● 8月15日 高知女子医専・7月4日の空襲で開学予定校舎が焼け、疎開先での開校6日目、対日ポツダム宣言受託のラジオ放送を学生一同が聴き、涙するも下司孝麿教授の「新生日本は普仏戦敗北後の仏パスツールに習い科学で再興しよう」との演説に午後から授業に復帰。

● 8月15日 東大医学部本館大講堂で医学生と教授連は対日ポツダム宣言受託(玉音放送)を聴く。
     被爆
8月6日 前日、空襲激化に伴い広島県高田郡小田村の高林坊寺院(現安芸高田市)に疎開したおかげで広島医専生徒(現在の広島大学医学部)の大半は被爆死を免れた。
疎開翌日の原爆被災によって広島市の医専本校舎・附属医院はともに全部焼失した。
岡山医大では救護班が編成されて広島へ、参加した岡山医大医学生2名が被爆する。
8月9日 原子爆弾により長崎医科大学及び同附属医院は壊滅状態となり,角尾学長以下教職員,看護婦,学生あわせて890余名という多数の犠牲者を出した。
また、居合わせた東大医学部生の被爆死も語られている。

V i t a l i t e インタビュー GHQの戦後医療改革と原爆被災調査
─原爆投下一ケ月、広島に生命萌えいづ─  ??津山 直一
http://www.tokibo.co.jp/vitalite/pdf/no22/v22p01int.pdf

     空襲
米軍による大規模空襲は無差別に行われ、各地の医大・医専を襲い甚大な被害が出た。例えば日本医大は1945年1月30の空襲で千駄木付属病院焼失、学生が焼けたベッドなどを片付けている。3月4日東京医科歯科では薬理の三村先生が御真影を抱いて聖橋下に逃げる。次いで4月13日東京医科歯科の残存校舎も全焼し御茶ノ水駅側から東大安田講堂が見えた。校庭にはエレクトロン焼い弾300発がうずたかく積まれていたという。7月7日 千葉医科大学は千葉空襲で教室2616坪、附属医院旧棟を焼失したが学生は6月に医学専門部第1・2学年を長野県下伊那郡大下条村(現・阿南町・下條村に疎開させていて無事だった。神戸大は3月17日未明の空襲で、「兵庫県立医学専門学校」(1944年開校)と附属医院も一部を焼失、名古屋大は最も激しかったといわれる名古屋空襲を受けて3月12日と19日に医学部の大半を、25日に病院の半分を焼却、東京医大は5月に学舎焼却で疎開。新宿御苑わき信濃町の慶応も大半の病室を焼失などなど全国至るところで。

● 9月 2日 東京湾・戦艦ミズーリ号甲板で降伏文書調印。その日の夜、東大研究室で細菌戦にかかわった助教授、飯島保が自決。

● 9月15日 京大「原爆災害総合研究調査班」を設置、真下俊一医学部教授らを広島に派遣。

● 9月15日 軍国主義的教育研究の排除。戦後の大学は、政府・財界の侵略戦争に協力して学生を学徒動員して戦場に送り出した反省から出発した。敗戦後の教育政策は、軍国主義的または極端な国家主義的思想および教育の排除から始められた。戦後の大学は学生が立ち上がって戦い作ったのだ
学生は戦犯教員の追放や先進的教員の復帰、大学や寮を実力で取り戻す教育復興を燎原の火のようにはじめた。

● 9月17日 被爆調査班は広島の大野陸軍病院で調査研究に従事しょうとしたところ9月17日、枕崎台風に遭遇。台風の影響による土石流の直撃を受け医学生2名が死亡。全体では真下を含む医学部の教授・助教授各1名、講師2名、嘱託1名、学生2名、理学部から参加していた講師1名・大学院生1名、化学研究所の助手1名の合計10名が死亡、さらに10月9日杉山繁輝医学部教授が死去。10月11日に大学葬を挙行した。広島県下で2000人が死亡した枕崎台風での事故であったが、放射性物質が洗い流され広島市の除染がすすみ復興が進展したという説がある。

● 9月 ×日 在外父兄救出学生同盟・東大法科生などによりはじめてできる。

● 9月 ×日 GHQ占領政策に基づき、文部省は『校友会新発足に関する件』により学校報国団を解体し、戦前の学友会に近い学生自治組織を指向した。学生の民主的要求の高まりが強く自治組織を押し上げていった。

