間の都合上、充分に討議されないまま議決に入ったので両案とも可決されず、翌日に持ち越された。
第二日目は場所を医科歯科大に移して、10時より石井書記長の国際、国内情勢報告に始まった。その中で「現在の世界経済はアメリカ資本主義の相対的地位の低下と、西欧資本主義の復活強化によって構造的にも変革期にも到達している。その動向は『自由化』と『経済共同体』として現れ、そこには激しい競争戦がおこり、弱小資本家は世界的に整理されている。一方競争に打ち勝つために各国内で生産性を高める為の政策が推進され、合理化、労働者の弾圧が遂行され、低賃金確保が行われる。従って、労使の対立は更に激化されつつある」ことが述べられた。
一方、対案提出者側から「主たる国際的な動向は社会主義体資本主義の二つの体制の対立にある。資本主義はその抗争の中で没落しつつあり、それは公深刻、植民地に於ける民族独立運動を見ても明らかである』と報告、ついで丸茂副委員長よりゼミナール、一般方針が報告され、その中で形態は第6回を踏襲し、医療制度の諸矛盾を多角的に解明していくこと、神戸医大で始められた医学方法論を更に発展させていくことが述べられた。
一括討議の後、議案の採決に入り、書記局案に賛成が17、反対7、保留6、棄権0で採択された。
次に規約改正、会計報告、今年度予算案が承認され、第7回ゼミナール主管校が名古屋大学医学部に、第7回サマースクールが弘前大学医学部に正式決定された。
次いで人事に移り中央執行委員が新たに15名選ばれ、中央執行委員長に今井君(東大)、副委員長は斉藤君(名大)と沢登君(東京医科歯科)、書記長朱君(東大)、に決定された。
最後に東邦大労組支援決議、ゼミ主管校神戸医大、サマーキャンプ主管校三重医大に対する感謝決議、日本医大の学内民主化支援決議、生ワクチン使用を政府に要求する決議、などが採択されて第8回医学連全国大会は幕となった。 (この項は医歯大新聞・87号より)

● ×月 ×日 信州医・長野集中豪雨へ救助隊。

● 5月14日 金沢・文部省の学生部次長制に25大学と共に反対声明文。

● 5月19日 全学連の安保強行採決一周年の日、「防衛二法」「農業基本法」「政治的暴力活動防止法」反対で取り組むも、参加者600、警官隊が上回り強圧、逮捕者6名。医科歯科など参加。全自連は1600動員、1名検挙。

● 5月19日 全学連400デモ。医科歯科生参加。1千名の機動隊は学生少数とみるや殴る蹴るの暴挙。

● 6月 3日 群馬大医・政暴法反対でスト。

● 6月 2日 MD大・政暴法反対で都学連に100名参加。学生大会で「政治的暴力行為防止法案」反対決議、午後3時、全学連1200に合流。

● 6月15日 医科歯科大学友など日比谷野音の安保闘争一周年記念政暴法粉砕・池田内閣打倒全学連想決起集会に参加。樺美智子さんが虐殺された南通用門へデモ隊列は向かったが、学連のでもと本郷からの学友を分断黙祷のため立ち止まることも許されず、献花は蹴散らされた。

● 6月16日 医学連今井委員長、民医連大会で医ゼミ報告。

● 6月22日 医科歯科・長い準備の後、生協設立学生大会に250名、満場一致で生協設立へ。

● 7月 1日 北大・札医大で道学連大会。全自連しめだし。

● 7月 9日 全学連第17回全国大会についての代議員有志声明。マル学同の「反帝・反スタ・プロ党建設のための学生運動」=赤色自治会主義粉砕、マル学同の単独大会不成立を発表。(東大医自・京大医自など連署)
医科歯科も佐藤達夫君(医3)、小野重五郎君(医2)が代議員・評議員として8、9日は参加をしていたが、10,11は東大派の主張を支持し、ともにして退場した。医科歯科自治会は流会を主張している。

● 7月20日 医科歯科・「バイト委成果実る」。家庭教師のアルバイト口が増え学部で昨年の12件が今年は夏休みまでに26件、教養では15件が25件。だが、職にありつけない学生も学部26人、教養50人もいる。医歯大新聞89号。

● 7月27日 医学連・本年度第一回中央委員会。於医歯大学生ホール。政暴法を継続審議に追い込んだ闘争総括書記局案を承認。名古屋市大の加盟承認。これで46大学中43大学加盟。

