■ 漕げよマイケル ( 漕艇部の想い出 )

想い出の国府台学舎は江東デルタの東端にあった。
麓の江戸川から中川放水路に出て、荒川を遡る、あるいは戸田レース場から荒川土手をボートを担ぎ上げて越し、隅田川に入ってかかりつけのデルタ造船所や神田川にと水上の興味は拡がる。
チベット高原に源をもつ大河メコン川のメコンデルタもかくやと思わせる水路が東京には延びており、水の都と呼ばれる由縁だ。
ボートではコックス対面で整調を漕いだ。
漕げよマイケル(Michael row, the boat ashore)は在籍した1960年代を表現するフォーク。元々は黒人霊歌で奴隷労働歌だ。ロシアなら「ヴォルガの舟唄」といったところだが、辛さを明るくも辛くも七色の糖衣錠にしてしまうのがアメリカで我々の世代はアメリカ文化を受け入れながらも、アメリカへの疑問を併せ持っていた。
3浪をして入学した1965年、「ボートは彼の名門オックスフォードでも盛んであり、貴族のスポーツにて云々、」という勧誘の言葉もおかしかったが、公害の全盛期であり江戸川のヘドロに足をとられながらナックルボートを市川里見の水辺へ降ろす様子がべトコン(南ベトナム解放戦線の賎称)と変らぬと誰もがぼやくこととなった。
すでにジョン・F・ケネデイによってベトナム戦争は始まっており、1963年にワシントンD.Cに数十万人を集めた公民権運動に対し、ケネデイは国内の統合こそ戦争遂行に必要であると、南部諸州の人種隔離法を禁止する法案を次々に成立させた。
当時の雰囲気は、死後も1960年代を歌い続けるビリー・ホリデイからもうかがい知ることが出来る。
一方、首都サイゴン至近のメコンデルタは解放区と化していき1968年テト攻勢へと盛り上がってゆく。
これは日本医大の学生運動にも少なからぬ影響を与え、デモのときなどは練習を遅くしてもらった。
一番迷惑をかけたのが、1967年青医連日本医大支部の公認と有給化を目指す卒後医師研修協約闘争(インターン闘争)で53日間のストに対する無期停学処分を受け夏の合宿当番に穴を開けてしまったことだ。
前年の1966年、漕艇部は戸田での全日本レガッタで小艇の部ながらナッシュペアとスカル部門で優勝と3位という輝かしい記録を打ち立てており、合宿入りは充分に魅力があった。
学友会の合宿も1966年、法政の芝田進午教授により私立医大に「医療資本」という定義がなされ、これも面白くてどちらに参加をするか頭をひねった。
闘争の当初、矛先は厚生省で学校当局も黙認、教授が激励し級長がデモを引率してゆくようなものだったから、勉強をしない私などは他大学の学生自治会長から「私が言われて迷惑だ」と学問に打ち込むように批判された。同じようにボート部にとっても怠学の私は困り者だったことだろう。
1964年東京オリンピックが開催された戸田だというのに翌年には予算の関係からか水質が悪化してアオコが発生し、1966年には笹川良一の競艇が戻ってきて練習では1500しか曳けなくなった。オケラになった客が合宿所に盗みに入り、中央大艇庫のあたりで捕まってリンチをされているので「許してやれ」と対岸へ怒鳴った。私も昼寝中に入った賊を追っかけて川端のブロック工場に追い詰めたことがある。
合宿所運営は近代的で、学生寮の舎監がイメージする「若衆宿」ではなかった。層としての目的同一性を保った学部だからスポーツに体育会系的利害の発生する余地は少なく、むしろ入局のシステム・医局講座制が体育会系に近かったかもしれない。
ボートに関する我が家の話は私だけではない。
父は岡山医大(現岡山大学)でスカルを漕いでいて、練習を終えて帰ろうとすると「もう一漕ぎする」と僚艇の友が言い残して、瀬戸内を渡り香川県の実家まで帰ったのだという。大変な冒険野郎だが、只今94歳で父とともに健在である。
最後に「500マイル」で締めくくろう。
東京―高知間は空路だと500マイルぐらいだが、日本医科大学との距離は今も遠のいている。
そんな時に往時のキャプテン鈴木浩之先生が高知に来られ、貴「つくばね会」誌への寄稿要請をされなければ忘れ去っていたことだろう。同門とは決していえないけれど、機会を与えてくださったことに感謝したい。
1965年、進学課程のバス一泊旅行で鬼怒川へ行ったとき、車内では「500マイルも離れて」を繰り返し歌った。Peter, Paul & Maryのヒット曲だ。
今でいう「派遣労働者」のつらい運命を歌ったような曲だが、希望に満ちた医学生が歌う大合唱はバスを目的地に運んだ。
時代の空気が薄くなり、私自身が「バス」を降りたのは人生だが、そんなことに関わりなく合宿所のポプラは40年を過ぎて巨木になったそうだ。
願わくは、気候のよい初夏の一日、荒川河畔でのひばりの囀りとともに、艇庫にそびえるポプラのさらさらとした葉音を聞いてみたいものだ。
          2009年 日本医大漕艇部「つくばね会」誌初出稿


■ 共産党員の父兄

未だに理解に苦しむ体験だった。それというのはインターン闘争の中で個別大学との間で戦われた熾烈な1967年卒後研修協約闘争時に、激しく妨害をしてきた党員U氏の行為のことだ。
その頃の共産党は今のようにスターリン主義に明確な立場ではなく、スターリンに追い落とされた政敵トロッキーに対して激しい言葉を投げかけていた。
それで、共産党を離れた学生に対しても反革命分子の意味をこめたトロッキストという非妥協的な立場をとっていた。医学部の多くは党から離れたところで活動をしていたので、容赦なく攻撃しても何らかまわないということなのだが、党公認運動でないといっても倫理的にしてよいことと悪いことがあるはずだ。
父兄である立場から、私の実家にも悪行を並べ立てて、大学側を擁護する私信が送られてくるようになった。その一部は2011年、亡父の書斎から見つかった。
低医療費政策の政府にのみ戦いをしぼるべきであり、私立医大とは共闘をすべきだという論旨であるが、それはそれで理屈としても何故に家庭にまで圧力を加えるような振る舞いをするのだろうか、「純トロ」でない私には未だに解せないでいる事件だった。手紙には「もともと医師になる気がなく闘争をする為に入ってきた」とさえ中傷していた。
1978年、田舎に帰って1950年代活動家の民医連の諸先生方には親切にしていただいた。苦労をなさった先生方はどこか違うのだった。


■ 黄昏流星群

小学館発行の壮年向け漫画雑誌「ビッグコミックオリジナル」に連載している弘兼憲史の劇画「黄昏流星群」は1995年から2012年の現在も連載中で、単行本も次々に出版されている。
この「黄昏流星群」シリーズ28巻に医学連のヘルメットと今は高年齢に達した男女が登場する一編がある。このストーリーに誰かモデルがいるのか、それは分からない。
   
1969年、松井麗と真田満は、学生運動で騒がしい新宿西口広場で出会った。リルケを愛し、薔薇の刺青を入れた医学生の真田と同じ世界を生きるため、薔薇の刺青を太ももに入れた麗だったが、真田の帰郷によりふたりの同棲生活も終わりを告げてしまった。その37年後…。


■ ヘルのカラー化

医学連の単独デモでヘルメットを着用したのは歴史を切り開いた1967年3月12日の医師国試阻止闘争だった。三派全学連のデモなどでは前年の国際反戦デーあたりから、ぼつぼつ工事現場から拾ってきたようなヘルが登場していたが、11月12日の第二次佐藤訪米阻止・羽田闘争には一挙にヘルメットのカラー化がなされた。セクト間で色の取捨選択が行われたようなのだ。
( 誰も取らなかった黄昏色は民青が拾った。もう一つ、水色も
被っていたが東大のスクールカラ−からなのかと私は思った。 )
羽田の早朝、岩波労組のカメラマンと児童公園で撮影準備をしていると朝日を受けて青色に輝く真新しい塗装ヘルの青年が検挙されて連れて行かれた。
メットのカラー化は、ポップアートのように衝撃的で、商業利用よりも早かった。その例証としてビール箱は未だ木材を使用しており、その後に合成樹脂によるカラーボックスになるのだが、ヘルの方が一足早かったのだ。いずれも隆盛を極める石油産業の産物だ。当時これも急速に普及がなされていたテレビ・カラー化で、茶の間にヘルと火炎瓶の炎がよく映えて飛び込んた。
医学連のそれは赤地に白色で医学連と書き入れたものが多かった。


■ 関ブロ

「関ブロ」は関東ブロックの自治会かインターン委員会、代表者会議の略称である。闘争が一番盛り上がった頃であっても、各校からの出席を確保することは大変だった。頻繁に開催されたことから文書通知以外に開催日前にはアパートなどに呼び出し電話をかけるのが常だった。
個人電話など自宅通学生でないとない時代、大家さんに言って呼び出してもらい連絡をつけてゆくのは、中執か関東ブロックの事務局員の仕事。
関西ブロックでも「関ブロ」といったが関東の場合、当時の特徴は私学が多いこと。正式の「関ブロ」は関東甲信越ブロックのこと。国立は東京、千葉大、横市大、群大の関東と以北の信州大と新潟大が入る。山梨と埼玉にはイ闘争時には医大・医学部はなかった。
因みに、全国は7ブロックに分けられ、北海道、東北、この関東甲信越、中部北陸、関西、中四国、九州であるが、医学部は旧7帝大を中軸に、権力によって医療を通じての全国支配の合理的な配置に仕上っていた。


■ 党派の介入

共産党の医学連への介入は「全自連→全学連」再建に習って「医自連→医学連」の分裂策動として絵を描いて来たのだろう、1968年9月7日の秋の闘いを告げる第15回医学連大会に向けて先の民青全学連大会の決定による「戦闘的-民主的学生運動」の実践部隊1000名によるゲバルト初洗礼を医学連に向けてきた。
この事態は、どんなに民主的な言辞を弄しようと暴力挑発の事実関係は動かせない。安田講堂で医学連は挑発にのらなかったが、東大全共闘は講堂の外で抗議したおりにむきだしな暴力の被害を被っている。医学連が「挑発に乗るな」などとは、おかしいと思われるかもしれないが、民青の本ちゃんには慎重に対処がなされていた。
東大闘争時、お人よしに対応すれば、民青部隊がするするとトロイの木馬よろしく安田講堂に満ち溢れて、医学連大会どころか以後の東大闘争の展開はなかったわけだ。民青の戦略部隊は地方からかき集められたゲバ民からなり、次の日には東大から法政へ転進して同大学の全共闘と実際に武闘を演じさせられている。
分裂さえすれば日共の方に圧倒的な自治会が結集するとかといえば、民青自身の運営能力の欠如もあり、そうはならなかった。
歴史的に「学対」を通しての介入は医学連や東大闘争に限らない。歴史を紐解けば1956年11月22〜23日 日共全国学校細胞代表者会議は、党中央作成の運動方針を"学生に対する無方針と偏見"と批判して否決している。1958年6月1日には全学連第11回大会の終了翌日「6・1事件」といわれた共産党本部内で、党中央の学連介入に叛旗を翻した衝突があった。招集された全国グループ会議席上、党内反対派であった全学連指導部が共産党中央委員会不信任決議をして、共産党と袂別をする。
もうひとつ医学連では体験がある。新左翼だからといっても日共と同じ体質は残っていたと思う事件だった。1971年のブント日向派の医学連合宿への介入がそれだ。神田明神坂下の愛知揆一外務大臣宅前旅館での医学連春合宿への暴力的介入は司会を横取りし、無媒介的に持ち込んだ党派機関紙「戦旗」の読み合わせに終始し、それがために流会に至たらせた。邸宅前に警官ボックスが見える室内であったから医学連は昼までに引き上げた。
関西ブントなどは「医学連の運動はようわからん」と直接の介入はしてこなかったが、党派学対による大衆運動への介入はこのように存在した。

また、党派部隊は大衆運動への配慮がなさすぎて、例えば小さな大学の学生食堂や売店は許容量が少なく、たちまちパンなどは売り切れるので、学友からの苦情も多くなる。だから受け入れは綿密にしないとしてはいけない。活動を積み上げてきた人々ではなく、党派でハナから活動している学友は、やりくりしている現場が見えていない。「党派に出すとつぶされる」という気分が医学連の側になかったともいえない。


■ 坊ちゃん

実家の方では、医師会の会合などで「息子さんはそろそろご卒業ですね」などと誰も言わなくなったと父から聞いて母が嘆いていた。
しかし、すごいと思えるのは、在学期間を合わせて15年間、ドッペリ(留年)を繰返す私に対して生活費を送り続けた両親である。期待よりも家業のアルコール依存症治療の実践でつちかった粘り強さではなかったかと思う。
「坊ちゃん」で思い出すのは、左翼の図書も扱う新宿摸索舎の五味さん宅は文京区の下宿に比較的近いところに実家があった。ご近所の方が五味の坊ちゃんと言っていてそれを聞いて笑っていたが、私の実家に電話をした他大学の医学生が『坊ちゃんは帰っておられません』と言っていたよとおかしがっていた。
1970年代、東大日共の告発路線で医学部学友を売った民青の地裁動員指揮者が大きな病院の息子だというので、家業が中小病院の学友などは「ろくでもないやつだ」と地裁の抽選入場券獲得の隊列の中でつぶやいていた。出地で人を判断をするようなことではないが、多かれ少なかれ出身出地の違いはあり、同類の学友への思いがにじみ出てくる。大きな病院と小さな病院では随分と環境が違い、診療所の学友とも肌色が違って感じられた。勿論、教授の息子もサラリーマンの息子も少しずつカラーが異なった。
医学連と歯学連でも、私学と開業歯科師弟の多い歯学部と、国公立が多く、私立混在で開業医師弟もいる医学部ではスタイルが異なっていた。
入管闘争で、入国管理所に収容されている台湾籍の方を訪ねたとき「あら、あなたビトンのバックを持っているの」と文化人の川田泰代さんに冷やかされた。
入管闘争に高級な鞄を持っていったのは私しかいないだろう、40年前のビトンで高価だったのだろうが、本人がビトンを知らないのだから、仕方がない。出自が問題なのではない、その後にどんな立場性を獲得できるかだ、ということだと理解はしているが、ではお前も少しは階級性を獲得して純化すべきだという批判には私は「では兵站はどうするのだ、新聞は、自治会は、医学連は」との立場を崩さなかった。
私は平成25年で、郷里に帰って35年になる。はじめ、近くの商店街でビラ撒きをしていると「坊ちゃん、ご苦労様です」と祖母の教え子がねんねこに孫を背負って声をかけてきた。
少し、活動スタイルを変えねばならない時期が来ていた。そして、当たり前かもしれないが病院経営が学生運動よりもきつくないとはいえない。

