私が高校を卒業したのは昭和26年、その頃の学校教育制度は今と違っていて、まず2年間大学で教養を学んでから、さらに医学部を受験するシステムでした。九州大学教養部に入学すると左翼の学生たちがビラ配布やバリケードによる建物占拠などをしていて、のんびり学習するような風潮ではなく、私も少なからずその影響を受けました。(小山和作:熊本大卒)


● 1月 ×日 日本医大、全面講和支持・軍事基地化阻止の署名運動を学友提起でおこなう。

● 1月15日 東京女子医大・教授会は岩崎教授とその医局員を解職。31日以降の立ち入り禁止。

● 1月 ×日 京大・予備隊付き医官募集(外科優先)抗議行動。1名の応募者もなし。

● 1月27日 関東医学生代表者会議・於女子医大。女子医大闘争支援を決定。

● 1月30日 東京女子医大・医局員・患者・予科学生・都学連など150名が教授会に抗議。学長、武装警官を呼ぶ。

● 2月 1日 東京女子医大・岩崎内科が強行診療。

● 2月 3日 東京女子医大・学校側は暴力団を投入。医局員は都学連の応援を得て、診察室を防衛。室内にバリケードを築き封鎖。

● 2月11日 東海地方医学協結成大会。

● 3月25日 東京女子医大・女子医予科・進学口答試験で『単独講和・全面講和の何れを支持するか。』の思想テストによる民主的学生のパージ準備。また、15000円の入学前納金が合格の条件強要に予科級会で満場一致、納付反対決議。

● 4月 4日 日本エスペラント医学協会の再発足・第13回日本医学会総会
(東京)の機会に,八木日出雄(岡山大学)鈴木正夫(千葉大学)浦良治(東北大学)
など、30数名のエスペランティスト医学者が懇談会を催し,戦後初めて日本エ
スペラント医学協会(JEMA)の再発足を決め,同年9月には,千葉大学医学部の
鈴木正夫教授を主筆とし,エスペランティスト青島友治氏の出版で,世界唯一
のエスペラント文「医学誌」(Medicina Revuo,M.R.)を創刊した。

● ×月 ×日 慶応医学部新聞部・全国医学部新聞研究会を企画。

● 4月 5日 東京女子医大・駒村敏さんの退学強要に復学運動。

● 4月 ×日 「我が友に告げん」事件。―東大先輩の手記― 大学生活の第1日目から私たちの耳目を奪ったのは、「我が友に告げん」事件だった。昭和26年4月の都知事選に東大教授の出隆氏が教職をほおって立候補し(共産党はマルクス主義者である出隆氏を推すことを拒否し、社会党右派の加冨士勘十氏を推薦した!)。
        東大生が出氏の選挙運動を行いながら、朝鮮戦争に日本人が使われていることを写真その他で暴露したその時、その16名を「占領政策に違反した」疑いで逮捕し、米国が軍事裁判にかけたのである。当時共産党は醜悪な党内の混乱と分裂状態にあり、学生運動の活動家たちを分裂主義者、スパイ、トロッキストと呼んでいたから、この事件についても「アメリカ帝国主義者の手先の猿芝居」という冷酷な評価を下した。だが「我が友に告げん」と題した被告達の文集は広く学生の間に読まれ、裁判の法廷で彼らの毅然とした態度と、何よりも米軍の赤裸々な軍事政策に理路整然と反対する姿は当然ながら世論の強力な支持を受けた。連日各大学で抗議集会が開かれ、釈放要求運動の高まりの中でとうとう米軍は彼らを釈放せざるを得なくなったのである。
             (医歯大新聞編集部・戦後学生運動小史(4)1951〜1952 売国講和・基地反対闘争 62号 1959.4.20)

● 5月14日 京大・綜合原爆展の原型は、「きけわだつみの声に応える」と銘打たれた春季文化祭にあった。この時の文化祭では「原爆展」と講演会が行われ医学部助教授であった天野重安が原爆症の講義を行い医学部学生の原爆に対する関心が高まり、文化祭での「原爆展」へと繋がった
なかでも、原爆展、原爆講演会が市民の注目を浴び、4日間で4万人以上を集めた。会場では医学部から出品された原爆症の実物標本などが展示された。
● 6月17日 医学協第4回全国大会(於、慈恵)平和闘争方針を確認。

