二研(5)
哀れアルトに見捨てられた浅間良夜君、学祭初日の彼は一人寂しく喫茶アルトの臨時配達員の業務に勤しんでいた。乗りなれないNSR、一往復の間に必ず一度はエンストこいちゃうバイクを操り、彼は大学の駐車場へとやってくる。今年は去年に比べ二四研のサーキット──というあだ名をつけられた駐車場に呼ばれることが多い。朝一番からこれでもう三回目だ。
良夜は人ごみを縫うように歩き、既に行き慣れた受付へと足を運んだ。
「うっす、宮武。盛況だな? カップうどんと熱いお湯、それからホットドッグが五つとアイスコーヒーが十五杯な」
ノートにペンを走らせていた青年、宮武哲也に声をかけ、バスケットに入っていた荷物をとんとんと受付のテーブルに置く。
「おっ……サンキュー……」
余り興味もなさそうに徹夜は答えると、何やらメモを取っていたノートから良夜の方へと顔を上げた。
「忙しそうだな?」
「めちゃくちゃ……馬鹿ダヌがはりきってるせいでいい迷惑だよ」
徹夜がうんざりと上げた顔を良夜から逸らす。逸らした先へと視線を動かせば、そこはちょっとした人だかり。彼はそこに向けて大きな声を上げた。
「おーい、馬鹿ダヌ! 飯!」
「はぁい!」
初秋の高い空に哲也の声が響かば、打って返すように女性の明るい声が応じる。そして待つこと数秒、いくらかのざわめきとともに人だかりの中から出てきた人影、それを見た瞬間、良夜の顎が落ちた。
「何だ……ありゃ……」
目にも鮮やかな朱袴、麦秋を思わせる小麦色の髪がなびくも、そのてっぺんには野球帽、しかも楽天だ。なぜに楽天?
「あっ! りょーやんさんまで居たんですねっ! こんにちはっ! ヘタレで美人ウェイトレスさんとお付き合いしながらも、未だに童貞のりょーやんさん!」
はちきれんばかりの笑顔でイラッと来る事を言ってのけた女からゆっくりと視線をはずし、良夜は隣に座った哲也に声をかけた。
「……宮武? このクソ可愛らしいお嬢さんは何者だ? ぶっ殺したくなるほどに……」
「悪いのは吉田だぞ、吉田……奴が言ってることは全て吉田の受け売りだ」
良夜がかなり険のこもった声を上げれば、哲也は明後日の方向を向いて返事をする。向けた背中が小刻みに震えているあたり、良夜はこの同期の桜にも軽くはない殺意を覚えた。
「ちなみに哲也さんは私のようなかわいい子が毎晩遊びに行っているのに、未だに童貞ですっ! りょーやんさんの仲間で──何のっ!」
たぬ吉の明るい声は、哲也が立てたパイプ椅子の音にかき消される。と、同時に哲也が放った右拳をたぬ吉の右手が眼前でピタリと止めた。
「たぬ吉、お前が勝手に俺の部屋に攻め込んできているだけ! 俺とお前は付き合っちゃいないだろう? 馬鹿ダヌキ」
「ふふ、哲也さんはツンデレですねっ!」
結構本気で拳を押し込む哲也とそれを余裕の表情で抑え込むたぬ吉、二人の顔の間で二つの手が左右にギリギリと震える。そのマヌケながらも手に汗握る攻防に、良夜ははぁとため息を一つ付き、口を開いた。
「宮武、金、さっさと払え」
「えっ?」
良夜の声に哲也の意識が刹那の半分ほどずれた。
「いまですっ!」
哲也の右拳を握っていた手が軽く引かれれば、哲也の体≪たい≫が崩れ、たぬ吉の豊かな胸元へ……と、同時に唸りを上げるのは右の肘だった。倒れ込む哲也の顔をカチ上げるように肘が動けば、それは狙い違わず哲也の鼻っ柱へ。袴で派手なアクションをすれば、脇の下あたりが見えちゃうのは仕方のないこと。その事実は永遠に胸の奥へとしまって置こうと、良夜は思った。
「うごっ!?」
鼻っ柱に肘が潜り込み、バイクに引かれたカエルのような声を上げる。そして、悶絶。かなり本気で痛いらしく、彼はしばらくの間しゃがみ込んで、立ち上がる事も出来やしなかった。
「……宮武、お前の彼女……意外と武闘派か?」
覗き込む良夜に哲也はチラリと抱け視線を上げて答える。
「彼女じゃねーが、意外と武闘派だ」
血をだらだらと流しながらも、否定すべき所はしっかり否定する哲也を見やり、良夜はほんのちょっぴりだけ見直した。
「びくとりぃ〜〜〜ですっ!」
その隣では袴姿の女性がピョコンピョコンと飛び跳ねていた。なお、袴の裾から見える生足がやけにまぶしかったのも、良夜は秘密にすることにした。
