月の道を、桜の下を(1)
夕食を終わらせ、パソコンの前でなにやらかちかちとマウスを操作する良夜。視線はモニターの中でゆっくりと100%へと近づいていくインジケータに釘付け。新作ゲームをインストールする至福の瞬間。そんな良夜の時間を邪魔する脳天気なチャイムの音。
「りょーやん、私〜」
「吉田さん、辞めようよ、恥ずかしいよ・・・」
やけにテンションの高い貴美とやけに恥ずかしがってる直樹の声が薄いドアの向こう側から聞こえる。全く、この糞忙しいときに・・・無視するかな?と一瞬考えたが、吉田さんはともかく直樹には悪いような気がする。あの小さな顔の大きな目に涙が溜まると、凶悪な攻撃力をもつ。それに、無視したところで吉田さんが帰るだろうか?
客を出迎えて恥ずかしくない格好であることを軽く確認をして、玄関の方へのそのそと足を進める。やる気の感じられないこと甚だしい。
「なんだ?タカミーズ・・・って、お前、良い若い女が缶ビール片手に男の部屋を訪れんなよ」
貴美の手には350mlのバドワイザーが握られ、頬はそれが最初の一本であることを否定するように薄桃色に染まっていた。未成年の分際で毎晩晩酌をするという直樹の愚痴は聞いていたが、実物を見ると呆れるというか、直樹に同情するというか、親の顔が見てみたいというか・・・
「りょーやんだもん、気にしない気にしない、一応、ボディーガードもいることだし」
ケラケラとハイテンションな笑いを織り交ぜ、明るく良夜の肩をポンポンと何度も叩く貴美。きっちり出来上がってしまっているようだ。ただの飲み屋のオッサンだな、これ。
それに対し、直樹の方は頭を抱えてドアの向こう側にしゃがみ込んでしまっている。少々顔は赤いようだが、どうにも、それがアルコールの影響はないような気がする。
「で、なんのよう?」
こりゃ、用事があるのは吉田さんの方で、そのお付き合いを無理矢理、直樹がさせられてるな。と的確に現状を察した良夜は、『僕は他人なんです。声を掛けないでください』と全身で訴えかけている直樹を無視して、貴美に声を掛けた。
「これ、上げる」
貴美はそう言ってどこに入れていたのか判らない紙切れを良夜の手に無理矢理握らせる。妖精とコーヒーカップの書かれた一枚の紙切れ、これは・・・
「アルトのタダ券?」
確か1枚でブレンドか紅茶かその他ジュースが1つ。余談ではあるが、アルトのメニュー、コーヒーは見開き2ページだが、その他の飲み物ではコーラから紅茶までひっくるめて1枚の半分。このコーヒー偏重主義は誰の仕業なのだろうか・・・まっ、考える必要もないか。
「そう、上げるからアルトでコーヒー飲んでおいで」
薄っぺらな紙に印刷されたかなり美化されたアルトの横顔(想像図)と、ニコニコと上機嫌に笑っている貴美の顔を怪訝な表情で見比べる。
「・・・そりゃ、ありがとうって・・・今から?別にコーヒーが欲しい訳じゃないけど・・・」
言わんとしている意味がさっぱり解らない。さっき食事を終わらせたばかりだから、腹も空いているわけでなし、喉もそんなに渇いては居ない。そもそも、そんなこと、彼女になんの関係もない。
「りょーやん、私となおは恋人同士で同棲している」
まるで子供に勉強を教えるかのように、噛んで含めるような言い方をする。それを聞いている直樹の方はますます頭を抱え、顔を真っ赤に染め上げていく。
「そして今日は金曜日、明日はお休み」
ポンポンと何度も肩を叩き、ニコニコ笑顔に殺気を込めるという器用な芸風を見せる貴美。手に持つ缶ビールがいびつに変形しかけている。
「更に、ここの壁の遮音性はイマイチ・・・ってわけだから、察して」
メキョッと手にしていたバドの缶がついに潰れ、その泡立つ液体が貴美の白く細い指先をぬらす。中身の減ったアルミ缶なんだから別に女性がやったところでどうって事はないのだが、目の前でやられると少々効く。それが下手に美人なものだから、その恐怖は半端な物ではない。
「僕じゃないんです、僕が言い出したんじゃないんですよ〜〜〜」
もう直樹は完全に泣きが入ってしまっている。