 
■ 内ゲバ殺人

医学連運動ではかつて殺人はない。唯一例外といえる医学生参加の事件は1975年5月25日 カーキ色の旧日本軍を想起させる軍服姿のマル青同による岡大生殺害事件だ。岡山大学生寮の暴力支配を企んだマル青同に一本釣りされた岡大医学部生と川崎医大生が関与、医学生運動史上、最悪の事態をもたらした。
医学連に殺人がなかったのは、安保ブントの影響が残る医学部は少人数6年制で長く在学し、クラスも一クラスしかなく、そして卒後も大学内で研修をしたことから人間関係が密で、抑制が持続したことにもよると思う。東大の「10世代スト」などは60年代から70年代にわたる活動家の蓄積を示している。
別には革マルの影響が比較的少なかったからとも思われる。革マルの影響は自治会を握る札医大をはじめ医科歯科、東医、千葉、順天、岐阜、金沢、鹿児島などで散発的にみられたが、札医にしろ全共闘をやれる革マルといわれていたし、他大学でも大学内で折り合いをつける知恵を持ち合わせていた。札医大は1969年まで医学連にも結集、後に離れて革マル全学連副委員長を出したことがあった。1969年に金沢医、1971年頃一時的に東医大と順天堂の自治会をとったことがある。
医学連のレベルでは医学連は中核とは友好的で、赤ヘルになった後の広大医学部でも原爆投下地からのデモで中核の隊列についていっていたことがある。党派闘争では巻き込まれたことは、群大や、社青同との間では東北大などで見られたが、大事には至らなかった。

歴史を振り返るに総括の着眼点として、スターリンに、スパイ野坂参三を除いて皆殺しにされた在ソ連日本人革命家達のことから学ぶことが大切に思われる。
医学者でありスターリンにモスクワで粛清された、東大医学部助教授・国崎定洞(1894〜1937)のことは川上武先生の著書に詳しい。 http://homepage3.nifty.com/katote/KUNIZAKI.html


■ 早稲田

1966年にかけて早稲田の学費闘争が始まった冬、学友会から早稲田を見て来いと言われて、地下のサークル室を訪ねてまわった。ひとまわりするとビラも一抱え集まった。独特のアジ演説や、早稲田大学新聞訪問、長いすを滑らせて搬出し会場の設営方法など、一通りの『学生運動』を実習して帰った。この頃の早稲田大学新聞は結構面白くて、私はあわせて読書新聞と朝日イブニングニュースを購読した。早稲田の長髪をかき上げながらのアジ演説はきまっていた。
1965年入学初年度、早速に学友会を再建し、旧学友会派を降す票読みも数票差でぴたりと当てて私は書記長に納まっていた。思えばそのときが学生時代一番『出世』をした時だった。
日本医大の学生運動も日本経済同様、追いつき追い越せの時代だった。早稲田の学費値上げ幅だが、工学部が年間21万にもなる大幅値上げで、日本医大の15万からみても高額だった。
その日医が早稲田と合併話があったのが大正時代、再燃したのは1950年、1953年頃には教授連や学生(秋草自治委員長)は賛成、河野事務総長は反対で話は頓挫している。医学部を持つ慶応・東大に対して、早大の利害もあったのだろう。早稲田と向丘・根津・千駄木は直線距離では近いが交通は不便で高田馬場経由だった。1960年以降の早稲田学生運動をみるに在学時には合併がいいとはいえない気分だった。
1963年早稲田祭だったか、一文に進んだ高校学友の案内で学内を回った。ここへ引っ張り込まれてテロられるんだよという説明に恐る恐る覗き込んだのが、無人の早稲田一文の自治会室。この自治会室を見下ろす崖上は、栄養学研究所になっていたが、10年後に軍医学校跡地であることを知った。正体不明の人骨が掘り出され細菌戦との関連が取りざたされた。近くのリハビリ施設は所沢の新設防衛医大脇に移され、臨戦態勢が構築されていくのが1970年代だった。軍医学校から国立第一病院へは地下トンネルの跡が残っていた。陸軍病院だった第一病院は屋上には艦砲射撃に耐えられるようにぺトンが厚く敷き詰められていたという。



左:石井四郎のいた早大一文上の軍医学校跡、戦後栄養学校となり今は取り壊されている(1975)
右:軍医学校より陸軍病院へ抜けるトンネル跡(1975)



南側路地に石井四郎731部隊隊長宅『サマリヤ館』があり、女子医大の看護婦など下宿生を受け入れていた旅館だった。庭には石井四郎の肖像レリーフが建てられている。三里塚加茂部落でみた兄の肖像レリーフと同型だ。近所の東京女子医大を東に行った河田町に菩提寺の月桂寺があり、墓地の墓石に石井四郎の名が刻まれている。


■ オフ会

学友にとって、ともすれば長期化するスト中の過ごし方は一工夫あった。今でも感心するのは卒後の中小病院経営にとって助かる「ボイラー」の資格をとった学友である。
女子医学生がバーで務めたり、乗ったタクシー運転手が同級生で驚いたり、雀荘で稼いでいたりと様々だった。マージャンで生活費を得たりする連中は比較的学力に余裕があるのか世間を知っているのか、ストが危ないときはすぐに電話しろ、学生大会に必ず行くと鷹揚だった。京府医大生・北山修はザ・フォーク・クルセダーズで一年間歌手生活をしたが、その期間は府医大ストとダブっていた。
当時の船会社は少し前まで外航船には船医を置かなければならない法律があって、(昭和23,24年から昭和37年まで、以降は免除措置=船舶に乗り込む医師及び衛生者に関する省令・37.8.13)先輩を300万ぐらいの前金で船会社に売って闘争資金にするということも語られていた。70年安保に差し掛かった当時300万あれば山手線内で中古マンションが買えた金額だ。
一方、耐え切れなくなってストに不義理をするよりはと海外に出、一年ほど流浪の旅を試みる学友もいた。
ストが敗北すると、全学議長は学内研修を受けられないので海を渡ってアメリカのメイヨ―で研修されてほとぼりを冷まし、そうかその手があったかと感心したことだった。
東大農学部で後日医学部に転じた方によると東大全学漕艇部は1969東大闘争の過程で強くなって全日本優勝とかと、書かれていたようだ。60年安保時にも東大漕艇部は安保闘争真っ只中の5月8日、シェルフォア部門でローマ派遣決定戦に勝ち残っている。
学生にとって無期停学が出ると1年進級が遅れるということなので、その間をシコシコと学生運動を続けるか、語学研修や他大学への進路変更、もちろん親に対する当局の締め付けもあるので処分学生は保護観察を受け全く自由生活になるということではなかった。なかには医者になれなくなったと処分を契機に身辺整理をした学生もいた。
逆に、少数だが学生時代はマージャンに明け暮れていても医師になってから医療運動を始めたり、学生生活は合唱団に入っていて卒後に開眼、猛烈に闘争される方もいた。
私は無期停時には自由が丘で茶道に通って過ごす、とぼけたオフ会だったが、二度目は戦旗社へ出向した。


■ 逮捕者数

インターン闘争と安保など政治闘争での逮捕医学生数は2000と推量される。
医学連30000余名のインターン闘争全時期を通しての犠牲者は1968年単年度の10万学生を要する日大闘争に匹敵し、負傷者の多さでは日大は群を抜き多くて、眼を瞠るほどだ。「病院」という後方兵站を持つ医学連は治療面で恵まれていた。
医学連の死者は病死ではあるが対権力闘争ではないとされている。抗議の自殺は奈良医大生の李智成君「満腔の怒りをもって佐藤反動政府の出入国管理法案、外国人学校法案に抗議する」との短い遺書を残して自らの命を燃やし尽くした。警官に足をピストルで撃たれたのはMDの池澤君が遭遇した『血のメーデー』である。行方不明は福島医大の梅内恒夫君、海外雄飛の東大小西隆裕君がある。日共による告訴は医学連にはあり、日大にはない。医学連の退学は周辺部分を入れると200を優に超えるだろうが日大はもっと多く4桁だろう。
後に代議士になった1969.1.18東大安田講堂守備隊長の今井澄氏は二度も退学処分を食らっている。彼の入獄時には諏訪病院長だったので、市長や職員、大勢の患者が駅で見送ったという。民青諸君はほぼ無傷だった。
留年や半年遅れの卒業は5000以上、いやもっと多いかとも思われる。医師国試拒否で医師免許取得が遅れた者は10000に迫るだろう。医学部での戦いは「ぐるみ」であったから2000年頃には最大時、医学部教授でデモ経験者は80%を越えていたと思われる。
一方、日大闘争支援弁護団と日大闘争救援会の調査による犠牲者は、逮捕者1608名、勾留595名、起訴132名、死亡者1名、負傷者7500名で無惨である。
日大の中村君虐殺では、青医連が協力して接点を持った。


■ 救援

学園で闘争が始まると、救対(救援対策)が始まる。警視庁に捕まっての救援が一番困難に思われがちだが、親や保証人、先輩などとの軋轢が多くの場合は活動からの離反を生み出した。
個別救対が組まれ、自治会や学友会がバックアップをする事は「■ 自治会」の項でも述べた。
手に余ることは党派救対や救援連絡センターにお願いすることになる。
特に救援連絡センターの役割は大きく、国民救援会から漏れた救援を引き受けることとなる。国民救援会は依頼のあった案件を救援するのが原則だが、実際には学生運動関係は引き受けてくださるかは共産党の絡みがあって分からない。
勢い、1969年に発足した救援連絡センターに頼ることとなった。
私のときは救援連絡センターがないときだったから、実際に私は困った。ようやく新橋の杉本弁護士の名前を思い出して連絡が取れた。弁護士名を聞くまで何も動かなかった刑事が動き出したのには驚いた。
救援連絡センターの電話は有名な語呂合わせで「獄入り意味多い」の03-3591-1301。
救援連絡センター東京都港区新橋2-8-16 石田ビル5階
TEL: 03-3591-1301 / FAX: 03-3591-3583
E-Mail: kyuen@livedoor.com

ベストセラーの「救援ノート」は(A5版128頁 500円) 送料:1冊92円 他に「救援」月刊紙有り。
 郵便振替口座00100-3-105440「救援連絡センター」

■ MD

MDは医学用語でも多用されているが、この場合は東京医科歯科大学のことである。略して医歯大ともいうが、3・10東京空襲で被災し、戦後すぐには御茶ノ水から医科歯科を望むと、背後に東大安田講堂が見えたそうだ。その頃は西郷さんの像が建つ上野公園から東を見渡すと医科歯科教養や日本医大進学課程のある国府台が焼け野原の向こうにこれも見えていたという。
医科歯科は『御茶ノ水大学』といってよい神田カルチェ・ラタンの一角を占有する交通至便の戦略立地で、入試二期校であり東大のように『植民地』ジッツを持たず、意識は先鋭化する。医学連では度々書記局校(医学新発行所)としての重責を果たした。
1968年、東大と時を同じくして研修協約闘争に突入するが医科歯科は東大闘争の督戦隊の役割を医学連レベルで果たしたと思う。前年、玉砕した日本医大の研修協約闘争と東大を文京区の南北でサンドイッチにして締め上げていく形であったと思う。日本医大の敗北は来るべき東大闘争へ向けた革命的敗北(犠牲安打)として捉えれば納得がいく(総括できる)。
歯学部があったとはいえ医系単科の小さな身体の医歯大であったが、医科歯科大は多くの活動家を生み出し、日常的なクラブ活動も、社研や社医研、ソビエト医学研、エス研(エスペラント)、吉本隆明に一時染まった新聞会、自治会でもイ委員会、革マルが拠点とした学館委員会、教養の全寮連に加盟する寮委員会などが整備されていた。60年代にはべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)、70年代には在日韓国政治犯・白玉光氏救援運動と多彩であった。セクトも社学同、革マル、民青などとわずかな学生数でよくフラクションを維持出来たものと思う。民青だった二木君は学者になっていい仕事をしている。ボート部でいえば全日本やオリンピック代表戦に肉薄する彼らの強さの秘訣は合宿前に合宿費を稼ぐ合宿をして密集力を高めてくることだった。関東―関西中軸の医学連運動の中で関東の要は医科歯科だったのだ(関西は京府・阪市大それから岡大か)。詳述したいが、MD関連の私のファイルは美味しかったのか白蟻に食われて何も無い。わずかに医歯大学生新聞縮刷版(1947〜1978)に全貌を観ることができる。

    その医歯大新聞再刊号に日本医科大学学生新聞会からの祝文『何よりの朗報』を私が書いているのを発見した。(1975年6月1日刊・第178号)。
    「再建された医歯大新聞に心から喜びの声をお届けします。戦後25年間にわたって貴校教養部と日本医大進学課程は国府台の天皇制軍隊が解体された兵舎跡で、軒を接しともに学び、隊伍を組んで米日帝国主義と闘ってきました。
    残念ながら1970年、安保闘争への学校当局の弾圧によって、我が医進は新丸子へ移され、貴校の戦後学生運動史に残る戦いに学ぶことも出来なくなりました。
    しかし、医学部に於いては今も同じ文京区にあり、それぞれ東大の南北に位置し、69年東大闘争の爆発への起爆剤として、愉快な作業に着手した事も忘れてはならない両校の友情です。
    この度貴校に久しぶりに学生新聞会が再建されたわけですが、日医―東大ーMD枢軸とMD・中大・日大・明大カルチェラタンを柄杓の柄と杓として星図化し、その要として縦横無尽に筆を進めていただきたい。
☆ 医学生運動の『御三家』としての名を不動のものとして、うちかためよ!
☆ 里見八犬伝伝説の地、国府台からお茶の水へ、全国へ、紙の弾丸として飛び散れ!