● 10月 ×日 京大医学部、陸海軍軍学徒の学園入学に学生が強硬反対。

● 10月 ×日 東京在外父兄救出学生同盟・第一回準備会。虎ノ門霞山会館。
● 10月11日 水戸高校でもストライキに入り、反動的校長の罷免、進歩的教授の復職、学園の民主化等々を要求して全員が寮にたてこもった。この同盟休校が全国最初の本格的ストライキとなり、戦後学生運動の合図となって日本大学医学部予科なども相次いで闘争に立ち上がった。
● 10月12日 10月から12月にかけて、連合国総司令部(GHQ)は、の四つの指令を通達した。
1「日本教育制度ニ対スル管理政策」(十月二十二日)、2「教員及教育関係官ノ調査、除外、認可ニ関スル件」(十月三十日)、3「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(十二月十五日)、4「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」(十二月三十一日)の四つの指令を通達した。
この四つの指令の中で、各大学が最初に直面した大きな問題は、戦時下に学園を追放されたマルクス主義的・自由主義的教師たちの学園復帰と、軍国主義的または極端な国家主義的教員の罷免であった。

● 10月27日 東大・社会科学研究会発足。

● 10月30日 九大医学部学生大会,躬行会の組織改革を決議,学内刷新の口火を切る。
この日、GHQは「教員及教育関係官ノ調査、除外、認可ニ関スル件」の指令を出した。

● 10月 ×日 東京警察病院の看護学生2年生約20人は、お粗末な食事とひどい勤務時間に抗議して集団サボタージュ、食事改善と勤務時間の緩和をかちとった。

● 11月 ×日 11月から翌年にかけて、東京帝大・京都帝大・東北帝大・九州帝大などでは戦時下で追放された教官の復帰と軍国主義的な教官などの追放が実施された。

● 11月13日 日本大学医学部進学課程の学生は同盟登校に及ぶ。要求項目は、
 一、学園の民主主義化。
 二、集会掲示の自由。
 三、軍国主義者なる野沢予科長及び河合教監の辞任。
 四、無能教授の追放。
 五、報国団費、校友会等の報告。
 六、復員軍人の入学拒否。

● 11月16日 岡山医大学生大会 不正入学、学位の売買、学閥偏重無能教授の擁立・研究室の封建的徒弟制度排撃・戦争傍観教授追及決議。

● 11月17日 在外父兄救出学生同盟・神田共立講堂で結成大会。地名の士、阿部能成・香川豊彦・徳川義親の3氏が顧問として演説。全国遊説開始。

● 11月20日 京大医学部・京府医大、京都学生連盟結成に発起参加。

● 11月22日 日本大学医学部学生大会を開き学生全員による学校組合を内容とする自治事業案を決議。

● 11月28日 京都府立医大・学生自治会設立。厚生設備の完備、食糧供給に関する学校当局の援助、特別講義制の確立、出欠制度の撤廃、講義法の改善、教務課の権限縮小、学校行政への学生参加、教授会の公開、過去の速記録の公開、教授会の閥的存在の解消、の要求決議。

● 11月 ×日 東大、医自治会再建へ機運高まる。

● 12月 1日 名古屋女医専、中京学徒連盟結成に参加。

● 12月 5日 日本大学医学部は都下学生連絡会議に呼びかけ発起人として参加。

● 12月 8日 京府医大、京大医学部 全京都学生同盟結成準備会へ参加。

● 12月12日 東大セツルメント再建準備委員会発足。

● 12月15日 GHQは「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」の通知を出す。

● 12月21日 東大・東大前下宿『本郷館』グループ。十日間飯が食えると神奈川県浦賀の浦賀ドック徴用工寄宿舎を改装したかもい引揚者収容所に医療班アルバイトに出かけ、前任の慶応大医学生から引き継ぐ。

