海だ!(完)
その日、三島美月が目覚めた時、目の前には浅間良夜が居た。
「……ふぇ?」
起動しきっていない脳みそに必死で血液を送り込み、彼女はどうして彼が目の前にいるのかを考える。パクパクと彼の唇がいくらか動いているようにも見えるが、そこから発する言葉は全て耳を右から左。一秒たりとも彼女の脳髄に止まりはしない。
「ふぇ……一緒に寝るんですかぁ? いいですよぉ?」
ぼんやりと定まらぬ視線と思考の中で、美月の唇は彼女の意志を離れて言葉を紡いだ。そして、彼女は自分がくるまっていた毛布を右手でわっしと掴むと、バサッと大きな音を立てて広げる。ヒンヤリ……広げた毛布と彼女の体の間に冷たい風が吹き込む。エアコンは掛けずに寝たような気がするのだが、今朝は少し冷えているのだろうか?
そんな妙にずれた事を考える頭にペチンという小さな衝撃が響く。額を平手で叩かれたと気付くまで二秒ほどの時間が必要だった。
「ふぇ?」
音ほどは痛くはないが、その小さな衝撃に美月の頭の歯車はカチンと音を立ててかみ合った。
「ふわっ!? りっりっりっりっ良夜さん!? ダメです! そんなのダメ! そっそういうことはご両親にご挨拶してと言うか、挨拶してくださいというか、そう言う諸々の手続きを踏んでいただきたいというかなんと言うか、ともかくダメ!!」
早回しのカセットテープのようにペラペラと、当の本人すらも判らない台詞が美月の唇を突いて出る。それを聞いていた良夜の顔はあっという間に真っ赤に茹で上がり、彼はすっと彼女の額の上に手をかざした。
ペチペチペチペチ!
良夜の手が見事なスナップで彼女の額を何発も叩き、そのたびに美月の唇は「ふぇ」「ふぇ」と間の抜けた悲鳴だけを発し続ける。
そしてひとしきり……額が真っ赤になるまで叩かれた後、良夜は美月の額以上に真っ赤になった顔で大声を上げた。
「何、寝とぼけてんですか?! ここ、フェリーん中ですよ?!」
言われてキョロキョロ……辺りを見渡してみれば、最初に気付いたのは低くうなるようなエンジンの音と体を揺らす波の振動。呆けていた視野がはっきりすれば、良夜を初めとした友人達とその背後に低いついたてが見える。そのついたてで仕切られた十畳ほどの畳の間にはまん丸い船窓があり、そこでは天まで伸びる大きな入道雲が水平線の向こうに鎮座ましましていた。
見紛う事なきフェリーの中だ。
「良夜さん……」
「何ですか?」
くるりと一周した視線が良夜の顔でその旅を終えれば、彼女は抱え込んでいた毛布を体から引きはがしながら呟いた。
「フェリーの中で昼間から夜ばいなんて……なんて図太い……」
「そこから離れてください!!」
再び上げられる大声、その声に貴美達友人だけではなく、見知らぬ乗客達までもが声を出して笑っていた。
さて、フェリーを下りて美月が一番最初にした事は、
「寝かせてくださいぃ……」
良夜にこう懇願する事だった。
今日の彼女はとってもおねむだった。そう言うのも昨夜彼女らがベッドに入ったのは、深夜の四時を大幅に過ぎ去ったところだったからだ。
原因はただ一つ。
直樹だ。
公衆の面前でほぼ全裸を晒した彼は、当然のことながら怒っていた。怒ると同時に落ち込んでも居た。前者の方は貴美の『欲しがっていたバイクのパーツを買って上げるから』でなんとか事なきを得た。さらに、後者を解決するため、彼の友人達は酷く安直な手に走った。
「呑ませて忘れさせちゃおう!」
女性陣三人が手間暇掛けて美味しい料理を沢山作り、お酒は直樹が最近ちょっと気に入っている甘めのカクテルなんかを出来合とは言え大量仕入れ。それを直樹中心に上げ膳据え膳して上げて……気がつけば夜中の三時まで飲めや歌えの大宴会! 一応直樹に気を遣っているのか、鍋パーティの時ほどにも乱れることなく、その宴会は盛況のうちに幕を閉じ、直樹のご機嫌とテンションもひとまずは通常レベルにまで達した。
ただ一つ、なし崩し的に料理担当主任を引き受ける羽目になった美月から体力と睡眠時間を奪うという副作用だけを残して……
