新しい一年
 出際にすったもんだがありましたが、良夜と美月、おまけのアルト、三人のデートが始まった。最初に赴いたのは市街地にある小さなイタリアンレストラン。なんでもパスタが美味しいという評判だ。
「……パスタが不味いイタリアレストランって、潰れるべきよね」
 紹介する美月にアルトが言えば、良夜と美月は想わず吹き出す。アルトから三十分程度のドライブはこんな感じで賑々しく続いていた。そして……
「美味しかったですね」
「確かに、パスタの美味しいお店だったわね。値段も普通かしらねぇ……って、良夜、大丈夫?」
 その噂のパスタが美味しいイタリアンレストランから出て来た時、良夜はすでに口元を軽く押さえていた。昨夜の夕飯も控えめで今朝の朝も抜き。限界にまで空っぽにしていた胃袋に、ミートソースのパスタを美月が残した分も含めて一人前と三割くらい、それにスープとガーリックトースト、後、ティラミス少々。これはきつい。しかも、まだ、一発目で後三発残っているかと思うとそれだけで吐き気がしてくる。
「……あぁ、絶食した後に急に重たい物を食べると、内臓に負担が掛かるそうですよ? 大丈夫ですか?」
 駐車場に停めた車の横、助手席側にまでやって来た美月は心配そうに良夜の顔を覗き込んだ。大きな二重の瞳が良夜を覗き込むと、つい――
「あっ、大丈夫です……」
 力なくも、はっきりとした口調で、そう言ってしまう。それを誰が責められようか?
「……馬鹿じゃないの?」
 頭の上の妖精以外で。
「次はもうちょっとしっかりしたコースなので……えっと……あの……」
 申し訳なさそうに彼女は、しばらくの間、逡巡するも彼女は言った。
「頑張ってくださいね」
 その一言に良夜はため息を一つ。そして、小さな声で呟いた言葉に美月は、なぜか、喜んだ。
「最近、吉田さんみたいだよな……」
「えっ、そっ、そうですか? そんな事、ないと思いますけど〜」
 彼女の視線が胸元に落ち、手が嬉しそうにそこを撫でている理由を聞くほど、良夜は愚かではなかった。

 つー訳で美月の言う「もうちょっとしっかりしたコース」はアンティパスト……まあ、オードブルみたいな物から始まって、最後のデザートを含めて皿が七つという大作だった。一つ一つが少ない分、美月も大部分を食べてくれたので良夜の負担は小さく済んだのだが……
「大作過ぎて、参考にはなりませんでしたねぇ……良いお値段もしましたし……」
 努力を無碍にされる一言に良夜はガッカリ。美月も今回はかなり食べたのでしきりにお腹をさすっていた。
 駐車場に戻ると、良夜は美月が運転席に乗るのを手で制し、自身が運転席の方に座った。少しでも体を動かしてないと眠ってしまうような気がしたのと、運転でもすれば多少なりとも腹ごなしになるかと思ったからだ。それに美月は素直に礼を述べると、自身は助手席へと滑り込んだ。ついでに言うと、アルトは後部座席のぬいぐるみの下である。良夜が運転する時は未だにそこに潜り込むようにしているようだ。
「ちょっかい、出さないでくださいよ?」
「ダメですか?」
「危ないじゃないですか……」
「ふにぃ……じゃあ、公渕公園、解ります? 大きな池の側にある公園なんですけど……」
 生活道路然とした県道にパステルカラーの軽自動車を走らせながら、良夜は美月の言う地名を記憶の中から検索してみる。地名だけは聞いたことがあるのは、その『大きな池』というのがバス釣りのメッカだからだろう。確か、友人が行くという話をチラッと耳にしたことがある。
「ああ……場所までは解らないなぁ……」
 どうやら次の目的地はそこの中にある喫茶店らしい。コテージ風の店構えと豊富なランチコースがおすすめだそうだ。
「それと、コーヒーも美味しいらしいですよ」
 その一言にアルトの目の色が変わったのはご愛敬。美月が言う通りに細めの県道から市道に入って、右に行って、左に行って、ちょっと迷って、挙げ句の果てには『大きな池の周り』を三周して、ようやく着いたコテージ風の喫茶店は――
