指輪物語(2)
良夜はアルバイトを終わらせると、携帯電話をチェックすることを日課にしている。バイト中はロッカーに片付けておくのがルールになっているし、たまにメールや留守番電話で飲み会のお誘いがあるからだ。場合によっては翌日の授業が休講になるなんて言うサプライズなお知らせもある。これはチェックしておかなければならない。
彼にあてがわれたロッカーを開いて、ダッフルコートの中から携帯電話を取り出す。軽い気分で広げて見ると、着信ありの文字、数人の友人の顔を思い浮かべながら、ボタンを数回押して相手の確認。
『喫茶アルト』
良夜の携帯電話は三十の着信履歴が保存できる。そして、今日、その三十が全てこの文字列に埋め尽くされていた。しかも、一番古いのはたったの二時間前だ。
「……あのバカ」
こういう事をしそうな奴は一人しか心当たりがない。良夜はぱたんと携帯電話を閉じると、口の中だけで小さく毒づいた。かけ直すことも一瞬考えたが、アルトの声は何故か電話越しでは聞こえないし、美月と話しても要領を得ないに決まっている。
制服代わりのエプロンを叩き込み、変わりに長めのダッフルコートを取りだす。ついでにヘルメットを腕に引っかけ同僚に軽く挨拶。半ば駆け足になって最上階の店員用更衣室から駐輪場めがけ駆け下りた。
「くだらなくて手間ばっかりかかる用事なんだろうな」
駆け下りながらコートの袖に腕を通し、確信めいた予感を口に出す。行きたくはない気持ちで一杯だが、行かなきゃ一晩中無言電話が掛かってくるだろう。諦めの気持ちを胸一杯に抱き、良夜は駐輪場からスクーターを飛び出させた。
それから三十分ほどが過ぎた頃、良夜は喫茶アルトの入口にスクーターを止めていた。距離的に考えて時速三十キロで走っていたとは思えない速度なのだが、まあ、それは知らん振り。
「あれ……?」
スクーターのエンジンを切ったところで、小さくはない違和感が口から零れた。
喫茶アルトは営業時間が終わると必ず電気が消される。それは例え中でウェイトレス達がお茶会をしていたとしても同様だ。そうしておかなければ、グータラな学生達が時間を問わず来店するからだ。それが今日に限っては、営業中と同じく煌々とした明りを窓から漏らしている。
しかも、良夜が裏から店内へと入ると黒髪のフロアチーフではなく、ロマンスグレーの老店長がお出迎え。事、ここに至れば良夜の悪い予感という奴は一気に加速していく。
「あれ……店長、まだ、起きてるんですか?」
「ええ……流石に今夜はちょっと……実は――」
簡単に説明されたのは。貴美が指輪をなくしてしまったこととそれを美月と和明が閉店からずっと捜していると言うことだった。だから、電気は消せないし、普段ならさっさと寝てしまう和明がこの時間にまで起きている。
「じゃあ、吉田さんも?」
「いえ、吉田さんは高見君をお迎えに……」
貴美の言葉を借りると直樹は「絶賛免停中」という奴だ。公共交通機関に乏しいここでは免停即身動きが取れないという状態になる。免停中だからと言ってバイトを休むわけにも行かず、行きは二研の友達に送って貰い、帰りは貴美が美月の妖精車で貴美がお迎えという体勢になっているらしい。
「本人は自分が捜すから、美月さんに迎えを頼もうとしたのですが……」
「貴美が居たら、私と話が出来ないじゃない! 私が追い出したのよ! それから、遅い!」