● 8月1〜20日 医歯大教養学生・進学指導会の名で中学生350名に学力増進のサマースクール。

● 8月2〜4日 八甲田山で医学連主催サマーキャンプ。看護・医学生700名参加。女子医70名参加、MDは3名。自衛隊が衛生体を派遣、設営に奮闘した。主管校の弘前大は医学連中央の許可があったというが、確認されていない。野戦病院用の二重テント、炊飯、発電、給水、便所も2メートル掘削。議論を呼んだ。

● 8月7〜9日 医科歯科大ソ医研合宿。於霞ヶ浦・湖畔の家。

● 8月 8日 松川裁判闘争へ医学連も参加。(仙台高裁での差し戻し審で被告人全員に無罪判決。)

● 8月8〜10日 歯学連主催サマーキャンプは、長野県美ヶ原高原で200名で行われた。主管・東歯大。

● 8月 9日 札幌医大自動車部の日本一周遠征隊が医科歯科に立ち寄る。同大学10周年記念行事で全国の医学部を訪ね、教育と学生生活の調査をするとしたもの。

● 8月12〜14日 原水禁大会へ医学連参加。

● 8月 末日 医歯大社医研合宿。医ゼミに向けその後も「英国社会社会政策史におけるヴィバリッジ案の歴史意義」と「大企業労働者の階級意識について」。学内医シンポに向けては「中間層の階層分化について」「医療制度の中の医師層についての二、三の考察」発表準備。毎木曜日には午後5時より池澤康郎著の「医療労働論」読書会。
医科歯科社医研は社医研連書記局校で、全国社医研に向けて「社医研活動論」主題に機関誌を作成中。

● 10月 5日 医学生社会科学研究会の創立。医歯大・東大・横市など東京近辺の医学生・歯学生・看学生が集り月一度例会を持つ、

● 10月 7日 都学連第14回定期大会・執行委員に今井重信(東大医3年)、小野重五郎(MD3年)など選出。破防法の国会通過阻止!韓国への帝国主義的進出=日韓会談反対! 帝国主義的暴力装置= 自衛隊の核武装、海外派兵反対!「革マル主義都学連」のデッチ上げを許すな!
この頃、全学連運動には中執に医学連枠1席があった。

● 10月20日 医歯大新聞92号。池澤康郎論文「医師の階級的本質と医療の社会化」。

● 10月21日 政暴法反対へ医学連独自に請願デモ、東大医・医歯大など150名の医学生、歯学生デモ。地下鉄国会議事堂前から参議院議面まで行進、社会党代議士に請願書を手渡し第一議員会館の会議室で「政暴法粉砕全日本医学生総決起大会」を開き医学連委員長の挨拶と情勢分析、社会党坂本・亀田・藤原(道)三代議士の国会報告。医科歯科教養からバス1台で50名参加。バスの窓に「政暴法反対」の大書。学部は満場一致の反対決議にもかかわらず、10余名の参加。
いっぽう、国会裏路上で政暴法反対を叫ぶ学生に何十名の警官が殴りかかる政暴法が実質可決されたような弾圧、マスコミは政暴法の問題をネグレクト。

● 10月 ×日 医歯大民青斉藤輝夫君(医1)、新島闘争現地へ。全自連の取り組み。

● 11月 7日 第14回都学連大会(中野公会堂)議長に医科歯科小野君。(医1) 新中執に小野君。

● 11月20日 医歯大新聞93号より。池澤康郎(公認共産主義への疑問―50メガトンの核実験―)MD整形外科医局員。

● 11月23〜26日 医学連第7回医ゼミ。(於名古屋大豊田講堂)「医療制度の諸矛盾について」1600名参加。23日大内力教授が「国家独占資本主義と社保」を講演。川上武氏(杉並診療所)は「医療制度の矛盾について」。24日の特別講演は「歴史に於ける自然科学の任務」講師・坂田昌一名大教授。「自然科学の中の医学生の任務」講師・竹内良知名大教授。
並列的に第4回看学生ゼミも開催。女子短大とのダンパ。医学部新聞会の共同デスク。

● 12月2〜3日 第二回歯ゼミ。日本歯科医師会・東歯大を会場に4つの分科会が持たれた。

● ××月 ×日 医進黒部信一氏・慶應義塾大学日吉キャンパス自治会後期委員長





● 1月21日 医学連拡大中央委員会。神戸医大(構造改革派)の対案を否決し、「一切の核実験反対」「政暴法再提出反対」を決議。
ソ連の核実験再開は正しいとする構造改革派・代々木派とこれに徹頭徹尾批判的な書記局案がするどく対決した。
         書記局案 賛8  反4  保0
         対案   賛2  反8  保2
医学生キャンプ主管は北大医学部に決定した。