『本日休業日』
「なんなのよ!? もう!!」
 円い覗き窓のあるドアにはそんなプレートが一枚、ぷらぷらと春風に揺れている。それを前にし、アルトが良夜の頭の上で切れてみても、どうにかなるわけでない。勿論、猫の子一匹居そうにない店内から、誰かが出てくる様子もない。むしろ良夜は一食減って一安心……と行きたいところだが、美月のことだから、もう一軒や二軒、手札を抱えていても不思議ではない。そして、その懸念は命中するわけだが、それは後のお話。
「まあ、しょうがないですよ〜ここはまた後日、来ることにして……――あっ……」
 同情の言葉をアルトに掛けていた美月が何かに気付いたのか、パタパタとその場から池の畔へと掛けだした。その美月の様子にアルトと良夜は互いの顔を見合わせ、苦笑い。子供のような人だと思いながら、後を行けば、池の畔では脇腹を抱えて彼女はしゃがみ込んでいた。
「よっ、横っ腹に来ました……くぅ……」
「食べてすぐ走るから……」
「あっ、でっ、でも……ほら……」
 そう言って美月は視線を頭上へ……釣られて良夜も顔を上げれば、良夜達の倍ほどの背丈がある木には濃いめの桃色をした花が満開。よくよく辺りを見渡してみれば、その花が咲く木は一本だけではなく、池の周り、ぐるっと取り囲むように植えられていた。
「サクラですかねぇ……」
「桃だと思うわよ。まだ、三月の末だし、桜は早いわよ」
「そうか? 寒桜とか、早咲きのサクラじゃないのかな……?」
 美月、アルト、良夜、三者それぞれに空を見上げ、蒼とピンクのコントラストに眼を細めた。そして、腹痛でしゃがみ込んでいた美月も、すぐに復活。走れば横っ腹に来るものもあるだろうが、のんびりと春風に吹かれて歩けば、良い腹ごなしにもなる。三人は池の周りを、そして、サクラか桃か、もしかしたら梅かも知れない木の下をてくてくとのんびりと歩く。基本的に、樹木の種類に普段から興味があるわけでもなければ、知識があるわけでもない三人に、種類はよく解らない。しかし……
「春が来たぁ〜って感じはしますよねぇ……こう言うのを見ると」
「木にピンク色の花が付いてると、春〜って気がするわよねぇ……」
 妖精の言葉を美月に伝えながらも、そんな物か? と良夜は思う。確かにそう言う時期かとも思うが、今は、池の上を駆け抜ける風が意外と冷たいことの方が気に掛かる位……と、思い立ったところで、良夜は着込んでいたレザーのコートを脱ぎ、美月の肩に引っ掛けた。
「ほえ……? 良夜さん……珍しく気が回りますねぇ……」
 白いブラウスも若草色のスカートも余り厚着とは言えない感じの美月は、コートの身頃を合わせながら、良夜に不思議そうな顔を向ける。同時に頭の上に座っていた妖精さんも上半身だけをぐいっとのりだして、良夜の顔を覗き込む。勿論、大きな目は普段以上に大きく、ぽかんと開いた口は今にも嫌みったらしい言葉を紡ぎそうな勢い。
「……返してくれる? 俺も寒いし……」
「ああ、いえいえ。温かいですね、これ」
 芝居がかった口調と手つきでコートの襟首を引っ張れば、美月も冗談めかした態度でギュッと抱き込むように掴む。一見すれば馬鹿なカップルに見えるだろうなと思い立ち、妙な気恥ずかしさを感じた。それを誤魔化すようにコホンと、小さな声で咳払いをし、二人……アルトは良夜の頭の上で歩いてないので数に入れず、二人は池の周りを再び、歩き始めた。
 池の周りには遊歩道も完備されているようで散歩がてらに歩くには丁度良い感じになっていた。しかし、散歩するにはまだちょっと肌寒いのと、平日の昼間とあって、人気は疎ら。贅沢にもこの花々を三人は貸し切りで楽しむことが出来ていた。
 取り留めもない雑談と腹ごなしの運動の中、美月がぽつりと漏らした。
「ああ……もう、新しい年度なんですねぇ」
「えっ……ああ、まあ、確かにそうですね」
