指輪物語(完)
 排水パイプの太さは大体十センチ弱と言ったところ、リカちゃん人形よりも一センチだけ背の低いアルトならば、這って入れないこともないだろう。元々、アルトは狭いところも暗いところも嫌いではない。むしろ、着替えをはじめとした私物を天井裏や床下なんかに隠し込む習性を持っているので、どちらかというと得意。ただ……
「水! それもキッチンの排水よ!? 良夜が入りなさい!」
 キッチンの排水に顔を突っ込むのはお断り。せめてこれが真冬の夜中ではなく、むせ返るほどに暑い夏の午後二時くらいなら……と少し考えてみたけど、臭いそうだからやっぱり嫌。
「行け!」
「いや!」
 数回の押し問答。シンクからお湯を流して貰えば風邪は引かないし汚水も少しは綺麗になるという良夜に、こんな臭いそうな所に入るのは嫌というアルト。二人の話し合いというか口論は、一部、暴力事件に発展しながらも平行線をたどり続けた。
「もう良いですよ、明日、水道屋さんを呼びますから」
無理  それは結局和明の一言で終わりを告げた。良夜としても店主がそう言っているのだから、無理にアルトを突っ込ませなければならない理由もない……わけでないかも知れない。普段、散々面倒事を押し付けられている溜飲をここで下げようと思っている節がありそう。アルトは明日からもっと虐めてやろうと心に決めた。
「そう言うこと。じゃぁ、帰りなさい。良い夢見るのよ。配水管の中で朽ち果てる夢とか」
 ともかく、アルトとしては冬の夜中に配水管をはいずり回らなくて済んで一安心。話し合いはこれで終わりとでも言うかのように、アルトの細い足が良夜の額をかかとで一発蹴っ飛ばそうと振り上げられる……しかし、そのかかとが良夜の額を捕らえることはなかった。
「じゃぁ、明日はお休みですねぇ……」
「ちょっと待ちなさい! なんで休むのよ!」
 美月の小さなつぶやきがアルトの耳を振わせたからだ。そのつぶやきが聞こえるとアルトは良夜の髪をつかんでいることも忘れ、まるで居眠りを指摘された高校生のような勢いで立ち上がった。
 ブチブチ!! アルトの握っていた髪が根本から引き抜かれ良夜がまた一歩禿への道を進む。そんなことはどうでも良い。むしろ禿げろ。いま、彼女が直面している問題の前では良夜の頭髪量など抜けた髪に付いているフケほどの価値もない。
「イテッ!! 髪を掴んだまま立つな!! キッチンが使えなきゃ営業できないだろう!」
 抜いた髪を地面に投げ捨てると、ギャーギャーと怒鳴っている良夜を無視して、アルトは良夜の頭に座り直した。
 良夜の言うとおり、キッチンが使えなければ営業にはならない。営業にならない以上休むしかない。当たり前の話。でも、臨時休業は嫌。理解は出来るが納得は出来ないという奴だ。休まさないようにするための方法は一つしかないが、やっぱりそれも嫌。どちらも嫌。どちらも嫌だがどちらかを選ばなければならず、選ぶ資格があるのは自分ただ一人。
 モゾモゾ……ごそごそ……
 良夜の頭の上でアルトは我知らずうちに立ったり座ったりを繰り返し始めた。そのたびに良夜の髪が妙に引っ張られ、そのたび彼は顔をゆがめて文句を言っているようだが、聞こえないふり。いま忙しい。
 そんな時間が五分ほど過ぎ去った。
「あの……良夜さん? 蓋、締めてくれません?」
 そんな事情を知らない美月が良夜の百面相をのぞき込み、それがアルトに決断を促した。
 良夜の髪を手放し、すっくと立ち上がる。
「……入るのか?」
「入るわ……」
 やるしかない、女も度胸。

