柴野栗山について

栗山の生涯

先祖と生い立ち

栗山の遠祖は戸井兵部大輔という知恵と勇気のある武将だった。
栗山より10代前は阿波の三好越後守に仕えていた。
その後、名を改め藤右衛門光広として慶長19年(1614)三木郡牟礼村へやって来た。
この人が栗山より5代前の人で柴野家の讃岐での元祖となる。
 父は柴野平右衛門軌逵(きき)
 母は葛西於澤
長男の栗山は元文元年(1736)、現在記念館のある場所で生まれた。
2年後には弟 貞毅、続いて千歳(早死)が生まれた。
父は物静かで無口、母は質素倹約を守り子どもの養育に力を注いだ。

江戸遊学

13歳で高松藩儒 後藤芝山先生の門下生となる。
牟礼から塾のある香西西町まで毎日歩いて通った。
一日も休まぬ勤勉、精勤ぶりは今も語り草になっている。
塾では最もよく勉学が出来、先生の芝山は「わが塾の顔回なり」と褒め称えた。
当時の高松藩は、学問(儒学)や学者をとて大事にする気風がしっかりと確立していた。
5代藩主頼恭の時代、18歳になるや同塾の大先輩 中村反輔に連れられて昌平黌へ進学。
当時唯一の官立の大学で、30歳まで儒学一筋の勉学に励んだ。
家が裕福でなかったので好学の人たちに儒学を教えながら勉強を続けた。

京都遊学時代

30歳で国学を学ぶため京都へ移る。
高橋図南先生に師事し、国学の研究に進む。ここで典故典礼なども勉学。
又若い仲間と三白社を作り、詩の合評会を試みたり、月1〜2回石川丈山の詩仙堂へ出かけ、異分野の人たちとの交流も重ねていた。
自らも塾を開き、人々に儒学を教えるなど活発な日々を送った。
32歳の時、合田常治の推薦で阿波藩儒となる。
藩主とその後継者らに儒学を教える。約20年間続く。

寛政の三博士

柴野栗山 岡田寒泉 尾藤二洲(前半)

柴野栗山 尾藤二洲 古河精里(後半)

寒泉と精里は性格が異なり、仲が悪く栗山がいつも仲裁していた。

幕府とのかかわり

52歳の時、老中首座 松平定信からの強い要請で、幕府の儒官となる。
ごく後、将軍 家斉に月6回侍講すると共に、松平定信の政治顧問として実際の施策に関わった。
松平定信と二人三脚で実施した「寛政の改革」は世直し大明神とあがめられ評判となる。その意は田沼意次の賄賂政治の悪弊を質すことにあった。
「寛政異学の禁」は学問界の乱れを正すために、朱子学を幕府の正学とするという思い切った施策であった。
このほか社会一般の乱れも正当なものに逐次正していったのが「寛政の改革」である。

皇居造営;

天明8年(1788)末、京都御所が炎上する。栗山は新皇居造営の責任者(幕府側)となった。
その際、紫宸殿の賢聖障子再現に努力した。典故典礼に明るく考証学者であった栗山だから出来た事業である。この業績により光格天皇より褒美を戴いた。

晩年

文化元年(1804)に入り、雁皮紙の改良、普及に努める。
また、文化4年(1807)5月には城崎温泉に遊び、「玄武洞」を命名する。
同年12月1日、自ら墓誌を撰し、72歳で没す。

栗山顕彰会

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