万年筆・インク                         04/6/10
狭山事件においては、石川さんの 「自供」 に基づいて発見されたとされるものとして、被害者YNさんの 「万年筆」 「腕時計」 「カバン」 があり、3大物証と言われている。
しかし、これらは、全部、警察による捏造、または既に発見されていたものを 「自白」 によって発見されたかのように工作した疑いがある。
中でも、極めつけは万年筆である。
 発見の経緯・・・3度目の家宅捜索
①2時間17分・12人、②2時間8分・14人、③14分・3人・・・さほど広くもない石川さんの自宅の家宅捜索に費やした時間と実行した警官の人数である。①は逮捕当日の5月23日、②は6月18日、③は6月26日。
世間を揺るがす大事件である。つぶれた面目の回復のために埼玉県警も必死だったに違いない。それなりの陣容で臨んでいるはずだ。しかし、1回目・2回目の捜索で発見されなかった万年筆が、なんと3回目の捜索で発見されたのである。
発見場所は、勝手入り口の鴨居 (高さ約176cm、奥行き8.5cm) であった。しかも、石川さんが 「そこにあると言ってる」 と言って写真のように、石川さんの兄に、素手でとらせているのである。
ベテランの刑事たちがこんな初歩的なミスを犯すとは考えられない。考えられるとすると、この万年筆からは、石川さんの指紋がでてこないということを知っていたという他はない。
当然ながら、発見された万年筆からは石川さんの指紋はでなかった。さらに、YNさんの指紋もなかった。そして決定的なことに、万年筆のインクはブルーブラックで、事件当日までYNさんが使っていたライトブルーのインクではなかった。
つまり、真っ赤なにせものだったのである。
 からくり
このからくりは2審・東京高裁の公判において明らかにされた。
6月24日、石川さんは万年筆の置いた場所を 「自白」 したことになっている。それは、長谷部警視らに、いつもカミソリを置く場所を聞かれ、「風呂場の鴨居」 と答えたことに始まる。ここを警察は万年筆の置き場としたのだ。
調書によれば、6月24日、警察に対して 「風呂場の敷居の上」 と答え、6月25日、検察官に対し 「勝手口の鴨居の上」 と答えている。もっとも、添えられた石川さんが書いたという図面では依然として風呂場になっていた。
しかし、24日に 「自白」 したというなら、なぜ捜索が2日後だったのか? 大事件の重大な証拠である。すぐさま捜索に向かうのが自然というものだ。この不自然さは、つまりはこの過程で、26日でなければならない事情が発生したのである。
日にちははっきりしないのだが (おそらく24日と思われる) 前述の関巡査部長が石川さん宅に現れた。石川さんへの差し入れを取りに来たという名目である。実際、それまで差し入れを届けてくれていた。
いつもは玄関口で応答し、決して家の中に入らなかった関巡査部長が、この日に限って勝手口から家に入り、風呂場で洗濯をしていた石川さんの母親に声をかけた。母親が、座敷で寝ていた石川さんの兄を起こしに行ってもどると、巡査部長は勝手口にいた。
ここからは、推測の域を出ないが、万年筆は関巡査部長がおいたのだ。24日、カミソリの置いてある場所を聞き出した警察は、あらかじめ用意した万年筆を関にもたせ石川さんの家に行かせた。
母親を風呂場からおいだしたものの、そこはあまりにも低くて、2回の捜索で発見できなかったことをとりつくろえるような場所ではなかった。とっさに関は勝手口の鴨居の上に変更した。
従って 「自白」 も変更されなければならなかった。それが25日の原検事への 「自白」 変更なのだ。そして、ようやく26日の捜索ということになったのである。
仮に、関がやっていなかったとしても、間違いなく警察関係者が、2回目の家宅捜索以降に万年筆をおいたのである。
 変遷~行き着いた珍論
下の写真が万年筆発見場所の鴨居である。矢印の所にある万年筆が見えるだろうか。
延べ4時間以上にわたって、それこそ徹底的に家宅捜索が行われているのである。特に、2回目の捜索時には捜索対象として万年筆があげられているのだ。3m離れれば150cmの人にだって見える。見落とすはずがない。
ところが、1審内田判決では、「捜査に手抜かりがあった」、「人目に触れるところであり、・・・もし手を伸ばして捜せば簡単に発見し得るところではあるけれども、そのため却って捜査の盲点となり看過されたのではないかと考えられる」 となっている。
しかし、2審寺尾判決では、「背の低い人には見えにくく、人目につき易いところであるとは認められない」 と全く反対になった。
