月の道を、桜の下を(2)
良夜が注文した分と自分が飲む分、二つのコーヒーを持ってきた美月が良夜の目の前に腰を下ろした。
「仕事、良いんですか?」
煎れ直された温かなコーヒーに軽く口を付け、目の前に腰を下ろしてしまった美月に良夜がそう言った。閉店時間までにはまだ30分ほどあるはず。
「はい、今日はもうお客さんも居ませんから」
美月の返事に良夜が店内へと視線を動かすと、店の中にいるのはお気に入りのパイプを磨いている和明だけしか居なかった。
「だから、今日は閉店の時間が来るまでおサボりです」
軽く肩をすくめるようにそう言って笑うと、美月も自分が持ってきたコーヒーに口を付け、「お祖父さんもサボってますし」と付け加えた。
「ところで良夜、これから三時間、どうするつもりなの?」
「どうするかな・・・まさか、ここで三時間、時間を潰させて貰うわけにも行かないだろう?」
カチンとソーサーにカップをおいて、アルトの質問にため息混じりに返事をする。コンビニでもあれば、と思うが、ここにはそんな洒落た物はない。どこまで田舎なんだろうか?ここは。本屋も9時には閉まるし。
「あっ、良いですよ。遠慮しないでください」
「えっ、いや、でも、悪いですよ」
ニコニコといつものように明るい笑顔を浮かべる美月に、良夜が慌てて首を振ろうとするが、それよりも先にアルトの茶々が飛んだ。
「ダメよ、美月。ケダモノ良夜に襲われちゃうわ。それに明日、起きられないわよ、11時まで店にいたら」
とりあえず『ケダモノ良夜に襲われる』という言葉は抜いて、後半だけを美月に伝えると、美月は『うっ』と言葉をつまらせてしまった。そして、口の中でブツブツと何かアルトに対して抗議をしているのだが、その声は残念ながら良夜の耳には届かない。
「朝、弱いんですか?」
「ちょっとだけ・・・です。ホンのちょっと・・・」
「嘘はいけないわ。毎朝、30分はベッドの上で座ってないと頭が動き出さない癖に。時々、そのまま寝ちゃうこともあるわよね?」
アルトがストローをフリフリ懇切丁寧に美月の寝起きの悪さを解説し始めた。その声に、つい、美月がボーッとベッドに腰を下ろしてうつらうつらしているシーンを思い起こしてしまい、良夜は軽く吹き出してしまうのだった。
「えっ、あっ、アルト?!あの、良夜さん?アルト、何か変なこと言いました?そんなことないんですよ!朝、30分くらいボーッとしていないと目が覚めないとか、毎朝、一つは忘れ物をしちゃうとか、夜更かしした次の日は立ったまま寝てることがあるとか!ちょっと、ホンのちょっと血圧が低くて、目覚めが悪いだけなんですよ〜」
「・・・そこまで言ってないわよ」
美月はあたふたといかに自分の寝起きが悪いかと言うことを、身振り手振りまで交え大熱演で説明してくれる。誰もそんなことまで言ってないし、聞いても居ない。でも、何となく癒される。
「・・・落ち着きました?」
「・・・落ち着きました」
少し冷えたコーヒーで落ち着きを取り戻すまで、五分ほどの時間が必要だった。
「ねえ、良夜、お店が終わったら夜桜を見に連れて行ってあげるわ」
「連れて行くのは俺の方だろう・・・」
ぺったんこの胸を反り返らせ、いかにも自分が連れて行くんだという態度で言いきるアルトを、良夜は呆れた顔で見下ろした。
「どこにですか?」
アルトの声が聞こえない美月が良夜の声だけを聞いて、興味津々といった顔で聞いてくる。そんな美月に『夜桜らしいです』とだけ答え、もう一度、アルトの方へと視線を落とした。
「ほら、あれ」
いつも見えている渓谷の対岸にある山をストローで指し示すアルト。そこは満開の桜が満月の淡い光に照らし出されていた。
「あぁ、あの山ですか?仕事がなかったら私も行きたいですねぇ〜あっ、ちょっと待っててくださいね」
少々残念そうに窓から見える夜桜を見ていた美月が、何を思いついたのか椅子をならして立ち上がると、そのままキッチンへと駆け込んでいってしまった。そして、5分ほどで小さなバスケットを持って帰ってきた。