日本医大医進もそうだったが、医科歯科教養は陸軍野戦砲兵連隊の跡地にあったので、軍馬がいたことから破傷風になったサッカー部員が1960年代に亡くなっている。また、戦後に祖国の動乱で引き揚げられなかった朝鮮人の劣悪な環境下の部落が1960年代まで大学構内にあり、栄養不良の医学生は毎夏、伝染病に悩まされていた。


■ 日医大

日本医科大学の学生運動は如何でしたかと聞かれると、同窓など、人によっては「私立医大では優勝です」と答えます。運動部のノリでいえば活発だったという点での評価です。
1950年代の日共→反戦学同→社学同から60年安保に力を出し切り1960年にマル学同中核派に流れながら学生運動は衰退しています。日大と同じ日本会の総調和運動を推進する事務総長により戦う自治会に対して、ロッカーの付与などの餌で御用学友会をデッチ上げられ、最後は数名がモルタル木造の学生会館の庇の上からアジ演説をして果てたように聞いています。中核派のオルグは1965年当時も続けられ、先輩が国府台寮に届ける「前進」は読んでいましたし、中核の陶山健一(岸本健一)をチューターに呼んでいるからというので、卒業された多摩の先輩宅に伺ったことがありました。勉強会に資料を風呂敷包みに入れて現れた陶山氏を迎えた場には細胞会議そのものの雰囲気が残っていたのではないでしょうか。
日医大学生運動史上の大金星は砂川闘争にあります。1957年7月8日に検挙された江田君(故人)の裁判が、安保条約違憲判決を引き出したことです。
砂川事件無罪判決は「合衆国軍隊の駐留は憲法第9条第2項前段に違反し許すべかざるものであり、従って刑事特別法第2条の規定は憲法第31条に違反とし、刑事特別法事件で安保条約を違憲とする画期的な伊達判決だったのです。
1967年の研修協約闘争は学内中間層の大幅な動揺を巻き起こせぬままに終わりましたが、国大協らへの幻想を捨てさせる意味では東大闘争への後押しになりました。
医学連に社学同が再建されていく中で、日医大は再び1968年第二次ブントに入っていきます。独逸語の大宮司先生がセクトはどこだと聞くので答えると「おう、ブントッ」と叫んでいました。ナチの時代、帰る機会を失い居残っていたドイツは「広場にはハーケン・クロイッツが埋め込まれていて踏んではいけなかった」と話されていました。奥方が医師で、ワーゲン社のカルマンギアに乗って来るダンデイな教官でした。
1969年、安保ー学館闘争の日医進学課程に東大学生時代が60年ブントの柄谷行人先生が英語教師として赴任してきて、そのあおりでしょう「常民」グループが形成されかかったのですが浮上できず、学友会執行部は当局とボス交をしているというビラ一枚を残しただけに終わりました。柄谷行人先生は漱石研究で世に出た方でしたから、現在の同窓会館が夏目漱石邸宅跡地の日医を就職先に選ばれたのでしょうか。福島原発爆発事故を契機に50年ぶりにデモをしたとかいう話をなさっているのはよろしいのですが、40年前に日本医大学生ストに中途半端にかかわらなければ尚、よかったと思うのです。
蛇足ですが、革マルのクロカンこと黒田寛一の父、要(かなめ・1903年生)は日本医大の卒業生、裕福な開業医で在学時に学生運動で処分を受けています。


■ 日大

日大は戦後期の学生運動に浮かんでいた。20年後のインターン闘争、他校が軒並み拒否する中で医師国試を全員で受け他校の教授連から冷やかされかえって教授が困惑したという昭和医大もそうだったのだが、学生運動の過去があったからこそ、日大では弾圧が苛烈であったと思う。
戦後の最初期に日大の名前は医学生年史1945.10.11そして1945.11.13に出て来るからみていただきたい。
1963年から本格的に再開されたインターン闘争時には、医学連から見た日大は『外様』大学で、民青との対決時に一票を頂くシンパ大学だった。日大−東大闘争の過程では民青の医自連に一時オルグられかけたが、自らの闘争の中で1968年の秋、すぐに医学連側に復帰した。
発展段階で未分化なまま全員参加でデモに来た日大と経験をつんだ他私立大学との軋轢は医学生年史の1966.4.28をご覧ください。
私は1968年の秋、バリスト中の日大経済学部に自分の所属フラクの確認を経ないで、ふらりと訪ねた。入り口で趣旨を話すと、手が足りないから存分にオルグしてくれと上の階の教室へ通された。一通り話し終えると、長い鉄棒を抱え込んだ学生が「貴方は全学連か」と眼を剥くのです。他校へのクラス・オルグ入りは得意でしたから、アレルギーを示す学生への対応には何もあわてません。唯一つ、違ったのは右翼暴力団「関東軍」とのゲバを勝利的に展開している日大学生からの全学連への反共アレルギーでした。自分の今やっていることの意味を分かっているのかという驚きです。クラス会、自治会を基礎に永年に亘り組み上げてきた学生運動と異質なものがありました。
医学連で連帯した事例には、日大医学部は無論のことですが、福島医大全共闘の日大郡山工闘委への関連論文があります。

【日大郡山工闘委との共闘はなぜ必要か】日大工学部においては、学部長自らがヘルメットをかぶり、体育会系右翼を指導しての弾圧と、警察による大量起訴などにより、今は沈黙させられている。しかし、原因はこれだけであろうか。否である。日大郡山闘争は、新産業指定都市である郡山において起こったものである、という事を述べなければならない。
それは、日大工学部が今では、進展する工業化に対して、中級技師を大量に送り出す「場」となっており、それが長期の無期バリストにより、機能停止→卒業生の送り出し停止→技師不足→小郡山の工業化のピンチに進展し、初めて権力が介入したのである。
従って、警察、当局、右翼学生、大企業会社が全て日大闘争圧殺に動いているのである。いわゆる郡山日大闘争は、その意味では正に総資本との戦い(政治闘争)と言えよう。なんと闘争の本質が福島県立医大と似通ってきたことか。
今や、福島医大も貴家退官を契機として、明確に総資本との戦い(政治闘争)を決意せざるを得ないところに来ていると断言できよう。この意味において、日大工闘委との共闘は、絶対必要であり、佐藤政府の要請による木村知事の地域開発構想に全面的に対決してゆく姿勢を確立せねばならないだろう。(1969.11.11 全日本医学生新聞67号)

日大に何故恐怖政治がひかれたのか、それは敗戦後いち早く学生の高まりがあり、60年安保にはブント幹部に活動家がいて、完封されていたと信じられていた日大には実は三桁の学生が安保闘争に参加をしていたという歴史性に由来するものだったと思います。  (医学生史1945.10.11 1945.11.13参照)


■ 東大

東大は過分な研究予算を受け取れる立派な大学だからどうなんだというと、政治スト指導者には退学処分が待っていた。だがその後のフォローが『右も左もわが東大』で再度取り込み、退学させた人材も復学させえるキャパがある。
隣接単科の医科歯科では、素敵だった医学連委員長の山下浩さんはお前だけは許さんと追放されたが、東大なら復学させたことだろう。参院議長を務める江田さんもそうした復学組だ。安田講堂防衛隊長を務め、国政に出た故・今井澄さんなどは二度復学している。入所前、諏訪のアパートに信州での合宿帰りに泊めていただき、後に全断連九州大会でも壇上でお会いした。
● 江田 五月 2003/07/25 「今井澄さんを偲ぶ」
 http://www.eda-jp.com/satsuki/2003/imai-0307.html
 http://www.eda-jp.com/satsuki/651121.html
江田さんの親友で、横路孝弘さんは衆議員議長を務めているが1970年代の防衛医大設置阻止と細菌戦犯追及闘争では医科歯科で学ぶお兄さんを通じて国会図書館利用で便宜を図っていただいた。1983年、衆院議員を辞職し、同年4月の北海道知事選挙に周囲から推される形で出馬する。元日本大学全学共闘会議書記長の田村正敏さん(故人)が勝手連で活躍した。東大医共闘の時代を過ごした一人に社民党を2012.11.15に離党した阿部知子衆院議員がいる。日大全共闘と東大全共闘では『戦後』の生業に多くの差異が出てくることから、「東大は逃げた」との酷評があるが、私はむしろ『東大生にしては良くやった』と思う。クラス会活動者の多さ、人口比でいうと圧倒的に東大医は闘争参加者が多い。
東大闘争後も東大南端にある医学部での深夜に及ぶ医学連などの会議を終えると、5,6人早足で東大を横断北上して帰校した。農学部へ陸橋を渡り地震研前の正門を出て、俳優になった京塚昌子さんの実家である豆腐屋を過ぎればそこはもう日本医大だった。
途中で立て看にけりを入れたのはなにも民青の立て看板だったからではなく、もやもやしたものがあったからなのだろう。(2012.12.16記)


■ 東医

日本医大学生が大正5年(1916)5月、学校側と対立し、血判状を持ってスト入り、約450名が同盟退学したことをきっかけに、理想とする学問の場を自分たちの手で実現させようと新校設立運動を開始し、東京医大を創って行く。http://www.tokyo-med.ac.jp/info/kengaku06.pdf
日医は経営困難に見舞われるがその恨みつらみは在学中には聞いた事がない。むしろ、前身の済世学舎へのこだわりが多かったようだ。だから学是の「克己殉公」は聞いても『済世救民』や、済世学舎出身の野口英世を顕彰しようなどとの話は聞いたこともない。野口は親のDVを受けたACで評価は難しいが、千円札に肖像が出た2004年(平成16年)頃になると見知った方々も亡くなり、大学の刷り物に野口の写真が使われるようになった。
私は医師になった夢を見たことはないが、試験官を振る野口の写真のように研究室にいる場面を夢の中でみて、自分にもそのような想いがあったのか、不思議な気持ちだ。
でも私は科学者ではなく職人の方だと思う。
東医の方は、半世紀を経たインターン闘争時には、『われわれはやったもんだが学生諸君はしてはいけない』という教授会のスタンスで、学生側もむしろ、医学連のイ闘争に懐疑的で醒めていた。
その東医は日医が安保闘争敗北でしょぼくれている時期を武闘派でかけ抜けていった。
1966〜68年頃には医学連に赤ヘル部隊を供給していた。通りから見ると2階の学友会室には赤ヘルがずらりとぶら下がっていて、新撰組かなんかの屯所のようだった。
実際、デモに出かけるとき練習をしているラグビー部から『勝ってこいよ』とエールが飛ぶと、『オー』と余り左翼的ではない雰囲気だったので、私は「緋牡丹ブント」といっていた。その中心的人物の藤生文平君は角膜移植後に劇症肝炎を起こして今はいない。佃で江戸っ子の斉藤さんは偶然医科歯科の芝生で昼寝をしていて、私が捕まったことを医学連に通報してくれた。
イ闘争時のFさんは郷里の医師会面々が居並ぶ結婚式場で家族帝国主義打倒を叫んで終わったと聞いている。闘争の歴史が薄いとき、「左に飛んで右に転ぶ」下手は生まれがち、伝統の強弱は学生運動が影を潜めても、伝統があるところはやはり強いと思う。1970年に入り、反革マル・反三派で学友会委員長に当選した永井 明君(1947年12月10日〜2004年7月7日)は医療ジャーナリストとして活躍、多数の著作がある。

東医の戦略的立地は女子医と慶応の中間に位置し、新宿へ出やすいところにあった。ついでに言うと、慶応医と慈恵医大の中間には防衛庁があり、医科歯科と日医の間には東大があった。
私は東医の隣にある厚生年金会館のそば、花園町に住まいを移したことがあった。花園町は医学連が出版物を卸していた摸索舎にも、新宿紀伊国屋にも近くて丸の内線沿線で便利な場所にあった。1971年には赤軍派救対のモップル舎が町内に越してきたようだ。

東京医大で特記できるのはまず戦後最初期、学生で浮浪者収容所長であった野口章君、発疹チフスに感染して母校の東京医専附属病院で死亡。(医学生史参照1946年4月3日)。
翌年には生活苦の為、山田誠也君が『宝石』の短編懸賞に応募した『達磨峠の事件』が入選。作家名山田風太郎でデビュー。
ベトナム解放戦争時の戦場カメラマン岡村昭彦氏も東医中退で山村工作隊組。1951年、日本共産党の第5回全国協議会(五全協)の決定で農村部での非公然の武装宣伝隊に従事し、北海道道東の診療所で、無資格医療行為を行ったとされ警察に逮捕される。まったくなすすべもなかったとされる山村工作隊だが、巡回診療などでは成果を収めたようだ。


■ 富士見産婦人科病院事件被害者と医学生の交流

● 京大 1980.11.11 京都大学医学部入門講座で体験談を話す。
● 東大 1980.12.5 東大病院で富士見産婦人科病院被害者の人たちを囲んで。
● 神戸大 1981.1.21 医学入門講座で体験を話す。
● 医科歯科 1980.1.26 東京医科歯科大で体験を話す。
● 鳥取大 1981.4.8〜9 鳥取大医学生が来訪。
● 鳥取大 1981.4.24〜25 鳥取大との交流会に参加(鳥取大学)
● 医科歯科大 1981.5.30 東京医科歯科大医学生と交流。
● 京大 1982.12.7 京都大学医学部入門講座で発言。
● 東大 1983.6.24 東大医学部自治会と懇談会。
● 鳥取大 1983.8.24 鳥取大医学生と交流(所沢)。
● 鳥取大 1983.11.6 鳥取大医学部シンポジウムに出席。
● 東大 1983.11.7 東大医学部「医療問題研究会」に出席。
● 京大 1987.1.27 京都大学医学部入門講座に出席。
● 順天堂 1988.7.3 順天堂大学「医学生を囲んで被害実体を語る」
● 岡大 1989.3.28 中国・四国地方医学生「医療研究集会」で富士見病院事件を発表。
● 日本医大 1989.10.22富士見病院事件を報告。
● 医療を考える学生の集い1991.5.12に参加。


