またまた姉来襲(完)

「良夜くん、ちょっと話し合おうかぁ?」
 小夜子は笑ってない笑顔でそう言うと、良夜の襟を問答無用で掴んだ。
「……あっ、いや……あの……」
「いいから」
 なにか言う暇もあったればこそ。小夜子は掴んだ襟を力一杯に引っ張る。
「くびっ! 締まる! 締まる! 締まるってば!」
「うるさいんだおー」
 そのままずんずんと喫茶アルトのフロアを突っ切り、駐車場へと出た。
 盛夏の太陽が容赦なく良夜の肌を焼く。
「修羅場かしら? 殺されちゃうのかしら?」
 頭の上では諸悪の根源アルトの声が弾んでいた。
(後で伶奈ちゃんにひねって貰おう……)
 心に決める。
 そして、小夜子は笑ってない笑顔を壊さぬままに口を開いた。
「アルトちゃんだよね?」
 良夜の襟元を掴んだ小夜子の手に力が増した。
「まずは離せ!」
 良夜が大声を上げると姉の手が首根っこから離れた。
「けほっ……そうだよ。奴がお袋のカバンからスマホを引っ張り出したんだ」
 答えると小夜子は地面にしゃがみ込み──
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」
 日本語として聞いたことのない発音で唸り始めた。
 良夜はそのざまを見下ろしながら呟く。
「……まあ、その、なんだ……元気出せ」
 小夜子はバネ仕掛けの人形のような鋭さで立ち上がり、再び良夜の襟元を掴んだ。
「あいつ、大爆笑してたからね! 向こう十年はネタにされる!!」
 そう言った目には涙が浮かんでいた。
 幼い頃から虐げられていた日々が少しだけ報われたような気がした。
 そして、良夜はそっぽを向いた。
「まあ、されるよな」
「責任取れ!」
 思いもかけぬ言葉に、顔が姉の方へと向いた。
「どうやって?」
「一曲歌え、式で」
「なんでだよ!?」
 思わず声を荒らげると小夜子は良夜の襟元から手を離した。
「それくらいしてくれなきゃ、式へのテンションが上がんないんだよ」
「俺の歌でテンションをあげるな」
 良夜の言葉に小夜子の顔が真顔に戻った。
「誰が良夜くんの歌でテンション上がるんだよ。アルトちゃんだよ、アルトちゃん」
「ああ……」
 安堵と共に良夜は軽く頷いた。
 少し前に美月も「私よりもアルトに出て欲しいんじゃないんですか?」とか言ってたような気がする。
 妖精さん……読書好きな文学女性には夢見る存在なのかもしれない。
(アルトより俗物もそうそう居ないけど……)
 そう思う良夜の頭の上でアルトがうそぶく。
「いいわよ、そうね、『Fly to the me to moon』を歌ってあげるわ。『In other wordいいかえるならI love youあいしてる』でしめるなんて素敵だと思わない? 貴女のことだからどうせ真面目に愛してるなんて言ったことないんでしょう? だから、私が代わりに歌ってあげるの」
「……──だってさ、よかったな、ねーちゃん」
「そうそう、伴奏は生がいいわ。アンサンブルを用意しろとは言わないけど、せめてピアノ伴奏くらいは付けるのよ」
「……──って抜かしてる」
「さすが良夜くんが世界で一番めんどくさい女と思ってる妖精さんだね」
「今日、二位に格下げされたけどな」
 良夜が言った瞬間、小夜子の両手が大きく広がった。
 ダボダボのトレーナーを蝶の羽のように広げたかと思うと、小夜子はクルクルと変なダンスを踊り始める。
「良夜くん内ランキング一位だおー、だおー、だおー、だお〜〜〜〜〜」
 その奇妙な踊りをじーっと十秒ちょっと見つめた後、良夜は静かに言う。
「……そういうとこだぞ、アラサー」
 小夜子の喜びの踊りがぴたりと止まった。
 そして、クワッと大きく目を見開き彼女は叫んだ。
「四捨五入禁止!」