 と、言うわけでアルトは排水パイプの中に潜り込むと相成った。配水管の底には埃を溶かし込んだようなヘドロが堪っている。はっきり言って気持ちの良いものではない。むしろ、見ているだけでいやーな気持ちになる。決めた度胸もしぼむ勢いだ。
「着替えてくるわ……」
 沈みきった声で良夜に告げると、アルトは彼の頭からぽーんっと飛び上がった。ちょうど排水升の真上にはアルトが時々出入りに使っている換気扇がある。彼女はそこからキッチンの中へと潜り込んだ。目指す先はフロアに置かれた棚の裏、そこにあまり着ない服が隠されている。
「どれが良いかしら……」
 棚の裏に置いてあった数着の服を並べて思案に暮れる。どれも大事な服ばかり。良く考えればここに置かれている服は、かぎ裂きがあったり黄ばんでいたりして事実上使えない服が多い。それでも捨ててないのだから、彼女にとって特に大事な服が置かれていると言っても過言ではない場所だ。
「着ないで行く……それかおしぼりドレス……それも嫌よね」
 やっぱり止めようかな? そんな後ろ向きの考えが頭をよぎった。しかし、今更止めますというのも格好が付かない。彼女は諦めて一番古くて黄ばんだドレスを拾い上げた。これもお気に入りだった服で、随分昔から持っていた服だ。それも今日でお別れかしら? そんな事を考えていると、その下から一着の服が丸められているのを見付けた。
「そう言えば、これがあったわよね……」
 黄ばんだドレスを隣に畳み、『それ』をマジマジと見つめる。ここに置いてあったっけ? 良く覚えていないが……これなら汚れちゃってもかまわない。
 二度と着るつもりはなかったそれに袖を通し、アルトはいざ決戦の地へ。もはや覚悟は決まった。汚水でもヘドロでもドーンと来い! 折れそうになる心に活を入れ、アルトは換気扇の隙間から良夜達の待つ外へと飛び出した。
 そして飛び出してきたアルトを見て良夜が一言。
「お前、ジャージ、気に入ってたのか?」
「うるさい!」
 もの凄い嬉しそうな顔をしてそう言う良夜の額にバッテン印を刻み、アルトはさっさと配水管の中へと羽を進めようとした。嫌なことはさっさと済ませるに限る、それがアルトの持論だ。
 なのに掛けられる良夜の声。
「ちょっと待てよ」
「何よ? やる気を削ぐわね」
 額を抑えてうめいていた良夜が立ち上がると、彼は手に持っていた凧糸を彼女に見せた。ローストビーフを作るとき、型くずれ防止用にキッチンで使っている奴だ。アルトにも見覚えがある。
「……なに? それ」
「命綱。何かあったら、助けにいけないだろう? それとストローは置いてけ。落としてきたら面倒くさい」
 意外と気が利く……アルトは少しだけ良夜のことを見直し、彼が自分の足首にその凧糸を結ぶのを素直に許した。だがしかし、この姿はかなり間抜けだ。まるで子供に捕らえられたトンボのよう。いくらトンボみたいな羽をしているとは言え、トンボ扱いされるのはごめん被る。
「……良夜さん。凄い……」
 それを隣で眺めていた美月が、呆然とした口調で呟いた。何が? と尋ねる良夜に美月は嬉しそうに言葉を繋いだ。
「だって、凧糸が飛んでますよ!? 手品みたいです!」
「懐かしいですね。美月さん、覚えてませんか? 真雪さんが時々やっていた『凄い手品』」
 美月と和明の会話を聞きながら、アルトはあちゃぁと天を仰ぎ見た。嫌な思い出を思い出したのとそれを良夜に知られてしまったから。
 アルトの事を見ることが出来るのは非常に限られた人間だけ。しかも、アルトの服はその辺で売っている人形の服なのだが、それすらアルトが着ると他の人には見えなくなる。じゃぁ、服以外の物をアルトに被せたらどうなるのだろうか? 好奇心の強い真雪はアルトと知り合った直後にそう言うことを実験してみた。ゴミ袋の中に詰め込んだり、頭から雑巾を被せたり。結果――
