身だしなみ
 おはようございます、幽霊です。
 梅雨ですね……梅雨入り宣言直後は全く雨が降りませんでしたが、最近は少しは降るようになってきました。本当に少しのようですが……農業やってる方などは色々と慌てているようですね。
 全く関係ありません。
 どうせ、私は飲み食いの出来ない非生ものですから。食料品が高くなったところで、全然関係ないのです。
 と冷たい事を言ってしまうと、冷たい人間のように思われてしまいます。取り繕うくらいの知恵と大人らしさは持っているので公言はしません。突っ込み所です。
 皆さんは雨、お好きですか? 私は好きです。幽霊たるもの、水系は好きと相場は決まっています。怪談などでもあるではないですか? 絶世の美女が不意に消えた後、その場所が濡れている……とか。輪っかの人も井戸が住居でしたね、具体的な名前は出しませんが。
 ……
 嘘です、ごめんなさい。雨なんて好きじゃありません。幽霊としてのアイデンティティのため、好きだと言ってみましたが、嫌いなものは嫌いなんです。
 私の髪は猫っ毛なのでこの時期、湿度が高くなると妙にぴんぴん跳ねてしまうのです。まるでアホ毛です。アホ毛も一つや二つくらいなら萌の対象でしょうが、頭全体にアホ毛を飼ってるようになるともはやライオンです。ライオン幽霊さんです、溜まりません。
 毎朝毎朝、お手洗いの鏡とにらめっこです。それも小一時間以上……一時間もトイレに籠もっていると、体に芳香剤の香が染みつくような気がします。はぁ、憂鬱です。テンションが下がります。ただでさえ普段から低めなのに。
 そう言うわけで、今も鏡とのにらめっこの最中です。生ものさんでもこの時期の猫っ毛は大変でしょう。櫛を使ったり、スタイリングウォーターを使ったり、ドライヤーを使ったり、色々なさっていらっしゃると思います。
 しかし、私は非生ものなのです。大いなる問題があります。
 下手なところで下手なものを使うと即お払い。これです。ピンチです、私。
 櫛も整髪料もドライヤーもお店には沢山あります。文字通り売るほどあります。櫛やドライヤーのように使い減りのしないものは、いくら使ったところで心は痛みません。店の中から持ち出してないので、万引にも当りません。万引き犯罪です。止めて下さい、と春先、勝手に商品を飲み食いしようとした非生ものが言ってしまいます。過去の事は振り返りません。
 しかし、この時間帯、私はこの辺のものを持ち歩けません。どう見ても霊現象、いわゆるポルターガイストという奴です。日本語で言うと騒霊と言います。トリビアですね。
 見つかったら確実にお払いが待っています。
 閉店後の夜ならば問題はないのですが……夜にヘアセットしてどうしますか? 後は寝るだけです。夜のお仕事はしていません。
 仕方がないので、水と手櫛だけで整える日々です。物凄い手間です。しかも店員さんが入ってらした時、変に水道の水が出てたりするとまたもやお払いのピンチが待っています。ばれないようになおかつ入念に、日々のんきに存在しているだけの幽霊も色々と気苦労が多いのです。
 前日の夜や朝から雨が降っている時など目も当てられません。
 そして、今朝は昨日の夜から断続的にしとしとと雨が降っています……最低です。やってられません。
 ぴんぴんと立ち上がる髪にぺたぺたと水を塗ったくり、それを手櫛で整えていきます。しかし、濡らした髪は半乾きになった辺りでまたピコンと立ち上がります。仕方がないのでまたもや水を塗ったくります……イライラしてきます。我が髪ながら。
 ハサミは文具売り場、もしくは百均……――
 駄目です。思わずハサミを調達に行くところでした。
 生えてこない髪を切ってどうしますか? そもそも、切れるのですか? 私の髪は。生えてこないのは間違いありません……別に禿が進行しているわけではありませんよ。勘違いをなさらないで下さい。伸びないだけです。全く伸びません。この日記を書き始めて早半年とちょっと、根元の辺りがやけに黒い茶髪は微動だにしていません。