さらに1977年8月9日の上告棄却決定では、「捜索されてしかるべき場所ではあるが、鴨居の高さや奥行などからみて、必ずしも当然に、捜査官の目に止まる場所ともいえず、捜査官がこの場所を見落とすことはありうるような状況の隠匿場所であるともみられる」。
1980年2月5日、第1次再審棄却決定では、「鴨居の上なる場所が目につきにくく、見落としやすい箇所である」。
弁護団は第2次再審において、「どの位置から、どのような条件の下で、鴨居の上に置かれた万年筆を認識できるかを調べたものであって、その結果、調査時より暗い状況下でも万年筆を認知することが十分可能であり、
鴨居前に置かれた 『うま』 に乗れば、万年筆を見落とすことはあり得ないことが判明したというのである」 と第2次再審棄却決定も認める内田鑑定書を提出した。
これによって 「見えにくい場所」 といえなくなった東京高裁・高木裁判長は珍論を展開する。・・・1999年7月7日、第2次再審棄却決定 (高木決定)。
「第一次再審請求手続における特別抗告審の決定も指摘するとおり、第三回目の捜索は、万年筆の隠匿場所について自供を得た捜査官が、右自供に基づいて隠匿場所を捜索したものである点で、捜査官に何ら予備知識のなかった第一回、第二回の捜索の場合とは、捜索の事情や条件を異にするのである」。
当時の埼玉県警の捜査員が 「予備知識」 (?) がなかったから発見できなかったとは! 何のための家宅捜索であろうか。弁護側鑑定書にまともに向かい合うこともできず、ただただ、捜査員が知らなかったから発見できなかったと言うのである。まさに、珍論!
 証 言
1963年5月23日、第1回目の家宅捜索時の写真である。鴨居の前に脚立が置かれているのが分かるだろうか。
実はと言うのもおかしな話だが、少なくとも2回目の捜索ではこの鴨居は捜索されているのである。第2審で石川さんの兄は、後に万年筆がでてきたところのすぐそばにあるネズミの出入りする穴につっこんであったボロ布を捜査員が引っ張り出して調べていたと証言している。
だから、6月26日の家宅捜索で万年筆が出てきた時にはびっくりしている。余談になるが、逆に石川さんは、自宅から万年筆が出てきたと聞いて、兄が犯人ではないかとの不安を大きくさせた。
兄の証言は身内の証言ということで、裁判においては全く無視されてきた。しかし、第2次再審において、1986年11月12日、家宅捜索にかかわった元刑事7人の証言が得られたことが明らかにされた。
内容は、<捜査は徹底的に行われ鴨居も調べた。捜査責任者の小島警部が鴨居の穴のボロ布を引っ張り出し、「こんなとこも調べないとだめだ」 と部下をしかった> というものであった。
さらに、1992年7月7日には、先の7人のうちの1人から次のような証言が得られたことが明らかにされた。
<踏み台のようなものをおいて、それに登って捜索した。奥まで見えたが、鴨居には何もなかった。あとになって、鴨居から万年筆が発見されたと聞いて、本当に不思議に思った。大きな事件でさしさわりがあると思ったのでいままで言えなかった。> 
元刑事たちである。その意味するところ、その重大性については十分に承知の上での証言である。
しかし、第2次再審棄却決定 (高木裁判長) は、「総じて、各人の記憶が相当あいまいで、いずれも、所論を裏付ける証拠としての内容に乏しい」 「右供述は、捜索から約28年も経って行われたものであるばかりでなく・・・確かな記憶に基づくものか、甚だ心許ないといわざるを得ない」 とこれらの証言を退けた。
本当にそう思うなら、この元刑事たちを証人として尋問すればよい。いつでも応じると言っていたのだから。・・・まさに、「為にする論」 としか言いようがない決定である。
 インク
この万年筆には、ほとんど乾いた状態でブルーブラックのインクが残っていた。しかし、YNさんが使っていたのはライトブルーのインクであった。
これは既に分かってはいたが、5月1日の事件当日のことが分かる証拠が隠されていた。弁護団は、証拠開示を要求し続けていた。1976年5月の国会法務委員会でもとりあげられた。
上告審段階でついにこれが実現された。最高検察庁は、しぶしぶと1976年8月30日に48点、1977年4月20日に16点の証拠を開示した。その中に、「YNさんの当用日記」「ペン習字清書」 があった (76年8月分)。
事件直前までつけていた当用日記はライトブルーのインクだった。ペン習字清書も事件当日の午前中のペン習字練習でライトブルーのインクであった。これは決定的な新証拠だった。
YNさんの日記 ライトブルー