そんなわけで頭はフラフラ、貸別荘からフェリー乗り場まで車を運転してきたはずなのだが、その辺りの記憶はすっぽりと抜け落ちているような状況だった。
「ああ、良いですよ。居眠りされても困りますし……ってか、居眠りしてませんでしたか? 向こうで」
「きっ、気のせいですよ……記憶、ありませんけどぉ……」
「寝て下さい、今すぐに!」
二つ返事というか、とっとと寝てくれとでも言わんばかりの返事をいただき、美月は車をフェリー乗り場の駐車場の片隅に止める。そこが他の客の邪魔にならぬ事だけを確かめると、運転席のシートをカタカタとリクライニングさせる。そこにゴロンと寝ころべば、柔らかく暖かな色遣いの天井が見え、その上からなにやら話し声が聞こえた。多分、良夜がタカミーズや陽達と話をしているのだろう。彼らは彼らで別の足を使ってあの島へと渡っていた。だから、彼らに美月を待つ理由はない……
「だったら……良夜さんも……――」
その呟きが声になったのかならなかったのか? それを確かめるよりも早く、美月の意識はすーっと眠りの中へと落ちていく。エンジンが続けるアイドリングの音とエアコンが送風口から全力で吐き出す心地良い冷風。堅くて狭いベッドの上でも美月の意識は途端に拡散していく。
それからどのくらいの時間が過ぎただろうか? もしかしたら数秒も過ぎたかも知れないし、もしかしたら数時間かも知れないあやふやな時間が過ぎた頃だった。
カチャリと小さな音を立てて助手席のドアが開いた。
同時に額の上に何か小さな堅いものが触れる感触が与えられる。
「んっ……」
意識を覚ますには少し物足りない。彼女は無意識のうちに体の向きを変えると、もそもそとその体が落ち着くべき場所を探した。
「……おこ――なよ」
なんだか妙に遠くから聞こえる声……それが聞こえる事に美月は夢現の中ででも少し安堵した。その安堵の気持ちが美月を再び安らかな眠りへと誘っていく。さりとて、全ての意識が彼女の中から眠りの中へと落ちるわけでもない。美月は夢と現、心地良く揺れる天秤の上で彼女は幸せなひとときを過ごし始めた。
だから、彼女はそれを不思議とも思わず、素直に受け入れていた。
「良夜が免許持ってたら、こんな事にならずに済んだのにね」
「免許なぁ……帰ったら……――……」
会話が聞こえた。一人は毎日のように聞いている男性の声、一人は……初めて聞く声なのに初めてじゃない声、美しく澄んだソプラノだった。
相手は誰なのだろうか? 美月は閉じたまぶたの中できらきらと光る不思議な色合いを眺めながら、もやのかかったような思考の中で考える。
「お金は?」
「学割とローンでな――……なるかな? バイ――…………なぁ……土曜日とか」
会話の合間にはカタカタという何かのボタンを押し続けるような音。何をしているのかは良く判らないけど……多分、寝ている自分を待つための暇つぶしであることは容易に気付けた。
「そうね、免許取ったら車も買っちゃ――……そして、私をどこかに――」
「……それは無理。駐車……、――し……保険も…………するし……」
「かいしょ――……し」
「大きなおせ――アルト」
ああ……アルトとおしゃべりをして居るんだ。良夜の言葉に彼女の名前が出たところで納得。うん、相手がアルトなら大丈夫……浮気じゃないから安心……一緒におしゃべりしてみたいけど、今は寝る方が大事……この後もしばらく運転しなきゃいけないのだから。
僅かに意識を現へとずらし、彼女はもぞもぞと体をシートの上で動かした。軽四の狭いシート、その上で美月の体が動いたのはほんの少しだけ。それでも体の当りが変わったせいか、さっきよりも少しだけ寝心地は良いと思えた。
良くなった寝心地の中で、美月の意識はまた夢の中へと落ちていく。
「ヘタッピ! ……――ヘタッピ……って言うか、馬鹿って言って上げるべきよね? パズルでしょ? それ」
「うるさい、美月さんが起きるって」