● 6月18日 全学連第5回全国大会の禁止に抗議して弾圧に乗ずる分裂策動を糾弾する。『ウイロビー書簡に従って大会乃至それに類する一切の集会を実力を以って中止させる』を糾弾する呼びかけ署名校の部分(東大医代表団、慈恵代議員、東女医代議員)。

● 6月 ×日 京大・原爆展、於丸物百貨店、学生40人と教授で参加。

● 6月21日 授業料値上反対と、南朝鮮等の実例から、教育植民地化、学問の自由抑圧の理事会案に、絶対反対で6月21日文部当局との交渉は物わかれとなり、自治連は全国に同盟休校を指令した。以後、同盟休校は東大医、千葉医大、千葉医専、前橋医専、東京歯大、順天堂予科、日本医大、東京女子医専、阪大医専、阪大医、米子医大、米子医専、徳島医専、新潟医、松本医大、久留米医大、長崎経専、長崎医大、福岡女専、熊本医大等に及び、全国で学生20万人が参加をした。

● 6月 ×日 慶応医学生 岡井隆はアララギの近藤芳美を中心とする歌誌「未来」創刊に参画する。
1957年に詠んだ一首。「うつうつと地平をうつる雲ありてその紅(くれない)はいずくへ搬ぶ」

● 7月 ×日 5月の京大での原爆展は、7月京都青年学生祭の一環として、丸物百貨店(現在の京都駅前・近鉄百貨店)でも開かれ、10日間で2万7千人以上の市民が来場した。特別出品として丸木位里、赤松俊子両画伯の「原爆の図」などが展示され、大きな反響を呼び、のちに全国を巡回して、わが国の原水爆禁止運動を高揚させる役割を果たすことになった。
学生たちの真剣な解説は、多くの人々の理解を促し、原爆について被害が十分に明かされていない中にあって、広島・長崎の惨状を多くの市民に知らしめた。

● 9月20日 名大医学生会。再軍備反対青年会議第一回準備会へ参加。

● 11月12日 京大・天皇行幸京大事件。ついてきた芦田均に医学部A君『お前か、われわれを再軍備させ、戦争に巻き込むのは』と詰め寄る。

● 11月12日京大の立て看板 願  神様だったあなたの手で我々の先輩は、戦場に殺されました。もう絶対に神様になるのはやめてください。わだつみの声を叫ばせないでください。 京都大学学生一同。

「京大反戦自由の歌」は、コンクールで採用、作詞したのは、医学部の学生

 一、 樹々の緑に 雲すぎて
    時計の塔の赤き壁 色あせたれど
    屈辱の怒りをこめて
    闘いの長き歴史を 刻みゆく
    友よ 暗き牢に耐え
    鎖をひきて 突き進む
    白き面の美しく 
    光溢るるを 見よ

 二、 春の嵐の 打ちつける
    時計の塔の暗き窓 山河はるかに
    誠実な心をえぐる
    わだつみの尊き叫びを 映しいる
    友よ 戦禍の傷うづき
    祖国を愛し 学ぶ目に
    ペンのながれのとだえなく
    炎拡がるを 見よ

 三、 雨のしずくに 輝ける
    時計の塔の鐘の音 星はふるえて
    解放の誓いは固く
    海越えて 高き誇りを 打ち鳴らす
    友よ 未来の晴れた日に
    自由を歌い 門開く
    若き腕の隊列に
    旗を掲げるを 見よ


● ×月 ×日 イ生達は結成された全国医学生医学協議会と連絡を取り、イ制度、国試の即時廃止。厚生・文部省予算の増額により医療制度、医学教育充実を要求決議。だが医学生へのアピール不足で失敗。

●12月23日 東京女子医専(東京女子医大)組合結成、学校長吉岡弥生女史一家の独裁に反対して民主化に立ち上がる。教授会を作ることすら認められていなかった。看護婦は当直室が設けられていなかったので毎晩のように布団を抱えて仮眠のための空きベッドを捜し歩いた。