● 12月 ×日 高知女子医専・戦災焼失校舎の復興を生徒代表が知事・県議会議長に陳情。

日中戦争から敗戦まで、国家が行った「医師不足への対策」は、大きく四段階に分けられる。
1940年(昭和15年)5月に七帝大六医大に対して行われた、臨時医学専門部の設置。     1943年(昭和18年)10月の非常臨時措置による医学専門学校の新増設。      1944年(昭和19年)4月から始まった歯科医師を対象とする医学教育課程の設置。   1945年(昭和20年)4月に始まった歯科医師を対象とした「医師試験前講習会」によ   る医師養成と歯科医師対象への「医師試験」による医師免許付与。(ウイキメヂア−戦時中の医師不足対策より)                                    
1937年(昭和12年)に日中戦争、さらに1939年(昭和14年)に第二次世界大戦が始まると傷痍軍人の治療需要が増大し、医師の臨時養成が始まった。1939年(昭和14年)には旧制中学校(現在の高校に相当する教育機関)から進学できる臨時附属医学専門部(附属医学専門部)が帝国大学と医科大学に設置され、その後は医学専門学校が多く設置された。結果、大学・医専・医学専門部合わせて年間1万人以上の卒業生がいた年もあった。(ウイキメヂア−戦時中の医師不足対策より)
 終戦時、国内には医科大学が18校、医学専門学校が臨時医専を含めて50校、合計して68校の医学教育機関が存在した。戦後は医師臨時養成の必要が無くなったため、高度な医学教育を行う大学に一本化されることになり、また、厚生省が「人口10万当たり医師100人」との目安を持っていたため、入学定員は全校で2,800名程度に絞り込まれることになった[3]。そのため、臨時医専は廃止され、第二次世界大戦中に新設された旧制医学専門学校は選別されていくつかが廃校となった。存続となった医専は学制改革期に旧制の大学令によって予科を伴って医科大学となった(以下の設置年は本科の開設年)。医学部・医科大学(校)は日本に現在80校あるが、この時期に医科大学となったのは28校あり、全体の35.0%を占める。(ウイキメヂア−医科大学より)
衝撃の医学生戦争証言(京城帝国大学編) 前編 【NHK・戦争証言】2010.4.26 後編2010.4.27 
[証言記録 市民たちの戦争] "引き揚げ"の嵐の中で 〜京城帝国大学 医学生の戦争〜 李 灌鎬さん(京城帝国大学)NHK証言アーカイブス。
1945年8月9日、長崎に原子爆弾が投下されたと同じ日、ソビエトは「ヤルタの密約」に基づき、日ソ不可侵条約を破って、満州(中国東北部)、サハリン南部、朝鮮北部、千島列島に侵攻し、数百万の日本人難民が、満州から、朝鮮北部から怒濤のごとく朝鮮南部へ逃れました。当時京城と呼ばれたソウル市は難民であふれました。その難民たちの救援に奔走したのが、京城帝国大学医学部の学生たちでした。彼らは危険を顧みず、献身的に難民に医療を施しました。そしてソウルから釜山へ、博多(福岡)へと移動しながら医療活動を続けました。2011.2.26

● 12月31日 GHQは「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」の指令を通達した。

● 12月 ×日 在外父兄救出学生同盟・資金獲得のため何度も日劇で免税興行。





イ制施行。GHQ、厚生省へ反対陳情。

● 1月 ×日 在外父兄救出学生同盟・浦賀市鴨居収容所を視察された高松宮に幹部が直接陳情。
同月 東大生等、『在外父兄救出同盟』で活動。厚生省が管理していた軍病院の薬品提供を受ける。

● 1月 ×日 雑誌「新日本文学」は終戦直前の1946年1月に創刊された。中心メンバーが日共除名となり、2004年末に通巻652号をもって終巻。1946年のこの年、婦人民主クラブも発足。

● 1月30日 九大評議会・占領軍の指令により各学部の学科課程中、軍国主義的色彩のあるものの廃止を決定(医学部では軍陣医学,教練及修練,植民衛生学など)。

● 2月 5日 九大医学部助教授・講師,辞職理由書を発表して一斉に辞表を提出。2.8医学部教授陣が辞表を提出。3.20医学部刷新委員会を設置。5.25同刷新委員会,留任教授決定のための一般投票細目等を決定。

● 2月 9日 東大・日大・商大・慶大・明大・早大等の学生自治団体代表者が集まり学生協議会を結成することが話し合われた。

● 2月15日 在外父兄救出学生同盟・藤本委員長等が天王・皇后に拝謁し活動状況を説明。また同月、同盟員の金勝、永和、細田の三君が朝鮮からの引き上げ促進させる目的で南朝鮮に密航。

● 2月17日 GHQ公衆保健部長のCFサムス大佐により医学教育審議会を招集してインターン制を論議。
 イ制度成立の背景
@ 戦時中医学専門学校の増設、大学に於ける教育期間の短縮、教育内容の低下を来たしており、医師養成機関間の格差是正が必要とされた。
A 当時敗戦状態にあって、全国的に発疹チフス、コレラ、疱瘡等の伝染病が流行し、防疫思想の不在が占領体制の秩序維持に支障を来たし、医師の公衆衛生知識の向上が強く要請されるに至った。
B アメリカにおいては医学、教育、医療資格水準が高く、その基礎として正式に組み込まれ、イ制度は病院に於いて正式のスタッフとして待遇される等、多大の成果を挙げている。
C 日本でも戦前医療制度の改善方策として実施修練制度の構想があった。

