「自殺」                              05/3/11
ここまで書き進めば、どうしても触れておかなければならないことがある。この事件の関係者の 「自殺」 と片付けられた相次ぐ死亡についてである。
YNさん殺害事件に関係があるのかどうかは、本当のところは分からない。が、様々な憶測を呼んできたことは事実である。
イニシャルにしたら、ややこしいことになってきた人名。・・・しかたないか。
 GO  (31) YNさんの家に住み込みで働いていたことがある運転助手。
その死亡の知らせを聞いて、篠田国家公安委員長が 「こんな悪質な犯人は生きたままふんづかまえてやらねば」 と歯軋りしたという人物である。YNさんが生まれたころの2年ほど、N家に住み込みで働いていたことがあった。
5月6日午前8時30分ころ、「病気に負けました。済まないことをしました」 という意味の遺書らしきもの残し、農薬を飲み、新築中の自宅の裏の井戸に飛び込んで 「自殺」 したことになっている。翌日が結婚式の予定だった。またこの日はYNさんの葬式の日でもあった。
GOは、5月1日午後3時50分ごろ、勤めていた運送会社から自転車で帰っていった。午後5時~7時の間は実家で新築祝いにきた親戚などと酒を飲んでいたという。新築の家は、死体発見現場から約200mの所にあった。
家族の話では、2日からノイローゼ気味になったという。4・5日は会社を無断欠勤した。そして、6日の朝、死亡した。結婚式を翌日に控え、家を新築したというのにだ。何があったのであろうか?
YNさんが誰かと待ち合わせしているかのような素振りをしていたという証言、また真犯人がYNさんと顔見知りに違いないという可能性、更にはGOの血液型がB型であったことなどからこの事件との関連が憶測されてきた。
しかし、捜査本部は7日には、はやばやと 「GO=シロ」 と発表した。あまりにも拙速な判断というしかないが、「生きたまま捕まえる」 ということは、「死んだ人間には用がない」 ということでもあった。
 NT (31) 農業
5月11日、午後8時10分ころ、自宅で鳥料理用のナイフで心臓を一突きにして 「自殺」 した。ちなみに、この日はスコップが発見されている。
彼は、YNさんの通学路に当たる薬研坂で、車で通った怪しい3人組を5月1日の夕方見たと警察に届け出た (5月8日前後)。しかし、なぜか 「犯人扱い」 され責めたてられ、ふらふらになって帰宅。
翌日も呼び出され、自転車にも乗れない状態になった。警察のジープで送られてきて、そのままノイローゼのようになり寝込んでしまった。「俺は関係ない」 「犯人じゃない」 「警察ってこわいところだ」 とつぶやいていたという。
11日夜、妻は台所で食事の後片付け、父親は茶の間でテレビを見ていた。NTは、別室で1才の子どもが寝ているその横で心臓を一突きにしたのだ・・・しかも、普通はあるといわれる 「ためらい傷」 もなく。遺書はなかった。
これも自殺とされたが、家族には、思い当たる理由がないという。唯一、「せがれは警察に殺されたようなものだ」 とは父親の談である。
普通に考えると、3人組が事件に関係あるかないかは分からないが、そういう情報は警察としては大歓迎のはずである。KU証言や植木屋の情報提供もあった。さらに、ONさんにもそういう役目を期待したふしがある。
しかし、NTに対する対応だけは大違いだ。まさか、まだこの時点では、情報提供者を犯人にしたてあげようとまでは考えていないだろう。
犯人だと疑われたとすると・・・もしかすると、NT情報は、<すぐにウソと分かるガセネタで、かえって事件との関連を推測させた> のだろうか。
あるいは、<事実ではあったが、NTに何らかの作為が見え、疑われた> のであろうか。はたまた、 <捜査本部に、何かしら都合の悪い情報> だったのだろうか。
警察は、<事件前日の市議会選挙に関係しノイローゼとなり自殺> と発表、マスコミ各社はほとんど報道しなかった・・・ということは、マスコミは警察の味方をしてこの件を黙殺したということである。
 TN (24)  YNの姉。
TNは、佐野屋での夜、犯人と対峙した姉である。1963年9月の公判では、犯人と石川さんの声が似ていると証言した。
その後、12月には、兄KNの同級生のYという人と結婚・入籍したので、正確にはTYとなる。が、N家で家事をみる者がいないということで、そのまま実家にいて別居状態であった。
1964年3月11日、「死刑判決」。このころから部屋にこもりがちになり、7月14日、農薬を飲んで 「自殺」 したことになっている。家族や夫にあてた遺書があったという。
自分の証言が石川さんを死刑に追いやった (・・・少なくとも、100%の自信はなかったはずだ) ことが重荷となったのであろうか。あるいは、石川さんが犯人ではないということに気付いてしまったのだろうか。
まぁ、これらは、本当に自殺の場合の話だ。だが、本当に自殺なのだろうかという疑いも持たれてきたところだ。
ちゃんと布団の上で根乱れることもなく死亡していた。呼ばれた医者によると、苦悶の様子もなく失禁もなかったという。この医者は死因を特定できず、警察医が 「農薬自殺」 と判断した。しかし、本当に自殺だったのだろうか。
 TI  (36) ID養豚場の経営者 KI の兄
1966年10月24日、KI と一緒にトラックに乗って出かけ、KI が用のある家に寄っている間にいなくなった。どこかにいったものと思い、KI は1人でトラックに乗って帰った。
翌朝、轢死体となって発見された。西武線入曽駅近くの踏み切りで終電車に轢かれたらしく、大量の酒を飲んでいて泥酔していたと判断された。
警察は 「自殺」 とした。しかし、泥酔していたとしたら、「自殺」 ではなく事故という可能性の方が高くなるのではないだろうか。また、TI は酒好きで、めったなことでは事故死してしまうような人物ではなかったという。・・・とすると・・・。
しかし、警察は、誰と・どこで飲んでいたかなど、ほとんど調べることなく、またしても 「自殺」 とした。
 リストに・・・
この4人は全員 「自殺」 とされた。しかし、事件と何らかの関わりを持つ人たちが、こうも次々に 「自殺」 していくであろうか・・・ということが、狭山事件のもう1つの謎とも考えられてきた。
もちろん、この4人以外にも関係者は既にたくさん亡くなっているということだ。中には、このリストに付け足すべきかと思えるような 「自殺」 「変死」 もあるという。
しかしまぁ・・・ここでは、狭山事件の発生した直後の4人の 「自殺」 は、<もっと直接的に事件と何らかの関連を推測させる> という意味で紹介した。
亡くなった関係者ということでいえば、ホントのことを言ってから死ねよなぁと言ってやりたい関や長谷部といった人物も含まれている。今ごろは、地獄にいるんだろうなぁ・・・って、ホントはあの世なんて信じないんですが。
今日は、3月11日。内田判決から41回目の3月11日。