求聞持法について   (高野山時報より) 浅井覚超著

二、求聞持法と金剛頂経
虚空蔵菩薩求聞持法の儀軌としては善無畏訳『虚空蔵菩薩能満所願最勝心陀羅尼求聞持法』一巻があり、大蔵経を開くとその儀軌名の次に「出金剛頂経成就一切義品」とみえる。善無畏三蔵が故意に付いたものか、原本(梵本)がそうなっていたか知る由もないが、ともかく通達した阿闍梨の記したものである以上、この求聞持法は金剛頂経の凡そ一切義成就品の瑜伽法に属するものである。瑜伽法というより悉地深い関連を示すであろう。即ち、能満所願の言義と成就一切義の言義がほぼ同一であることに気がつく。善無畏は大日経(胎蔵法)に通じ、五部心観の末絵に三蔵の尊姿が見える如く、金剛頂経(金剛界法)にも通じていた。善無畏ならずとも「出金剛頂経成就一切義品」と記した阿闍梨はこの求聞持法が金剛頂経と特に深い関係のあることを銘記したのは何故であろうか。一切義成就品に虚空菩薩はみえるものの求聞持法の儀軌とは異なる。それは文献学的な引証というよりも、悉地を成就した世界(虚空蔵菩薩の境涯)から見ると深い関連があるという意味であろう。換言すればこの求聞持法が真言瑜伽法として成立、存在するに当たって、『金剛頂経』一切義成就品にみえる虚空蔵菩薩の深遠なる法の流れを汲んで成立したものであろう。その一例としては求聞持法の悉地成就者(即ち解脱者)はその成就の世界にて続けて金剛界法(金剛界大日如来)を主に修しゆく。真言瑜伽者においては胎蔵法も慈悲の心蓮を開敷するため、当然必要であるが求聞持法の成就者は、天性として慈悲深くその徹底した慈悲の立場にて求聞持法を成就し、金剛会大日如来の際限なき仏徳を備えんがために更に修行する傾向がある。即ち、大師が両部の大法を伝えても、末徒の修する法として金剛界立を主体とするのは、他に事相上の理由があっても今の求聞持法の成就者としての一面があらわれているように思えるのである。ここに虚空蔵菩薩の陀羅尼念誦によって智慧を成就し、なお明星の語を初出する経典に『虚空蔵菩薩経』姚秦、仏陀耶舎(カシミール出身)訳(五世紀始め)が存在する。その中に虚空蔵の説く陀羅尼は求聞持法のそれと相違するけれども、経の題名を次の如く説いている。「この経を懺悔尽一切罪陀羅尼経と名づく。亦、能満一切衆生所願如如意宝珠経と名づく。亦、虚空蔵菩薩経と名づく」同経中、明星については次のような記戴がある。「応に後夜に於いて至心に合掌して東方に向かうべし。堅黒の沈水(沈香)及び多伽羅香を焼き、明星に請うて言く、明星よ、明星よ、大慈悲を成し給え。汝、今初めて出でて閻浮提を照らす。大悲をもって我を護らん。我が為に虚空菩薩に白すべし。願くは夢中に於いて我に方便を示さんことを」ここで明星は行者の擁護者であり、虚空菩薩と行者の間をとりもつ役を担っている。更に同経には、「一切衆生に慈悲心を起し、東方に向いて至心合掌す。虚空蔵菩薩名を称えて是の言を作す。大智虚空蔵を憶持し、大慈悲を得。唯願くは我に不忘三昧を施さんことを。即ち、この陀羅尼を説いて言わく」以上、宝珠、智慧、明星、不忘三昧等と陀羅尼が説かれるのは求聞持法の骨子と同じであり、求聞持法軌の成立に当たって見逃すことのできない経典である。であるからと言って、求聞持軌の「出金剛頂経成就一切義品」は密教徒にとって動くものではない。又、別に金剛智訳の『五大虚空蔵菩薩速疾大神験秘密式経』一巻に、五大虚空蔵が説かれ、その咒、種子はタラク キリク(本文は梵字)の五文字であり、金剛界五文字のそれと同一である。又、この軌における五大虚空蔵の総咒(根本最勝心陀羅尼)は求聞持軌の陀羅尼と同じである。この儀軌中に、「加持蘇密作法細、求聞持儀軌如説」とあって、『虚空蔵求聞持法』軌の影響があり、「昼夜三時根本明一百万遍、即獲得大智恵」ともみえる。
