番外編:十八年後
ホワイトパールのスイフトが駐車場に滑り込む。壁際の駐車スペースにおっかなびっくりな様子で幅寄せするのに、五分以上かけて、ようやく車が止まった。
「ふぅ……この壁、怖いなぁ……」
ドアが開くと下りてきた女性がため息混じりに呟いた。ブラウンがかかった髪を軽くカールさせた眼鏡の女性、浅間小夜子だ。
某私立高校で教師をやっている小夜子は毎朝、七時半くらいに出勤している。授業の準備とかあるのでこれくらいには出ないと色々としんどいこともある。もっとも、授業の準備と思って教科書を開いたら最後までずーっと読みふけっていたとか言う間抜けなことをしてしまうことがたまにあり、そう言う事をしてしまうとこの時間では間に合わないって事にもなりかねないのだが……
小夜子がいつも利用している駐車場は、二つの大きな校舎に挟まれるような形で作られていた。しかも、壁の向こうは車がすれ違うのも厳しいくらいの細い道一本隔てて民家が建っているお陰でいつも薄暗く、陰気くさい。まあ、これから夏へと向かうこの時期としては涼しくてちょうど良いのだが……
そんな駐車場から校舎の脇の通路を抜けると、グラウンド。サッカー部や野球部、テニス部等々多くの運動部生徒達が朝練に励む姿がある。黙々と走ったり、白球を追いかけたりしている生徒達に内心『何が面白いんだろう……?』と本気で不思議に思いながらも、表面上は「いつも頑張ってるね」といたわりの言葉を投げかける。それが小夜子の日常という奴だ。
今日もそんな日常風景を演じようとした小夜子の目に、見慣れぬ一団が目に付いた。
グラウンドから校舎へと繋がる三段ほどの階段、そこに腰掛け空を見上げる集団が居た。体操服やユニフォームの生徒達が疎らにいるだけのグラウンドの中、制服姿の一団が座り込んでいるという姿は妙に目立つ。それにそこに座られていると結構邪魔だ。
「何してるの?」
「ああ。さよちゃん。おはよ」
尋ねる小夜子に返事をしたのは、小夜子が現代国語の授業を受け持っている女子生徒だった。
「せめて、小夜子先生って呼ぼうよ……それで、こんな所に座り込んでたら邪魔だよ? 蹴るよ? 踏まれたいの?」
「蹴ってから、踏んでくださぁい。出来ればヒールで!」
小夜子の言葉にそう答えた男子生徒が居たので、とりあえず、ハンドバッグからポケット国語辞典を取りだす。そして、それを縦にして脳天に食らわせる。
「ぎゃっ!」
と、悶絶しているが、誰もがスルー。彼はそう言うキャラなので、問題はない。
「金環食だから、天文部で観察。立派でしょ?」
最初の女子生徒が答える。辺りを見渡せば、エントランスに腰を下ろしている他の面々も、手には紙製の観測用眼鏡やらサングラスやらを持っていたり、フィルターらしき物を貼り付けたカメラで太陽の写真を撮ろうとしていたり……向こうには大砲のような望遠鏡を覗き込んでいる生徒も居る。
「ふぅん……そんなのがあったんだぁ……」
教え子に教わり、彼女はぼんやりと空に目を向けた。
薄曇りの向こう側にうっすらと太陽。その太陽は良く見れば欠けているような気もするが、眩しくてろくに見えやしない。
「って、さよちゃん、直接で見たら目を悪くするって、しかも眼鏡だし……テレビとか新聞でもわーわー言ってたの、知らないの?」
女子生徒の慌てたような声に視線を下ろす。差し出される右手、そこには紙製の観測用眼鏡。それを受け取ると、彼女は眼鏡の上からかけた。
「うーん、テレビはずーっと見てないし……新聞は連載小説が気になって眠れなくなるから、取ってないよ」
答えながらに小夜子は視線を上げる。真っ黒になった視野の中、雲の向こう側、うっすらと見える太陽が一つ。
「あっ……」
それは下の方が随分と掛けていて、単純な比喩で言わせて貰えば――
「視力検査の下……」
「……さよちゃんって本読んでる割に表現力ないよね……」
「ウソウソ、綺麗だったよ、ありがとう。金環食は終わっちゃったの? それともこれから?」
サングラスを返しながら、小夜子はあきれ顔の女生徒に尋ねる。すると、彼女は軽く首を振って答えた。
