二研(1)
 喫茶アルトの土日は暇だ。大学の授業は土日にはなく、授業がなければ大学周辺にも人が減る。人が減れば学生相手の仕事をしている喫茶アルトは暇になる。暇になるから二人のウェイトレス美月と貴美は、土曜日を美月が、日曜日を貴美が休むことに決めていた。
 そして、本日は十月第一周目の土曜日、美月はお休み……となるわけだが、この日、彼女は朝からフロアでうろうろしていた。普段はキッチンにこもって料理ばっかりしているのが、今日はフロアでうろうろなのと、その格好が制服ではなく白を基調としたワンピース――私服だという所がお休みの自己主張だ。
「休みなのに良く働くよなぁ……」
「他にやることがないのよ」
 良夜が呆れるとアルトも同じような調子で返事をする。窓際いつもの席にすわってぼんやり……パタパタと働く美月を眺め、時折二言三言会話を交わして……そんな感じでほぼ半日を良夜は喫茶店で過ごしていた。それもかなり暇な話ではあるが、一緒に時間を潰している直樹やアルトがいてくれるおかげで、意外と退屈はしない。
「雨、降ってますからね……どこに出かけるにしても億劫ですよ」
 そう言って直樹は向かいの山が見える窓へと視線を移す。良夜、それにアルトも釣られて顔を動かすと、窓には大粒の雨が叩きつけられ、いくつもの水滴が川の流れとなって流れ落ちていた。今日は朝からずっとこんな調子。ついでに良夜も美月もお財布の中身はちょいと少なめ。どこかに行こうか? と言う話はいくつか出たのだが、結局、こんな調子で過ごしてしまった。
「のんびりするのも良いんじゃないんですか? っと……じゃぁ、僕、バイトですから」
「あれ、そんな時間か? ……――もうそんな時間なんだな、ああ、何か一日無駄に使ったぁ……」
 直樹が立ち上がると、良夜はポケットの中から二つ折りの青い携帯電話を取り出す。それを開いてみれば、デジタルの時計は十七時を大幅に過ぎたころだった。
「青春の一日を無駄に過ごしたわね。お疲れ様。こんな調子じゃあっという間におっさんになっちゃうわよ?」
 立ち上がる直樹、ついでに良夜の顔を順番にストローで指差し、彼女は小生意気な表情をして見せる。ついでに「あれがその見本」と指し示したのは、カウンターの向こう側で丹念にパイプを磨く和明だった。
「大きなお世話だよ……――ボーッとしてたらすぐに老人だってさ」
「あはは、何となく正論っぽいですね。じゃぁ、行ってきます」
 アルトの言葉を直樹に伝えると、直樹は愛嬌のある目を細めて笑う。笑った直樹に良夜も肩をすくめて微笑を返す。そして、伝票片手に席を立った直樹に軽く手をふり、彼を見送った
「おっ、気をつけてな」
「特にお巡りさんにね!」
 小さな背中がその場を立ち去ると、残されるのは恋人に合わせて今日はお休みの良夜と年中お休みの妖精さん。時折美月が立ち話をしにきたり、貴美がお冷を入れるついでにからかいにきたり……本当に本当に、時間はゆっくりと、そして無駄に過ぎていく。
 そんな時間が、直樹が立ち去ってから小一時間ほど過ぎた。
「りょーやん、美月さんがおやつ食べる? って」
「パン耳スティック以外なら……」
「今日は耳じゃなくて、本体。時間切れのパンがあるから、それを揚げるんだって」
「……微妙だなぁ〜まあ、一応、もらうわ……それとアイスコーヒーのおかわり」
 ひょっこりと顔を出した貴美が尋ねると、良夜は頬杖をついたままで返事をする。夕方六時前後にちょっとしたおやつをつまむのが喫茶アルトの習慣になっている。これは直樹と一緒にご飯を食べたいが、直樹が帰ってくるまで飯抜きは辛すぎるという貴美に対する配慮だ。ただし、出てくるのは基本的にパンの耳を揚げた物とか、ロールケーキの端っこだとか、売れ残ってパサつき始めたサンドイッチとか、割とそう言う生ごみ五歩手前の物が多い。
「おっけぇ〜」
 貴美がそう答えたときの事だった。
 じりじりじりーん……じりじりじりーん……
 レジ横に置かれた電話、今の時代ちょっと見ない黒電話は店の雰囲気を演出するためにある意味故意に置かれているものだ。その証拠に事務所に行けば割と新しめのFAX電話がちゃんとある。
 その黒電話がやけに大きな音でなり始めた。
「はいはい……」
 カウンターの中で暇そうにパイプを磨いていた和明が受話器を取り上げる。そして、二言三言……次第に老人の顔に刻まれた皺が深くなっていくのが、離れた良夜からでも見て取れた。
「どうしたんやろね?」
「拓哉が仕事でミスってクビになったとか?」
 貴美の疑問にアルトがサラッとひどいことを言う。どことなく不吉な空気にその場に集まった三人とも声をひそめる。しかし、それでも三人ともあくまでも他人事だ。貴美は『友達が危篤とか?』と言えば、アルトは『全部死に絶えた』と本気とも冗談ともつかぬ表情で言う。
「こいつら、そのうちバチが当たるぞ……」
 てか、むしろ当たれ。他人事の不幸を勝手にでっち上げる二人と、その片割れの通訳をしながら良夜は思った。
 そんな時間が五分ほど過ぎる。
 受話器が電話の上に置かれた。そして、和明がゆっくりとこちらに近づいてくる。そして――
「高見くんがオートバイで転んで……今、病院にいるそうです」
 和明がそう言うと、貴美も良夜も、そしてアルトまでもがその顔色を失う。失いつつも聞かなきゃいけないこと、言わなきゃいけないことは一杯ある訳で……
「なお、どうなってん?」
「今、電話してきたの高見くんでして……電話、切ってませんから」
 和明が答えると、貴美は小さく頷き電話口へと駆け寄る。そして、和明自身も美月に話してくると言えば、取り残されてしまうのは良夜とアルトの二人だけだ。
「……アルト……」
 ぽつり、良夜がつぶやくと明後日の方向を向いてアルトは答える。
「別に私が悪い訳じゃないけど……今、ものすごく後味が悪いわ」
 
