本当に何もなかった一日(A面)
 喫茶アルトの店長、三島和明の朝はとっても早い。どの位早いかというと、九月頭のこの時期においても、彼の起床と日の出との勝負はどちらが勝つか解らないと言うほど。
「老人は朝が早い物なんですよ」
 美月が『そんなに早く起きなくても良い』というたび彼はそう答えているが、なんて事はない。単に、美月が起きてくるまでにゆっくりとパイプを吹かしたい、それだけの為の早起きだ。老人らしく早起きしているだけなら、毎朝、彼をたたき起こしている目覚ましは必要ないだろう。
 今日、九月最初の日曜日も、彼は朝の五時台には目を覚まし、フロアーに姿を現した。早朝のフロアーは冷たい空気に満たされていて、彼の顔を苦笑いに変えさせた。
「やれやれ……またですか……」
 呆れたような口調でつぶやき、キッチンとフロアの境に彼は立った。向かう視線はキッチンとフロアを仕切っている壁、その壁に貼り付けられた十五センチ角ほどの平たい操作パネル。フロアに設置されたエアコンのリモコン。その液晶画面にはしっかりと『冷房:20』と表示されていた。犯人は考えるまでもなく、一人しかいない。
 ピッと軽くスイッチを押し無『人』のフロアを一晩中冷やし続けたエアコンにしばしの休息を与える。どうせ、美月が起きてくればすぐにスイッチは入れられるのだが、起きてきた時点でフロアが冷えていると犯人が美月からお小言を貰う羽目になる。
「相変わらず、暑い寒いに弱いんですから……」
 ぼやくと言うよりも、懐かしむような口調でつぶやき、和明は操作パネルの前から離れた。目指す場所はカウンターの隅。
 普段、彼はいつもパイプを持ち歩いている。しかし、その持ち歩いてるパイプはここ一年ほど、ただの一度も火を着けられたことはない。ケースに片付け、時折、火を着けずに咥えていたり、ハンカチで丁寧に拭いたりするためだけの小物だ。
 本命があるのはここ、カウンターの一番隅っこにある引き出しの中。その引き出しを普通に開いても、開いた人物は空っぽの引き出しに落胆するだけだ。和明秘蔵のパイプ用具を見付けるためには、更にちょっとした手順が必要となる。
 空っぽの引き出しを全て引っ張り出し、ぽっかりと開いた口の中に手を突っ込む。そして、手探りで小さなつまみを探し出し、それをまわしながら引っ張り出して、ようやく隠されていた小物入れを見付けることができる。
 生きていた頃の真雪が、自分のへそくりを隠すために作った場所らしい。それを教えてくれたのは、真雪の死後に見付けた彼女の遺書だ。この場所と開き方が図入りで説明されていた。書かれていたのはこれだけ。
 さすがの和明も、早世した妻の遺言書がへそくりの隠し場所だけだったと言うことと、残されていた『へそくり』が千円札一枚だったと言うことには頭痛を覚えた。しかし、それが、その十数年後、こうやって便利に利用できているのだから、人生何がどうなるか判らない。
 パイプをとりだし、慣れた手つきでタバコを詰めると、ゆっくり、タバコを吹かし始める。小一時間程度の喫煙タイム。本当は朝だけではなく、昼も夜も、暇があれば一日中吸っていたいところだが、可愛い孫娘がうるさいのでそうもいかない。
 あの嫌煙家ぶりは誰に似たものやら……
「……彼女でしょうね……」
 和明は小さく呟くと、ぐるっと視線でフロアーを一周した。見付けたのは、ほんの少しだけ開いた棚のガラス扉。パイプを咥えたまま、そこへと近付いた。
 それは分厚い本達が並べられている書棚だった。古くてすり切れている物から、ほとんど読まれた様子のない物まで様々な書籍が雑然と並べられている。常連の英文学教授から譲り受けた物だが、雰囲気だけで選んだそれらに、どういう事が書かれているのかはさっぱり判らない。時たま、英文科の学生が読むこともあるが、基本的には店の雰囲気を高めるためのインテリアの一つだ。
 そんな訳のわからない本達、その一冊だけがほんの僅かな違和感を持って斜めになっていた。その違和感は、美月も清華も、当然日の浅い貴美になど判るはずもないような小さな違和感、和明にしたって口で説明することは出来ない。ただ、確実な違和感がそこにあった。
 和明はその違和感を確かめるため、フーッとタバコの煙を一息だけ流し込んだ。
 ずるっ! どさっ!
 蝋燭の炎も消さないような吐息、なのにその斜めになっていた本は大きな音を立てて崩れ落ちた。そしてその本はゆっくりと捲れて行く。
「正解」
 老店長は少しだけ意地悪な笑みを浮かべ、その場所を離れた。
 後に残されたのは倒れ開いた一冊の本だけ。
『Pixie:looks like a very small human being, has magical powers, and likes to play tricks on people』
(ピクシー:小さな人の形をした不思議な生き物。人を騙すのが大好き)
 その本のそのページにこの一文があることを、誰も気付く者は居ないまま、喫茶アルトの何もない一日は始まった。