「なあ・・・直樹、なんでコレと付き合ってるのか、一度、ゆっくり教えてくれない?」
もはや良夜は貴美をコレ扱い。呆れかえった顔で貴美の顔を人差し指で刺し、頭を抱え込んでサメザメと涙を流す直樹に思わずそう尋ねてしまった。
「僕も時々疑問に思いますよ〜」
良夜の疑問につい本音で答えてしまった直樹に、貴美の致死量の恐怖を含んだ視線が投げかけられる。直樹はメデューサに睨まれた哀れな村人Aのように固まってしまった。
「幸い、私たちの部屋は角部屋で、りょーやんが留守してくれるとそんなに気を遣わなくて済むの、ねっ?」
直樹を石に変えた貴美が直樹から、再び良夜へと視線を戻したのだが、僅か数秒の間に致死量の恐怖を含んだ顔から、媚びた笑みへと作り替える辺りは、この女もなかなかに侮れないと思う。しかし、その右手にはベコベコに潰れて、気絶した缶ビール(泡を拭いてるってこった)では、その媚びも無駄になっている。
「りょーやんがそんなに聞きたいんなら、良いけど・・・その音が人生最後に聞く音にしてあげるから、ねっ?」
もう一度小首をかしげてアイドルスマイル、しかし、目は全然笑ってないし、その目の奥には『私はやると言ったらやる女だ』とありありと書かれている。ついでに缶ビールから吹き出す泡が更に強くなった。
ところで、この言葉の本意は『耳を潰す』って意味なのだろうか?それとも『人生を終わらしちゃる』という意味なのだろうか?と良夜はあまり考えても意味のないことを考えてしまった。
「吉田さんさ・・・未成年の女が『今からヤルから部屋開けろ』って言うのはどーよ?しかも、俺、男だよ?」
軽い頭痛を感じつつ、呆れっぱなしの顔で『さっさと出て行け』の感情を顔に書いてる貴美に向かって言い放つ。
「わぁわぁ〜〜〜わぁぁ〜〜〜」
良夜の単刀直入な言葉でパニックになったのは貴美の方ではなく、しゃがみ込んでサメザメと泣いていた直樹の方だった。貴美の方はケロッとした物である。
「良夜くん!そう言うことをはっきりと言わないでください!!恥ずかしいんですから!!!!」
大きな目一杯に涙を溜めた直樹が胸をつかんで抗議の声を上げているのだが・・・この場合『胸ぐらをつかむ』と言うよりも『胸にすがりつく』という形容の方が正しいかも知れない。おもいっきりつま先立ちになってるし・・・
「そのまま抱きしめたら、ビデオ撮影して漫研のお姉様方に売るよ・・・もちろん、私も永久保存」
「誰がするか!」
「チッ!」
憚ることもなく舌打ちしやがった、この女。
「でもね、直樹。言葉にしないと伝わらないことは沢山あるよ?」
「・・・含蓄ありそうで今の状況を全然伝えない言葉で納得させようとしないでくれますか?吉田さん」
とりあえず、ビデオ撮影して漫研のお姉様方を楽しませるようなことになっては困る直樹は、良夜のそばからそそくさと離れ、代わりに貴美の方へとむき直した。
「・・・判ったよ。で、何時間、察してたら良いんだ?」
もはや言い合いをするのも面倒くさい。さっさとアルトにでも行ってアルトをからかって遊ぼう。なんだか、ものすごく寂しいことを考えてるような気がするが、心の棚の一番奥に片付け込む。そして、二度と出さない。
「んっ・・・この位」
少々頭をひねって、貴美は親指だけを折った手をぴしっと立てた。
「いち」
細い親指に人差し指をぴとっとつけて大きく言い切るのは、もちろん良夜の方。
「いち、に、さん、よん」
潰れた缶ビールを握った手の小指を立てた指に一つ一つ押しつけて数えていくのは、貴美の方。もはや、羞恥プレイの領域に達してきた現状に良夜と貴美の周りでうろうろしているのは、居場所がなくなった直樹。
「・・・マヂ?」
そうなんだ・・・アレってそんなに長くするものなんだ・・・童貞君にはうかがい知ることのない話であった。寂しくなんてないやい。
「ご休憩であわただしく出てくる不倫カップルじゃないし・・・って、何言わせんのよ、りょーやん」
流石にこの一言は貴美にも少々恥ずかしかったのか、顔を真っ赤にしてパンパンと良夜の肩を叩いて誤魔化している。まあ、酔っぱらって元々顔は真っ赤だったんだけどね、このお姉さん。