「本人が服だと思ってる物は見えなくなるが、思ってない物は見えるっぽい」
 こういう事らしい。百パーセントアルトの主観。だから、頭から被された雑巾は誰にでも見えるが、アルトが迷子になったとき着ていた『おしぼりのドレス』は誰にも見えなかった。
 で、これを利用した手品が真雪十八番の隠し芸になった。糸をアルトの体に結びつけただけの『空飛ぶ糸』、雑巾を頭から被せて『空飛ぶ雑巾』、ゴミ袋の中に詰め込んで『空飛ぶゴミ袋』。暇でなおかつ機嫌のいいときだけそれを披露していた。させられる方の迷惑も顧みず……他にもトランプの絵柄を言い当てるって事も大得意。もちろん、アルトを使ったカンニング。ちなみに麻雀とポーカーでは常勝不敗の女王として当時の学生達から恐れられていた。
「私は止めてあげなさいって言ったのですが……」
「アルトがお祖母さんの手品の種だったんですね……騙されてたような、そうでもないような……」
 一通りの話が終わると、美月はなんとも言えない複雑な表情でアルトの足下に繋がる凧糸をクイクイと引っ張った。そのたびにアルトの体が大きく上下に揺れ、アルトのあまり丈夫でない三半規管が悲鳴を上げる。真雪がこの『手品』を美月に見せたときも、幼い美月は不思議そうに糸を引っ張っていた。
「就職できなかったら、手品で営業回るか? 賭け麻雀でも良いけど」
「ストロー持ってなさい!!」
 ザク! 良夜の頭にストローが立った。

「十五分したら引っ張るからな、大丈夫だよな?」
「大丈夫よ、十分で十分だわ」
「……十分で十分……つまらないな」
 バキッ! 今回三度目の攻撃が炸裂。ストローは良夜に預けているので今度は右ストレートをまぶたに叩き込んだ。「目が! 目が!」と言ってのたうち回ってるのが良い気分。
「じゃぁ、行ってくるわ」
「おっおう、行ってこい」
 待つこと数分、ようやく目の痛みから回復した良夜に見送られ、アルトは排水パイプの中へと潜り込んでいった。
 薄汚れた配管の中をほふく前進。案の定、ジャージに汚水が染みこみアルトの体から容赦なく体温を奪っていく。一応、美月がシンクからお湯を流してくれることにはなっているのだが、この辺はまだ冷たいまま。もうちょっと待ってからにすれば良かったかな、と後悔するが、汚れた排水升を見ているとやる気という物がしぼんでいく気がしたので、それも出来なかった。
 外の排水升から中の排水升まで大体距離は一メートル弱と言ったところ。人の十分の一しかないアルトでも行くのに遠すぎる距離ではない。それはそれで助かるのだが、すぐ近くに別の排水升があるって事も和明があの場所にシンクを置いた要因の一つだ。彼がそこにシンクを置いたからこういう事をやらされている……人生万事塞翁が馬、禍福はあざなえる縄のごとし……違うかも知れない。
 ヘドロが堪っていたり汚水があったりすること以外、アルトの歩みを妨げる物はなく、彼女は数分で内側の排水升へと辿り着くことが出来た。上から美月が流している熱湯のおかげで、排水口の中にたまった水はちょっと温めのお風呂か温水プールくらい。それに新しく汚れてないお湯のおかげで、水の汚れて具合もギリギリで許容範囲内。後はここで指輪を捜すだけ……なのだが。
「……真っ暗じゃない……おかしいわね」
 堪った水の中にちゃぽんと浸かり天井を見上げてみる。そこには指輪が転がり込んだ穴が開いているはずだった。そして、キッチンには美月が居るのだから明りも点いている。なのに、排水升の中は漆黒の闇、まさに伸ばした指先すらも見えない。どうしてか?
