本当になにもなかった一日(B面)
 ぷかぷか……
 美しい金髪が鍋の中に広がり、そのしなやかな肢体が温めのお湯の上に浮かぶ。
「……自分の浅ましさに泣けてくるわ」
 石膏ボードの天井を鍋の湯船から見上げ、アルトは小さなため息をいくつも漏らしていた。
 その日、和明のタバコでたたき起こされた挙げ句、本には潰されるわ、本の下から脱出するのに十分以上も掛かったわ、もがいてるうちに汗だくになったわ、と朝っぱらから散々な目にあったアルト。当然、彼女はキレた。その怒り具合と言ったら、服どころか下着一枚身につけずに飛び出していったほど。
「和明! その残り短い命、私が刈り取ってやるわ!」
 怒りの形相、ストローを持つ手に青筋が浮かぶ。普段なら、人が歩く程度がやっという移動速度もこの時ばかりは駆け足程度には早くなっていた。彼女の羽の性能を考えれば驚くべき速度だ。その速度でテーブルの上ギリギリを滑空し、カウンターの天板を蹴っ飛ばして、勢いの付きすぎた体を無理矢理九十度ひねる。勢いは殺さず、真横に向いた体がキッチンへと飛び込む。ちょっとしたアクロバット飛行、もう一度やれと言われても多分無理。
 狙うはシンクの上でコーヒーを煎れている和明……コーヒー?
 思考と体の動きがピタリと止まり、とりあえず、コーヒーの芳ばしい香を胸にいっぱい吸い込む。
「……ブルマンだわ、朝っぱらから」
 そして、シンクの中には洗ったばかりの鍋に張られたお湯。改めて自分の体を見れば、汗だくで吹きかけられたタバコの匂いもしているような気がする。
 その意味を良く考えてみる。
 クシャクシャとタバコ臭い――と思う――髪を掻きむしり、アルトはコーヒーを煎れる老人の横顔を一瞥。その唇は動かずとも、少しだけ上がった口角と下がった目元は言葉以上の何かをアルトに伝えていた。
「――ああ、もう! お風呂入ってコーヒー飲んで忘れろって言ってるわねっ!?」
 彼の真意を的確に察し、アルトはその手打ちを飲んだ。
 そして、冒頭へと戻る。
 朝風呂に朝コーヒー、アルトの一日は概ね優雅に始まった。
「……服、置きっぱなしだわ」
 素っ裸で。

 本棚まで服を取りに戻り、再び、アルトはキッチンへと帰ってきた。普段ならフロアの方で時間を潰すことが多いのだが、客の入りが悪い夏休み時期は、フロアよりもキッチンで時間を潰している方が多い。
 特に最近は――
「……この秤、壊れてるんじゃないんでしょうか?」
 毎朝、毎朝、粉ゼラチン相手に格闘している美月の姿を見るのが楽しい。
 何が楽しいって、『練習』と称して砂糖や塩を計測するときと、『本番』と称して粉ゼラチンを取るときの顔が全然違うところ。練習をしているときは今にも鼻歌でも歌い出しそうな顔をしている癖に、本番になるとまるでこの一挙一動が人生を占うとでも言いたそうな顔に早変わりし、アルトの立っている肩までもが揺れそうな勢いで、指先が痙攣をし始める。多分、今、歩かせたら手と足が一緒に出ることだろう。
 今月、九月に入ってからは週二回、土日にしか出さないことになったので、このちょっとした娯楽がなくなるのかと思うと、少々寂しい想いがしてくる。
 彼女が緊張する原因は判っている。秤が0.1グラムの単位までデジタルで計れてしまうためだ。
「正確に計らなくては駄目です!」
 美月はそう思いこんでいる。確かにその通りなのだが、お菓子作りに0.1グラムの精度はいらない。いらないのに、何故かそう言うところまで計れる変わった秤を買ってきた。そして0.1グラム単位の誤差を修正しているうちに、どんどん、誤差が広がっていき、最終的にはグラム単位であわなくなる。そして、何度もそう言うことを繰り返しているうち、唐突にスパーンと正解をたたき出す。見てると飽きない。
「105.3グラム……97.4グラム……104.2グラム……」
「……今日はまた、特別あわないわね」