「って、もう7時前じゃないか・・・アルトの閉店、8時だぞ・・・」
ちなみにラストオーダーは7時30分。多少の無理は美月と和明が相手なのでどうにでもなると言えばどうとでもなるのだが、何をどう考えても、アルトを追い出されて2時間は春の夜を満喫する羽目になる。
「急げ♪」
そう言うことは小学生にも判る問題。しかし、このダメ女、はち切れんばかりの笑顔でその計算を無視するつもりでいやがる。後、急ぐんならお前らが急げ。急いで30分で終わらせろ。
「・・・精密機械のレポート5回」
言いたいことは山ほどあった。しかし、この酔っぱらい女と言い合いをしたところで、良夜の繊細な神経がズタボロにされるだけ。勝手に初めて、聞いた罪で耳か人生を潰される。もしかしたら、両方。
そう言う訳なので、条件闘争を開始。ちなみに精密機械の授業は工学部必修の授業なのだが、毎週毎週レポートの提出を強制し、提出しても8割の人間が一度は再提出になると言うとっても教育熱心な教授の授業。しかも、前週のレポートを翌週までに終わらせないと、レポートがどんどん溜まっていく素敵システムになっている。必修でなければ絶対に誰も取らない。
「2回」
「4回」
「2回」
「4回」
「3回」
「・・・はぁ、じゃぁ3回」
競り人のような無機質な会話を繰り返し、最終的に良夜がおれ、めでたく商談は成立した。アルトに慰めて貰おうかなぁ、と人間として最後の一線を踏み越えかける良夜。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
そんな良夜に直樹が土下座をせんばかりに謝っている。謝られると情けない気持ちで一杯になってくるのだが、この場合、情けないのは、謝ってる直樹なのか、そんな直樹に謝られている良夜(彼女なし)なのか・・・少なくとも、純粋に嬉しそうな笑顔を浮かべ、直樹の首根っこを引きずろうとしている貴美でないことだけは確かな話。
「んじゃぁねぇ〜。さて、なお、何をどう疑問に思ってるのか、ベッドの上でゆっくり聞かせてね」
「わっ!忘れてなかったんですか?」
ズルズルと引きずられ隣の部屋に強制連行される直樹を呆然と見送る良夜に、貴美の最後の言葉が投げかけられた。
「あっ、りょーやん、今、インストしてる奴、つまんないから。先週コンプしたから、私」
振り返ると開け放たれた玄関の向こう側に、インジケータが100%にまで伸びたインストール画面。振り向くと、もう貴美はそこにはおらず、ばたんと言う音を立てて自分の部屋に消えていった後だった。ちょっぴり寂しい。
「11時には帰ってくるからな!!」
閉め切られたドアを一度けっ飛ばし、大声で叫ぶと、余計に寂しく、そして、蹴飛ばしたつま先がやけにいたかった。
「と、まあ・・・そう言うわけだよ」
そんなわけで喫茶アルトのいつもの席。タダ券で注文したブレンドを前にアルトへいきさつを説明した。窓からは上ったばかりの満月が満開の桜で彩られた山をライトアップしている。
「なんて言うか・・・終わってるわね、色々と」
流石のアルトも貴美の言動に呆れかえっているのか、コーヒーを飲んでいるストローの動きが止まり、あんぐりと大きく口を開いてしまっている。
「ところで・・・後ろで一生懸命聞き耳を立てて、顔を真っ赤にしてる子が居るけど大丈夫なのかしら?」
アルトの指摘に良夜がゆっくりと時間を掛けて振り向くと、そっぽを向きつつも耳だけはしっかりと良夜に向けている美月の横顔。真っ赤になった美月はちらちらと横目で良夜の方へと視線を送っていたらしく、その視線に良夜の視線が絡まると、ハッとしたように背筋を伸ばし、誤魔化すようにあははっと乾いた笑いを浮かべた。
「あははは・・・えっと、ラストオーダーの時間ですけどぉ〜」
「あははは・・・えっと、ブレンド、お代わり、ください」
注文が終わってもしばらくの間、二人の乾いた笑い声がそろそろ客も居なくなりかけた喫茶アルトの中に響き渡った。
「二人とも馬鹿よね」