1949年のキティ台風の際に、東大の医学部生が救済活動を行なったのをきっかけに、東大セツルメントが発足し、学問と芸術の確立・健康で文化的な生活を築く・平和と民主主義を守る、をスローガンに活動を開始しました。

● ×月 ×日 東大2名の進歩的医学生が看護養成学校の封建的制度を民主化のために戦ったのに対して、秩序を乱したという理由でインターン採用拒否。自治会で質問すると病院長は理由を明らかにせず『思想』の故だと弁明。

● 1月 4日 金沢医大・大学法対策懇談会。

● 2月4〜6日 全学連第一回臨時大会で岡山医大代表はイ生採用拒否が全国で頻発しており、抗議文を作成する。久留米医大の学友は、ソ連に抑留されている人の引き揚げ促進を関係方面に要請したいとの発言。

● 2月10日 阪大医自と阪市医自。大学法案対策大阪地方協議会の統一反対決議に参加。

● 3月 1日 京府医大C・大学法反対運動決定。

● 3月 4日 大阪女子医大C・生徒大会。試験ボイコットで大学法反対決議。宣伝行動隊を組織し、京大・阪大へ。

● 3月 ×日 京大厚生女学部新卒者で医学部附属医院に勤務を希望する33名のうち10名が不採用となる。

● 3月 ×日 慶応医・全学連の大学管理法反対、連日の街頭宣伝へ。

● 4月23日 東大・厚生女学部。4.3病院からの不採用にハンスト宣言、13人の看護婦採用要求。

● 4月28日 京大・厚生女学部でも付属病院の6名の新卒者看護婦不採用問題で52時間のハンスト。

● 5月 2日 CIE顧問、反イールズ闘争。朝鮮戦争前夜、東北大でイールズ博士の講演を演壇占拠で阻止。平和を守る会の結成大会に切り替えられたs

● 5月 3日 MD予科(旧制) 全学連の闘争宣言『教育防衛デー』に先駆的役割。後日、政府は原案撤回を声明、民主教育は防衛された。

● 5月19日 京大病院ハンスト事件について「京都日々新聞」が報道。警官隊200が京大病院へ、交渉逆転で応援の学生3名逮捕と朝日新聞が報道。
● 5月20日 京大病院ハンスト事件について「夕刊京都」「毎日新聞」が報道

● 5月9~27日 京大で看護婦採用を求める再度18日のハンスト。医専学生自治会が支援。


● 5月12日 阪大医・12日より大学法でスト。

● 5月12日 熊本医大・12日より大学法でスト。

● 5月13日 新潟医大附専・12日より大学法粉砕スト。

● 5月14日 長崎医大・14日より大学法でスト。

● 5月16 京大 17日昼すぎまでの28時間にわたって学生ら約100名が菊池武彦医院長を拘束。医院側はスト以降も態度を軟化せず、5月16日に共闘メンバーが医院長を取り囲み、警官が学内に導入3名の学生が逮捕された。警官が京大内に導入されたのは敗戦後初めてであった。このような事態は学生に大きな危機感を与えストに消極的であった同学会が共闘と一致して事態の打開に取り組むことを決定し、19日に開催された全学学生大会では「学園の自治を侵すような警察権の行使に反対する」などの決議がなされた。

● 5月16日 反イールズ闘争。北大でイールズ博士の講演を教員学生が阻止。革新政党にあっては極左的行動との烙印を押すばかり。

● 5月17日 京大・医学生大会。国立学校設置法等などに反対決議。ストは101対123で否決。萩窪医学部長談『学生は研究的であることが第一でありストライキは学生の本分に反する。医学生はこの点非常に研究的になってきて喜ばしい』

● 5月18日 京大・厚生女学部採用闘争で当局、妥協案を承認するも上京中の鳥養総長が帰校『人事で学生と調印せぬ』とはねつけた。菊池医院長、学生代表との会談で4名採用の覚書調印を拒否。多数の学生が会談の行われていた事務長室に乱入。学生300は夕刻病院前へ集合、菊池病院長の懇請で警官400人が病院表裏門から侵入、松岡(医学部)、佐藤、藤田の3交渉委員を逮捕。駆けつけた労・学・市民百数十名とともに共闘委員会を結成。

● 5月19日 京大・学生1500名が集まり、『学園に警察を入れるな。総長に検挙者を取り返させよ。市条例反対』など十項目決議。職組も同調。医学部200で学生大会。

● 5月20日 京大・京都大学新聞社『学園新開』号外第二。厚生女学院問題。

● 5月21日 千葉医大・学内協議会結成、教授会の開放へ。

● 5月28〜30日 国際学連に全学連(全日本学生自治会総連合)All-Japan Federation of Students' Self-Governing Associationsが加盟。
東京商大で全学連第2回全国大会が開かれた。208校264名の代議員、330余名の評議員が参加し、国際学連加盟が決まった。