     国際医学生連盟日本        (International Federation of Medical Students' Associations-Japan,IFMSA-Japan)内の人権と平和に関する委員会に所属。
国際医学生連盟は、1951年に設立し、WMA(世界医師会)・WHO(世界保健機関)によって、公式に医学生を代表する国際フォーラムとして認められ、ECOSOC(国連経済社会理事会)の会員資格をもつ非営利・非政治の国連NGOです。
国際医学生連盟日本はその日本支部。「社会貢献や国際社会とのつながりの下、幅広い視野を持った医療人を育成し、よりよい社会を目指す国際学生NGO。」としている。医学連は国際医学生連盟日本を批判の対象としていたことがある。

● ×月 ×日 名大医学部、工学部を中心に名大で統一合唱団を作る動きが起こり、150名の臨時編成「名古屋大学混声合唱団」が発足。地理的条件から他学部が退団したあと、現在の医学部混声合唱団になる





この年10月 第一回医大連合全国大会開催。医療制度の改善と医学教育の充実によるイ制度、国試の廃止を決議。数校でイ願書提出拒否。厚生省はこれを全面的に拒否。国会への働きかけにもかかわらず次年度予算700万。

● 2月6日 東京医科歯科大・第2回全自大へ参加。(単独講和批准反対・徴兵・再軍備反対)

● 2月20日 東大・ポポロ座事件。

● 5月1日 東京医科歯科大学生・池澤康郎君は、皇居前人民広場での「血のメーデー」事件で警官隊からピストルで足を撃たれて、入院。MDの何名かの学生は医療班で参加をしていた。

    小説:加賀乙彦著 『雲の都』 昭和27年、東大の医学生悠太はセツルメントに関わっていて「血のメーデー」のデモ隊の中にいて負傷者を手当てしていて負傷する。起訴された人々は20年の間、裁判で戦い無罪となる。

● 6月17日 医科歯科・京大・破防法粉砕第4波ゼネストへ参加。

● 6月4日 京大・七月公布の破壊活動防止法(破防法)は暴力主義的破壊活動を行った団体・個人に対して、活動の禁止・解散と定めて、講和条約発効後の治安対策として立法化されたものであった。京大医学部などで学生大会が開催されストライキ実施が決議された、その結果全学で学生13名が認責処分を受けている。医学部の他は経済・理・文・農学部と吉田分校で学生大会を開催し破防法反対ストライキ実施を決議。

● 9月 2日 九大セツルメント発足。この年、九大セツルメント堅粕診療所開設。

● 9月30日 第一回近畿、医大連合イ対策委員会開催。医学生を中心とするイ制度廃止の新たな一歩が踏み出された。

● 10月4日 近畿医科大学代表者会議(於・阪大)8大学参加、イ制返上運動方針決定。

● 10月11日 関西・中部・西部 医学部17校代表者会議。インターン制度廃止運動の全面的展開を決定。

● 10月12日 全国医大連合第一回イ対策協議会(於東大)。イ制度・国家試験廃止を決議しインターン制度廃止の医学生による運動の第一歩を踏み出す。(15校参加)大会は「医療制度の改善と医学教育の充実によるインターン制度国家試験の廃止」を決議。イ制廃止の決議には次の3項目要求も掲げられていた。 @、イ設備内容の充実と専任講師の設置。A、食事・宿舎の提供と給与の支給。B、国試廃止の3項を要求。受け入れられぬならば医学教育充実によるイ制、国試廃止を要求した。

● 11月22日 全国歯学生協議会・国家試験全廃を請願。

● 11月25日 全国医大第2回イ対策協議会(於東大)39大学参加・イ廃止・国会、医師会、厚生省、ジャーナリズム、医育者、医学生に働きかけることを決議。
医学連結成への組織強化などを決議。
第二回連合全国大会、前回の運動方針を確認し、厚生省に要求するも「@厚生省は立法機関に非ず。A日米単独講和になったからとて廃止というのはよろしくない。Bイ制は現に制度化しつつある。」以上3項を理由にイ制、国試廃止を拒否。
ここに到って、厚生省はイ生一人当たりつき5000円、2億円の予算を組むも大蔵省、厚生省案を完全に拒否。



 

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