 最近、喫茶アルトには新しい定番メニューが現れた。
 紅茶ゼリー。
 元々紅茶強化月間のオマケデザートだった物が、好評を博し一般販売がなされるようになった代物。それは紅茶強化月間が終わった後も、土日限定デザートしてメニューに生き残った。平日にも売ろうとも考えたのだが、学期中のランチタイムには無理だと言う事から、曜日限定のちょいレアスィーツと言うことになった。暇な土日にもお客さんが来てくれると良いな、そう言うちょっとした願いを込めての処置。
 そう言うわけで今日は日曜日、美月は朝一番から紅茶とゼラチン相手に格闘していた。少々不機嫌そうな顔をして。
「お菓子なんて売ったり食べたりする物で、作る物じゃないですよね、実際」
 いい感じに煮出されてきた紅茶にほんの少しだけシロップを混ぜる。小指の先に熱い紅茶をつけてぺろっと一舐め。熱いときと冷やしてからでは味は微妙に変わる。その辺の事も考え、紅茶の甘さを微調整。この辺は大丈夫、冷製パスタやスープで鍛えた味覚がものを言う。
 次の手順は粉ゼラチンをきっちり適量流し込む事。問題はここ。この『きっちり適量』という物が美月は苦手だった。料理なら味見をしながら微調整が出来る。しかし、お菓子はきっちり分量を調整しないと、ムラが出来たり膨らまなかったり固まらなかったりと色々大変。
 アルトの体重を量るまで未使用だったキッチンスケールを棚から取りだし、粉ゼラチンの乗せて増やしたり減らしたり。何故か美月がやると、減らせば減らしすぎ、増やせば増やしすぎと言う事態に発展する、これが苦手の原因、そして、不機嫌の原因。
「……この秤、壊れてるんじゃないんでしょうか?」
 じっとぉ〜っと細めた眼でキッチンスケールを見つめる。しかし、0.1グラム単位で計れるそれは壊れている様子もなく、冷たいデジタルの瞳で美月を見つめ返していた。
「試しにお塩百グラム……」
 小さくつぶやき、美月は塩のケースから適当にスプーンでザクザクと秤の上に乗せてみる。
 すると微調整の必要もなく0.1グラムの桁まできっちり百グラム。ちょっぴり嬉しくて、美月はパンと小さく手を叩いて喜んだ。
「今度は粉ゼラチン百グラム……」
 慎重にスプーンでゆっくりと粉ゼラチンを秤の上に乗せていく。さっきと同じにしたらいいだけの話だ。砂糖も塩も粉ゼラチンも変わるはずはない。
 105.3グラム。
 少し減らす。
 97.4グラム
 少し増やす。
 104.2グラム。
 増やしたり減したりするたびに、美月の顔は強ばり、その指先はプルプルと小刻みに痙攣を繰り返す。極度の緊張。美月は何故か、使い慣れない秤を使うと極度に緊張する。しかも、本番に弱いタイプ。
 数度目の調整を繰り返し、美月の緊張の糸がぷつりと切れ落ちた。
「判りました! この秤の中には小人さんが住んでて、私に意地悪してるんですっ!」
 大声を上げ、美月は意地悪小人の住まう秤をびしっと指さした。その目にはちょっぴり涙が浮かんでたりして。
 そして、グイグイッときっちり二回引っ張られる髪。
「ええ! それじゃ、アルトですか!? アルトですね――イッタァ〜冗談ですよぉ……」
 先ほどよりも強い力で二回、美月の髪が引っ張られた。
「アルトはお仕事の邪魔はしませんからね」
 引っ張られた髪を涙目で押さえ、美月は小さく「よし!」とつぶやいた。そして、対峙するはちょっと意地悪な秤と粉ゼラチン。大きく息を吸って吐いて深呼吸。
「応援しててくださいね」
 彼女がそう言うと、その長く美しい髪が風もないのに流れるように動き始めた。ゆっくりと、穏やかな大河の流れのように。
 強ばっていた表情が緩み、指先の震えが収まってゆく。そして――
「美月ちゃん、紅茶ゼリー、出来たぁ?」
 フロアから響く清華の声に、美月は弾む声に笑顔を乗せて「固まったら完成ですっ!」と答えた。