「大した事ないって。足の骨が折れちゃってるけど、単純骨折だから後遺症も残らないそうだし。着替え、持って来てって話だから。一発、頭ぶん殴ってくんよ」
 ブレーキをかけたらタイヤの下に濡れたマンホールがあって、そのまま前輪がスリップしてすっ転んだ……バイク乗りの用語で言えば『握りゴケ』と言う奴だ。その時に妙な転び方をしたらしく、左足の骨がポッキリと折れたらしい。精密検査は今から受けるが、救急車を呼ぶよりも、バイト先に詫びの電話をするよりも、まず最初にサークルの友人にZZRの回収を依頼するほど意識ははっきりしている。
 つーか、まずはバイクってあたり、奴も根っこの部分がかなりおかしい。
「って、訳だから、どーもご心配かけました。退院したら土下座させっから、許してやってね。んじゃっ!」
 フロアの隅っこでは良夜をはじめとしたいつものメンバー、それに和明とわずかばかりに残っていた客が聞き耳を立てる。そこで貴美は一通りの説明をし終えると、さっと右手だけを上げてクルンと一回転、明るい茶髪をゆらしてその場を後にしようとする。
 が、その右手を和明の節くれた手がグイッと掴む。
「吉田さん、その手で運転するんですか? オートバイ」
 和明の落ち着いた声に「えっ?」と言う声は、掴まれた当の本人貴美だけではなく、アルトを含めたほぼ全員がほぼ同時に上げた声だった。
「震えてますよ、指……それに足も……」
 その和明の言葉にアルトは何か気づいたようで、良夜の頭からトンっと飛び降りた。そして、貴美の膝の裏をストローでチョンと軽く突っつく。それは普段、良夜の頭や手にさしているのとは大違い。突くというよりも撫でるといった方がちょうどいいくらいだ。なのに……
「あっ……」
 貴美の膝はカクンと折れ、彼女は冷たいフロアーにペタンとしりもちをつく。そして、彼女は呆けたような表情で回りを見渡した。
「膝、少し笑ってたわね。そうは見えないけど……結構、取り乱してるのかしら?」
 肩に戻ったアルトから、視線を斜め下へと良夜は下ろす。和明も美月、そして数名の野次馬も一緒。そうして見下ろせば、貴美は立とうとする努力すら諦め、ただヘラヘラと何かをごまかすような顔で笑っているだけだった。
「私、車出します!」
 タッと美月が振り向くと、長い黒髪がふわりと良夜の目の前に広がる。それを良夜はむんずと鷲掴み。カックンと音を立てて顔は天井へと一直線。 涙目になって振り向くと、彼女は大声を上げた。
「良夜さん! やって良い事と悪いことがあるんですよ!?」
「吉田さんがいなくなって、美月さんまでいなくなったら、誰が働くんですか? ここで」
 生え際を抑えて涙目の美月を見つめ、良夜は軽くため息混じりに答えた。すると、彼女は痛かったのも忘れたようすでうーんと顎を指で抑えながら考え込んだ。
 そして、一言。
「……良夜さん?」
「って。手伝うのはやぶさかじゃないですけどね……明日の仕込みとか、俺、出来ないですよ。俺がいくから、車、貸してください」
「大丈夫ですか? 私、ついてなくて」
「……ついてる方が危ないって」
 心配そうに見上げながらも、不承不承彼女はキッチンに置いてあった鍵を良夜に手渡す。そして、良夜は腰を抜かした貴美を連れて、彼は喫茶アルトを後にした。
 のだが……その車中、良夜の頭を占領していたアルトがぽつりと言った。
「和明、頭数に入ってないのね……確かに最近、ただの置物だけど」
「あっ……」
 と、良夜、そしてそれを伝え聞いた貴美も小さな声を上げる。ちなみに、アルトがこの時点までこれを言わなかったのは、良夜が行けば自分も付いていけると思ったからだ。