「ううん、この辺りじゃ金環にはならないよ。最大食は少し前だったけど、さよちゃんが見たのと余り変わらないよ」
「ふぅん……どこまで行ったら?」
「南に二十キロくらい行けば、ギリギリ……だっけ?」
女生徒の言葉に、先ほど、小夜子にポケット辞書で攻撃を食らった生徒が――
「空港から見れるってさ。サボって行こうか思ったんだけどなぁ……っと、さよちゃん、ケータイ、貸して?」
と言うと、コンクリートの上に座ったままで小夜子の方へと視線を上げた。
「いたずら禁止だよ?」
言われるままにケータイ電話をハンドバッグから取りだし、手渡す。今流行のスマホという奴ではなく、極々普通の携帯電話、機能がなくて安い奴だ。それを青年に手渡すと彼はカチカチと慣れた様子でそれを操作。もう一つの――おそらくは自分の携帯電話と突き合わせて、何かしていたかと思うと、物の一分と掛からず、彼女に携帯電話を突き返した。
「何したの?」
「こっちで撮った最大食の写真を転送したんだよ。今日の記念」
小首をかしげると、青年は屈託のない笑顔を浮かべて答えた。
彼の手から携帯電話を返して貰ったものの、携帯電話と言えば電話と業務連絡のメールを受けるくらいにしか使わない小夜子だ。写真は撮れると言う事は知っていたが撮ったこともないし、勿論、こんな風に転送してもらうのも初めて……よく解らないなぁと内心思いながらも、唇は半ば反射的に言葉を紡いでいた。
「へぇ……ありがとう……」
「いえいえ、お礼にはハイヒール踏んで――ぎゃっ!」
「踏んであげたよ〜スニーカーだけどねー……――さよちゃん、使い方、わかんないんでしょう? 貸して」
戸惑う小夜子に気付いたのか、女生徒がお調子者の青年の頭を踏みつけながらに携帯電話をひょいとつまみ上げる。そして、指が数回動いただけで終わり。帰ってからマニュアルでも読もうかと思っていた自分がちょっぴり恥ずかしい。
「これ……綺麗に撮れてる」
ケータイを弄る手を止め、彼女が呟く。その呟きに答えて小夜子も彼女の手の中にある携帯電話を覗き込んだ。
フィルターのせいで薄曇りだというのに雲は恐ろしいほどに真っ黒。その真っ黒い薄雲の向こう側に、半円を描く金色の太陽がポカリ浮かぶ。その光と影のコントラストに小夜子も「へぇ……」と感嘆の声を上げることしか出来なかった。
「あっ、俺も見せて――確かに綺麗」
「私も〜わぁ〜良く撮れてるね、後で私のケータイにも送って?」
二人が携帯電話に見入っていれば、他の面々も携帯電話を覗き込む。そして、口々に賞賛の言葉を並べ立てる。
「いやぁ〜まあ、たまたまな? タイミングが良くてさ……それより――」
そして、褒めそやされる本人は……
「いい加減、この足、どけて? それか、せめて、別の人にして? お前には萌えないから」
未だ、女生徒の足の下に居た。体育座りしている膝の間に顔が突っ込まれてる感じ。結構苦しそうに見えるのだが、余裕のある言葉を吐く。もしかしたらマジでMなのかも知れない。
「うっせ、ぼけ!」
余計なひと言に女生徒の足がもう一度うなり声を上げた。メキョッと嫌な音がしたが、彼は丈夫なので大丈夫。
その直後、頭の上に設置されたスピーカーから予鈴が鳴る。
「っと……そろそろ、教室に入らなきゃね? 遅刻して担任の先生にしかられてもフォローはしないよ?」
そう言って小夜子は、解散の合図代わりにパンパンと手を二回ほど打った。
「はーい」
素直に校舎の中へと入っていく生徒達。それは踏んでいた女生徒も踏まれていた男子生徒も同じ。そんな中、小夜子は先ほどの男子生徒に声を掛けた。
「ねえねえ、ちょっと……」
その日、小夜子はほんの少しだけ、朝礼に遅刻した……
そして、その日の夜……
日本を遠く離れた某国、某所には……
『綺麗だったよ』
こんな一文に写真が添付されたメールが届けられていた。その写真は太陽の下の方、ギリギリ、かろうじて欠けているというのが解ると言う素晴らしい物だった。
「メール、短すぎだろう……?」
機械音痴の恋人からのメールを苦笑いと共に、恋人は受け取った。
その短すぎるメールへの返事はやっぱり短すぎる物だった。
十八年後、北海道で、一緒に……