■ 私の武闘

私はトルストイの「戦争と平和」で、ボロディノ会戦を祖国の小高い丘で、他国の観戦武官に混じって戦争の実態を目の当たりにし、ナポレオンの残虐さを知り、崇拝をやめたピエール・ベズーホフの存在のように武闘にも、そして医者にも向いていない。
1966年、医学連から指名されて500名ほどの挺団指揮を任されたとき、国会横での座り込みには成功したが、警官に両手を捕まれて50メートルも連行され路上で釈放、置いてきぼりにされてしまったのがさえない唯一の「武闘」だ。折角下着も着替えてきたというのに。
そういえば、70年半ば、三里塚の駒井野決戦のときだったか、野戦病院の担架係りをしていて、機動隊が横隊で突撃してくる中で捕まってテロられている学生を見つけ、救出に機動隊に向かって二人して走って行ったことがある。逃げる学生を追っているときに走って向かってくる学生を想定していなかったのか、スポッと隊列の中を走りぬけ、数人でボコッている機動隊員に「こちらによこせ」と談判して救出した。メットに十字を入れて同じくゼッケンをつけただけなのだが、戦闘員ではないというスタイルで強引に割って入ったわけだ。機動隊員は部隊を追って走り去って、顔面血だらけな学生を担架に載せて野次馬のいる後方の茂みまで運んだ。寝かせてからはおおよそ医療技術がなければなにもできず、無力感が襲ってくるだけだった。
このとき学んだのは日赤のRed Crossの意味だ。ゼッケンとヘル、野戦病院のポールの旗に、日本赤十字社(Japanese Red Cross Society)からクレームが来て、そのままでは使用が出来ないというふうなものだったと思う。以後、十字に一本添え木を描いていたように記憶している。なんだかドイツ軍戦闘機などの標識に似ていた。確認しえたのは日赤とは国家赤十字社のことだということだ。
武闘の話しをもう一つ、民青の『医自連』でっち上げに抗議して1970年12月13日 医学連70名が非武装で東大医本館へ抗議にむかったところ、民青は都学連ゲバ隊を導入し医学連に殴りかかり、投石するなど暴力を振るう事件があった。遠巻きで見ていると乱闘をしている本館前の植え込みで、温和なF君が殴られている。彼はついてきただけの同級生だった。このときばかりは知らぬ顔も出来ないので、殴っている男からF君を救出し、また教育学部建物下の遠巻きで見物の輪が出来ている場所で、本来業務の取材に戻った。翌日の赤旗に男の鼓膜が破れたと書いてあったからそのときの男なら気の毒をした。
肝心の民青『医自連』結成は呼びかけ校の13校にも満たない10校で結成を強行、破産をした。


■ ビラ

ビラは斜めにほぐし、奪い取られないように片腕の中に巻き込む様に持ち、指サックをはめた利き腕で一枚づつころあいを見計らって足を踏み出すとともに差し出し、受け取りを誘発する。
利き腕と同じ側の足は右左と動かし両側の通行人をとらえ、後方の軸足は配布作業を確保する。遠方から接近する通行人の目を見てロックオンすれば、近い人に手渡しながら接近を待ち、もう一度目をみて手を差し伸べれば、受け取ること間違いなし。

通常、3人か4人に一人が受け取るが、丁寧に言葉をかけながら配ることのほうが大切で、折角受け取ってもらっても捨てられるのでは意味が無い。
こうして配っても御茶ノ水駅頭なら、近くにある全電通会館の集会などに来てくれる方は千人に一人と言われていた。かなり欲目で数えたとしてもだ。

連れ合いには1970年、お茶の水の橋の上で声をかけ今日に至るのだから、私はビラ配りは大事だよと、語っている。映画ならヴィヴィアン・リーとロバート・テイラーの「哀愁」に出てくるような隣のニコライ堂につながる聖橋のほうがロマンチックだが、人通りの多く丸の内線から乗り換えるお茶の水橋の袂がビラ配りには適していた。

研修協約闘争が敗北に終わったとき、医進の図書室内蔵書に残ったチラシを数百枚、織り込んだ。時々、そのようなチラシが眼に入る後輩がいるものと思う。


■ べ平連

60年代にはベトナム戦争の激化に対して、文化人の呼びかけるべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)が各地に自然発生的に出来上がっていった。大学の中にも多く作られ、デモの外周にいた市民や学生を拾い上げていた。
1965年には川上武先生の名も世話人の中にみられる。新医協ではあるが農村医学の若月俊一先生と並んで柔軟な方だと思っている。川上先生は1971年に私が編纂した「醫學聯史」も早速手に入れられていた様子だ。
医学部にもべ平連はボツボツ出来て、1968〜69年頃には医科歯科、東京医大、慶応医学部、日医などにべ平連で活動する医学生の姿が見られ学生運動の消長とほぼ同じ軌跡を辿った。日医のべ平連氏はその後、国際勝共連合=統一教会に入った。何事もゆれる時代だった。


■ 血判状

鹿児島大学第三内科の納光弘教授が学生への最終講義で九大闘争を語っている文章がある。九大から来て鹿児島大で研修したとき、クラスで血判を捺して国試ボイコットを誓い合ったというから驚きだ。血判状は大正5年5月の日本医大学生スト以来ではなかろうか。

1967年『当時、鹿児島大学で研修していた我々に、東大41年卒の斉藤芳雄君がオルグに来て、一晩飲みながら話を聞き、そして、31人の研修医の全員の心に火が付いたのであった。その後、全員が血判書を押して闘いを誓い合い、全国のインターン生に向けて、「我々鹿児島大学のインターン生は、明治100年を記念して、桜島の燃ゆる心で闘いぬくので、諸君らも立ち上がれ」の檄文を送ったのであった。この檄文が、全国の運動に、まぎれもなき加速剤となったのであった。結局3000人のインターン生全員が1人のもれなく医師国家試験ボイコットに参加し(当時はインターン1年終了後医師国家試験を受ける制度であった)、我々の運動は最終的には「インターン制度完全廃止」を勝ち取ることに成功したが、しかしながら、運動に参加した人間達はその後大学の管理支配体制から激しい締め付けに会い、私を含め、殆どのものが大学を後にし、「いい医療を実践する」という心の火だけを守りながら、今日を迎えているのである。したがって、経歴に医学部41年卒または42〜44年卒とあれば、初めての出会いでも、共に闘った同志としてすぐに旧知の友の関係になるのである。』 http://www5f.biglobe.ne.jp/~osame/
血盟であったとは、いったい斉藤芳雄先生はどんなオルグをしたのだろうか。

鹿児島大は民青と決め付けていたのだが、イ闘争の奥は深いものだ。
私が知る鹿大の話は、医学部に革マルを殴っている元気な在日青年がいるということなので、貴兄にはもっと大事な人生があるのではと民青より祖国の統一に貢献をしたらとおせっかいな手紙を出したことがあった。彼を卒業後に訪ねると在日の診療所でしっかりと医療をしていたのだった。


■ 民青諸君

3年の浪人生活の後に入学した1965年当時、もし私が入った大学が民青フラクであったとしたら、私のもつ平和と民主主義意識では自然、民青をも受け入れられたと思う。戦争で父親がいない家庭はクラスに2、3はあったからそれは至極自然だった。
比較的ノル方だったから、共産党に入党という場面も無かったことではないと思う。
民青ならバランス感覚も保たれて卒後に展望らしきものを持ち医師になっていた可能性が強い。
だが、その後の展開を見るに学生時に党学対の官僚主義に嫌気が差して離党という選択はありえる。それでも民医連にはとどまり、若い医師になんだかんだといいながらも年をとったことだろう。
つまり、医学部を追い出されるに至った現実の選択とそんなに変わりは無い。
実際には民青のいない学び舎だったから、学友の広範な要求にも応え、諸要求は無論こなして、非和解的対立まで行き着く中で、医学連に世の中を見せていただいたということにおいては、民青ではとうてい物足りなく、いい経験をさせていただいた。
医学連の指導部は優秀で、困難な中でよくインターン制度廃止にまで追い込んだものと思うし、それを安易に勝利総括とせずにより困難な課題に挑戦し、全国学園闘争の端緒を切り開いたことは、評価できると思う。民青が一度も医学連でヘゲモニーを取れずたまりかねて1967年7月16日 民青全学連大会後、全学連医学生連絡会議(全医連)第3回全国大会で「何故に医学連を民主化出来ないか」のテーマで討論をされたことがあった。その回答は民青諸君がまず彼ら自身と党を民主化すべき問題であったと私は言う。本来の民主の姿と、肌触れ合うところの民青の姿は同じ像を結び得ないものであったからだ。
民青が名の通りに民主的な存在でなかったと私が思うわけは東大内部で医学部闘争の共同の戦いに取り組む姿勢が窺われなかったこと、この8月の「全学連」決議とはいえ9月の暴力部隊編成が党主導によるものであり、東大への外部戦略部隊の投入は何ら、東大生にことわりをいれたものではなかったからだ。だから完全武装で現れたとき、東大生に説明がつかぬ有様で「強いが脆い」孤立した暁部隊ならぬ闇部隊の大量投与となってしまった。
多くの東大生が歓迎に出迎えるのではなく、夜間にもかかわらず500名ほどが抗議に押しかけ密集した部隊は投石の的にされてしまった。  (医学生史1968.9.7参照)

1968年夏、民青全学連大会での戦闘的民主的学生運動なる、つまりは暴力での東大闘争など全国学園闘争解体作業は9月新学期、初っ端の7〜8日の医学連大会にまず向けられた。
それまでの広範な学友の力でトロッキストを包囲し、孤立化させる方針が破綻し、民主的暴力を方針化したものだった。たちまち医学連大会が深夜続行されている安田講堂の見える東大病院に陣取った民青部隊は素手の東大生達に糾弾され、逆上して安田講堂前芝生のテント村学生などに暴力を振るうに至った。
それはまあいい、1972年の党内新日和見主義者パージで1968年から戦闘的民主的に戦った諸君を自己解体した後は、戦う学友に対して裁判所への告訴告発路線に転じたからだ。力の要らない合理的な戦術だが多くの学友の不信をかい、民青の評判は地に堕ちていった。

生身の医学部民青を見たのは少数反対派として存在する1965年の医学連大会でであった。
民青諸君はノートを広げてメモを一生懸命にとっていた。それはまるで授業に出席しているかのように見えた。ダイナミックな現実の運動を組み得ない民青諸君の気質であろうか。
今、あのノートはどうなったのだろうかと思う。形式民主主義信奉でどんな些細な瑕疵も見逃さないぞと書き連ねて終わったのであろうか。還暦を過ぎ回顧録や自分史に役立つと思うのだが、医学連のお歴々が沢山の著書を出版しているのに比して、自分を語ることがないようだ。
党の規範に縛られ、指示待ちの政治がそのような作風を呼んでいるのであろうか。
1972年、「民主化」間もない東大闘争後の医学部で突然に民青は脱力して医共闘側が自治会を奪還した。新日和見主義パージの影響であろうが、党による介入は彼らのいう民主化の阻害物として存在したのだと思う。

ひとつ疑問がある。1975年ぐらいだろうか、慶応四谷自治会に呼ばれて医学部自治会室に医学連の説明に行ったとき、民青の学友から『民青は共産党とはまったく関係が無い』といわれた。「国鉄で信濃町から二駅、代々木に共産党本部があるから聞きに行ってきてください。」と答えたのだが、こんな明白なことをなんで隠さなければいけないのだろう。
1961年、高校のときも、民青の書記長がやはり「まったく共産党とは関係ない、自己批判書を要求する」と乗り込んできたことがある。共産党の青年部でないのは分かるが、関係ないといっても、学友はそう受け止めないのが普通で、なぜ無関係といわなければいけないのか、理解できなかった。書いてあるとおり、「日本共産党を相談相手にし、科学的社会主義と日本共産党の綱領、一般的民主的な教養をひろく学び、次代のすぐれたにない手として成長することをめざします。」と堂々といえばいいものを、自らの民主主義を理解しないでどうするのかと思う。


■ 赤旗

赤旗はしんぶん赤旗の今日に至るまで、40年間、読ましていただいている。1965年に文体が「ですます」調になった以後のことで、力強さよりもおすまし顔の文体の赤旗紙だ。
                   ― ですますで 粛清される 医学連
読みはじめが1968年だったから、まだまだ赤旗論調は元気で赤鉛筆を持って、紙面に立ち向かい毎日毎日、沢山の傍線を引いていた。
書き手も多彩だった、全学連の星である川上徹氏の論文もたちまち傍線で真っ赤になった。
宮顕こと共産党の宮本顕治書記長によって「安保条約反対と沖縄返還を目指す、全民主勢力の統一戦線と民主連合政策」が赤旗1970.5.29に掲載された。安保破棄から安保廃棄へと弱められた内容だから1968年当時、東大闘争応援の民青ゲバ隊が聞いたのなら回れ右して鉄拳は党中央に向かうのではないかと70年代初頭に思った。
破棄の場合は少なくとも国会内外での闘争が伴うものであり、廃棄の場合は議会の手続きを経るだけの合法主義的なものと考えられたからだ。
新日和見事件の発生する頃で、気の毒に東大医学部の民青諸君は元気をなくして、自治会は医学連側が奪還した。われわれの側も大変だったから、新日和見主義で中央委員を追い出された川端治、われわれがお呼びした頃のペンネームは山川暁夫(山田昭:本名)さんだったが、能力のある方で随分とお世話になった。医学連からブント色が抜けていく最初の過程だった。医学連は山川さんに差別発言で問いただしたことがあって、疎遠になったことは残念だった。
2000年になりかける頃、郷里で評論家の山川さんをお呼びした際に「君なんてとっくに逃亡していると思っていたよ」と嫌味を言われた。
医学連的な視点で言えば、赤旗は大衆運動に信を置いていなくて盛り上がってくるとつぶしにかかる感じがしていた。
私は赤旗を「明日のことは天気予報しか書いていない」と言ったものだった。70年に入り、闘争への具体的な呼びかけが陰を潜めたからだ。記事の後ろに次回はどこそこでとか、書けばいいのに、読者にはどこに行っていいのか分からない。1960年代までは囲み記事で大集会への参加呼びかけがあったものだが、今では見ることは希だ。原発では具体的な呼びかけが少しは見られるが、聞けば市役所前集会などと書かないのはスパイが来るからだという。今の赤旗ではスパイしか集会場所を知らないのではと言いたくなる。先のですます調は一見柔らかいが啓蒙的で時として、上から目線が強く感じられる。赤旗紙内でもスポーツ記事が「である調」であるから社会記事も迫力の必要なものは力強さが感じられる「である調」が良いと思う。もっとも最近ではスポーツ欄も、ですます調に統一されて来ている様子だ。
題字にしても、漫画のような「しんぶん赤旗」はなんとかならないか、書家に毛沢東の揮毫による中国共産党機関紙『人民日報』のような風格のある字を書いてもらってはどうだろうかと思いつつ、40年余り毎日拝見している。