 さて、一方、病院でギブスを捲かれている高見直樹くんの方である。一番の当事者であり、一番痛い目にあっている彼であるが、実の所、全然落ち込みもしていなかった。まあ、折れた足は痛いし、単車はフロントのカウルがバキバキ、その修理費を考えれば頭のいたむ所ではあるが、それ以上に彼にはちょっぴりうれしいこともあった。
「ああ、今年はやらなくていいんだ……」
 検査室から松葉杖をついて出てくると、直樹は人通りのほとんどない廊下に立ち、ぽつりとつぶやいた。その表情はこんな目にあっているというのにどこか明るい。むしろ、頬が緩んでどこかうれしそうにも見える。もちろん、頭をぶつけて馬鹿になっている訳ではない。
 今日は十月第一周目の土曜日、世間的には秋、大学的には学祭の季節。そして、直樹くん的には――
 女装の季節!
 去年はひどい目にあった。レースガールはやらされるし、女装美人コンテストには出場させられるし、挙句の果てにはトランクスだったとはいえ、公衆の面前で下着姿を披露させられるしと散々だった。今年も今年で普通にレースガールのご指名はついてるわ、「四年間タイトルは不動」とまで言われたのに去年は準ミスに甘んじた陽はものすごい意気込みだわ……普通にやってりゃ百パーセント今年も女装の学祭だった。
 それが骨を折ったせいで全部チャラ!
 情けないといえばこれ以上にない話だが、それでも直樹の心は軽い。軽い気分のまま、彼は喫煙室に入るとポケットにねじ込んでいた小銭と携帯電話を取り出す。そして小銭は自販機へ。自販機に缶ジュースを一本吐き出させると、それを片手に置かれてあったソファーに腰を下ろす。
 ぱしゅっ!
 炭酸が抜ける音が無人の喫煙室に響く。乾いた喉をそれで潤し、開いた携帯電話をピッピッと操作。右耳に当ててしばらく待つ。
『はい、西山、なおっちゃん? 生きてる?』
「生きてますよ。僕のZZR、回収してもらえましたか?」
 アニメ声優のような澄んだ声、二研副部長西山恵子だ。実家がバイク屋を営んでいる兼ね合いで、何かあったら頼られることが多い。今回も現場に取り残されることになったZZRは彼女に回収を依頼した。
『ああ、したした。今、オヤジが見てるけど……自走もしてたし、足回りも大丈夫だから、カウルさえ目をつぶったら修理の必要もないんじゃないかな?』
 明るい声に直樹も一安心、グビグビッとコカコーラを喉に流し込み、はぁ〜と大きく吐息を吐いた。
『それよりも……なおっちゃん、足の方はどう?』
「リハビリ含めて二ヶ月くらいだろう……と」
『えっ? それじゃ……学祭のレースガールは……――』
「そうですねぇ〜〜〜むりですよ〜〜〜あははは、ごめんなさい!」
 内心の喜びが言葉になってポロポロとこぼれ出て行く。まあ、雨の中、バイクの回収をしてもらったと考えれば、あまりヘラヘラするのも如何なものかと直樹も思うのだが、それでもうれしい物はしかたがない。
 が、二研の誇る守銭奴は一味違っていた。
『ううん、気にしないで。綾波○イのコスプレしてもらうから』
 恵子の言葉に直樹の笑顔が凍り付き、マッハの早さでツッコミを入れる。
「ちょっと!?」
『綾波は嫌い? じゃぁ、小節○びるとか? あと、何があったっけ……包帯キャラ』
「……止めますよ? サークル」
『うそうそ、腕ならともかく、足を骨折してる人は引っ張り出せないよ。その代わり、責任は取ってね?』
 ケラケラと明るい口調で彼女は笑う。しかし、直樹の顔からは一気に血の気が引いていた。本当に腕だったら引っ張り出すつもりだったことがありありと感じられたからだ。
「……責任って何ですか?」
 猛烈なる嫌な予感、それは人生において外れたことがない。
『そりゃ……――……でしょ? だから……ね?』
 そして、今回も外れなかった。

 貴美と良夜、おまけのアルトが病院についたのは直樹がちょうど電話を切った所だった。頭を叩かれたり、怒鳴られたり、いつも軽いじゃれあいも今夜は普段よりかは大人しめ……のような感じ。
(気のせいだったりして……)
 心の片隅に軽い心配を覚えながら、直樹は松葉杖をついて立ち上がった。そして、彼は与えられた責任をようやく果たすことにした。
「……吉田さん、頼まれてくれますか?」
「んっ? 何々? 良いよ、今日くらいは。何でも」
 貴美は立ち上がった直樹の手に自分の手を重ねながら答える。その答えに本の少しだけ彼の心は軽くなる。
「僕の代わりにレースクィーン――」
 直樹の言葉は最後まで言いきることを許されず、彼女は満面の微笑みで言った。
「なおが綾○レイでも小○あびるでもコスプレしたら?」

「貴美なら本当にやらせそうだわ……」
「コスプレやってる友達、多そうだからな、吉田さん……」
 言い切る貴美にアルトと良夜は心底恐怖した。
 学祭まで後一週間。

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