「どうぞ、売れ残りですけどね」
遠慮する良夜に『アルトのお弁当だと思ってください』と言って、美月は半ば無理矢理それを良夜の胸に押しつけてしまった。結局の所、あまり無理に遠慮するのも悪いかなとも思うし、何より満面の笑みで用意してくれた物を断るのは忍びなく、それを受け取り、アルトと二人で夜桜見物に出かけることになった。
「それじゃ、美月、今夜は間違えないでね」
「バスケットは明日返しに来ます」
アルトと良夜は、店先まで見送りに来た美月にそう言って、月明かりが照らす国道をのんびりと桜咲く山へと歩いていった。
帰宅ラッシュもとっくに終わった国道は時折トラックが忙しそうに駆け抜けるだけで、他に通りかかる車もなくここがいかに田舎であるかを再認識させてくれる。
頭の上をアルトに占領された良夜は、その国道から渓谷を渡る橋へと入り、更に山へと繋がる道をプラプラと足を進めていた。天頂近くにまで昇った月が、二人の長い影を足下に落とし、それを視線で追う。
「良夜、足元ばかりを見て歩くものじゃないわ。足下には小銭しか落ちてないのよ」
クイクイと頭に乗ったアルトが良夜の髪を引っ張り、その顔を上げさせる。上げた視線の先にはぽっかりと浮かんだ月。僅かに朧が掛かった満月は、優しく淡い光を橋の上を歩く二人に投げかけている。
「小銭でも落ちてりゃひらいたいよ」
「ちっちゃいわねぇ・・・あっ、そこ左ね」
端を渡りきり山の中へと入る細い道、その両側には桜が植えられその下には幾組かの学生達が思い思いに夜桜を楽しんでいた。
「へぇ・・・結構人が出てるな・・・」
そんな桜の下で宴会を楽しむグループの一つに、良夜と同じ学部で学ぶ顔があった。彼は桜の下をぶらぶらと歩く良夜を見つけると、良夜にも宴会に参加しないかと声をかけてくれたのだが、良夜は手に持ったバスケットを見せ、『待ち合わせがあるから』といって断ってしまった。
「混ざればいいのに・・・」
頭の上に乗っていたアルトは前髪にぶら下がり良夜の顔を不思議そうに見つめた。
「だから、人前でお前と喋ってたら、危ない人だと思われるだろう?それにお前に酒を飲ますのはもうこりごりだよ」
歩くたびにプラプラと目の前で揺れるアルトの体を摘み、頭の上へと座り直させる。このままだと催眠術に掛かりそうだ。
「ふぅん・・・ありがとうって言っておくべきなのかしら?あっ、そこは右ね。奥の方へ入っていって」
「言わなくて良いよ・・・右?獣道じゃないか・・・」
人一人がようやく通れる程度の幅で草が踏みつけられただけの、道とも言えないような道。頭の上には大きく茂った樹木の枝が伸び、淡い月の光では足下を照らすのがやっとといった程度だった。
「穴場スポットなんだから、少しは苦労をしなさい。人が居ない方が良いのでしょう?」
穴場スポットというか、穴にスポッと入らなければ良いよな、などと思いながらゆっくりと身長に足を踏み出す。草を踏みつぶして出来た道は意外としっかりしていて、時折出ている木の根だの大きめの石だのにさえ気を払えば、歩き心地は決して悪くはない。
「ねえ、良夜・・・」
「話掛けんなよ、足下が危ないんだから」
「そう?じゃぁ、良いわ」
「言いかけたことは止めんなよ、気になる」
「どっちなの?」
「どっちだろうな」
くだらない会話にもなっていない会話を続け、ザクザクと倒れた雑草を踏みしめ、更に奥へと歩き続ける。そんなことを十分も続けていると、大学生達の宴会の音も遠くなり、代わりに風の音とフクロウか何かの鳴き声が聞こえ始めた。
そして更に十五分ほど歩くと、心なしか生えている雑草が逞しくなっているような気がする。いや・・・絶対に逞しくなってる。
「本当にこっちで良いのか?」
「大丈夫よ、十年前に来たんだから」
アルトのやけに自信たっぷりな言葉に良夜の足がぴたりと止まる。そして、黙って回れ右。
「信じられないの?」