サクッ!! 良夜の後頭部に鋭いストローが刺さった。
「代わりに行くと美月さんも言ったのですが、どうやらアルトが強行に……相変わらずの蜂娘なんですね」
何処か懐かしそうに呟く老紳士の声をBGMに、良夜は悶絶していた。
それはほんの些細な偶然と不運の積み重ねだった。
フロア全体が一日の終わりを感じさせ始める午後八時少し前、小腹が空いたアルトはフロアから美月の頭に乗ってキッチンへと移動をしてきた。ここに来れば何らかのおやつが用意されているからだ。一応、ちゃんとした賄い料理も作られるのだが、貴美は一応直樹が帰ってから夕食を食べるので、夕食の賄いは食べずに持って帰ることにしている。しかし、それでは夜の八時まで持たない。そういう事情でちょっとしたおやつみたいな物をキッチンに用意しておき、それを適当につまむと言うことをしていた。アルトの狙いはその貴美用――だったはずなのにいつの間にやら美月も和明も食べているおやつだ。
「今日のおやつは何かしら〜っと」
独り言を歌うように呟いては見たものの、今夜の獲物は大皿にてんこ盛りされたパン耳スティックだった。ないよりかは遥かにマシだが、ランチの残りのサンドイッチやロールケーキの端っこなんかに比べるとかなり見劣りする。最下層グレードのおやつと言っても間違いではない。
「しけてるわね」
小さく肩をすくめながら不穏当な台詞を一つ、美月の頭からそれが置かれたお皿の上へとトンと着地を決める。そして、適当な一本を取り上げ、カリカリといい音を立てながら囓り始めた。
「リスがいる」
彼女の腕と同じくらいの太さのパン耳スティックを囓る姿を、良夜はそう表現した。その時は力一杯良夜の額をさしてやったのだが、磨かれたシンク越しに改めて自分の食事姿を見ると確かにリスに見える。しかもちょっと可愛い。
「こうしてみると、余計にリスっぽく見えるかしら?」
親指を使わずに両手で挟むようにスティックを持ち、その先端をカリカリと小刻みに囓ってみる……完璧にリスだった。
「小刻みに顔を動かすのがポイントよね」
くだらないことでもやるからには完璧を目指してみる、それが彼女の生き方だ。大きな皿の端っこにチョコンと腰掛け、シンクを鏡代わりにしてリスのパントマイム。割と楽しい。
「あら……?」
それから十分ほどの時間が過ぎた。いい加減リスごっこも飽きてきたな、と思い始めた頃。シンクに映った自分から少し視線を移したところに、銀色に光る何かが見えた。
握っていたパン耳スティックをポイと皿の上に投げ捨て、皿の縁を踏み台代わりにフワッとコンクリ打ちっ放しの土間へと彼女は舞い降りた。そして、トコトコと歩いてその傍へ。ヒョイと取り上げたのは、貴美が昼間、美月や和明相手に見せていた指輪だった。内側を覗いてみれば「2007 Birthday」の刻印もしっかりとある、間違いない。
「こんな所に落として……後で大騒ぎになるわよ」
安物と言うには少し高価、高価と言うには少し安物、なんとも評価しづらい指輪を両手で持ち上げると、アルトはそれを握って、再びシンクの上へと戻ることにした。あのあたりに置いておけば誰かの目に止まるだろう。
そう判断した彼女のつま先が地面から離れるか離れないか、まさに瞬間、絶妙のタイミングで彼女の腰を硬い物体がヒットした。アッと前のめりになれるアルトの体、そこへトドメとばかりにその硬くて重たいものが乗ってくる!