■ 共産党

東大闘争時に党の中央委員で学対だった広谷俊二さんに1977年、ある出版社でお会いしたことがある。
当時私は大学を引き払い、ルポライター家業をしていたからで、今でも月刊『文春」の作ってくれた名刺などが机の引き出しにある。
広谷さんに「週刊新潮に連載するのはまずいですよ」と申し上げると『書かせてもらえるところがないんだよ』と寂しそうだった。広谷さんは青木新書から『現代日本の学生運動』を1966年に出版しているが、党の方は除名でしたから本の方も廃刊になったんだろう。

共産党にとっては学生運動は難物で2003年に中央委員会が発刊した『日本共産党の八十年』にも戦後期のことには全く触れられていない、例えば京大の荒神橋事件や京大事件と名がつく評価は定まらず、うっかり書けないもののようだ。
しかし、学生運動は戦後、日本共産党と切り離しては語れない。比較的気ままにきたとも思える医学生運動だって、同じことが言える。
共産党が学生運動を主導していると評価されていたともいえるし、そのような自負心を活動家の誰もが持っていたようだ。
医学連が共産党と袂を分かつのは、60年安保闘争を控えて、多くの医学生党員が党を離れたからだ。


■ 暴力

運動に於ける暴力を垣間見たのは、1958年、文部省が小中高の先生方に課そうとした勤務評定に対する日教組の勤評闘争のときでした。
学校へ首から腕をつった包帯をしてきた先生に暴力を象徴的に感じとって嫌悪を感じたのです。事実は官憲による弾圧だったのですが、実物教育で先生方の暴力に写ったのです。ではまったく先生方に暴力的な抵抗が無かったかといえば今では、相当に正当防衛の戦いが組まれたと思うのです。

次に出合ったのは、そのような左派の運動に対して、真っ向から挑んだときです。
高生連'(高知県高等学校生徒会連合)の勤評-安保の戦いに立ちふさがったときは、通っていたのが高知県立小津高等学校で高生連書記局校だったのですが、非行が横行していて、その非行生を取り込んだ腐敗が左派にあり、そこを大きくついたのでした。その折に受けた恫喝の一つはこれです。

   G君の手記(抄)「これは僕の体験した悪夢のような、忘れる事の出来ないでき事である。
      その総会の議題は『学力テストについて』で、生連の指示により過激な執行部が原案を出したものだった。僕は執行部の『学力テスト絶対反対』という原案に強く反対し、学力テストは必要である、という僕の意見をのべた。その直後執行委員の1人に、三年生のNさんといっしょに呼び出され、『俺たちにたてつくとサスぞ』と脅迫された。僕は勇気のある人間でもなければ偉人でもない。ただそこらあたりにいくらでもいる平凡な人間である。だからその日の午後は何も発言せず沈黙していた。やがて総会場にはいたたまれなくなって庭に出た。涙がこみ上げてきたからである。暴力に屈するということは、なんとつらいことだろう。考えれば考えるほど悔しく、同時に大きな疑問がわきあがってくる。なぜ僕たちの意見を封じるのだろう。高遠な政治問題を論ずる彼らの生徒会室に、タバコの煙が充満しているのはなぜだろうか。このときのくやしさ、情けなさを私は忘れない…。」 1960
              「高校生活の眼―ある生徒会長の手記」文教書院 1963.6.5

おかげさまで、高等学校で体験済みでしたから大学生活でのセクトの恫喝やらにはストレスも無く暮らせました。高校で直面したのは民青が非行生を抑え切れなかったケースですが、逆に大学でも規律が保たれていないとやたら暴力にはしる全共闘もあったようです。私は高校正常化・安保賛成でしたから高等学校と大学では攻守を変えます。インターン闘争がメインで行われている大学での学生運動は誰でも入っていきやすいテーマでしたからね。
その大学でですが、日本医大では私の在学時代、学友に対する学内での直接暴力は一度もありませんでした。みたことも聞いたこともふるったこともありません。東大闘争の終盤で医共闘諸君が授業に出たとき、クラス民青の黙認で右翼秩序派が学友を殴ったのを聞いて、医学連の誰もが憤慨しましたね。民青を許さんという気持ちを強く抱きましたから、殴るということへの容認は彼らの運動に強さをもたらさなかったのです。

日本医大は医学連書記局校としては医科歯科、東大についで長く勤め上げましたが、無秩序な暴力はふるった覚えが無いのです。民青諸君は口を開ければ我々を『暴力集団だ』『トロツキスト』だと口汚くののしって恥じなかったのですが、今でもこの点は許せないと思っています。


■ お金

入学した頃は、共産党系の医師は随分党にカンパをしているという話が伝わってくる頃でした。ボーナスを全部持っていかれたとか、献身的カンパのあちらのほうが正しいんじゃないかとか言っていたのは、前衛神話が生き残っている最後の頃だったからでしょう。インテリは党にコンプレックスを持っているとかは、もう余り理解できる方も少なくなっているんではないでしょうか。
一方、私は学生運動で領収証を貰う癖をつけました。お金は湧いてくるものではないことは知っているつもりだったのですが、郷里に帰って家業の病院での実感は私の感覚は普通よりも2倍ほど、ゆるかったということです。
医学生運動ではお金はなんとか工面をつけていました。60年安保時の田中清玄のような人物はこのレベルでは登場しようもなかったと思います。闘争時には、心配したいろんな親が置いていくお金はありました。親にしてみれば身代金の代わりだったのかもしれませんね。処分が出たとき、私は「大丈夫ですよ、貴方の息子さんはきっと立派なお医者さんになります」と言って帰ってもらっていました。
上京してきた親御さんは安心して帰っていくのですが、1977年、最後に言ってから二ヵ月後に私は大学を離れたのです。誰も道連れにはしなかったので、学生運動では留年以外恨まれることはなかったでしょうかね。
当時の医学生が金に詰まっていたかというと、運動が盛り上がった1968年当時の東大医学部生の家庭教師料が飯付き一回2000円ぐらいでしたから月の授業料が1000円と安かったのでやっていけます。教えた子が現役で通りますと自動車がボーナスに出たという噂も聞いたことがあります。トヨタカローラで息子の1年間を買えればお釣りがくるでしょうからね。
日本医大で年額15万円(准看初任給の年額くらい)でしたから、私学ではきついバイトでもぎりぎりでした。今は開業医の脛も細っていますから親の収入からの息子への再生産・医業伝承は難しくなって来ていますね。
官立にはとても貧乏な医学生もたまにいましたが、1980年頃には慶応と東大医学部の親の出身階層が同じになります。逆差別論が盛んですが、とは言っても努力だけで届かない時代の到来です。

インターン制度時代の青年医師運動にしても曖昧な身分のアルバイトをするのですから、厳密には医師法違反もあったと思いますが、スト対策で恫喝の種に使われるぐらいで司直の手は伸びてきません。ですから、卒後研修協約闘争(世に言うインターン闘争)は経済的な追い詰められたストではなく、身分や制度に異議有りという申し出の側面が強かったと思います。
医師や医学生の間にバイト斡旋業や国家試験対策集を販売する者が現れたのもインターン闘争の末期です。
やはり本当に食えなかったのは、医学生も戦後直下の飯を食えずに下宿屋でゴロゴロしていた頃です。敗戦で外地の親から仕送りが止まり、在外父兄救出学生同盟(通称・学生同盟)が出来たのは食えない現実からで、避難所は飯にありつける現場でもあり医学生は医務班で活躍しました。
この運動は自分の問題から止揚すべきだということで名称も変わって在外同胞救出学生同盟になっていきますが、これが直接の動機となり、引き揚げ業務が2年余りで大方片付いたこともあり、最大時全国学友の加盟18000人を超した運動は急速に終息して仕舞います。
大方の医学生が接した兵士や引揚者には共産主義思想を教育された方も多く、戸惑いもそれゆえの分解もあったのでしょう。
ただ、大学の垣根を取っ払った運動になったこと、経済的に追い詰められたところから始まった全国運動の経験は、やがてくるZENGAKURENへの大きな肥やしになったことのようです。


■ 安田講堂第一次占拠

財閥の名をいただく安田講堂は東大の心臓部であり、国大協の総本山でもあった。1968年、東大医学部のストは長期にわたるも、民青支配の東大七者協は医学部研修協約闘争に極めて冷淡で立ち腐れも一向に意に介さない様子だった。大蛇はずるずると眼前を三四郎池から安田講堂に逃げ込んで行く、それを歯噛みしながら見送っていくしかない、まさに三四郎「長蛇を逸す」という局面だった。
インターン闘争の我慢強い戦いは、粘りに粘って20年になろうとしていた。米占領軍に直訴したら占領政策違反と恫喝され、これがどれほどの恐怖だったかは今日では容易に推し量ることが出来ない。占領軍の押し付けを言うならば日本国憲法ではなくインターン制度であろう。
前夜、連携しながら同じ研協闘争を戦っている隣校の医歯大と東大、そして臨席していた関東私学の面々は医科歯科の研修医ルームで東大闘争の局面打開策を、夜を徹して語り合った。(1968.6.14〜15)
矛盾の多い学生生活を送る関東の私立医大生はいきり立っていた。当の東大でクラス決議では否決されていたが『平和と民主主義』意識の残る私も不思議にやるべしと感じ取っていた。
                    (この占拠闘争の裁判記録はまだ拝見しえていない)
早暁、医科歯科を出た一団は一足早く出た東大医全学闘を追っかけるように医学連の部隊が小走りで本郷署の脇をすり抜け、龍岡門から御殿下グラウンドを経て講堂脇の坂を駆け上がり、転がっていた木製の電柱を一本拾って安田講堂の正門に立った。正門に丸太を2、3度ぶつけると開け放たれた。窓からでも入れたはずだが、これは学生運動にみられる正門主義である。
ここから講堂に突入し、階下の職員を「危ないですから出て行ってください」と追い出しにかかったが、逃げずに見上げているので、東京医大の故・藤生文平医学連書記長が追い出してしまった。
当医学連史の1967.6.15〜6.17あたりに詳細。


■ 中間層

闘争の帰趨を決める要因の一つのは、中間層である。少しばかり鉄砲を撃ちかけぬと動き出さないのは、関が原の戦い時と変わらない。闘争は外に支援を求める一方、内に各界各層の流動を引き起こすことが戦いには大事なことなのだが、急激な変化についてゆけず、日和見を決められてしまうこともある。
1967年日本医大の研修協約闘争は、理事会による恫喝により協約に調印した教授会が学生・41青医連との間の協約反故にあいスト入りしたものだが、60年安保で学内から意識的な層がパージされていたこともあって、中間の教官層はぺたっと教授側に吸い付いてしまった。

          後輩諸君に告ぐ

諸君が若い情熱に駆られるの余り、急進的な行動をとって一方的に授業を放棄してから、既に二〇日余りを経過するに至ったことは、誠に遺憾に堪えない。
諸君が、事態茲に至った経過について熟慮反省され、早急に授業放棄を中止し、学園の正常状態の回復に努力されることを、茲に諸君の先輩団として強く要望する。
ご承知のように、今回の事態は、インターン問題に端を発したもので、四一年卒研修生より当初提出された七項目の要望に対しては、四月二六日の回答書にもあるとおり、大部分の要望は入れられた状態にあった。しかるに、当初要望の姿勢で出されたものが、研修生・学生を合体した一団として、団体交渉による要求―協約調印という形で一変してきたところに、事態紛糾の因がある。
教育・研究の場である学園において、協約調印などを前提とする団体交渉が、許されうべくもないことは、良識ある諸君ならばよくお解かりと思う。
要望事項に関連する具体的問題の解決については、教授会としても、研修生及び学生諸君に別個に「話し合い」の場を設けることを通告しているではないか。
この旨を充分理解し、一刻も早く授業に参加し、今後は「話し合い」の場を通して、相互理解をたかめ問題のよりよい解決をはかるべきである。これを望んでいる良識ある諸君は、極めて多数あると信ずる。
後輩諸君よ。このあり得可からざる異常事態の解決に、諸君自ら勇気を持って今こそたて。
我々の光輝ある学園を汚すことなく、直ちに「スト中止」に踏み切れ。そして、より建設的な医大学園造りに、さらには医療制度・医育制度の欠陥改善に、挙学一致して当ろうではないか。
前途有為な我々の後輩の中から、徒に犠牲者が出ることを見送るに忍びない。
敢て茲に衷心より忠告する。
    昭和四二年五月一八日
                       日本医科大学 木曜会
                     (本学出身教授・助教授・講師団)
全研修生
全学生   諸君

このような文書を恫喝というのである。「話し合い」とはお願いに過ぎず、研修生と学生を分断して闘争を解体するための文書で父兄宛に各家庭へ発送された。
「教育・研究の場である学園において」と本当は「教育・研究・研修の場である学園において」と書くべきところを研修を抜かしている。そしてこの研修のあり方こそ、問われた闘争であったのだ。41青医連こそ、60年安保時に入学してきたクラスで、同量の分子が入学し、卒業をする医学部の闘争継承性は途絶えがたいものだった。

                 1968年発行の「日本医大同窓会50年」誌に詳細


■ 五郎ちゃん

山下五郎さんは2003年3月14日 高槻日赤病院緩和ケア病棟で亡くなられました。1940年生まれで享年62歳、私よりも4歳年長でしたが惜しい幕切れでした。阪神医療生協勤務が長く阪神医療労働者安全センターで現場の労働者と長い付き合いを果たします。
労働者からは医者というより、たまたまお医者さんであった仲間として受け入れられていて、頭でっかちの理屈よりも、具体的に職場の改善に貢献すること、また労働者に読んでもらいたい文章を提供すること、そのために何よりも労働者に学ぶことを心がけてこられました。
医学連の西の拠点、大阪市大ではブントに属し、田宮高麿をオルグした男として知られ、医学連では「山下論文」の五郎ちゃんで知られていました。高槻へ何回か見舞いに通い、「お前は医学連活動家列伝を書かないか」と催促されていたのですが、果たせないままにきました。この医学生史が代わりになるものといたします。