アルトはグイグイと髪を引っ張り、良夜の向きを元に戻そうとする。
「あったりまえだ、ドアホ」
「もうちょっとだわ、ほら、見えてる」
その言葉に再び回れ右をして、目をこらしてみるのが、見えるのは大きく茂った雑草と樹木、そして、その隙間からさし込む淡い月光だけ。
「全然見えない」
「妖精は目が良いのよ。妖精の目があれば妖精まで見えるのよ」
戦闘妖精○風か・・・良夜の目は両方1.5、別に妖精の目はもってなくても見えてる。持ってないよな・・・自信はないけど。一度、眼科に行ってみるかなぁ・・・緑内障とか白内障とか網膜剥離とかなってたら嫌だし。
「まさかと思うが・・・桜の妖精とかが居て、それが見えてるとか?」
「ううん、桜の木だけよ。第一、桜の妖精なんてあったことないわよ」
・・・OK、こいつがこういう奴だって言うのは、初めてあったときから判ってた。ちょっぴりでもファンタジーを期待しちゃった俺が悪いんだ。
「本当に見えてるんだろうな?」
「本当よ、私が信じられないとでも言うのかしら?」
ごめんなさい、全然信じられません。なんて言うか、月の夜に妖精に導かれて桜を見に行く、おとぎ話の一節のようなシチュエーションだが、現実はおとぎ話ではなくど根性物に近付いていって居る。そのうち遭難してサバイバル物になったりして。ホンのちょっとはきたいしたんだがな・・・おとぎ話。
そんなことを考えながら、良夜が額の上でぶらぶらしているアルトのかかとを見上げていると、頭の上でブチブチといういい音がした。
「イッテェ〜!!今のは二桁は抜けたぞ!!」
「即答しないって事は信じてないって言う証拠だわ」
少々機嫌を損ねたアルトは腕に巻き付けたままの抜け毛をぱらぱらと良夜の目の前へと落とすと、それは獣道を流れる風に乗り立木の間を舞い上がり、夜空へと消えていった・・・と、文学的に表現したところでその怒りと痛みが消えるわけではない。頭の上に陣取っていたアルトの体をひょいとつまみ上げ、羽を持って左右にぶらぶらと強く振り回しながら、アルトの指さした方向へと足を進める。
「ちょっと、良夜、紳士が淑女を運ぶ仕草じゃないと思うのだけど?」
左右に体を大きく振られている割りには余裕のある口調と態度、まだ余裕があるならもっと激しくしても良いかな?と思うが、残念なことに手を回すと木か草に当たって良夜の手の方が痛くなる。
「淑女は紳士の髪を引き抜いたりしねーよ、タコ」
「あら、淑女は自分のプライドをなんとしてでも守るものだわ。先に淑女のプライドを傷つけた良夜が悪いのよ」
良く回る小さな口に呆れ、軽く勢いをつけてアルトの体を宙に投げ放つ。そのまま、木々の間から漏れる月光の中で軽く体をひねらせた。月光を透過させた半透明な羽が金色に瞬く様に足が止まってしまった。
アルトは良夜の頭の上に着地を決めると、今夜の定位置とばかりに腰を下ろし、また歩き始めた良夜の髪を腕に絡ませた。
「見惚れたかしら?良夜」
「発育不良の体と、その癖つけてるガーターベルトにな」
「へぇ〜発育不良の体に見惚れてたんだ?やっぱりロリね・・・犯罪に走る前にカウンセリングを受けた方が良いわよ」
「嫌みだ、馬鹿」
「あら、じゃぁ、何に見惚れていたのかしら?」
「見惚れてなんてねーよ」
「素直じゃないわ」
「俺は素直だよ」
「素直な人は嫌みなんて言わないわ」
「・・・」
「良夜の負けね。さてと、そろそろつくわよ」
『負けね』『呆れてるだけだ』出会ってから何度も繰り返されたやりとりを繰り返そうとした瞬間、それまで視界を邪魔していた木々が消え、小さな広場のような土地に出た。まるで人の手が入ったような様子はないのに大きく広がった空間、そして、その空間に大きく腕を伸ばし月夜を抱きしめようとしている桜の巨木、いや、古木といった方が正しいかも知れない。その巨体を薄桃色に染め上げ、彼は悠然とそこで良夜とアルトを出迎えてくれた。
「素直に見惚れた?」
「・・・素直に見惚れた」