さて、数分。あふれた鼻血もいい加減止まる頃、良夜はようやく哲也から料金を受け取ることが出来た。出来れば他の人からでもさっさと金を受け取りたかったのだが、他の面子はあれやこれやで手が取れない模様。あっちの方では展示バイクの説明をしている人もいれば、こっちではバラバラにしたスクーターで整備の仕方を教えている人もいる。立派な客寄せパンダのおかげで、二四研のサーキットは満員御礼だ。
「あっ、浅間……お前のバイク、今日中に直るぞ。夕方にでも取りにこいって」
ようやく立ち上がった哲也が言うと、受け取ったお金をポーチに納めていた良夜は彼へと顔を向けた。鼻にはティッシュ、表記上はまともに書いているが、発音はほげほげと言った感じで笑えること必至。その吹き出しそうになる感覚をグイッと心の奥に押し込みながら、良夜は言葉を返した。
「ああ……助かった。運転しにくいからなぁ……あのバイク」
吹かさないとエンジンが止まるが、吹かしすぎると前輪が浮くかと思うくらいにパワーを降り出すピーキー仕様。扱いにくいったりゃありゃしない。おかげで一往復の間に必ず一回はエンストしてしまう。挙句の果てにセルは時々回らないし……
「あっ、あのセル、廃車したスクーターから取った奴だから。キックで回せ」
「……そういうことは早めに言え……んで、何で? 今日は人手がないんじゃないのか?」
「人手はないが、バイク手はもっとなくてなぁ……」
鼻につまったティッシュをクイクイと軽く引っ張りながら、哲也はバツが悪そうにつぶやく。つぶやいた言葉にまたもや斜めした、ズルズルとカップうどんをすする音ともに一言が発せられる。
「哲也さんのせいですっ!」
ずるっ! 哲也の端からティッシュが抜けるとツーっと音もなく一筋の赤い雫が滴る。
「哲也さんが一台、エンジンかからなくしちゃったから──甘いですっ!」
斜め下、先ほどまで哲也が受付をしていた席から余計な言葉が飛ぶ。とんだ言葉の折り返しに哲也の裏拳も飛ぶ。しかし、手に持ったカップうどんからツユの一滴もこぼすことなく、たぬ吉は上体を背もたれに押し付けて交わした。
「まあ、そういうことで、お前のバイクは──」
空振った拳を見つめて、ちっと小さく舌打ち。彼は握っていた拳を開いて、その指を一つの方向へと向ける。そこはつい先ほど、良夜がチラリと一瞥した場所。
「あそこでばらっばらにバラされて、猿でも出来る分解整備実習室の実験台になってる」
「大幅に待てっ! あんなにバラして大丈夫なのかよ!!??」
何気に見過ごしていたバイクが自分のバイクだと知れば、良夜の顔から一気に血の気が引く。なぜなら、そのバイク、もはやバイクの原型という物が止めてないほどにバラバラ。フレームはむき出しだし、タイヤはどこかに消え去ってるし、その側に転がっている鉄の塊はおそらくエンジンだろうと言うことが辛うじて解る程度。直樹と二人で美月所有だったバイクを直した時よりも、さらにバラバラだ。
「まあ、あれだ……田上さんがやってるから、心配はないって……麻生さんあたりがやり始めたら、即座に二研廃人仕様だがな」
「そして、哲也さんがいじると動かなくなり──ぎゃんっ!」
三度目の正直、余計な一言を言ったたぬ吉の後頭部に哲也の鉄拳が見事にヒットしていた。それでもヒョイと頭の上にカップを退避させ、ツユの一滴もこぼさない辺りは、武闘派の面目躍如なのかもしれない。
「うっし、勝利」
「前からくると思いましたっ! 哲也さんはひどいですっ! 女性に暴力をふるうなんて最低ですっ!!」
「雌だろう!? 雌! 雌ダヌキ!!」
二人は顔を突っつき合わせて、やいのやいのと口喧嘩を始める。それはどう見てもトムとジェリーの仲良く喧嘩にしか見えない。そこから、良夜はため息混じりに視線を背ける。付き合ってられないというのが最大の感想だ。
「あら、りょーやんさん、いらっしゃい」
背けた先にはつなぎ姿の女性、西山恵子がいた。彼女は良夜を見つけると、パタパタと作業靴の音を鳴らして駆け寄ってきた。可愛らしい、少し媚びたようなアニメ声が印象的な彼女は、キュッと良夜の胸元にまで顔を近づけるとペコリと頭を下げる。
「てつぅから聞きました?」
「だから、りょーやんさんは止めて……俺のバイク、バラバラじゃんか?」
「ああ、あれですか? うん、分解整備費用は安くして置きますから」