「海外赴任について行ったとは言ってもただで使える通訳代わりでしたから……」
「堪能なんですか? 私は全然だめでして……」
「いえいえ、少しだけ──あっ、良夜、小夜子、お帰り。どうしたの?」
 さて、話を終えてフロアに帰ってくると先ほどまで貴美のいた席になぜか美月の母清華が座り和泉と話し込んでいた。
「ちょっと話をしてただけだよ。それで、吉田さんは?」
「伶奈ちゃんと会ってくるって、直樹くんと一緒に」
 清華が答えた。
「ああ、そうですか……」
 元々座っていた席に腰を下ろすと、小夜子もそれに習うように席に着く。
 その小夜子が座るのを待って和泉が尋ねた。
「で……結婚、する気になったの?」
「アレだけ全部聞かれたら、もうどうしようもないよ」
「吉田さん……だったかしら? ショートヘアーの人、あの人も言ってたけど、マリッジブルーなんてすぐに収まるわよ」
「わかってるわかってる、腹くくったから……でも、今日の話は折に触れて言われるんだな……って思うと気が重くなるんだよ」
「自業自得よ」
「……わかってるお」
 プイッとそっぽを向く小夜子から良夜へと和泉は視線を動かす。
「次はあんたよ、良夜。同棲は仕方ないしても、どのくらいをめどに結婚する気? だらだら同棲期間延ばした挙げ句デキ婚なんて体裁の悪いことだけは絶対に止めて欲しいの。きっちり期間を決めなさい」
 その和泉の言葉に良夜はちらりと清華の方へと視線を向けた。
「…………」
 そっぽ向きやがった。
 そこから和泉の方へと視線を戻して、良夜はぽつりと言う。
「……一年半後……」
「へっ?」
 瞬間和泉の顔が間抜けになった。
 その間抜けヅラを見ながらもう一度言葉を紡ぐ。
「……一年半後、再来年の春先をめどにどうにかする可能性を模索しながら計画を立てる所存であります」
「なに、その怪しげな政治家答弁。だいたい、そのスケジュールだと来年末には結婚式の準備を始めることになるんだけど……なんでこっちに相談しないわけ? こっちにだって予定があるのよ、わかってる?」
「……そうですね」
「なに? その他人事みたいな言い方。からかってるの?」
 和泉の視線がすっと細くなり、眉と眉の間に深い皺が刻まれる。
「……いや、その……からかってる訳ではないんだけど……」
 ゴールデンウィークに良夜が美月に対して『二年後に結婚しよう』と言ったことは一応覚えているが、その『二年』に大きな意味や根拠があった訳ではない。
 ぶっちゃけ、酔った勢いだ。
 美月だって半分は本気にしてない……と思う。
(思いたい……)
「そもそも、その一年半後って期間はどこから湧いてきたの……三島さん、聞いてます?」
 良夜の思考を無視して和泉が清華に尋ねる。
「あっ……いや、あの……その……えっとぉ……」
 しどろもどろになりつつ、清華は良夜の顔をチラチラと視線を送る。
 清華はことの成り行きを知っている。
 良夜が酔った勢いで「二年後に結婚しよう」と言い出しちゃったことも、そして、その悪酔いの理由が──
『ねーちゃん取られた』
 ──だったことも、だ。
 美月が話の流れで漏らしちゃったのだ。
 投げかけられる視線に良夜はフルフルと首を左右に振って応える。
「えっ……えっと……わっ、私はあまり詳しい話は知らなくて……」
「良夜が勝手に言ってるだけ?」
「いや……そう言う訳でもなさそうなんですよ、むしろうちの娘の方が乗り気で……」
「じゃあ、お嬢さんを──」
 和泉の言葉を良夜が無理やり遮り、大きめの声を上げる。
「仕事! 仕事中だからね、美月さんは!」
 その行為にさらに和泉の視線が冷ややかな物へと変わっていく。
「……何か聞かれて困る理由でもあるの?」
「べっ……別に……」
「良夜」