落ちていった夢の中……遠かった声がはっきりと聞こえ始める。まるで夢を見ているように。その夢がさらに深い眠りへと彼女を誘う。守歌のように。
「あら、止めたの? ヘタレ」
「うるせー」
でも……ちょっぴり胸が痛い。楽しそうに会話を続ける良夜とアルト。その楽しそうな会話に胸が痛む。
(イマ、ワタシハ、ヤキモチヲ、ヤイテイル)
夢の中での自己嫌悪……ちりちりと痛む胸に拳を押しつけながら、彼女はもう一度体をシートの上で動かした。やっぱり動かせるのはほんの少しだけ。しかし、今度はちょっぴり当りが悪いのか、寝心地は悪くなったような気がした。
夢現の天秤はいつしか寝心地の悪いベッドへと戻っていき、彼女はその上で「起きちゃおうかな……」と考えた。起きて、普段の顔をして「何の話をしてたんですか?」と聞いてしまおうかな? とも彼女は考える。
そう考えた刹那、美月のこめかみに小さな振動が走った。小さくて堅い何かが上から落ちてきたような感じだ。その痛みと言うには少し足りないが、しかし痛みとしか言いようのない感覚に美月のまぶたが反射的に開く。開くまぶた、霞む視野の中に――
彼女を覗き込む金色の瞳が飛び込んできた。
思考が止まる刹那の時間。次の瞬間、見えていたものは消え失せ、そこには暖かな色遣いのドアだけが代わり映えもせずにそそり立っていた。
「何度も美月さんの頭、蹴っ飛ばすなよ、起きるだろう?」
良夜の言葉と目の前にいた“見知らぬ誰か”とが結びつくまで三秒。この三秒の間に美月は起きるタイミングを完全に逸した。
完全に目覚めてしまった美月さん、完全に目覚めたとは言っても起きるタイミングはしっかりなくしてしまった。結果、彼女はまんじりとも出来ず、目の前にある灰褐色の内装をジーッと見つめていた。しかも……
「髪だよ、髪を見てただけだ」
(今朝はちゃんととかしてないのに……)
「……起きるだろう?」
(起きてます、ずっと……)
しっかり目覚めてしまったせいなのか、アルトの声は聞こえなくなり、良夜の独り言というにはやけに具体的な言葉ばかりが聞こえてくる。そんな良夜の一方的な言い分だけを聞いていたのでは、それがどのような会話なのかはさっぱり見当が付かない。結局、彼女に出来る事と言えば、灰褐色の内装をぼんやりと見つめる事と、そこに付いた汚れをお掃除しなきゃと思い続けることくらいだけだった。
そんな事を思っていると、ふと顔の上で何かが動く感じが美月の頬に伝わった。これはきっとアルトだろうと思う。この重みとドレスの肌触りを彼女が間違えるはずがない。
そう言えば、アルトは美月が起きている事を知っているのだから良夜に教えてくれればいいのに……と、思ってみても彼女が本当に気付いているのかどうかは怪しい。そもそも、あの一瞬だけ目に入った金色の瞳がアルトのものであるという確証も、今となってはずいぶんと希薄だ。もしかしたら、本当に夢を見ていただけなのかも知れない……と一度疑念が沸けば、さらにさっきの瞳がアルトのもだったという自信は薄くなる。
「……お前に言う事じゃないだろう?」
不意に良夜の声から力が抜ける。言いよどむような……ためらいにも似た響きが含まれている事に美月は気付いた。
(何のお話をしてるんでしょう?)
そう考えても片側一方通行の言葉だけでは、さっぱり皆目見当が付かないのは相変わらずだ。美月は今までと同じように耳をそばだて、彼の一言一言だけに全神経を集中させる。
しかし、良夜はそれ以上何事も言わない。ただ、ウグッ……だの、あー……だのと、まるでうめき声のような声ばかりを上げ続けるだけだ。
そんなに言いにくい事を尋ねられたのだろうか? 考えてみてもやっぱり答えはどこにも落ちてない。
「すっ……好きに決まってるだろう?」
疑問の海でまどろむ美月に思いも寄らぬ言葉が飛び込んでくる。その言葉に「えっ?」と声を上げなかったのは、大袈裟に言えば奇跡に近い。
何が好き? 食べ物? お金? もしかして人? もしかして――
(私?)
