雁の寺 2004..10掲載 徳島新聞夕刊

 

 

 

 

 「ねえ、あんた。今朝来た人ってお坊さんかい?」「そうだよ」。このやりとりで「袈裟(けさ)着た人」と「僧」の字が浮かんだ人は、ダジャレのセンスがある。「隣の空き地に囲いができたよ」「へ〜」とか、「鳥が何か落としたよ」「フ〜ン」と同じように、落語の枕でよく使われる小話だ。ということを枕にして…。

 

袈裟着た僧侶は、檀家の人々にとっては「ありがたい」存在だったが、私の親父などは昔からよくあっちこっちの坊さんをこき下ろしていたものだ。文壇の大御所・水上勉さんにとっても、彼らは聖者ではなく、「僧と憎」はそう違わなかった。六歳から禅寺に預けられた実体験を元に、その偽善や堕落ぶりを『金閣炎上』や『五番町夕霧楼』などの小説に描いている。

 

それらはいずれも映画や演劇になって半世紀近く多くの観客の心をつかんできた。水上作品に潜む「聖と俗」の二律背反は、「愛」と共に人間社会の永遠のテーマだろう。『雁の寺』もその代表作といっていい。

 

直木賞を受けたこの小説もまた、新派はじめ様々な舞台になった。中でも、太地喜和子主演の文学座公演が出色だったと思う。それが最近では、同じ木村光一演出によって高橋恵子さん掌中の当たり役となった。何年も全国の演劇鑑賞会での公演を重ねており、県下では来月連休明けに三市で上演される。

 

『雁の寺』には、いや、これだけじゃないが、水上さん自身かと思われるような、貧困と劣等感にさいなまれ性格のゆがんだ少年僧が登場する。それに、修業を積んだ立派な表の顔と「金・名・色」の三欲にまみれた裏の顔を持つ和尚や、日陰に咲いた薄幸で美しい女性が加わるのだから、ドラマティックでないはずがない。出口のない「三角関係」的状況から、ついには悲惨な殺人事件へとスリリングな展開を見せるのだ。

 

『雁の寺』は、盲目の旅芸人(瞽女(ごぜ))に産み落とされ宮大工に育てられた少年の「母恋い」物語でもある。愛情のないしつけと奴隷的な扱いに反発し大人や世間を憎む気持ちや、名も顔も知らない生母を恋いこがれる姿が哀れで痛ましい。私は数年前に観たのだが、屈折した少年の心情がにじみでるような嵐広也(前進座)は期待を越えていたし、文学座のベテラン・金内喜久夫は聖俗や清濁を堂々と飄々と体現していた。

 

そしてもちろん、高橋恵子が慈母の温かみと女の色香を漂わせて、作者も絶賛した適役。かつて「愛の逃避行」とかで役者生命を終えたかのように思われていた彼女は、いつか「声良し姿良し」のすばらしい大人の舞台女優へと成長していた。終演後、内輪の食事会で会った素顔の高橋さんは、良妻賢母を実感させる素敵な女性であった。

 

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