■ 星野のおっさん

レーニン帽と厚ぼったい古オーバー姿の星野 潤さんはろうたけた方でした。日本医大の事務総長の書生をしていたという経歴もあったのではと思われますが、ぼんやりとして詳細は分かりません。とにかく60年安保で潰れた自治会を再建しようと一生懸命で1965年に再建を果たしました。医学連に再加盟し、中執を1名よこせとか折衝をしていました。
1968年情況誌が創刊される前でしたか、『社学同でないと仕事にならん』と学内で組織化を図っていました。東大闘争の1969年3月まで現役学生で、医学新の編集長もして表現に病院ストへの思いをこめていました。編集会議で星野さんの谷中のアパートに集まるとテレビの佐藤首相のこの表現に重大な鍵があるとかいいながら剣菱を酌み交わしていました。美しい奥さんがいて働きは彼女がしているふうでした。彼女が設計した児童公園の図面を拝見したことがあります。
星野さんとは唐十郎と李麗仙の状況劇場テント興行を観に行こう、次は上野池之端野外劇場でやっているからとか、楽しく遊びました。
日本医大学友会の中央委員会では委員ではないからと追い出されても窓を開けて廊下から執拗に討論に加わっていました。私と二人でスト中の学生会館にスローガンを墨汁で大書し、全学大会で跳ね上がりが批判され、また二人で白ペンキを買ってきて消しまくりました。学友たちが偵察に来てニヤニヤ笑っていました。モルタル木造戦後期の学館は間もなく取り壊されて、新しい自主管理の学館が70年に出来上がりました。
郷里の栃木に帰って医院を開業しましたが、1978年の七夕の日に亡くなられました。


■ 在日医学生

戦前に植民地と化した韓国・台湾、そして占領下の中国東北地方『旧満州』は、日本の国策医科大学があり、医師になった中朝の医学生は多い。戦後期には米占領下で混乱する朝鮮半島や国共内戦下の中国台湾から日本の医師免許が通用する旧宗主国である日本への渡航があった。それも日本の無医村対策におびただしい数の中国・朝鮮からの医師が導入されていた。
一方、戦後期の日本で官庁や大企業への就職の門戸を閉ざされた在日朝鮮人や中国人は多方面の機会を奪われ、日本の国家資格が取れる医師への道を進むことを余儀なくされる。
そういうわけで、教育学部などよりも医学部には在日医学生が多く含まれていた。戦いの要所要所でこれ等の諸君の立ち位置を運動の側から考えさせられることになる。
奈良医大の李智成君の抗議の自死や、医科歯科の学友の親族白玉光君が韓国留学中に軍事政権にでっち上げられたスパイ疑惑など、険しい課題がいつも眼前にあった。

学生の歴史を繰っていますと、総括が空白になっている部分も垣間見ます。60年安保は日本市民の試練ですが、学生にとっては韓国学生の決死の闘い、「四月革命」との連携がとられていなかったあたりが総括の基軸に繰り入れてもいいのではと思います。
その後も、軍事政権下では韓国の医学生たちは血を流し続けています。
当医学連史の1974.3.2あたりに詳細。


■ 三里塚と細菌戦部隊

医学生の三里塚援農や三里塚野戦病院ボランテイア、抗議デモ、見学などは延べ数百名ではきかないと思う。
そのうち、後方兵站と思われていた野戦病院へ機動隊が乱入してきたりして危険になってくる。危険から逃げ込みたいのに野戦病院を大事にして後退してゆく戦闘部隊のことなど、全日本医学生新聞にも報告が載っている。野戦病院への立ち入りを阻止しようと入り口でスクラムを組んだ東山君が至近距離からの催涙弾の水平撃ちによる直撃を頭に受け、丸く頭骨が陥没、殺害される事件も起こった。(1977.5.8)
作曲家でピアニストでもある高橋悠治さんは、これに抗議して「カオルの詩」を作曲している。
東山裁判では東医の学友会委員長を1972年に務めた清水陽一さんが虐殺時のことを医師の立場から証言をしている。その清水先生も癌で亡くなられている。
私は1967年〜1977年にかけて三里塚に行った。その中で、共産党系が建てたパコダが訪ねる人もなく草に埋もれている姿を見たし、援農の楽しさも味あわせていただいた。東京の周りは東北だということが実感できた。
三里塚の山武郡芝山町加茂部落が細菌戦の大きな影を落としていることを調べたのも収穫の一つだった。そういえば731部隊の名前は正式名称は関東軍防疫給水部なのだが加茂部隊ともいって石井四郎隊長の出身部落名が使われていた。軍属を加茂部落から募ったところからこうなったのだろう。実家がまだ残っていて兄嫁に話を聞くことが出来た。兄は獣医で同じく731部隊に配属されていた。家の中には東京の石井四郎宅に建てられていた顔を刻印した銅版プレートと同じ様式のものが転がっていた。加茂部落の石井四郎とよく遊んだ人々にも話を聞けた。石井四郎はオジクソ(臆病)だったという方もいた。空港よりの山林の中には石井四郎の戦後建てられた顕彰碑がひっそりと建っていた。
              詳細は「日中」誌(日中書林)に連載した。


■ チュチェ

共和国(朝鮮民主主義人民共和国)の指導体系であるチュチェ思想を聞いたのは、70年安保の後だった。誘われて顔を出したのだが、『人間中心主義とは自然環境は人間によって利用されるために存在するという信念のことである。』という出だしからもういけなかった。公害や自然保護にも首を突っ込んでいるときで、このような規定には関心がなかった。
皮膚感覚ではチュチェ研(チュチェ思想研究会)は統一協会(原理)の裏返しのようで、似ているように感じた。そして、日本の場合のチュチェだが、事大主義で自立思想ではないようにも感じた。
例えば、日本で何事もなしえていない段階で、研究会の書籍には初期に使ったガリ版だとかが、本の最初に麗々しく写真入で紹介されて権威付けをしている有様だったからだ。
日本国内で様々な行き詰まりが現れた1971年、新しいチュチェ研の誕生には群馬大の医学生らが中心になって立ち上げに参加しているが失望し、離脱した学友もいる。
余談だが、2000年に訪朝したとき、首都に従来あったポトンガンホテルをこのとき、統一協会が運営しており、ホテルの前に板囲いした土地を教会用に確保している様子を拝見した。
建設許可が下りないでいるということだった。共和国は2012年に死亡した統一協会教祖・文鮮明氏の生誕地だが、勝共連合を支え、自民党に秘書を潜り込ますのが統一協会なのだから、どうして共和国でこんなことになるのか分からない。


■ 岩淵龍太郎

医学連が医ゼミ開催で医師会長の武見太郎を呼んだり、日本医学会に医ゼミ後援をさせたり、都知事から祝電を打たせたり、都心でダンパを主催したり、名誉会長に学長を就任させたり、シャンソン演奏会を主催したり、医学連キャンプで自衛隊を設営に協力させたり(各校の判断ではあるが) それらはもう1968年頃にはありえない史実で、1950年代の戦後発展段階の学生運動史を彩るエピソードに過ぎない。
そのなかで1958年、岩淵龍太郎氏を招いてのヴァイオリン演奏は心底うらやましく思った。当時の表記ではバイオリンではなくヴァイオリンとなるようだ。1965年、中核派の先輩から勧められて空きのあったN饗の会員になれて、毎月上野の文化会館定期演奏会に通ったが、学生運動はこのような分野も視野に入れるべきだと思っていたから、後に先輩達がこのような演奏会も企画していたことを知り衝撃を受けた。
インターン闘争の過程で、日医(日本医師会)とか日赤(国家赤十字)とかを招聘する悪しき作風は失われたが、その後1970年代に新日和見主義以降の民青諸君が医師会後援の『医ゼミ』を開始した蛮勇には驚かされた。医師会批判がしっかりしていた新医協や民医連の当時彼らの先輩世代にはない民青のモダニズム・合法主義だと思った。
我々は防衛医大設置阻止闘争の中で日本医師会や学術会議第7部(医学部門)への批判を強めていたときで、この時点での後援依頼は既成権威との癒着に思われた。実際、1974年頃に医学連が主体となった市民運動では神田駿河台の日本医師会には看護労働力の輸入は現代版強制連行だとデモさえ仕掛けている。これが為、地方医師会が関与する人力輸入は1980年頃には中止された。今でも問題が吹き上がる『研修生』名目の導入だったから、医師会もまずいと気がついたのであろう。
岩淵龍太郎氏の演奏が実現したのは、お茶の水女子大と演奏会を組んでいた東京医科歯科大音楽部の諸君の努力によるものと思われる。


■ 山原健二郎さんのおもいで 

山原健二郎先生に始めてお目にかかったのは東大精神科病棟でした。私は将来精神科医になろうかなと、よく遊びに来ていたからです。
山原先生は1969年に衆議院代議士初当選、文教委員会に所属されて東大の不正常な運営が東大闘争後も未だに続いているのは、政府の暴力学生泳がせ政策にあるという主旨で視察に来られたのでした。
東大の病院運営に瑕疵があるからと立ち入り調査を求めたのですが、根拠は佐藤首相が『暴力学生は利用できる』と発言したことだと思います。
東大精神科病棟は病院の本院から離れていて通称『赤レンガ』と言われていました。
安田講堂が陥落したとき、ときの佐藤栄作首相が東大を視察に訪れ、龍岡門近くの精神科病棟に赤旗がへんぽんと翻っているのを見て激怒したことがあります。東大側の説明では赤レンガは学生ではなく職員による封鎖であり、手をつけられなかったということでした。
東大に押しかけた山原さんは病棟入り口で、東大精神科医師連合と医学生のピケ隊と押し問答になりました。
病棟側の言い分は自主管理に落ち度はなく「代議士が来る、産経新聞が書きたてる、それを口実に機動隊が入る」ので迷惑ということでした。
医師・看護師・OT等からなる病棟自主管理は患者さんの支持を受け、それからも30年近くの永きに続きました。都心の東大構内なのに病棟裏には野菜畑まであるのでした。
私は高知に帰ってから、山原さんからよく葉書をいただきました。それも丹念に書かれていて、「貴方のこの前の文章はよろしい」とかいうもので、タイムリーに来るものですから背けなくなります。父も赤旗紙による山原さんと対談の礼状を頂いて余りにも立派なものですから額に入れて皆に見せていました。
高知酒害サマースクールには「アルコール問題議員連盟」の代議士として毎年来てくださっていましたが、お酒が過ぎたようでまだまだご活躍できるのに体を壊されて残念です。それを「本人もお酒が飲めて本望」などという人がいますが、とんでもないことだと思います。  
( 2011.4.16高知県内女性「雲母」誌初出 )


■ 戦前最後の抵抗

日中15年戦争はとっくに始まっていたが、1941年12月8日に始まった太平洋戦争の直前、京府に手入れが行われ、学生運動を壊滅させたとある。最晩期の学生運動になるだろう。昭和16年7月5日、京都府立医大社会医学研究会は検挙壊滅と内務省警保局『社会運動の状況』に記載されている。昭和15年5月から続けられた研究活動だが、
「一、昭和十二年二月頃より予科二年山形志乃武、山崎良夫等に依り発行なし居りたる文化雑誌灰皿を中心に灰皿グループを結成。左翼思想を目的とする文化運動を続け居りたるも、昭和十三年十月頃廃刊。灰皿グループの裏面に於て府立医大予科グループを持ち、左翼理論の研究に依り意識の昂揚を図ると共に、メンバーの獲得、左翼思想の指導啓蒙を為す。一,昭和十五年九月頃より医大内に社会医学研究会を結成し、社会医学に捉へ、共産主義思想の理論研究を行ふと共にメンバーの獲得、左翼思想の啓蒙運動を為す。」
とされ壊滅は、戦争を呼んだ。
後述の京大医学部の場合は戦争突入してからで1942年9月21日の検挙である。
戦争は医学生に軍陣医学を強要、東北帝国大学の「学徒出陣」から抜粋すると、昭和18年12月現在の医学部学生数と入隊者数は医学部在籍者数 416名で、在学徴集延期臨時特例での受検者/入隊 258/0 と臨戦態勢下では軍医への確保が最優先されていた。

京都府立医科大学学生運動について

 京都府にありては、本年七月五日京都府立医科大学々生永井陽太郎外十三名の左翼グループを検挙せるが、事件の概要左の如し。   
 (一)昭和十二年二月頃、京都府立医科大学予科在学中の当時予科一年山崎良夫、山形志乃武外四,五名により同人雑誌「灰皿」を発行、昭和十三年十月頃継続したるが、其の間相互に左翼思想に共鳴することを認識し、遂に左翼グループを結成するに至り、昭和十三年六月頃より同十五年七月頃迄の間、山崎良夫、武藤太郎、山形志乃武等中心となり、左翼学生永山壽外七名のメンバーを糾合、前後二十数回に互りエンゲルス著「空想より科学へ」、同「自然弁証法」、永田広志著「唯物弁証法講話」、マルクス著「資本論」等をテキストとして読書会を開催し、会員相互の左翼意識の昂揚に努め、又昭和十三年二月頃、学内左翼学生に回読せしむる為め、永山壽をして独逸文「共産党宣言」を翻訳せしめ、更に同十六年五月上旬頃、武藤太郎は「本科グループ」を結成し弓削昌彦外四名を其のグループに獲得し、山崎良夫は「予科グループ」を結成し中内俊夫外四名を獲得し、夫々暉峻義等著「社会衛生学」、黒川泰一著「保険政策と産業組合」をテキストとする読書会を開催し、自ら其の中心となり会員の左翼思想の啓蒙に努めつゝありたり。   
 (二)社会医学研究会の活動   昭和十五年九月頃、当時本科一年山崎良夫、同吉田利治、予科三年武藤太郎の三名は、山崎、武藤等の下宿に屡〃会合し運動上の協議を行ひ、労働者の健康状態は、その生活条件により規定せられ、生活条件は、資本制生産関係に於ける資本家階級と労働者階級の対抗闘争過程により決定せらる、社会医学は医療と労働者、零細農民との関係を歴史的に追究する事に依り医療問題の解決は、更に広い左翼運動に連関付けられてのみ解決され得るものなりとし、資本制生産関係を研究し、その一極たる労働者、零細農民階級の革命的役割を認識し、それによる社会運動と歩調を共にして社会革命の担手たる彼等の健康を保護し、彼等の闘争を援助して社会革命への一手段としての役割を果たすべきなりとし、極秘裡に「社会医学研究会」を結成し、左翼学生永山壽外八名を糾合し、昭和十五年九月頃より同十六年五月下旬頃迄の間、前後十数回に互り社会医学研究会名下に暉峻義等著「社会衛生学」、風見八十二著「日本社会政策史」等をテキストとする研究会を開催して医学と社会との関係を究明し、医学の進歩にも拘らず医療を享受し得ざる階級の存在するは畢竟資本主義社会の矛盾に基因するものなることを分析解明することにより会員の左翼意識の昂揚を図りつゝありたり。
( 内務省警保局「社会運動の状況 昭和十六年」復刻/不二出版 1972 )