● 5月29日 大阪医大・学友。全学連第二回大会で自治会幹部は日和見的と発言。

● 5月29日 京大・同学会の5月京大事件の「一部学生の行き過ぎた行為・・」に対して、京大共同闘争委員会は『今やブルジョワ・デモクラシーはファシズムに転化した』とし、進歩的教授と学生、そして学校権力に学内勢力は二分したと反論した。

● 5月30日 全学連第二回大会は東大厚生女学部弾圧に関し、南原総長・病院長に抗議文を送る執行部提案を可決。

● 5月31日 京大防衛大会、円山公園音楽堂。

● 5月31日 東大医学部10名、公安条例反対デモに参加。東交・労働者の橋本金二君、警官に突かれ窓から転落死。

● 5月 ×日 慶応大学医学部三四会(同窓会・お産から死ぬまでで三四会といわれてきたが基礎の三鷹から学部の四谷の意)発行慶応大学医学部新聞・第一号。学生自治委員会改選、右翼の侵出目覚まし「学年始め学生自治委員会改選が行われたが、最も左翼的傾向のあった新学部3年において右翼、ないし中立的思想を持つ学生の進出目覚しく学園にも右翼化の傾向が強くなった。他学の学部においても同様の傾向が見られている」。

● 6月 3日 全国学生大会。全学連・京大共同主催。50数校・1000人参加。総長室前座り込み。午後2時半過ぎ警官140名が出動乱闘。

● 6月 4日 東京歯科大・スト突入(公安条例・東大・京大の三弾圧に対する全学連ゼネスト指令による)。

● 6月30日 慶応大学医学部同窓会発行・慶応大学医学部新聞第四号。日吉校舎がマッカーサー司令部から11月に返還されることを1面トップで報道。コラム「黒板」に病院の中央にインターンの当直室があり、インターンが休養を取るところだが、毛布一枚しかなく夏は蚊帳が無いので冬は外套に靴下をはいて寝るし、夏は蚊の大群に全くの無防備でシベリアのようだとの記事。

● 7月 4日 東大・庄司病院長は辞表を提出。看護婦13名の採用決定。芙蓉寮闘争の勝利。

● ×月 ×日 西日本医科学生総合体育大会 奈良県立医科大学と和歌山県立医科大学の両主管により、学生の発案・運営によって始まった。7校の参加があり、7種目の競技が行われた。
2012年には参加大学44校、参加者数約15000名と国体に次ぐ参加者がいる。

● 8月 5日 九大医自治会・イ問題に関してパンフ発行。
● 8月 6日 弘前大学医学部教授の夫人が刃物で喉を刺されて殺害された。同大学の医学生が逮捕されるも、アリバイが証明されてすぐに釈放された。その後冤罪事件となる。
● 8月24日 全学連本部書記局・(迫り来る医療の危機―特にインターン制度を中心として)
1、インターン受け入れ態勢について(設備)、イ指定病院462、実施中395、イ生総数9000名。(国家補助) 、イ生指導医は実施修練生10人に1人、年額225円。イ生一名、年額30円。(イ生身分保障)。生活困窮者47%・修練不能者23%・同可能者30%。 2、(医療の現状)第5回閉会の直前に強引に可決した特別会計制度は、国立病院の独立採算制への過程的現象と見る。

● 10月 7日 熊本医大・久留米医大・久留米医大予科・九大は九州学連代表者会議へ出席。
議長は久留米医大予科代表の大坪君。

● 10月 ×日 全日本学生新聞連盟結成。

● 10月 ×日 全医協(労組)ではレッドパージが始まり産別会議が崩壊状態となった10月、指導のカナメになっていた医師層は全て組合運動の一線から身を引き、看護婦層が要として登場してくる。

● 10月15〜16日 道学連大会、道学連を全学連の下部組織に。北大医学部自治会役員に中村勲君。

● 11月2〜3日 全学連第三回大会・久留米医大学生自治会委員長本村昭典君が代議員として出席。〔報告〕 金沢医大に全学連脱退の動き、オルグを派遣。 阪大医学部で学内政治活動禁止。慈恵医大自治会の闘いの中で教授会、学校内規をめぐり分裂動揺。 東京医歯大予科・レッド・マークと関連して校舎復旧運動を進めなかったのでそれだけで終わり、反ファッショ運動へと展開できず。人民戦線の統一を。 順天堂大・低賃金月手取り2000円の看護婦の実質的ストと連帯を。昭和・設備の荒廃に学生に30000円寄付強制、払えない。インターンにレッド・マーク。 新潟医大・学生戦線の弱いところ。 京府医大・医局は弾圧に狂奔。 阪大・意識の低い自治会なので教室内闘争、文化活動を。
[当面の要求]インターン生及び研究生に対し、直ちに給費し、身分を保証することを要求する。
〔緊急動議〕新潟医大にメッセージ・可決。東大厚生女学部問題に抗議・可決。慈恵医大の弾圧抗議・可決。