にっこり。満面の笑みで彼女は言ってのけた。その言葉を聞き、良夜の思考がキッチリ数秒止まる。
「……えっと……俺、頼んだの、タイヤの交換だけだったよね?」
「うん、でもですね。ブレーキパッドもかなり磨り減ってたんですよ。だから、うちのサークルのゴミ置き……じゃなくて、在庫から持ってきた怪しげな……でもなくて、程度の良い中古品を組み込んであげますから」
「今の言葉を訳すと、ゴミ置き場から持ってきた怪しげな不良在庫を組み込んでやるから、金寄越せって事っすか?」
「……品質相応のお金だから、いい加減、あの不良在庫引き取って……」
満面の笑顔が一瞬で消え失せ、彼女の顔に大粒の涙が浮かんだ。一瞬の切り替わり、二研の守銭奴という二つ名は重々承知だが、それでもその涙はいわれのない罪悪感を抱かせるに十分だった。
「いくらですか?」
聞くだけ聞くだけ……心の中で念仏のように唱えながら、彼は尋ねる。
「千五百円、後、整備費で千円欲しいですぅ」
媚びる視線が斜め下から良夜を居抜き、彼の彼女は居れども女慣れすることのない心臓をアップビートに加速させた。
「……整備費まかるんなら買いますけど?」
そして聞くだけだった予定がものの三秒で崩れ去る。自分の意志の弱さが良夜には恨めしかった。
「それじゃ、うちの取り分、なくなっちゃいます。家に帰ると三つを頭に十五の子供たちが待っているんです」
「どういう計算だよ、それ」
よよと泣き崩れる恵子に相手が年上だということも忘れ、良夜は真顔でツッコミを入れた。それに恵子はコロッと表情を緩めて「ハムスターだから」と答えた。しかも……
「良く子供生むんですよ〜いります? 一匹百円、つがいなら今だけ百九十八円ですよ? 上手にすればねずみ算式に増えて、りょーやんさんもトップブリーダの仲間入りですね」
しかも満面の笑みでセールスしてきやがった、このアマァ。今、この瞬間、西山恵子という女性は彼の中で吉田貴美の名前が陳列されている棚と同じ棚に収まった。
「ブレーキパットだけなら買いますよ」
「せめて整備費に七百五十円ください。ハムスターの餌代にします」
「あんた、ハムスターから離れないのかよ!?」
「じゃぁ、ハムスター一匹つけるから、整備費七百円……」
何だか妙な条件闘争になった商談、その背後では未だに哲也とたぬ吉の口論が続いていた。当初は気にならなかったそのBGMも十円の位とハムスター一匹に餌のひまわりの種一袋とか言うレベルの、訳の解らない取引になってくると彼ら二人の神経を逆撫ですること著しい。
「うるさい! お前なんかたぬきだ、たぬき! 馬鹿だぬき!」
「じゃぁ、たぬきと喧嘩で負けちゃた哲也さんは食肉目以下の草食動物ですねっ! うさぎさんですっ!」
「さっきは勝っただろう!?」
「二勝一敗で私の勝ち越しですっ!」
「うるさいぞ!! 宮武!!」
「うるさいよ!! たぬきっちゃん!!」
二つの怒鳴り越えが見事なユニゾンを奏でると、二人の唇が真一文字にピタリと閉じる。そして、今にもキスしてしまいそうなほどにひっついていた二人の顔がツーっと離れて行った。
「たぬきっちゃん! いつまでもてつぅと遊んでないで! 昼の部、そろそろ始まっちゃうよ!」
「あっ、はぁ〜い」
「てつぅも! 彼女と戯れてないで、さっさとお金の勘定して!」
「じゃりん子のアクセントで呼ぶなって……へいへい……」
気合一閃、恵子が二人を叱りつけると、怒鳴りつけられた二人はおずおずとそれぞれの持ち場へと帰って行った。
「あれ……そー言えば、今年も撮影会?」
「ううん、今年はなんとお祓い。巫女さん、調達できたから……あっ、ソーダ!」
ポンと恵子の右拳が彼女自身の左手の上に叩きつけられる。
そして……
一日の仕事が終わり、良夜は日の沈んだ喫茶アルト入り口“前”に居た。
「で、整備とハムスター一匹とひまわりの種小袋一つと……」
「手作り狐印の交通安全ステッカーで七百五十円……」
「んで、美月に『鼠持ち込み禁止!』って言われて、追い出されたのよね……ほんと、チョーバカね、貴方」
頭の上には妖精さんがちょこんと座り、彼の頭をペチペチと何度も叩く。その彼の手の中では、ペットボトルを改造した即席のかごの中で新しい家族がチューチューと鳴いていた。