別に、『瑜伽経』上の中にも五大虚空蔵が説かれ、バンウンタラクキリクアク(本文は梵字)の五字明も見える。ただこの場合は富貴成就を目的としている。ふりかえって前出の金剛智訳と伝えられる儀軌は、この『瑜伽経』諸説の如き五大虚空蔵を単に富貴の成就のみならず、智恵の成就として求聞持法の本尊として可能であることを強調したものと言える。諸家の言う如く、単に後代の作として疑うのみでは余りにも惜しい。後の作であっても、その意図するところは如法であるからである。大師は弘仁十二年(八二一)に両部曼荼羅等と共に五大虚空蔵を画かれ、以来、像としては神護寺、東寺のものが名高い。恵運将来の東寺のそれは金剛界五仏の乗り物の(動物)に乗り、五大虚空蔵と五智との関連を深く示している。太龍寺とか、真別処の求聞持道場の在る寺院に、獅子、象、馬、孔雀、金翅鳥に乗った五大虚空蔵が安置されている(五大虚空蔵の法としては金門鳥敏法が知られている)。ともあれ、金剛界五仏と五大虚空蔵とは密接な関係にあり、五大虚空蔵とは金剛界五仏が宝部の三昧に住した相でもあり、或は虚空蔵菩薩の具有している五智を開いて五尊にしたものと伝えられる。智恵の成就は特に金剛界法に属し、当然五智が関連してくる。智恵とは能力であり、聞持法の利益とするところである。今、『金剛頂経』の中の「一切義成就品」の執金剛である虚空蔵尊に対し、一印一明をもって親近し続けるのが虚空蔵求聞持ほうといえよう。求聞持の虚空蔵を能満所願虚空蔵菩薩とあり、「一切義成就品」中にも、「能満一切誓願者」の語がみえている。又、求聞持軌の中において、虚空蔵菩薩に五仏の宝冠があり、広斂の観法が見えるのは金剛頂経の名のもとに出されているように思われる。ところで胎蔵曼荼羅にも虚空蔵菩薩が説かれる。しかし、求聞持法という密法そのものは、「一切義成就品」所出という定義を忘れてはならないであろう。一見矛盾しているかのように、胎蔵の虚空蔵の尊形をもって求聞持本尊ともする(一説)けれども、その道場のかの菩薩は事相上のの理は別として、求聞持行を悉地成就させ得る法力をもたれている。又別に某寺の有名な虚空蔵菩薩は求聞持法を悉地成就させる法力を持たれていない。法の利益が別であるからである。このようなことは虚空蔵菩薩のみに言えることではない。同じ尊名でも、法界における活動はさまざまである。なお、一般に求聞持法はその功能として、不忘、智慧成就に目が注がれているけれども、それは修法の結果であって、その内容は、仏陀耶舎訳の「虚空蔵菩薩経」に説かれているように、破悪業障陀羅尼とか懺悔一切罪陀羅尼の名称そのものである。善無畏訳の求聞持軌にも、その冒頭部分にて「もし能く常にこの陀羅尼を誦う者は、無始より来る五無間等の一切罪障は悉く消滅す」と見える。即ち、智慧成就と罪業消滅とは表と裏のの利益である。誰であっても己の罪業を知るべくもない。一心に誦えていたならば、自ら罪業が消滅するという理屈通りにゆかぬのが求聞持法である。その理を通じさせねば求聞持法とはなりえないのである。
三、悉地成就へ続