● 1月31日 社保協運営委へ医学連朱書記長など、幹事団体として出席。

● 4月13日 医歯大教養で入学時オリエンテーション。

● 4月13日 医歯大教養で2年生主催、自治会、代議員会、生協委員会、新聞会、お茶の水祭、医学連のガイダンス。午後からは学友会による各サークル紹介。

● 4月20日 医歯大新聞第98号・あまりにも貧弱な国府台の諸施設―教養部自治会改善を要求。同号にい江沢康郎氏「公認共産主義への疑問―(2)『スターリン批判』の批判」執筆。

● 4月27日 札医大・米ソ核実験再開反対、日英米国際学生統一行動で半日スト。米領事館へデモ。

● 5月 ×日 全国国立大学病院長会議・@現行イ制は我が国の現状ではむしろ種々の欠陥や悪影響が出ている。Aイ制は正道でない医学に感化され学問への情熱を失う。Bイ制の改善が常にいわれてきたにもかかわらず、実行されない事実からイ制廃止の方向を目指し医学教育の整備充実に努める等が決議された。この決議で医学生のイ闘争がくすぶり始める。

● 5月30日 府医大・改憲反対・核実験阻止で府学連へ200人参加。

● 6月 8日 東大・京大医等15大学共同声明。「大学管理制度粉砕闘争委員会」を設置せよ!

● 6月9〜10日 医学連第九回全国大会〔目黒公会堂・東京医歯大〕イ闘争の活動方針は決定されず。
  「医学連の基本的任務は、各単位自治会に共通する問題に対して、それを資本主義体制の論理の中で解明し、その本質を暴露し、われわれの戦いを組織することにある……我々の戦いは支配権力そのものに対する戦いであり、闘いの舞台ではもはや、医学生という白衣を着けた特殊な学生組織ではなく、資本主義社会から自己を解放させたいと願う人間集団として、全体的な連帯の一接点となることが必要である。」(第9回医学連大会議案・1962)

● 6月25日 慶応・医学会、大管法改悪反対声明。

● 8月5〜7日 医学連主催・北大医自主管。支笏湖でキャンプなど。

● 11月 1日 京大・大管法法制化阻止京都学連デモに参加。医4回生が顔に一ヶ月の重症、京大医同盟登校。

● 11月2〜4日 第8回医看学生ゼミ(於・東大) 東大医同盟登校。

● 11月10日 学生排酒連盟創立40周年記念の集い。(於・大東学園)同窓会で30名集合。

● 11月20日 東大医・MD等、都学連声明連署、「大管法法制化阻止、11・30銀杏並木集会を勝ち取れ。」

● 11月30日 全学連大管法粉砕全国統一行動、札幌医大スト、東大医スト、九大医ストなどスト突入。『銀杏並木闘争』。

● 12月 9日 京大医、大管法粉砕京大全学統一行動集会にスト参加。京都府学連4500名の集会に合流。3日同学会、大学管理法国会上程阻止全学閉鎖を提起、全学1万人投票実施(6日まで)。大学側、これに対し全学閉鎖と投票を禁止し、8日全学投票不成立、文・教育・経済・理・医学部、教養部がストライキ。

● 12月24日 東大当局、大学管理法闘争である11・30銀杏並木集会の責任者として中央委員会議長・今井澄(医学部自治会委員長)ら三名を停学処分。

● 12月25日 山本義隆を含む東大中央委三十名、処分撤回を要求して茅誠司総長と徹夜団交。世に言う「茅缶詰事件」

【熊本大・農村医学研究会】  熊本の有機農業の運動は小山先生を含む数人の医学生による「熊本学生セツルメント」(初代会長・小山和作)の創立にその源がある。医学生として「どんな医者になるか」を患者さん達に聞こうと、熊本市の貧しい人たちの住宅に住み込んで調べることから始め、天草地方、鹿本郡、河内へとセツルメントを続けていった。これには熊本大学だけじゃなく県内の看護学校や女子大学の学生なども多数参加し、このため発会式で当時の恩師から『熊本に本当の総合大学が出来たようだ』と祝詞をいただいたという。卒後にセツル仲間と無医村に足を運び、健康診断などをした。
昭和37年「農村医学研究会」発足。特に農村部には寄生虫、ハウス栽培による貧血や肝機能障害、食生活の偏り、みかん農家の薬害等、農村、農業、くらしの問題が山積みで、農村医学という分野が必然的に生まれていった。昭和45年「新しい医療を創る会」が発足。医療関係者はもとより、多くの業種、住民が参加して画期的な「新しい医療を考える会」(後の「新しい医療を創る会」)が設立された。
               熊本大学『卒業生を訪ねて』より、要約。

● ×月 ×日 黒部信一氏・同大学生協組織部に入り、一時四谷支部常任理事。



 

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