 占領軍によるインターン制度の押し付け 

「おそらく私たちは九月末日に卒業することになっていたのらしいのであるが、八月十五日に突如として終戦が来た。これが私たちにもたらしたものは、眼の前に来ていた卒業が、無条件に延期されたということであった。さらに工合の悪いことには、その後しばらくして占領軍の命により、卒後研修すなわちインターン制度の実施が追い討ちをかけるように私たちに課せられることになった。
 これに対しては、その後私たちはほとんど全員で反対運動をすることになるのであるが、結局は占領軍命令として実施されることになってしまった。ただし特例として、その期間は今回に限り一年のところを、半年に短縮するということであった。
 いずれにしても、この一連の措置によって、私たちはいわば、大学からは閉め出され、社会からは受け入れてもらえない、中途半端な状態になり、全く途方にくれることとなった。というのは、すでに卒業試験は終わっているので、当然のこととして、大学側は私たちのために授業をやってはくれない。しかも、卒業は認めてもらえないので、それまでの一年余は、それぞれ適当に自活して、時期の来るのを待っていなければならない。終戦直後の最も社会が混乱したこの時代にあっても、学生という身分はこの上なく不安定であり、一方的に卒業時期の変更を申し渡されただけでなく、さらに医師の資格を獲得するために、インターン研修と国家試験という新たな条件を課せられた私たちの不安は、非常に大きいものであった。」
山本俊一著『浮浪者収容所記――ある医学徒の昭和二十一年』中公新書 絶版

   イ制度創設反対で押しかけた医学生に対応したアメリカの医務官が、我々アメリカの医師は、一生のうち一番楽しかった時はインターン時代だった。この楽しい時期を皆さんに与えようとしているのになぜ反対するのか、と言われたそうだ。
   しっかりしたオーベンが付、経済的に保障された制度であるのに比して日本では教授を頂点とする医局ヒエラルヒーと相まって『身分・教育・研修』の全ての分野で歓迎できない制度であることが分かっていたことからうけいれがたいものだった。
   同じような制度で最近逆コースを辿った制度に司法修習生の給与廃止がある。修習生の給与は2011年11月政府の財政負担を軽減するために返済義務のない「給費制」から「貸与制」に変わったが修習後は収入が安定せず返済が困難となる場合があるため政府が返済猶予の条件を広げることにした。

● 2月24日 大阪高等医専、学園民主化要求で生徒・看護婦ストへ。

● 2月 ×日 千葉医科大学社会医学研究会(社医研)発足。

     ● 2月25日 在外父兄救出学生同盟の藤本委員長ほか7名が天皇・皇后両陛下に拝謁し、学生同盟の活動を報告申し上げた。

● 2月 ×日 在外父兄救出学生同盟を山本俊一氏ら東大医学生グループが訪ね、医療班の荒川君(慶応)、中野君(慈恵)と合流。

● 3月 1日 東大セツルメントが発足。
        東大青年共産同盟公然化、KIM(キム)に医学部よりも参加。

● 3月12日 京都府立医大、関東学生政治協議会に参加。『労働人民と共に進み、日本の民主主義再建は人民共和国建設しかありえない』と東大の発言。

● 3月18日  在外父兄救出学生同盟の引揚者援護活動に、皇后陛下から学生同盟に御下賜品があり、受け取りに東大医学部生山下俊一等医療班が出向く。やっと3人で持ち帰れる量で戸田侍従は皇室の内情も苦しい、渡した以上どう使おうとよいが御下賜品であることを引揚者に伝えてもらいたいとの個人的なお願いとしてあった。しかし、学生同盟のとり方はまちまちで引揚者の意識も単純ではなく、戸田侍従の要望がどこまでかなえられたかは一概に論ずることが出来ない、と。