 和泉の声のトーンが一オクターブ下がった。
「あっ、ごめんなさい、座り込んじゃって。そろそろ、吉田さん達の注文もできあがるころですね、取りに行かないと。それじゃ、失礼しますね。どうぞごゆっくり」
 小夜子は早口でそう言うと、席を立ち、頭を下げた。
 それに合わせて和泉も腰を浮かし、軽く頭を下げる。
「申し訳ありません、お仕事中なのに……」
「いえいえ。それではまた後で……」
 そそくさと逃げ出す清華を和泉が見送った。
 そして、頭の上でことの成り行きを見物していたアルトがぽつりと漏らす。
「……逃げたわね」
 視線で清華を追っていた和泉が良夜へと顔を向けた。
「それで……美月さんっていくつ?」
「四月に二十五になった」
「……じゃあ、再来年のゴールデンウィークだと二十七? 頃合いと言えば頃合いだけど……」
 考え込む母を尻目に良夜は冷えてしまったピザを口に運ぶ。
 トマトソースにミックスベジタブルとシーフードミックスがよく合う。
「ねーちゃんも式のちょっと後に二十七だお──うっ、冷たい……」
 完璧に冷え切ったピザに小夜子が眉をひそめる。
「よかったわね。お酒を飲みながら半泣きで『ねーちゃん取られた〜』って話、ねーちゃん本人にしないですんだわよ」
 ストローにコーンを突き刺したアルトがうそぶく。
 その頭を指先で軽く弾く。
 ざくっ!
 ひょちよけたアルトが、カウンター気味に指先をストローで刺す。
「つっ……」
「どうしたの?」
 顔をしかめた良夜に和泉が尋ねた。
「なんでもない……それと、別に年齢でせっつかれてる訳じゃないからな」
「じゃあ、なに?」
「勢い」
「勢い……ね……」
「酔った勢い、でしょ? ちゃんと言わなきゃ」
 茶々を入れるアルトには一瞥だけを与えて、良夜は最後のピザを口に押し込む。
 そして、よごれた指先をペロッと軽く舐めて、彼は口を開いた。
「母さんだって言ってだろう? 結婚なんてノリと勢いだって。俺のもそんなもんだよ」
「まあ……それはそうだけど……でもね、良夜、十一月の結婚式直前に再来年には結婚しますって言われても困るの」
「ねーちゃんのおかげで話ができてよかった──軽い冗談だおー、そんなに睨むと目尻の小じわ、増えるよ?」
 これまた茶々を入れてくる姉を母が一瞥。
 軽くため息を吐いたら、良夜の方へと視線を戻した。
「早ければ早いに超したことはないし、相手に関してもとやかくは言わないけど……」
 そこまで言って母は言葉を句切る。
 そして、アイスコーヒーのグラスに口を付ける。
「勢いが覚めてこのバカみたいに結婚直前であーだのコーダのうじうじぐじぐじ悩み出すんじゃないわよ。女なら面倒くさいと思われつつも可愛いと許されるグダグダも、男なら百パー鬱陶しいだけだから」
 一息に言い終えると、和泉はクラッシュアイスだけになったグラスをテーブルの上へと戻した。
「小夜ちゃん可愛いから大丈夫だおー」
「うるせぇ、アラサー。ちょっとは落ち着け」
 冷えたピザを口に運びつつそう言う姉に弟が冷たく言い切った。
 すると姉は咥えていたピザの欠片を皿に戻し、さらにはお口の周りの油をペーパーナプキンで丁寧に拭う。
 さらにはそのナプキンを丁寧にたたんでテーブルの上に置いたら、芝居がかった仕草で身をよじった。
「ひどい……りょーや君……そうやってすぐに四捨五入するんだから……ひどいよ……謝って……全世界の二十五歳以上三十歳未満の女の子に──」
 一旦言葉を句切ったかと思うと、ガバッと身を乗り出して彼女は叫ぶ。
「──謝って!」
 なぜか涙の溜まっている目元をチラッと見て、良夜は軽くため息を吐く。
「うるさいよ、アラサー、四捨五入して三十は全部アラサーだ」
「後で美月ちゃんにもそう言っとくね」
「……今の失言でした、お姉様」