ペン習字清書 左・ブルーブラック  右・ライトブルー
しかし、である。あぁ、なんと言おうか、全くもって理不尽な言い回しをもって最高裁・吉田裁判長は上告を棄却した。
曰く・・・
「しかし、インキの異同については、原審の審理において、弁護人は同年8月16日付荏原秀介作成の鑑定書の取調を請求し、一方、検察官は同年8月31日付荏原秀介作成の鑑定書の取調を請求したが、相互に同意が得られず、いずれも取調請求が撤回又は却下され、これらの鑑定書は、取調を経ていないのであるから、所論は、証拠に基づかない主張である。
ところで、記録に現れた証拠によると、秋谷七郎作成の鑑定書は、脅迫状の訂正部分に使用されたインキ及び本件万年筆の残留インキが微量のため色素組成の化学的な異同の実験は不可能であるとしているが、同人は、原審証言中で、脅迫状の訂正部分が外観上いわゆるブルーブラックの色調をもつものであることは認めている。
従って、仮りに所論のいうように本件万年筆のインキがブルーブラックであるとすれば、その限りにおいては一致し、脅迫状の訂正部分は本件万年筆によって書かれたとの原判決の認定とも符合する。
以上のとおり、本件万年筆は、善枝の所持品であって、被告人が本件犯行現場から持ち去りその所在を秘密にしていたが、被告人の自供に基づいて発見されたものであるとの原判決の認定は、正当である。 」
つまり、証拠として採用されていないから、その鑑定書に基づく主張は意味がないというのである。更に、脅迫状の訂正はブルーブラックで行われている、石川さん宅から発見された万年筆のインクと同じだから、寺尾判決は正当だと続く。
裁判官たちはどんな思考構造をしているのだろう? こんなことを言ってたら、当時ブルーブラックのインクを使っていた人はみんな犯人の可能性があるということになる。
無念にも、舞台は第1次再審 (1977年8月30日請求) へと移ることになる。弁護団は、再審でもこれを争点として争った。ところが、1980年2月5日、東京高裁は再審を棄却してきた。いわゆる四ツ谷決定である。そして、インクに関しては吉田決定の上をいく常識はずれの珍論を展開する。
曰く・・・(インクの違いは暗に認めながら)
「しかしながら、被害者の友人TNの控訴審における証言によると、同人が事件の当日かその前日ころ被害者にインクを貸したことのある事実がうかがわれるほかに、
関係証拠によれば、被害者は事件当日の午後学校を出てから狭山郵便局に立ち寄っていることが認められるのであって、友人からのインクの借用補充とともに、同郵便局で万年筆のインクを補充したという推測を容れる余地も残されていないとはいえない。
(TNと郵便局のインクは、石川さん宅から発見された万年筆のものと) 類似のものであるとの鑑定結果が出されているのであって、このことによっても、前期のように被害者が友人から借りたり郵便局へ立ち寄ったりして、別のインクを補充したという点の蓋然性が一層強められるように思われる。」
なにをかいわんやである。TNが貸したというのは事件の1週間も前の話だ。しかも、事件当日までYNさんが使っていたのはライトブルーのインクだった。TNのインクを補充などしていなかったのだ。
また、記念切手の予約申込金領収書を手渡した郵便局員は、YNさんがすぐに立ち去ったと当時の供述調書で述べている。また、わざわざカウンターの端にあるインキ瓶からインキを補充するような行動を目撃してはいないし、また、弁護人に対しても、過去そのような例を見たことがないと述べている。
そりゃそうだろう。誰が郵便局のインク瓶からインクを補充する!? ましてや16歳の誕生日を迎えた少女である。恥ずかしくてできるわけがない。世間の常識は、四ツ谷裁判長以下の裁判官にはないらしい。
そして、悔しいことに、以降の異議審や特別抗告審でも、この 「推測」 がまかりとおった。推測で証拠が判断される・・・これはもう裁判の名に値しない・・・というか、何が何でも石川さんを犯人とするためのこの裁判は、最初からそうであった!
 万年筆の使用度
YNさんの万年筆は、1962年2月に兄のKNが買ってくれたものだった。だから、1年以上使っていたことになる。しかも、兄も自宅で書き物をするとき、使っていたことがある。
しかし、警察庁技官の柏谷鑑定によれば、「使用程度はごく少ない」 のであり、新品のような感じがするものであった。これは、書き具合からしてYNさんのもの、という1審での兄の証言を裏切っている。
 万年筆に関する結論
以上のように、万年筆は真っ赤なにせものであり、関巡査部長 (もしくは他の警察関係者) が2回目の家宅捜索以降に鴨居の上に置いたのである。