「ふぎゃっ!?」
間抜けな悲鳴を上げるアルト、彼女は経験則として一つのことを知っている。こういう事をする人間は一人しかいないことを。
「おっ掃除、おっ掃除、おっ掃除が終わったら、おっ風呂に入ってお休みなさぁい」
アルトを蹴っ飛ばし、更に踏みつけ、ご機嫌な鼻歌交じりでフロアへと駆けだしていくのは黒髪淑女。それが土間と口づけをかます一瞬前にチラッと見えた。アルトの推理はこう言うときに限って百発百中……ちょっとは成長して欲しい。
「そっそのうち殺されるわ……絶対に殺されるわ」
背中には大きな足跡、自慢の金髪も透けた羽もクシャクシャ。起き上がらなきゃいけないのだが起き上がる気力もない。が、起き上がらなければもう一回踏まれるような気がする。でも、起き上がるのがかったるい。ゴロゴロ……ちょっぴりふてくされた気分で冷たいコンクリートの上でうつぶせになって自分の人生を考えてみる。
大体美月は粗忽すぎる。注意散漫だから、アルトを蹴っ飛ばしたり、頭から水をぶっかけたり、はたき落としたり、閉じ込めたりするのだ。その証拠に、和明どころか貴美すらこういう事はしない。通訳の良夜もいるのだから、一度、しっかりと話し合った上で教育をし直してあげなくてはならない。殺されてしまう前に。
よし、そうしよう! 決意も新たに立ち上がる。アルトちゃんは強い子! と自己暗示。
立ち上がり、乱れたドレスの裾をパンパンと両手で叩く……両手?
ストローはさっきパン耳スティックを食べるとき、そのお皿のそばに置いてそのまま。右手にストロー代わりのなにかを掴んでいたような気がする。記憶が混乱しているのは、おそらく美月のつま先が彼女の細い後頭部を力一杯踏みつけた所為だ。後で良夜に八つ当たりをしよう。
邪悪な計画を胸に両手を見ていると、すぐにそれが何だったかは思い出すことが出来た。
「ああ、貴美のリング……」
握っていたはずのそれがない。どこに行ったのかしら? と、空っぽの両手と床をキョロキョロ。捜し物はすぐに見つかった。
それはアルトから三十センチほど向こうを、まるで自転車のタイヤのようにコロコロと床を転がっていた。そして、アルトの目の前で床に開いた穴へと身投げしようとしている所だった。
おむすびころりん……彼女の頭の中でその言葉だけがぐるぐると何度も回転し続け、どうしようという考えすら浮かばない。結局彼女は――
「私の所為じゃないわ、私が悪い訳じゃないの……」
顔を土色にしたアルトは体育座りをして、三十分ほど現実逃避することにした。
「と、言うわけ……私が悪いんじゃないのよ? でも、流石に可愛そうかな……って思って良夜に電話したの」
「……わっ私の所為ですかっ!?」
「不運な事故……としか言いようがないですね」
アルトが一通りの説明を終えると、良夜はその言葉を美月と和明に伝えた。
顔色を変える美月に、ありかが判って一安心と言った表情の和明、二人の顔は正反対ではあるがひとまず安心という空気が喫茶アルトの中に流れ始めた……わけだが、世の中、特に良夜の人生は無駄に理不尽だった。
「落ちたのはあそこ……」
アルトが指を指したのは、排水升の蓋だ。大きさは大体五十センチほどの正方形。真ん中に持ち上げるときに使う穴が一つポッカリと空いていて、そこから落下したようだ。そこにあるのは間違いないそうだ。アルトが間違いなく確認してる。しかし、一つ、重大な問題があった。
「半分以上シンクの下敷きになってるじゃねーか!!!」
店構えの割りに設備充実の喫茶アルト、トイレはちゃんと綺麗な水洗だしハンドドライヤーまで装備、エアコンも空気清浄機能が付いた高級品だ。そして、シンクも三人くらいなら並んで楽に作業が出来るような立派な物が装備されていた。その立派なシンクがドーンと排水升の上に鎮座ましましている。もちろん、そのシンクは青年一人に女一人、老人一人と妖精がどうこうできるサイズではない。と言うか、各種パイプの接合なんかがあって、どうにかしようと思えば水道屋を呼ぶ以外に方法はない。