● 3月24日 大阪高等医専生徒大会・財団の改革・待遇改革・自治権確立等を決議。

● 3月 ×日 千葉医科大学社会医学研究会は千葉市民のバラック生活状態・罹患状況調査。

● 3月 ×日  在外父兄救出学生同盟の引揚者援護活動に厚生省若手技官の提案を取り入れ、引き上げ船と引き上げ列車に身軽に動ける医学生を乗り込ますことにした。
広島県大竹からの引き揚げ列車には岡大生が乗り込み、大阪駅まで車内診療をした。そこで京都・大阪の医学生と交替し、名古屋で名古屋の医学生と交替し、品川で東京の医学生に交替。
後期になると女子学生の病人看護や乳幼児の擁護、一般学生も相談相手になるなどし、汽車代はフリーであった。全国網は一ヶ月で出来上がり、薬品も各地支部で入手した。

● 4月 1日 大阪高等医専ストの報道記事

● 4月 1日 北大・医学部で自治会結成。

● 4月 3日 東京医専学生で浮浪者収容所長であった●野口章君、発疹チフスに感染して東京医専附属病院で死亡。(現東京医大)

  野口君への学生同盟への勧誘は続いたが、拒否されていた。
  「軍部や官僚を中心とする大人たちが指導方針を誤って、われわれの祖国をこのような惨めな状態に陥れてしまった。しかも彼らはその責任をとるどころか、占領軍に対して盛んに尻尾を振り、そのいいなりになって身の保全を図り、あるいは不当な手段によって自己の利害を貪り、その結果、一般国民をますます困窮へ追いやっている。
   我々はもはや大人たちを信用することができない。祖国の再建は、戦争責任のない、そして利害得失によってうごくことのないわれわれの手によって行わなければならない。そして、そのためには、学生が国の権限を手中に収めなければならないと考えてわれわれは一致団結して行動しているのである。さしあたって、大人たちが自分の利益にならないとして本格的に取り組もうとしない民生活動、援護活動方面で指導権をとるべきである。」

   ● 4月 4日 在外父兄救出学生同盟・全国連絡会議、東京で開催。医療班の活動も固定化。
      乗車券なく列車乗り込み、引き揚げ寮に宿泊することで学生同盟の活動が全国化した。

● 4月26日 京都府立医大社会科学研究会発足。「人民のための医学」社会医学建設なくして当面の敵学生の封建制、保守性を打破できない。

● 4月 ×日 医歯大・東大及び文理大による学生生活協議会と連絡を取り、食糧問題、学生宿舎問題を取り上げ発足した医歯大の協同組合は書籍販売で好調。

● 4月 ×日 在外父兄救出学生同盟の引揚者援護活動は引き揚げ船に及んだが、実現が遅きに失した。抑留所の医療事情が良くなり、必要性が薄くなる。

● 5月 6日 医学教育審議会,インターン制ならびに国家試験の制度を決定。

● 5月10日 京都府立医大・関西学生同盟へ全京都学生同盟を発展改組することへ努力。

● 5月19日 米よこせメーデー。皇居へ押しかける庶民のプラカードに『朕はたらふく食っている、汝臣民飢えて死ね』の文字も。

● 5月21日 千葉医大・学内協議会結成、教授会の開放へ。

● 5月25日 九大医・教授の公選を刷新委員会で議決。支持率60%以上で教授留任。

● 5月26日 滝川事件を記念して学生祭が開かれ、東京大会が京橋公会堂で学生社会科学研究会連合で開催され、@学生に職と職場を与えよA学生自治組織の確立と学園民主化の徹底。B学生民主戦線の即時結成。C学生の参加による教職員適格審査 を決議。

● 5月 ×日 GHQ・医療労働者の組合結成に禁止の圧力、サムス声明を出す。6月にサムス声明の修正撤回を示す。

   ● 5月 ×日 在外父兄救出学生同盟・金勝君が単独で38度線を越え、北朝鮮に入り、金日成北朝鮮人民委員会委員長に会い、日本人引き上げの促進を要請する。

● 6月 ×日 兵庫医大(現神戸大医学部)・兵庫学生連盟結成に参加。各校社研を中軸に。

● 6月 ×日 6月以降、軍国主義的または極端な国家主義的思想および教育の排除を目的に各地に教職員適格審査委員会が設けられ、北大では各学部・研究所ごとに委員会が発足した。予科・各専門部の教員は、北海道の各専門学校を一括した委員会のもとで審査を受けた。不適格者の排除は、審査によって判定される場合と、審査によらず一定の基準に該当するものとして自動的に排除される場合があった。
1947年10月までに全国で約65万人が審査され、そのうち約2600人が不適格者として判定され、そのほかに約2700人が審査によらず不適格該当者として排除された。