● 11月 9日 京府医大・教職員14名追放を決めた付属女専教授会に学生、傍聴を要求し座り込み。

● 11月24日 全学連医学協内に関東インターン対策委員会が発足し、劣悪なインターン制度問題で厚生省との会見。
出席は、昭和医専・順天堂医専・横浜医専・慶応・東京女子医専・日本医大・日本医大付専・慈恵医大(未加盟)・東大・東大医専・慈恵医専・慶応医専・千葉医大・東邦医大・前橋医専・東京医専・日大医・日大医専。

● 11月24日 東大法学部学生山崎晃嗣と友人の日本医大生三木仙也(専務・25歳)とでヤミ金融「光クラブ」を設立したが11月24日の東大生社長の自殺で終った。{光クラブ事件}

● 12月 2日 関東医労協と全学連関東医学協執行部の合同会議・医学協の活動と学生の生活が窮乏を極めている現状から浮いていたと自己批判。

● 12月 5日 全学連医学協議会関東支部書記局通達・イ制について。

● この年より永川下セツルを日医、お茶の水大、教育大で運営。映画『大要のない町』に描かれた家内印刷業関係の多い町。

● 12月10日 慶応大学医学部授業料値上げ、12500円に。但し、自治会費含まず。




● 2月25日 岡山大各学部で自治会結成。医学部は1949年以前の医大時代から自治会が存在す。これ以降、自治会中央委員会団体結成が出願され、事実上の活動を開始。

● 3月10日 慶応医学部学生自治委員会。全学自治会は授業料値上げを呑むが、医学部自治委員会のみは呑まず。

● 4月 ×日 東京女子医大・久滋直太郎学長、教授2名・助教授1名・講師1名の辞職勧告。

● 4月 ×日  東大・教養学部自治会副委員長に島成郎君が選ばれる。東大理科一類に入学。直ちに学生運動に参加したもの。6月15日、共産党に入党。

● 4月17日 京大同学会「われわれの健康を守る為に学生健康保険組合に加盟しよう」のビラ。

● 5月 ×日 北大医学部・反イールズ闘争に批判意見が出る。

● 5月 ×日 全学連は闘争の成果を踏まえ第4回大会を開催した。大会は日常要求主義、地域人民闘争論の誤りを克服し、圧倒的多数で『反戦平和擁護闘争路線』を基礎とした、『基本的任務と闘争方針』を確立した。全学連第4回大会に先立って全学連・大学代表者会議は『全国的に統一された行動綱領と組織を持った統一戦線組織』として反戦学生同盟(反戦学同)の結成を確認した。6月、都内は一切の集会・デモが数日間にわたって禁止され、都内はさながら戒厳令下に置かれた。そうした中で朝鮮戦争は始まった。10月全学連大会は禁止された。 (新左翼運動全史・流動出版 倉田計成著)

● 7月10日 京府医大・京都地裁で学生全員の退学取り消しの判決。

● 7月30日 東京女子医大・講師の解任辞令。

● 9月 ×日 東京女子医大・学生自治会、解任反対の署名運動展開。

● 10月 3日 東大医・10.5の東大レッドパージ阻止、賛成123、否68、棄権19でスト決議。 スローガン、レッドパージ計画粉砕! 出隆教授ら進歩的教職員を守れ! 官憲の学園侵入反対! 富田・斉藤君の無罪釈放! 単独講和反対! 国際学連の旗の下に全学連を守れ! 全東大の教職員学生は反レッドパージ統一戦線に結集せよ!

● 10月 5日 東大医・レッドパージ粉砕全都学生決起大会に参加。4000の学生が警官隊と乱闘し、会場の東大に突入。
       レッドパージ(red purge)は、連合国軍占領下の日本において、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)総司令官ダグラス・マッカーサーの指令により、日本共産党員とシンパ(同調者)が公職追放された動きに関連して、その前後の期間に、公務員や民間企業において、「日本共産党員とその支持者」と判断された人びとが次々に退職させられた動きを指す。1万を超える人々が失職した。「赤狩り」とも呼ばれた。  ウイキペディアより

● 10月10日 ビラ「医学協ニュースNo.5」=全学連医学協議会.〃東大医学部スト他〃

● 11月 ×日 京大医も全学友の反レッドパージ闘争に参加。学園防衛のために『1人の処分者が出れば百人が続け』を合言葉に。

      「枚方事件」 1950年代に入ってようやく開設された枚方診療所の顛末である。
          診療所の 一人しかいない若い医師が『アカハタ』後継紙の名義人とされた
ため、その医師は占領政策違反に問われ、診療所は閉鎖に追いやられた。
この件について、脇田氏は、「稚拙な非合法活動の失態が大衆運動を潰した典型的な例」であると珍しく怒りを込めた記述を見せている。「枚方事件」について脇田憲一氏の『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』を読む・高橋彦博


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