「てっ、てめえ! なんて事言うんだよ!!」
罵声に近い怒声を良夜が上がれば、びっくっん!? と、美月の体が大きく跳ね上がる。
客観的に見ればそれは単に間が悪かっただけの話。しかし、美月にとって見れば口の中だけでとは言え、呟いた言葉に返事をされたような感じ。客観視などとてもできる状況な訳もなくて……
(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……)
ふにゅっと胸元に二つの拳を作り、彼女はギュッと閉じた口の中で詫びの言葉を発し続ける。もっとも、それが何に対して誰に謝っているのは、当人もイマイチ良くは判っちゃいない。
ただ、ひたすらに謝るだけ……良夜は他にも一言二言言ってるようだったが、彼女の意識を揺らす事はない。そして、次に彼女が我を取りもどしたのは、誰も弄ってないはずのパワーウィンドウが静かな音を立てて開いた時だった。
十センチほど開いた窓から、潮の香りをはらんだ風が流れ込み、室内の空気を僅かに変える。
直後、トンッと音はせずとも蹴られた感触だけがしっかりとほっぺたに伝わり、彼女にアルトがそこから飛び立った事を教える。
どこへ?
それは考えるまでもない事、窓を開けたのが彼女ならば、外に飛んでいく以外にあり得ない。美月は彼女が飛んでいったであろう方向へと僅かに視線を動かす。そこには真っ青な空へまっすぐに伸びていく飛行機雲と、その向こう側では入道雲がわき上がり始めているのが見えた。
顔を動かせば、その頭に乗っかった長い髪が流れ落ちる。自身の背中を撫でる滑らかな髪。その感触に美月は自分が今寝たふりをし続けている事を思い出した。
かさっ……
背後で気配が動く。多分、良夜の足下に置いた荷物が擦れる音だろう。その気配に美月は、ばれちゃったかも? の思いを込めて体を硬くする。しかし、それは杞憂に過ぎなかった。いつまで待っても良夜からの声が美月の鼓膜を揺らすことなく、代わりに……
代わりに彼女の髪がもう一度彼女の背中を撫でる感触だけが与えられた。
ビクン……
一瞬だけ美月の体が硬くなる。しかし、すぐにそれが良夜が自分の髪に触れただけだと言うことに気がついた。
髪に触れられる事は嫌いじゃない。むしろ好き。髪を撫でられると安心する。でも、触って貰えるのならちゃんとブラッシングをしておくべきだったと後悔しきり。後悔すると同時に固まっていた体から力が抜けていく。
彼女の瞳が自然と閉じ、彼女の意識は自慢の髪を撫でる良夜の指先へと集中していく。それと同時に頬が熱くなっていく感じ……
「好きだよ、美月」
そして、彼女はその言葉に自然に答えた。
「はい……私も……」
「そうですか……良かった」
なにげのない会話に、美月も、そして直接確かめる事は出来ないがきっと良夜も微笑んでいるはず……なのだが。
「美月さん……」
「何ですか?」
その頃、妖精さんは屋根の上に寝っ転がり、耳を押しつけていた。その右手には大事な大事なストロー、左手は三本の指で天の入道雲を指していた。
「三……ニ……一」
それを一本ずつ折りながら時を数え、その指が全て折られた時、彼女は呟いた。
「どっか〜ん」
「みっみっみみづきささんんっ!? いっいつ、いつから起きてたんですかっ!?」
「はっ!? 私は寝てます! 寝てるんです!! 寝てる設定でした! 物凄く熟睡しているので、そう言う事ですから、忘れてください!!!」
車がどったんばったんと左右に大きく揺れ、絶叫が屋根を突き抜け青空へと消えていく。その声をアルトは揺れる屋根の上で聞きながら、ゴロンと体を入道雲が支配する空へと向けて寝転がった。
底意地の悪い笑みをニヤニヤと浮かべて……