● 6月 5日 九大医学部,先に辞表を提出した教授に対する留任可否投票。12月20日、助教授・講師に対する可否投票。

● 7月12日 九大捕虜虐殺容疑により,石山福二郎医学部教授ら5人に逮捕命令(九大医学部生体解剖事件)。
        ●  『海と毒薬』 (新潮文庫) [文庫]  遠藤 周作

● 7月17日 千葉医大・教授を除く各層が集まり全学民主化大会。

● 7月18日 千葉医大・20数教授の信任投票。小池学長、伊東、岩津教授に8割を超える不信任票が集まる。

● 7月19日 千葉医大・小池、伊東、岩津3教授に退陣要求書を提出。

● 7月19日 帝国女医専・自治権確立学生大会でスローガンの主旨弁明。

● 7月 ×日 高知女医専・一般並みの二合一勺の基準配給米支給を政府に抗議文を出すなりして要求、受け入れさせた。それまでは農家並みの一合六勺の配給。

● 8月23日 国際学連ICU(The International Union of Students)の創立・36カ国150万加盟で創立プラハ本部は1939年11月17日、ナチスへのレジスタンスを記念してこの地に置かれた。10月28日、建国記念日を祝うプラハ大学医学部を中心とする学生は反ナチのデモと化した。ナチの銃弾は医学生ヤン・オプレタル君の命を奪った。15日の夜告別式が行われ、再び数千人の学生がデモを行った。ナチは11月17日、学生9名(内1名は准教授)を処刑、1200名以上を強制収用所に送り込んだ。

● 8月30日 GHQ・医学教育審議会により国民医療法の一部を改正し、医師法第2章第11条として、イ制度確立、9月1日より施行。正式には翌23年3月より実施。その際、医師の資質の向上、医師の水準の一定化のためにイ制度の成果をみるものとして国家試験が制定した。
  (医師法第2章第11条)

● 8月31日 国民医療法施行令改正公布.国家試験による医師・歯科医師の免許取得・実地修練制度(インターン制度)を採用。

戦後の混乱期は医学医療の面でも戦時中の軍医養成、軍部に徴収された内地の女医養成の為の医学専門学校の乱造、大学の医学教育の短縮等による医師の資質の低下、水準の不揃い、また、各種の伝染病の蔓延等があり、GHQによる勅令第四O二号に基づいてインターン制度設置となった。当初から以下のように不十分で、インターン闘争は成立と共に始まった。
( )実施の為の予算的裏付け、インターン生の経済的保障、指導員設備が皆無。
( )インターン生の身分が不確定。
( )指定病院での受け入れ体性がまったく整っていず、旧来の医局制度ともあいまって、受け入れ体制がなっていなかった。

● 9月 中旬 千葉医科大学社会医学研究会は結核予防会の指導の下に小岩駅頭で街頭検診。

● 10月 8日 東京女子医専・岩崎教授解職問題で教授団改革要求を当局に提出。

● 10月29日 同日公開の民主主義映画。 占領軍GHQの民主化路線で京大事件(滝川事件1933)からとった『我が青春に悔いなし』 黒沢明監督・原節子主演。

● 11月 1日 医科歯科大・GHQ検閲下に医歯科新聞創刊。活版印刷。
● 11月11日 医歯大豫科新聞班・「ひいらぎ」言論の自由のためにガリ版で発刊。用紙は大学から用達。ひいらぎ記事がきっかけで柊寮食料委員会がつくられ、寮自治委員会と相俟って完全な豫科生活が確立。
● 11月 中旬 北大医学部・第3回官公立大学生会議に北大から松宮君(医)らが参加して国立大学学生自治会連盟(国学連)が発足。

● 11月28〜30日 第1回医師国家試験実施。

     ● 11月 ×日 在外父兄救出学生同盟・全国大会に左翼系の大学高専自治会連合の代表
が祝辞を述べる。

● 12月12日 東京女子医専・クラス会で校長不信任決議。

● 12月 ×日 医科歯科大・初代長尾校長を学生・職員が否認53%。社会科学研究会調べ。

● 12月21日 高知女子医専・南海地震による水没地帯救護に。高潮を受けた宇佐町まで徒歩で行き、追い返されて農家で一泊したグループもあった。

● この年 全国医局で20日間のストがあった。しかし「有給助手の定員増」をかかげたスローガンのとおり、何ら医局の支配体制への挑戦ではなく、文字通り定員増を勝ち取ることにより収束されて行った。(医学新42号)

 






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