 普段ならそろそろ正解になりそうなタイミング、アルトは肩の上からデジタルの秤と美月の顔を何度も見比べた。その横顔は真剣そのもの。ここまで真剣になっている美月の顔を、アルトは他のシーンで見たことがない。
「真剣に仕事をやるのは良い――」
 ――事よね、と続けようとした言葉、それは最後まで形にならず、美月の悲鳴に近い声にかき消された。
「判りました! この秤の中には小人さんが住んでて、私に意地悪してるんですっ!」
 ガックリと脱力し、アルトは美月の髪をクイクイと二回引っ張った。
「褒めてあげた途端にそう言うことを言わないでくれるかしら……もの凄く疲れるから」
「ええ! それじゃ、アルトですか!? アルトですね――イッタァ〜冗談ですよぉ……」
 無言のまま、強く髪を引っ張る。それは良夜の髪を引っ張るくらいの強さ。ブチって音が聞こえたような気がする。
「アルトはお仕事の邪魔はしませんからね」
「判ってるなら、しょうもないこと言わないで、さっさとゼリー作りなさい」
「よし! それじゃ、もう一回。応援しててくださいね」
「応援ってね……全く……」
 こんな事に応援なんて必要なのだろうか? そんなことを思いながらも、アルトはゆっくりと美月の髪を手のひらでなで始めた。ゆっくりと優しく。声も姿も届かないアルトにとって、これだけが美月相手に出来る事だった。それはアルトが昔から美月に良くやっていたこと。幼い頃から、美月はどんなに泣いていても、アルトが髪を撫でると泣きやむ娘だった。
 そんなことを思い出しながら、アルトは美月の髪を優しくなで続けた。腰まで伸ばしているのに枝毛の一本もない髪、美月の自慢の髪……だが。
「あら、枝毛、あるじゃない……」
 サラサラと手の中で髪を流しているうちに、一本の枝毛が目に付いた。
 うず……心の中で何かが動いた。
「抜いてあげようかしら?」
 しかし、回りには食品が沢山。すぐ下では美月がゼラチンを計っているし、その隣にはゼラチン投入を待ち続ける紅茶も鎮座してる。アルトはその二つと枝毛をチラチラと見比べながら、さて、どうするかと悩み始めた。
「髪、落ちたら問題よね……でも、抜いてしまいたいし……悩むわね」
 アルトはその一本の枝毛から視線が離せず、指先で髪の毛を弄び始めた。ひっかいたり、軽く引っ張ったり。そうこうしているうちに、その枝毛が、まるでカニカマでも剥くかのように、ピーッと縦に裂けた。
「!」
 すぐに切れてしまう枝毛、もはや、アルトの限界もここまでだ。パーッと顔を明るくすると、肩に掛かる髪を一本一本丁寧にかき分け、枝毛を探し始めた。
「最初からある程度裂けてるのが狙いかしら?」
 良く手入れされた髪の毛に枝毛は少ない。と言うか、アルトは知らなかったのだが、美月は何日かに一度、毛先を一本一本調べて枝毛を抜いている。だから、彼女が先ほど見付けた枝毛は非常に希な存在でしかなかった。
 そんなこともつゆ知らず、アルトは美月の緑なす黒髪に顔を突っ込み、ごぞごぞし続けていた。そして――
「美月ちゃん、紅茶ゼリー、出来たぁ?」
 清華の声がフロアーから響き渡ると、美月はフワッと髪を揺らして振り返った。
「固まったら完成ですっ!」
「あれ?」
 美月の声とアルトの声がほぼ同時に木霊する。その直後、ぽっちゃーん……沸騰し放置されたままの紅茶に、何かが落ちる音が響き渡った。
 アルトさん、本日二度目の入浴はほぼ熱湯に近い温度だった。
「あっつぅぅぅぅ!!!!」

「……私は悪くないわよ、私は悪くない。さっき、お風呂入ったばかりだから、体は綺麗よ……」
 アルトが落ち込んだ紅茶ゼリーはそのまま、店内で使用されることになった。落ちたのは一瞬だし、体はついさっき洗ったばかり。問題はないはず……だと思う。そもそも、アルトを振り落としたままフロアに行って、アルトが落ち込んだことに気がつかなかった美月が悪い。