 言われてみれば当たり前だし、現実的に良夜も来年度の授業の取り方とか、教科書がどうとか、と雑事に追われていたりもする。しかし、それは、むしろ『新学期』として考えている部分も多く、『新年度』と言われるとピンと来ない部分もある。良夜は頬を指先でポリポリとかきながら、何処か嬉しそうに説明をする美月の顔を見ていた。
「ほら、うちってあんな環境ですから、年末年始よりも年度末、年度初めの方が、ああ、今年も新しい一年って感じがするんですよ。新しいお客さんも増えますし」
 そう言えば、似たようなことを頭の上の妖精も言っていたような気がする。それは去年か一昨年の春だったかも知れない。チラッと視線を向けても彼女は良夜の頭の上に座り込んだまま、かかとでリズムをとって鼻歌を歌っている様子。話にも参加しようとしていない。
 頭上から下に視線を戻すと、美月はとっとっと早足で良夜の前へと滑り出ていた。よく手入れされた黒髪が風に舞い、大きく広がる。
「それに、今年は特にお店の営業もちょっと変えますしねぇ〜特に『新しい一年!』って気がするんですよ」
 良夜の一歩前、後ろ向きで歩く美月の顔を見ながら、良夜は池の上から吹く風に吹かれた。ジーパンにネルシャツではまだ少し肌寒い風、しかし、何処か若草の、春を感じさせるところがなかったと言えばウソになるかもしれない。視線を風が吹いてくる方、池の向こう側、対岸へと向けてみる。そこにはやっぱり、良夜達の頭の上で美を誇る花と同じ花が咲いていた。濃いめの桃色をした花々、匂いはあまりしないようだが、強いて言うなら春の香りという物がしているのかも知れない。
「ああ、確かにそうですね。じゃあ、新しい一年、いい年だと良いですね」
 それは美月に向けた言葉であると同時に、三年となって色々と忙しくもなりそうな自分にも向けていった言葉。わずかに笑みを浮かべながら、視線を対岸から美月へと戻せば、青年の顔が「あっ」と固まる。
「ふえ? ――ひゃっん!?」
「……後、車止め……って言おうと思ったけど……」
 遊歩道と車道の境には、車止めのポールが二本とその間に通した一本の鎖があった。後ろ向きに歩いていた美月はその存在に気付くはずもなかった。哀れ彼女は、鎖に足を取られて大きな尻餅、しかも開いた足がスカートを捲り上げて――
「やっ、あっ、みっ、見ました?」
 慌てて隠しても後の祭り。白い下着と健康的な太ももはばっちり良夜の瞼に焼き付いていたりして……
「ちょっと気を効かせたらこれか!? このど変態!」
 やけに静かだった妖精さんの一撃が良夜の脳天に直撃で突き刺さる。しかし、この程度なら良い物見られたし……と思った直後、俺、もう、二十歳過ぎたんだぞ……とこの程度で得した気分になる自分に自己嫌悪したりと、忙しい一瞬。
 しかし、彼は結局、ついてなかった。
「りょう、良夜さん……あのぉ……」
 ストローの痛みに頭を抱えてるうち、美月は自分から立ち上がっていて、逆に頭を抱えてしゃがみ込む良夜を見下ろす勢い。その美月の顔を見上げれば、すこし顔色が悪いのは――
「あっ、何処か、打ったりしました? 頭とか……」
「あっ、そっちは……お尻と手のひらをちょっとですから……でも……」
 そう言って彼女がお尻を向ければ、彼女に貸していたレザーのちょっと良いコートに……
「げっ……」
「ひっ、引っ掛けちゃった……みたいで……」
 大きくはないがしっかりと目立つ位置にかぎ裂きが出来ていた。
「新年度もこの調子かしらねぇ……」
「あっ、いえ、あの、ほら、まっ、まだ、三月で……新年度は四月からだから……だっ、大丈夫じゃないかなぁ……」
 アタフタと袖を振り回して力説する美月を見るにつけ、去年の末に買ったばかりのレザーコートを破られた良夜は願わずにはいられなかった。

「ホント……新年度はいい年だと良いな……」
 と。

 そう呟く彼の頭上、冷たい風の向こう側で一足早く春を告げる太陽がひっそりと輝いていた。

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