京都帝国大学医学部内社会医学グループの活動について 

京都府に在りては、九月二十一日京都帝大医学部内に左翼学生グループあるを探知し、当時医学部学生金森X隆外六名を検挙せるが、その活動状況左の如し。   
藤本常彦・金森X隆・斎藤幸の三名は、松江高等学校を経て京大医学部に入学したるものなるが、松江高校在学中昭和十三年十一月頃、当時学内に存在せるフアシズム研究会に参加し、反フアシズム思想に共鳴、左翼文献を読漁り居りたるが、昭和十四年四月藤井・金森共に京大医学部に入学するに及び、更に左翼思想に拍車を加へ、為に社会医学への関心を昂め、遂に疾病は資本主義社会の矛盾より発生するものなりと規定し、資本主義社会に於ては、プロレタリア階級の健康保持の為に如何なる社会政策も、労働者階級の医療の貧困と其の不健康疾病の悲惨なる状態を完全に消滅する事は、不可能にして、斯る矛盾は資本主義社会の性質より必然的に生ずるものにして、此処にマルキシズム社会理論と医学との結合せる社会医学が要求せらるるものなりとし、マルキシズムの科学性を確信するに至り、益マルキシズムの研究を為しつつありたる処、昭和十五年四月斎藤幸が京大農学部に入学するや、直に連絡し数次会合を重ね、相互に共産主義思想の昂揚を認むるや、現下日本資本主義の分析こそ活動の基礎なりとし、此処に其の活動母体たる共産主義集団を結成し、爾来山田盛太郎著「日本資本主義分析」、平野義太郎著「日本資本主義社会の機構」、早川二郎著「日本歴史読本」外数種の左翼文研をテキストとして、共産主義理論の研究会を継続開催中、昭和十五年二月頃に至り、当時京大医学部三年生津田安・同仲居傭夫等の左翼分子と連絡成り、屡会合協議の結果、学生一般の共産主義啓蒙を企図し、彼等の共産主義集団を中核に「社会医学グループ」を結成するに至りたるが、更に社会医学の分野に於て広汎なる活動を期すべく、表面上の組織として「結核研究会」を組織し読書会・実地調査・講演会等を画策して、疾病と社会との関係をマルキシズムの観点より分析解明し、学生に対する共産主義思想の宣伝啓蒙を行ふと共に、他面学内文化部面に於ける活動を企図し、昭和十六年四月頃より文化部、絵画部の運動を指導し、学内発行「芝蘭会」雑誌利用による資本主義社会の矛盾を指摘暴露し、又は絵画に於ける社会主義リアリズムの強調を通じ、一般学生の左翼啓蒙を為し居りたるが、昭和十六年九月頃、中心分子等卒業後に於ける活動継承者の選定を協議の結果、当時京大経済学部一年生岸谷四郎をして後継者たることを承諾せしめ、其の活動を激励し運動の拡大強化を図り居りたり。   
尚昭和十五年十二月頃より、一般的左翼活動を企図し、大政翼賛会京都支部事務員川岸敏・同木村和子・同遠藤豊子・京大農学部岸本艶等の進歩的婦人を糾合し、べーベル著「婦人論」、其の他左翼文献をテキストとして左翼思想の啓蒙を為したる外、個々に意識分子の獲得に努め、左翼文献の紹介、貸与を通じ、共産主義思想の宣伝啓蒙を為しつつありたり。(内務省警保局『社会運動の状況 昭和十七年』 復刻版 不二出版 1972年5月15日 71-73頁)


■ 京大俳句会事件

1940年2月15日、神戸在住の医師、平畑静塔ら8名が検挙された。京大俳句会事件の始まりである。
 軍橋もいま難民の荷にしなふ     平畑静塔

『俳句にたいする弾圧は、主として反伝統派の総称たる「新興俳句」派の弾圧であったが、そのトップを切ったのが「京大俳句会」事件であった。同会は京都大学および第三高等学校の学生らによって古くから存在しいわゆる伝統俳句の陣営に属していたが、一九三三年から機関紙「京大俳句」を発行した』(密告・昭和俳句弾圧事件)
戦後、平畑静塔は母校の教授会が受理してくれた論文で博士号を取得、すぐに関西医大精神科教授に就職したが、学生運動が起こり、意見を述べたところ教授連は『平畑は学生に加担をし、扇動をしている。戦時中にアカとして特高警察に捕まっただけのことはある』と戦後も異端視された。結局3年で教授を辞め関西の病院に病院長として就職しても、病院争議のごとに平畑の言う「中立」はアカへのシンパとみなされ、病院を転々とする事になった。

その後の平畑晴塔、宇都宮病院へ

そして、1962年に関東宇都宮市の宇都宮病院に院長としてやってくるが、経営者や医師連の偏見は続いた。宇都宮病院はこのときすでに800床を要する大精神病院であったという。
私が医療法人報徳会・宇都宮病院を訪ねて取材したのが1976年9月1日だった。関東近県の酒害者を広域に収容していて、その処遇に世間の目が向く前のことで私は韓国からの看護研修生の処遇についてお伺いにあがったたものです。医学連が現代版強制連行として厳しい眼を向け医師会や戦前から強制連行をしてきた土地柄ゆえに無造作に導入されてきた看護研修生の導入は昨年、中止されていました。訪れた宇都宮病院も帰国した直後でした。このときも平畑氏は宇都宮病院に居られます。
東大病院精神病棟内に宇都宮病院問題担当班が設置され1984年に「宇都宮病院事件」が起きるわけです。このとき、宇都宮病院には平畑静塔こと富次郎(本名)氏は在籍していたのですから心ならずも世間が言う「巨大監獄」のごとき病院運営に関与していたことになります。また、石川文之進理事長他が川柳で師匠とされておられたということですから、戦後の氏の川柳はいかなるものであったといえるのでしょうか。すでに往年の輝きを失って久しくなっていたのではないでしょうか。調べてみたいところです。

この「宇都宮病院事件」には東大精神科病棟(赤レンガ)自主管理を敵視していた実に多彩なお歴々の名が挙がってきます。東大精神科外来グループなどは無批判に宇都宮病院でパート医をしていました。当時の病院長だった石川氏は事件を
プロフィール石川文之進  http://www7a.biglobe.ne.jp/~ishikawab/
と語っています。宇都宮病院のある栃木県は断酒会のできるのがもっとも遅くなった県のひとつで、沢山の依存症者を引き受けていた宇都宮病院ですが、アルコール医療においても同病院が先進的に対応していなかったと私は理解しています。


■ 大一番

医学生運動の中で講演にお呼びした教官の中では、岡山衛生の教授、青山英康先生が最も回数が多かったと思う。次いで医学原論の高橋晄正東大講師ではなかっただろうか。
お呼びした中で後に批判することになったもっとも偉い人は大河内一男、大内兵衛の両教授。精神科なら台弘教授、医師会の武見太郎、などなどであろうか。

  青山教授は医学連でも活躍していた。 「父親が新聞社に務めていた関係で、医学部卒というより新聞部卒といわれるほど医学生時代は新聞部員として講義室よりは部室で過ごした時間が多かったように思います。部室は、医学部担当の各社の新聞記者の溜り場として記者クラブの様相を示していました。当時は、森永ヒ素ミルク事件の被害者の運動が高まり、岡山が患者会のセンター的な存在だった為に、各社とも優秀な記者が派遣されていました。おかげで、医者になる魅力よりは記者になりたいという要求の方が強くなっていました。新聞づくりの経験の中で、字数を制限されて文章を書く『快感』を教えられました。したがって、『御趣味は』と聞かれると『執筆』と答えるようになってしまいました。」 『健康寿命は差別用語だ〜すこやかに老いる健康を身につけるために〜』青山英康 研文館吉田書店 2012。

医学連を形作っていくのはインターン闘争で、国際医ゼミへの派遣や全学連のかかわりもあった。
政治的にもっとも影響を及ぼしたのは共産党で、1960年安保を前にもっとも党に反撥したのも医学部だった。医学連の統一は学生戦線では最も遅くまで、1968年まで続いた。
1970年安保を前にブント系の社学同が各校に再建されていくが、最大セクトは民青だった。
それでも一度も医学連の主導権はとれず、1960年以降、医系民青のデモ逮捕者数はわずか2,3人だったのではないだろうか。


■ 風俗

40年ほど前、女子医学生がヘア−半バンドをしていて、今時でもこんな古風なものをつけているんだと思ったことがありました。1970年安保の頃、配られた赤鉢巻を右の太ももにくくりつけた方がいて、これはジーンズに良く映えてナウかった。
初めて医学生の群れを観たのは1962年、池上線旗の台のプラットホームに並び立つ昭和医大の学生群、厚ぼったいずん胴のオーバーに鞄を提げています。なんだか、皇帝ペンギンのようでした。
1966年、在京の学友の家に上りこんで夕飯を頂いていると、そこのお母さんが長髪の息子を嘆いて、『貴方のようにまじめな短髪ならいいのに』と嘆くものですから、「いや、日本の英雄、日本武尊も長髪でしたから」と余りフォローになっていないようなことをいった覚えがあります。
1970年代、入管闘争のとき、東京入国管理局に収監されている台湾籍の方のことで川田康代さんと出向いたことがあります。そのときもっていたバッグがビトンだったので文化人の川田さんにからかわれたことがあります。学生運動に似合わないかもしれませんが、私はビトンがどんなものか、親があてがったもので知らないのですから仕方がありません。
向いているかどうかといえば私は学生運動に向いていないといえますし、向いている学生などいるものかとも思います。学生運動の側の乱暴な使い捨ての方に問題があったように思うのです。
川田泰代さんのことを少しお話しますと、中国に逃れたエスペランティストの長谷川テルと吉永小百合が縁続きになる方でした。お宅に時々泊めていただいたりもしました、医学連もお世話になりました。
医学連は政治課題と個別課題を消化していましたので「赤ヘルと白衣」の二つの運動を一つにしたり、二つにしたりしてこなしました。ヘルの時代は案外短くてかぶったのは10年少々だったと思います。1974年5月26日、毎日新聞社の週刊誌「エコノミスト」表紙に医学連のデモが掲載されていますが、ノンヘルでどの顔も穏やかなのびのびした顔でなつかしい面々が掲載されています。


■ 退学の挨拶

長い学園での日々の後、やがて大学を去る日がやってきました。
大学のお世話になった方々に挨拶をしてまわりました。敵視された病院の守衛ではなく大学の守衛の皆さんには親切にしていただいていましたから挨拶にお伺いしました。学生は近場の引越しは守衛所からリヤカーを借り出していました。記念館が最近出来たという千駄木の森鴎外邸宅跡、谷中の墓地、向丘の高台一帯ですとリヤカーが便利でした。
挨拶は更に売店、文光堂書店、大学の受付と回ります。学務課の若い女性に「新しい分野でのご活躍をお祈りしています」ときちんとした挨拶を返されました。
学生部長の乗木秀夫教授はタイのチェンマイに仕事があると斡旋してくれました。日本医大東南アジア医療研究会が足場にしているジャングル奥地の、タイでは二番目の都会です。ラオス・中国にかかる麻薬の「黄金の三角地帯」にあります。当時は農村ゲリラをしていたタイ共産党も活発で、東南亜研の学友に寄れば『お前達は赤軍派か』と接触されたこともあるということでした。
学長と理事長には父親と挨拶に参りました。高橋末雄理事長には、その当時は事務総長だったと思いますが、「良い経営者になりなさい」と餞の言葉をいただきました。当時の学長がどうだったのかは覚えていませんが、処分を出した石川正臣学長だったら学問をおろそかにしたと怒っていたでしょうね。
その後、暫くルポライターをして社会復帰のリハビリに務めました。
大学の学友会の方は私がいるときよりもむしろ活発になったようです。


■ 父

父が岡山医大を卒業した昭和13年は日中15年戦争の泥沼に足を突っ込んでいたときです。
卒業時のクラスの寄せ書きでは「自由と平等」と書いています。ハイル・ヒットラーとか祝・南京陥落とか空母が図画でも描かれ、学園に配属将校がいる時代ですから、時局柄日本語では危ないので、せめてもの抵抗に仏語で Libert? et ?galit?と書いたのでした。
昭和16年12月8日、生理学教室で生沼曹六教授と向かい合って弁当をつかっていた時に対米英宣戦布告を聞き、教授が「これで日本の敗戦が決まった」と云われたそうです。
父は戦争終末期に高知女子医専の教授になり、開校6日目に玉音放送を聴くこととなります。
学生は泣いていました。父は「諸君、日本はこれで4等国になった。普仏戦争敗北時、仏のパスツールに習って日本を科学で再建しよう。」と演説し、午後からの授業を再開しました。
別に反戦思想を持っていたわけではなく、米軍上陸には学徒隊と闘うつもりだったといってました。土佐湾上陸なら沖縄の姫ゆり部隊と同じような悲劇に見舞われていたことでしょう。
結局、医師養成校は敗戦後の県財政逼迫に加えて、翌年暮れの南海地震が追い討ちをかけて1947年3月廃校となりました。
「科学」の捉え方では、後に教え子の松崎淳子高知女子大名誉教授が疑問を呈したように、「科学」を無批判に受け入れたことへの再考がいるでしょう。パスツール自身も「現代医学は大きな嘘に基づいている。」と臨終に際して最後の言葉を吐いています。
戦時下に続き戦後の混乱期には、精神医療どころか皮膚疾患に鍋で煮た薬剤を作ったり、ないない尽くしの対応を迫られましたが、1950年反日感情の残る訪米視察で、医師以外のスタッフも治療にかかわり、患者を人格を持った人間として処遇し、集団精神療法をしている様を実際に見て価値観の転換を迫られたようです。
この間に、電気ショックや、ロボトミーにも20〜30例ほど精華園事務棟を手術場にして手を染めています。
やがてアメリカの精神医療と向精神薬の流入があり、私のクレパスも父が院長をしていた精華園の絵画療法に持っていかれます。戦後日本で近代化の流れは滔々と勢いを増していったのです。
自院では病院を大きくするよりも、自助団体『断酒会』の育成に力を注いだことが父を評価できることだと思います。
            ( 医学生史 1945.8.15 参照)