 そう言うことにしよう。
 火傷をするほどでもないが、それでも良い感じに茹で上がったアルトは、もう一度水風呂に浸かり、その疲れた体をカウンターの上で休ませていた。
 そろそろ、店内はランチタイムの客が訪れる時間帯。とは言え、夏休み中の店内は普段ほどに活気もなく、二つほどのグループが控えめな会話と食事を楽しむだけ。その客の一人はアルトの出し汁入り紅茶ゼリーを食べていたりする。
「私は悪くないわよ、本当に……」
 良夜辺りなら、出し汁入りだろうが髪の毛入りだろうが、食べさせても気にはならないが、それが見知らぬ客となると話は別。ちょっとは不味いんじゃないんだろうか、と言うような気がしてくる。
「お疲れ様、一息つきますか?」
 そんな風に、アルトが少々の罪悪感を感じていると、頭のすぐ上で和明の声とコーヒーカップの置かれる音がした。
「あっ……」
「偶然ですよ。アルトに煎れたものですから、全部は飲まないであげてくださいね」
 声をかけた相手は清華、てっきり、客のために煎れている物だと思っていたコーヒーはどうやら自分のために煎れていた物らしい。いつもなら喜んで飲むのだが……
「ホット……アイスなら欲しいけど、今、ホットは……」
 いくら水で冷やしたとは言え、ついさっき熱湯風呂に入ったばかり。キンキンに冷えたアイスコーヒーなら欲しいが、ホット、それもただのブレンドには触手が動かない。
「あれ……アルトちゃん、今、この辺にいるんですか?」
「多分、ですけどね」
「だから、居るけど、要らないの……って、聞こえてないわね」
 アルトは二人の会話に一方的な回答を与え、すっと開いていた目を静かに閉じていった。今はコーヒーよりも体を休めたい気分。少しだけ休んだら、適当な客からアイスコーヒーをかすめ取ってしまおう。アルトはそう考えながら、少しだけのお昼寝タイムを取ることにした。
「ン……二十分くらい? 案外、眠れなかった……」
 アルトが再び目を開いたとき、清華は何が楽しいのか、冷え行くコーヒーを目の前に置いて、ニコニコと笑っていた。
「……もしかして、ずっと置いててくれたのかしら? だとしたら……悪いことをしたわね」
 見たところ、清華のカップからコーヒーが減っているような様子はない。しばらくの間眺めていても、清華がコーヒーに手をつけるような様子もない。
「……コーヒーは眺める物じゃなくて、飲む物よ?」
 ――仕方ないわね。アルトは付け加え、寝転がっていた体を起こし、清華のカップへと近付いた。そして、ストローを差入れ吸い上げようとしたまさにその瞬間。
「お母さん、レジ、お願いします!」
 美月が清華を呼び、清華が「はーい」と明るく答える。そして、ヒョイと持ち上げられるカップ、その端っこがアルトの顎を無造作に突き上げる。それは、強烈なアッパーカット。そのまま、もんどり打ってアルトは後頭部からカウンターの下へと真っ逆さまに墜落。
「……あんたら母娘は私に何か恨みでもある……わけぇ……」
 薄れ行く視野の隅、良いあんばいに冷えたコーヒーを一息に飲み干す清華の姿が見えた。

 一日の営業も終わり、閉店の時間がやってきた。
 散々な一日を送ったアルト、彼女は清華の最後の一撃を食らってからと言う物、ずっと三人から離れて一日を過ごしていた。
「だって、今日は絶対にそのうち殺されると思ったもの……」
 後にアルトは、今日を振り返ってそう述べている。
「今日も一日、何事もなく終わって良かったですね。明日もこうだと良いんですけど」
 一足先に自分の仕事を終わらせ、和明はにこやかにそう言った。
「明日もこうなら、死ぬわよ! 私!!」
 営業終了後のフロアにアルトの悲痛な叫び声が響き渡った……誰にも聞こえてなかったけど。

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