 夏休みの喫茶アルトは基本的に暇ではあるのだが、それでも食事時になれば多少の賑わいを見せ始める。今も数名の客が二つのグループを作り、フロアの中で楽しげに食事を取っていた。
 BGM一つないフロア、聞こえる音は国道を駆け抜ける車の音と食器の擦れあう音、そして控えめな話し声だけ。そんなフロアの中まだまだ勢い衰えぬ晩夏の日差しを窓から受け、三人の店員達はそれぞれの速度、それぞれのペースで仕事を楽しくこなしていた。
 清華は昔からこの程度――仕事に追われることもなく、かといって手が空いてしまうこともない程度の客入りが一番好きだった。もちろん、ランチタイムの目の回る忙しさや、店員なのか客なのかを忘れてしまうような時間も嫌いだというわけではない。ただ、こうやって一つ一つの仕事を楽しみながら出来るという時間、それを何よりも大事だと思う。
 そんな大事な一時を、清華はキッチンと客席との往復で演出していた。のんびりとした足取り、忙しいときでも走ったりはしないが、この位の混み具合ならば自然で少々遅めの足取りでも、仕事は十分に片付く。
「注文は一通り行き渡った、帰りそうなお客さんは居ない……と」
 さりげなく視線をフロアに巡らせても、取り立てて目に付く仕事はなし。清華は軽く一息つくと、カウンター席の一つに腰を下ろした。
「お疲れ様、休憩しませんか?」
 カチンっと澄んだ音に清華はハッとした表情で顔を上げた。
「あっ……」
 まるで見計らっていたかのようなタイミングに清華は礼を言うタイミングも逃し、マジマジと和明の顔と煎れたてのコーヒーを何度も見比べるだけ。
「偶然ですよ。アルトに煎れたものですから、全部は飲まないであげてくださいね」
「あれ……アルトちゃん、今、この辺にいるんですか?」
 キョロキョロとカウンターの回りを見渡してみても、清華にそれらしき様子を見付けることはできない。回りにあるのは見慣れたフロアの景色と、そこで食事と会話を楽しむ二つのグループだけ。
「多分、ですけどね」
 そんな清華に和明は優しい笑みだけを残し、空になったサーバーを持ってキッチンへと消えていった。
「多分……って思ってる顔じゃないですよ」
 キッチンへと消える和明に向け、清華は苦笑いを浮かべて言葉を呟いた。
「アルト、私の頭にも乗ってくれればいいのにな……」
 清華はため息混じりにつぶやき、その指先をコーヒーカップに触れる直前にまで近付いた。しかし、その指先はそれ以上進むことはない。ただ、彼女の視線はじっとカップを見つめる。
「えっと……飲んでも良いかな?」
 小さなつぶやきに答える声はない。結局、清華はそのまま、コーヒーが冷え切るまでじーっと眺めているだけだった。
 ……結構楽しい一時だったのが、清華にも意外だった。
 
 何もない喫茶アルトの一日は概ねこんな感じで流れていく。ただ、温かなコーヒーの香とちょっとしたおしゃべりだけをお供に。
 
 その夜。明りの落とされたフロアの中、後の仕事を孫と義理の娘に任せ、和明は一足先に一日の仕事を終えようとしていた。
 ふと、視線の端に開いたままの古い洋書が映った。何が書かれているのかは判らないが、手垢に汚れた雰囲気だけは気に入っている一冊。
 和明はそれを手に取り、Pixieと書かれたページを見ることもなく、パタンと閉じた。
 そして、しばしのためらい……手に持った本とそれが並べられるべき本棚を数回見比べる。彼は結局、その本を今朝見たときと同じように、他の本にもたれかけさせるように片付けた。
「お休みなさい」
 今夜も本棚のガラス戸は半開きのまま。

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