「……はぁ、好きなだけ姉弟漫才してなさい。母さんは──」
「あのぉ……」
 和泉が腰を浮かしかけたところに美月がひょっこりと顔を出した。
「あら……お仕事は?」
「えっとぉ……まだ終わってはいませんけど……キッチンでうろうろしてたら、翼さんに鬱陶しいと言われまして……それでご挨拶だけでも……」
 瑞樹が困ったように頬をひきつらせて答える。
 和泉は椅子に座り直すと、困り顔の美月を見上げ、頬を緩める。
「こちらこそごめんなさいね。アポなしで急に来ちゃったりして。嫌でしょ?」
「いっ、いえ。当店は予約制ではありませんから……」
 慌てて美月が首をぶんぶんと左右に振る。
 髪の毛を押し込まれ膨らんだコック帽が揺れるのが可愛い。
「そう……じゃあ、年末年始はここで過ごそうかしらね……どうせ良夜は帰省しないし」
「おま、お待ちしてます、はい」
親父とお袋ふたりが帰国してるときは帰るって。あと、うちには泊めないからな、狭いんだし」
 和泉の言葉に美月は緊張した面持ちで、そして良夜はぶっきらぼうに答えた。
「はいはい……それにしてもまさか小夜子の一年半後に良夜までとはね……なにがよかったのかしらね……」
「どこがいいか、未だによくわかりませんけどね」
 少し苦笑い気味にそう言うと、美月はすっと目を閉じた。
「ただ、目を閉じて、幸せな風景を想像すると、私はカウンターの内側からお客さんのたくさんいるフロアを眺めて、私の隣には良夜さんが居るんですよ」
 どこか誇らしげに言う恋人の姿に居心地の悪いものを感じつつ、良夜は美月の顔を見上げる。
 閉じていた目が開き良夜の顔を見て微笑むのを見ながら、良夜は口を開いた。
「だから、俺を働く方そっちがわに置かないでってば……就職したばっかなのに」
 良夜がため息マジに呟くと、美月もため息交じりで呟く。
「会社……潰れちゃいませんかねぇ〜」
「こえーよ……」
 ──と良夜が美月が話していると、和泉が言葉を挟んだ。
「はぁ……ごちそうさま。甘過ぎて胸焼けがするわね……」
「悪かった……」
 顔が熱くなるのを良夜は感じた。
「まっ、これでねーちゃんの大事な弟くんは黒髪の美人さんに取られちゃった訳か……ううっ、ねーちゃん、寂しい……」
 小夜子は相変わらず芝居がかった口調と仕草で身をよじる。
 そんな姉に良夜が何かを言おうとした瞬間──
「大丈夫ですよ〜良夜さんもねーちゃん取られた〜ってやけ酒飲んでましたからねぇ〜」
 笑顔で美月が言い切った。
「美月さん!?」
 その言葉に良夜は腰を浮かせて大きな声を上げた。
「あら、弟らしいところもあったのね」
 そう言ったのは母和泉だ。
 そして、姉小夜子は……。
 恐る恐る良夜は姉の方へと視線を向けた。
 大きな眼鏡の向こう側では大きく見開いた目が輝いていた。
 その目が糸のように細くなったかと思うと、姉は言った。
「ありがと」
「えっ?」
 思わず良夜の口から言葉が漏れる。
 そして、もう一度小夜子は目を細めたままで言う。
「ありがと」
「なんだよ、気持ちわるいな……」
「ふふ……いいじゃん。お礼、言いたい気分になったんだよ」
 笑顔を崩さぬままにそう言い、そして立ったままの美月にも視線を向けて、小夜子は言う。
「美月ちゃんもね、ありがと」
 そして、彼女はもう一度良夜の方へと視線を向ける。
「一生忘れないから」
 その笑顔に良夜はガバッと突っ伏して──
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛、一生言われるんだ……」
 先ほどまでの姉と同じような叫び声を上げるのだった。

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