 もし、これでまかり間違えて切れてしまったら……挙げ句の果てに前髪がまっすぐになってしまったり、切りすぎてしまったら……私はもはや死ぬしかありません! びっくりマークを使っての突っ込み所です。よろしく。
 と、アホな事を考えながら身だしなみを整えていたところ、お隣に一人の女性店員さんがいらっしゃいました。私とよく似た髪質、猫っ毛のお姉さんです。根元まで赤毛なのでおそらくは地毛でしょう。悔しくないです。
 そのお姉さんも私と同じような苦労をしているのか、鏡の前に立つと真剣な表情で頭を弄り始めました。
 思うのですが、そう言う事はご自宅を出る時にするべき事ではないのでしょうか? 身だしなみは女の義務です。職場のおトイレでするなど言語道断です。
 店長に代わってお仕置きです。
 ぺとん。スリスリ……ほかほか……夏場も近く、外は暑いのですがやはり人肌の暖かさは違います。後ひと月は人向ぼっこを楽しめそうですね……ああ……ほんわか。
 背後に回り込み、体をスリスリと彼女の背中にこすりつけます。もちろん、これはあくまでもお仕置きです。肩こりに苦しんで下さい。私の体はついでで良いです。決して、スリスリがメインの目的ではない事を、ここに宣言しておきます。
 女性は体温が高くて良いのですが、髪が長いのが少し邪魔ですね。しかも、ブラッシングしてます。ブラッシングするたびに私の体の中に髪が、しかも整髪料のついた奴が入ってくるのです。かなり気持ち悪……いので……止めて欲しいと……
 私の視線が彼女の背中から手元、そして洗面台の隅に置かれた物体へと動きました。そこにあったのは――
 ブラシと整髪料です。
 女性の肩口から鏡を覗き込みます。彼女の意識は鏡と髪に集中、背後にいるエロ可愛い幽霊さんになど気づきもしていません。
 チャンスです、千載一遇の。
 スプレー式のヘアムースという奴です。まずはこちらから頂きましょう。少しあったら十分です。さあ、これで今日のヘアセットは終わりです。いつもの半分以下しか掛かりませんでしたね。
 ……
 どうやってやればいいのでしょうか?
 ムースは手を伸ばせば届く距離にあります。簡単に取れるでしょう……見られても良いというのならば、と言う条件がついてしまうだけです。
 彼女の視線は鏡に集中していますが、その鏡にはムースの瓶がしっかりと映し出されているのです。しかも、ムースは使うと何かが破裂したような音が断続的にします。
 気付かない……訳はないと思います。
 あぁ……目の前に整髪力があるというのに、私は未だライオン幽霊さんのままです。なんと不幸なのでしょう?
 スリスリ……ほかほか…………いえ、人向ぼっこをしている暇はないのですが……止まりません。止められない止まらないという奴です。続きはご自分で歌って下さい。
 プッシュー
 悩む私の耳に、先ほどとは少し違う破裂音が聞こえました。そう、お姉さんがヘアスプレーを使ったのです。櫛とムースだけでは飽きたらず、スプレーまでお使いになりますか? この方は。完璧な身だしなみです。入ってきた時は私とあまり変わらないライオンさんだったというのに、今ではさらさらヘアーの綺麗なお姉さんです。化けました。大人の女性は怖いです。素材の良さで勝負する女子高生には判らない世界がです。
 そして、お姉さんはご自分お一人だけ身だしなみを整えて出て行ってしまったのです……
 一人取り残される幽霊さん。ぽっつーんって感じです。
 寂しくなんて……ありません。ただ、このライオン○みたいな髪型をどうしようか、途方に暮れているだけです。
 結局、私はこの日、いつも通り小一時間以上の時間を掛けて髪型を整える事になりました。

 私、雨って大ッ嫌いです。早く夏が来ると良いですね。空梅雨? 望むところです。

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