 答え、美月がその穴を踏んづけてるから。
「どーやって捜せって言うのよ!」
 狭い排水升の中でアルトの叫び声が空しく響く。人よりも夜目が利くことを自慢にしているアルトであったが、それも限度がある。人には見えない物が見えるなんて言う特殊技能は装備して居るわけでもないのだから。
「どきなさい、美月!! これじゃ、捜しようがないわよ!!!」
 天井に張り付き穴に手を伸ばして、美月の足をガンガンと叩くも、叩かれている持ち主はそれに気付く様子がない。パンプスの底が樹脂の分厚い奴だからだろう。頭脳労働担当妖精の非力な力ではそれを打ち破ることは出来ない模様。数分の格闘の後、アルトは暗闇の中、手探りで捜すことに決めた。
 真っ暗な升の中、自身の背丈よりも深いぬるま湯の中へと潜り、底を手探りで捜す。底にはヘドロの層が薄くあって彼女の探索を邪魔してくれた。転がり込んだときの勢いを考えれば、この中にはまりこんでいるのだろう。アルトは息が続くまでヘドロをほじくり返し、我慢しきれなくなると息継ぎに戻ると言うことを何度も繰り返して捜した。指先に指輪の感触を得ることを望みながら……
 許容範囲内だと思っていたお湯も舞い上がるヘドロのおかげで段々と汚れていき、漆黒の闇と合わさりアルトの気持ちを陰鬱にさせていく。それでもアルトは頑張った。頭一つ分より少し高いくらいの隙間と水底との間を何度も行き来し、ヘドロをほじくって他人のために指輪を捜す。自分自身を褒めてあげたいくらいだ。そして、ついに神への祈りが通じた瞬間が来た……あまり神仏は信じてないけど。
 潜水妖精の細い指先が硬いリングに触れたのだ。
「あった!」
 思わず叫ぶ。叫んだ拍子に肺にたまっていた空気がぼこっと音を立てて全部逃げた。でも大丈夫、あと一回息継ぎをしてくれば指輪をゲットすることが出来る。それくらいの苦労、今更どうと言うことはない。
 これを最後の息継ぎ、最後の潜水と決めて指輪の元へ。その瞬間、弛んでいた命綱がピーンと伸びた。
「うそっ!? もうタイムリミット!?」
 美月の足を叩いていたり、暗闇の中で指輪を捜すのに時間を掛けすぎた。そのおかげで与えられていた十五分の時間をいとも簡単に食いつぶしてしまっていた。
 体を引っ張る命綱に全力で抗う!
 ここまでやった、頑張った。でも、指輪を回収しなければなんの意味もない。半ば、もしかしたら七割以上溺れながらアルトは必死になって見つけ出した指輪へと手を伸ばた。
 しかし、どうしても手が届かない。後数ミリ、指先は届いているのに指輪はつかめない。無理かもと言う声が頭の何処かで聞こえた。
「無理じゃない!」
 幻の声を自分の声でかき消す。その気持ちが彼女に勝利を与えた。
 小指だけを指輪になんとか引っかけると、彼女はそれを全力でたぐり寄せた。そして、それをギュッと薄っぺらな胸に抱きしめる。硬い石が彼女の胸に突き刺さり少し痛い。でも離しちゃダメ。絶対に離しちゃダメだ。頭の中でその言葉だけを繰り返しながら、アルトは地上へと引き戻される力に身をゆだねた。

 全身ずぶ濡れ、溺れかけて顔面蒼白……最後の方には彼女を手品の種に使っていた人物がお花畑の向こう側で手を振っているのが見えるほどだったが、アルトは生きて地上へと帰ってきた。
「アルト、帰ってきました?」
「ええ、なんか……死にかかってますけど」
 ポイと指輪を地面に放り出し、その隣に大の字になる。耳に届くのは美月と良夜の心配そうな声。死にかけてるのは貴方達のせいよ! と叫びたいところだが、いまは心地よい脱力感と偉業達成を祝福するかのように瞬く冬の星空を楽しみたい。
「お疲れさん、よく頑張ったな」
 脱力した体を良夜に拾い上げられると、アルトは我知らずうちに力なく微笑んだ。少しくすぐったいけど良い気分。今夜はぐっすりと眠れそうな気がする。
 そんな余韻も美月がアルトの投げ出した指輪を取り上げるまでのことだった。
「……吉田さんの指輪って石、付いてませんでしたよ……ね?」
 その不吉な言葉にアルトは最後の力を振り絞って首を動かした。確かにその指輪には小さくともしっかりとダイヤモンドが永遠の輝きを放っている。そして、思い出されるのはコロコロと指輪が目の前を転がっていくシーン。もしかして……
「……これは清華さんがシンクに流してしまった婚約指輪ではないのかと……」
 和明の言葉に一同が静まりかえった。
「行くわよ!! こうなったら何回でも行ってくるわよ!! 貴美の指輪を見付けるまで止めないんだから!!!」
 やけっぱちな叫び声が真夜中の駐車場に響いた。アルト、二度目の探索行決定。

 追伸。
「私がイタリアで買ってきた指輪も捜してきて欲しいなぁ……なんて言ったら、怒ります?」
 もちろん、アルトは激怒した。

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