■ 私的総括

私は医学連の立場から戦後医学生の歴史をとらえてきました。そうしたとき、視点が運動によって立ち上がってくるわけですが、運動は生き物です。
頭で考えたことは、そのまま現実に反映できません。権力奪取を語る学友はそこかしこにいましたが、実際の展開は学生が先駆し、医療労働者から労働者階級の決起に至って、革命情勢が醸し出せるというシェーマどおりにはいきませんでした。
政治的挫折の代わり、医学生の教授連への実力の異議申し立てを観ていた市民には大きなインパクトを与えます。1970年代は医療被害・薬害・公害などの市民運動が澎湃として起こって来るわけです。学問の真ん中から語れば闘争は阻害物かもしれませんが、多くの市民の参加を呼び起こしたことは、専門分野と社会の発展に貢献したと思っています。倫理の面でも闘争による従来医学・医療のゆがみの是正は見逃せないところです。
そうでなければ薬害一つをとっても大きな被害が拡大していったと思うのです。経済的被害も伴ったことでしょう。この点は小児科医、山田真先生の意見と変わりません。

歴史を辿ってゆくと、一生懸命に悩んでいたことが自分の過ちに気がつけば自分が直せばいいのですから、解決することがあります。また、個別課題は豊富な源泉ですから、医学連の場合は政治課題へ純化を遂げることが出来ません。政治的な押さえ込みこそが必要と政治主義的になったときも路線がどうであれ、個別課題に向き合ってもいました。医学連にこだわったわけです。
また、党派による純化の押し付けには逆らっていました。

キューバに行ったとき、首都にある医学部講堂の権威が並ぶ額縁肖像画の中にエルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナの姿がありました。ことをなし得たゲバラはここに祭られる一人でもあることを知りました。
ですから私は、むしろ東北大医学部に留学し、中途退学をして祖国に帰っていった魯迅のことを学ぶべき対象としています。
魯迅の、中国再興への願いをこめた民衆への働きかけといえる版画運動など、今でもユニークで使えるのではないでしょうか。70年代の医学生運動では手作りの紙版画とシルクスクリーンを医ゼミポスターに使用しましたが版画運動は現代でも通用するのではないでしょうか。

〈 出典資料 〉

全日本医学生新聞 全日本医学生連合機関紙 1959.4.8〜
私立医大生の広場 1980.5.20 連絡場所 東日本・慶応医、西日本・大阪医大
医學聯史 1971 全日本医学生連合・刊
精神医療誌 Vol.2 No4「労働運動を圧殺した精神衛生法体制」東京女子医大自治会・精神医療問題研究会。72.12.15 
精神医療誌Vol.2 No4「労強制阻止入院の状況」京都大学医学部精神医療研究会。1972.12.15 
精神医療誌Vol.3 No1「江熊人体実験糾弾報告」群馬大学精神医療問題研究会。1973.9.15 

闘う小児科医 −わはは先生の青春− 山田真著・ジャパンマニシスト
安田講堂 1968-1969  島泰三著 中公新書 2005
わが青春の国際学連―プラハ1959‐1968  石井 保男著・社会評論社 2010
聞き書きブント一代  市田良彦, 石井暎禧 著・世界書院
精神医療のひとつの試み 島成郎
ブント私史 島成郎 2000
当時の学生活動家の処分と温情措置風 多田靖氏の証言・島成郎記念文集刊行会編「60年安保とブントを読む」追加文  http://www.marino.ne.jp/~rendaico/bundco_syobunco.htm
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gakuseiundo/daiithijibundco/bundco.htm
砦の上にわれらの世界を 東大全学共闘会議編 1969
東京大学医学部紛争私観 本の泉社 山本俊一
田中清玄「武装テロと母 全学連指導者諸君に訴える」、『文藝春秋』1960年1月号、pp.114-121戦後医療労働運動史  宇田川次保著・あゆみ
富士見産婦人科病院事件−私達の30年のたたかい− 被害者同盟・原告団編・一葉社
細菌戦部隊と自決した二人の医学者 常石敬一・朝野富三著 新潮社
岡山大学50年小史 岡山大学創立50周年記念事業委員会 1999
岡山大学全共闘40周年記念文集
九大医報6・1969.1.15
高知女子大30年史
青医連中央書記局編 1969 『青医連運動』(日本の大学革命6) 日本評論社
東大精神科医師連合・「救援」紙(救援連絡センター)
「安田講堂1・18〜19闘争が切り開いた全国学園闘争」安田講堂防衛隊長 今井澄(東大医共闘)
http://zenkyoto68.tripod.com/imaik02.htm 
『鉄門だより』鉄門倶楽部(東京大学医学部同窓会)
「東大闘争資料集 全23巻」68,69を記録する会編集。
「安田講堂1968-1969」島泰三著(中公新書)。
『東大病院精神科の30年  宇都宮病院事件・精神衛生法改正・処遇困難者専門病棟問題』 富田三樹生 著  青弓社
60年代・70年代を検証する全共闘の時代、沖縄は燃えていた 知念襄二氏(元沖闘委委員長)に聞く (図書新聞2907号2009年2月28日)
『追悼 島成郎――地域精神医療の深淵へ』,批評社,『精神医療』別冊,215p.
東大闘争獄中書簡集 今井澄「4月9日東拘より」 獄中闘争書簡刊行委員会
浮浪者収容所記 ある医学徒の昭和21年 中公新書 山本俊一著 1982
三重精神医療 Vol.1 No.1 三重精神医会 1971
厚生省医務局 『医制八十年史』、印刷局朝陽会1955
『黒部信一のブログ』
http://kurobe-shin.no-blog.jp/bk/2011/09/post_4435.html
医学連(全日本医学生連合)
http://www.arsvi.com/o/igakuren.htm
京都新聞・「精神医療など討議−京大で全国医学生医ゼミ」1974.9.23
「京都帝国大学医学部内社会医学グループの活動について」
http://www3.plala.or.jp/kindai-kyoto/99_blank101.html 
内務省警保局「社会運動の状況 昭和十六年」復刻/不二出版 1972
朝日新聞東京版 1968.9.10 『医学連分裂』
「高校生奮戦記」三一書房
「高校生活の眼」文京書院
吉川武彦発言集 逃げない 逃がさない 逃げ込まない 凱風社 1984.3.10
順天堂高等看護学校自治会新聞会「しらかば」
千駄木祭プログラム 1974 日本医科大学千駄木祭実行委員会。
医学部−日本の医師−づくり 水野肇 三省堂新書 1969
日精看ニュース 1971.,7.1   106号
いずみ「青春を語る」矢部裕 2001 NOV
富士見産婦人科病院事件−私たちの30年のたたかい−
 富士見産婦人科病院被害者同盟・原告団 一葉社 2010
高知新聞「一陽来復」歌人岡井隆さん 2011.7.27
いずみ誌1994.5 フジサワ薬品 青春を語る 吉田亮 千葉大学学長
いずみ誌1996.10フジサワ薬品 青春を語る 杉本恒明 東大名誉教授
週刊医学界新聞 1998.9.14 医学生・研修医版
赤旗・しんぶん赤旗
戦旗 1969.4.1 共産主義者同盟
東大駒場新聞 196号
岡山大学新聞 再刊第2号(通刊237号) 1978.6.30
岡大医学部新聞 1964.3.21
医師会の思い出 1993.12 尾木文之助(九大卒) 私家本
九大医報 1969 VOL.39.NO2 大学立法特集号
九大医報 1969 VOL.39.NO5.6 資料特集号
京都大学大学文書館研究紀要第10号2012年
杏林大医学部学生新聞1978.5.19
昭和大学新聞31号 1969.1.28
昭和大学学生新聞3号 1971.8.14
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徳島大学新聞 1968.9.21 第96号「東大紛争 全国学園闘争の転回点」
慶応義塾医学部新聞(同窓会新聞)
三田新聞 1967.3.15第1115号 医学部、全学授業放棄へ。
順天大学新聞。1965.1.15
良陵新聞 1969.3.15 第56号
弘前大学医学部新聞
岩手医大学生新聞。1968.10.22
福島医大学生新聞
東京女子医大学生新聞
北大医学部学生新聞
御茶ノ水会会報(MD医科同窓会報)
医歯大新聞縮刷版 1977
医歯大新聞 1968.5.20
名古屋大学新聞1968年2月28日「名大医学部 民主化のたたかい」医学部特集号。
順天堂高等看護学科本科自治会新聞編集委員会発行しらかば11号。1970.12.19
名古屋市大学友会新聞6号。1967.4.8
日大学生新聞 1970
岡山大学新聞
「連合戦線」 日大全共闘系の連合戦線編集委員会発行1970.7.2創刊準備号。
北大百年史, 部局史: 525-617
「枚方事件」について脇田憲一氏の『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』を読む・高橋彦博
金沢大学50年史部局編
京大医学部新聞 1985.2.11
神戸医大新聞 1964.10.21
新潟市医師会創立100周年記念サイト
広島大学文書館紀要(第11号)2009 大学紛争に想う 今中比呂志
労働者住民医療創刊準備号 1982.6.12
「諸要求は民主化の炎となって―横市大医学部の予算増額と民主化の戦い―」闘争報告・横浜市立大学医学部学生委員会1969.3.20
Nikkei medical 1977.4 医学部紛争が変えたもの
キーサン革命宣言 江端一起 アットワークス2013
追悼 高橋晄正先生と私  村上 徹 初出 :フッ素研究第25巻(2005年11月)
北海道医学史年表(10)札幌市医師会 小武英夫
黒部信一のブログ www2.ocn.ne.jp/~orthopub/zakki/yowa006kennshu.doc
(2005年3月21日 信州大学医学部卒業祝賀会祝辞 寺山和雄)
座談会東京教育大学戦後学生運動史 http://members.jcom.home.ne.jp/lionsboy/undousi.htm
東京医専 同盟退学(大正5年5月)  http://www.tokyo-med.ac.jp/info/kengaku06.pdf
京都大学『戦後学生運動関係資料』解説・目録 
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戦後復興期における東京大学・京都大学の学生自治会 http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/bitstream/10083/51412/1/Proceedings12_07Tanaka.pdf
東大闘争:主に医学部周辺 http://www.arsvi.com/d/tu1968.htm
吉利和
http://www.toranomon.gr.jp/site/view/contview.jsp?cateid=23&id=137&page=1
日野原重明 http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=50384
『国会調査団空振り 東大精神病棟の不法占拠』 サンケイ新聞 1978.5.16
『現代日本の学生運動』青木書店 1966年 (青木新書) 広谷俊二
『学生運動入門』日本青年出版社 1971年 広谷俊二
信濃毎日新聞1969.6.1
現代の眼・雑誌 1975
「防衛医大は侵略反革命戦争の新主役として登場する」日中誌・10月号 気比野論文
医療戦線紙 9号 1971.2.21「健保改悪阻止・防衛医科大学構想粉砕」
『国崎定洞――抵抗の医学者』川上武他(勁草書房、1970年)
「アルコール依存症、ある医師の歩いた道」西郊(にしおか)文夫著 東峰書房 2005
【警察機関:安保闘争におけると内動員推移表(都内大学)。 (主)は全学連 (反)は日共=民青系】日本労働年鑑 第27集 1955年版発行 1954年11月5日編著 法政大学大原社会問題研究所新左翼運動全史・流動出版 倉田計成著
山本 俊一 『浮浪者収容所記―ある医学徒の昭和二十一年』,中央公論社,中公新書
週刊読書人 1969.1.13
尼崎労働者安全衛生センター 120号
下光輝一主任教授退任記念誌 2012年

『理想の医療を語れますか』今井澄 東洋経済新報社 2002
『健康寿命は差別擁護だ』青山英康 研文館吉田書店 2012
「自分達で命を守った村」(菊池武雄著)岩波新書
「村で病気と闘う」(若槻俊一著)岩波新書
『遠き落日』渡辺淳一 上下巻
『雲の都』加賀乙彦 新潮社                            
『医学生 』(文春文庫) 南木 佳士 (1998/7)
『信州に上医あり―若月俊一と佐久病院 』(岩波新書) 南木 佳士 (1994/1/20)
『海と毒薬』 (新潮文庫) [文庫]  遠藤 周作
岡村昭彦『続南ヴェトナム戦争従軍記』(岩波新書)
『国権と民権』(緑風出版)山川暁夫=川端治 2001
『「新日本文学」の60年』
『この希いに結ばれて』、京都大学医学部学生有志 1951年
河西秀哉 「敗戦後における学生運動と京大天皇事件 -「自治」と「理性」というキーワードから- 」
『京都大学大学文書館研究紀要』2007年
「農村医学」 若月俊一 勁草書房
京大百年史・年表
『健康寿命は差別用語だ〜すこやかに老いる健康を身につけるために〜』青山英康 研文館吉田書店 2012。
遠藤三郎『日中十五年戦争と私 - 国賊・赤の将軍と人はいう』日中書林、1974年。
『密告・昭和俳句弾圧事件』 小堺昭二 ダイヤモンド社
岩井会資料:岩井弼次氏・岩井会または人民新聞社(TEL 06−572−9440)
『構造』1971.6月号。日医大看護学院の戦い。
「救援」紙(救援連絡センター)縮刷版年表。


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