「……あっあの時はこんな事になるとは……」
珍しく顔色を変える和明、なぜなら、十年ほど前にキッチンの改装をしたとき、ここにシンクを置いて排水升を潰すよう指示したのは、和明その人だったからだ。まあ、十年も前のことをとやかく言われる筋合いでもないのだが、やはり、彼も責任を感じているようだ。
見事に顔を土色に変える喫茶アルト関係者三名。各々がそれぞれに大なり小なり責任を感じているらしい。
そんな土色三人組はとりあえず放置し、良夜はその穴の傍に腰をかがめた。
シンクの下から顔を出している穴は大体直径が三センチほど。半分以上と評した物だが、実際には七割か八割ほどがシンクの下敷きになっているかも知れない。もちろん、このままで蓋が開くほどシンクも蓋も軽いものではなさそう。試す気にもなれない。そして、その穴を覗けば遥か遠くに薄暗い水面がみえた。ここからでは指輪が確認することも出来ない。
「アルト……ちょっと来い」
排水の穴を覗き込んだまま、良夜は手招きでアルトを呼び寄せる。そして、単刀直入に一言。
「入れ」
「無理」
サクッ! と本日二度目のストロー攻撃が炸裂。良夜の後頭部に激痛が走る。
「入れるなら取りに行ってるわよ。そこまで鬼じゃないもの」
「いや、俺を刺す時点で十分鬼」
激痛走る後頭部からアルトを追い出し、良夜は軽くため息をついた。刺されてから言うのもなんだが、良夜もアルトがここに入れるとはちょっと思わなかった。頭は通りそうだが、肩のあたりが少し無理のような気がした。幼児みたいな体型の割りに体の硬い女だし……
しかし、水道屋を呼んでと言うのも大げさな気がする……何とかならないものだろうか? 自称灰色の頭脳がフル回転。したところで良いアイデアなどすぐに思い浮かぶはずもなく、良夜はその奈落へと続く穴を長めながらうーんっと何度も首をひねり続けるだけ。
「仕方ないですね、明日、業者の方を呼んで……」
「ここにあるんですか? 流れちゃったりしてません?」
ようやく少しだけ復活した和明と美月が、良夜の頭の上でそんな会話をしているのが聞こえた。やっぱり、そう言う大ごとにするしかないのだろうか? どんな指輪なのかは知らないが、多分、指輪本体よりもその工事費の方が高く付くような気がした。もっとも、それは指輪そのものを見ている二人も判っていることだろう。しかし、貴美に諦めてくれ……と言えるほど、この二人が冷たい人間でないことは良夜も良く知っていた。だからこそ、何とかしてやりたい……
「あっ、店長、この升ってどこに繋がってるんですか?」
美月の言葉からふと思いついたことがあり、良夜は和明に尋ねてみた。そして、彼に案内をして貰ってキッチンの裏手へ。暖冬とはいえ身の切れるような寒さの中、彼が連れて行かれたのはちょうど、シンクの真裏に当たる部分だ。そこにはキッチンで見たのと同じ様な排水升があった。そこの升の上には何も置かれてはなく、砂や泥が隙間を埋めている他は開けるに支障がないように見える。
隙間につもった泥と砂を部屋の鍵でガリガリと掻きだし、店中の蓋と同じく開いている穴に手を突っ込み膝から腰へと順番に力を込めた。
「手伝いましょうか?」
「いっ良いです……また、腰に来ます……よっとっ!!」
和明の申し出を丁重に断り、一気に力を加える。運動不足ぎみな良夜にはちょっとした重労働、和明じゃなくても腰に来てしまいそう。この年でぎっくり腰はしたくない……しちまった日には貴美とアルトあたりが何を言出すか……と、あの二人の所為でこれをやってんだよなと思い至って軽く涙が出た。
ズルッと重たい音がし、分厚いコンクリートの蓋が外れる。ぱっくりと開いた地獄の釜、一番に視線を向けたのは店舗側へと穿たれた太い穴だ。直径の程は十センチ弱はあるだろうか? 予想通り十分に太い。これなら――
「入れ」
「……待ちなさい!!」