みんなで学ぼう!(1)
さて、七月である。空梅雨で毎日毎日晴天が続いて、季節感が壊滅しようとも七月なのだ。七月となれば巡りめくってくる物がある。
『単位認定試験』
大学生ならば誰もが苦痛と苦悩を持つであろう物がゆっくりと確実に近づいてくる。大学生ならば誰だっていやだ。それはこの人、浅間良夜も同様だ。なんと言っても――
「ドイツ語……さっぱりわからねえ……」
彼は文系がさっぱり駄目な人間だった。中学生の頃から学んでいるはずの英語どころか、生まれた時から使っている日本語すら時々怪しい。そう言う良夜にとって第二外国語のドイツ語など、もはやただの暗号だ。
「吉田さんが第二外国で一番簡単なのはドイツ語だって言うから取ったんだぞ?」
喫茶アルトへと向かう道すがら、良夜はその隣でへらへらと笑っている貴美に逆恨みにも似た愚痴をぶつけていた。
「フランス語よりかマシ。取った連中、阿鼻叫喚なんよ? 文学部の女子につられて、アホなんよ」
大仰な仕草で肩をすくめ、彼女は良夜の愚痴に返事を返した。小馬鹿にしきった言葉は共にアルトに向かっていた学生達の一部にも伝わり、その一部の者にちょっとした二種類の変化を与える。貴美の言葉に頷く学生とがっくりとうなだれる学生の二種類だ。主に前者が女子で後者が男子だったりする。
「中国語の方が良かったんですかね……漢字だし」
「ああ、ダメダメ、そう思って行った奴ら、軒並み返り討ちだから」
直樹と貴美の会話を聞きながら、良夜は力強く拳を握った。そして、真っ白い雲がぽっかりと浮かぶ空へ視線を向けながら誓うのだった。
「俺は一生日本から出ないぞ!」
「りょーやんのポリシーは尊重するとして、目の先、試験、どーすんの?」
「……秘策はある」
真夏へと向かう空から貴美の鳶色の瞳へと視線を動かしながら、良夜は小さな小さな消え入るような声で呟いた。
数日後、バイトが休みの日がやって来た。この日、良夜はアルトを自室へと招いていた。
「……これが良夜の秘策ね、情けない」
ツンとした表情、毎度おなじみ濃紺ツーピースと伊達眼鏡を装備、やる気満々の女教師が彼の目の前にいた。
「ドイツ語だけでも頼む、マジでヤバイ……ッて所なんだけど、なんで――」
ガラステーブルを中心とした勉強スペースの中、良夜の視線がゆっくりと動く。
「吉田さん……」
「傾向と対策が聞けんなら、来なきゃしゃーないじゃん?」
良夜の正面には喫茶アルトの開襟シャツのまま、でーんと一角を占領する貴美がいた。そして、その隣には――
「おまけの直樹……」
「……誰がおまけですか、誰が」
良夜が「アルトに教えて貰う」と言ったところ、貴美が「じゃぁ、私も」と言いだし、彼女がそう言い出せば直樹が引っ張られるのはいつものこと。だったら直樹と良夜のバイト休みを会わせて、と言う事でこの日が合同勉強会と相成った。ここまでは良い。
「……美月さん?」
おまけの直樹のさらに隣、良夜と直樹に挟まれるようにして彼女はそこに座っていた。最近着替えたばかりの開襟シャツは貴美ほどのサービス精神はないが、清楚な雰囲気は貴美とはひと味違う良さを持つ……と言う話はさておく。貴美から始まった室内一週視線の旅が美月で終わりを告げた時、思わず良夜は額に右手を押しつけ、目を閉じた。
「あれ……えっと……」
美月は愛らしく小首をかしげた。そして静まること数秒。誰もが美月の次の言葉を待つ嫌な沈黙が良夜の部屋を包む。
「あぁぁ?! きっ、来ちゃいけませんでしたっ!? 私、いらない子ですかっ!?」
彼女はバタバタと手を振り回し初め、挙動不審者のように直樹や貴美に涙目で救いの手を求め始める。
元々、今日の授業が終わった後、良夜と直樹は喫茶アルトのいつもの席でアルトに勉強を教えて貰っていた。夕方少し前から夜の八時まで。途中コーヒーを飲んだりケーキを食べたりと休憩はしたが一応はみっちりたっぷり三時間ほど。そして、アルトの閉店作業も終わったし、和明は一足先に寝ちゃったしと言うことで、良夜の自宅アパートへと帰ってきたのだが……
何故かその時、美月が引っ付いてきていた。
なんで誰も止めなかったんだろう? と思っても後の祭。良夜が気付いた時には、彼女はそこにいることが当たり前のように良夜の隣に座っては、アルトとしゃべる良夜の顔を楽しそうに見入っていた。
「別に面白いことないですよ? 勉強するだけだし」
良夜が返す言葉は貴美や直樹の心を代弁した物だ。もちろんそれが美月の救いの手になるはずもなく、彼女はしょんぼりと持参した大きなバッグを、ギュッと薄い胸に抱く。
「今夜はぱーっと宴会じゃないんですか? 折角、お祖父さんの日本酒、持ってきたのに……おつまみだってお店からチーズとかフランクフルトとか持ってきたんですよ?」
そのバッグから取り出されるのは立派な一升瓶とおつまみがたっぷりと詰まったタッパーだ。彼女はそれを一つ一つ見せながら、それらと一緒に誇らしげな笑顔まで見せる。その笑顔が愛らしければ愛らしいほど、良夜の頭痛は酷くなる一方。彼女に気付かれることもいとわず、彼は大きな溜息をいくつもこぼす。
「飯は食べましたから……今夜は勉強ですよ? 美月さんもするんですか? ドイツ語」
「うう……良夜さん、良夜さんは私が勉強嫌いだって知ってて意地悪を言ってるんですね? 酷いです、冷たいです、いじめっ子です」
バッグのビニールに顎をこすりつけながら、彼女はジィッと良夜の顔を見あげる。その目には今にもこぼれ落ちそうな涙が溜まり、大きな黒目をウルウルと潤ませていた。ちなみに彼女は調理師学校でイタリア語も習ったらしいのだが、その知識はもはやイタリア名産の食品と料理の名前くらいしか覚えてない。
「だから、最初から勉強の予定なんですって……」
「じゃぁ、帰れって言うんですか!? 酷い……」
美月の瞳から涙が一滴、重力にしたがった瞬間、それまで半ば傍観者を決め込んでいた者達の態度が変わった。それは視線だ。冷たい視線が良夜の顔を射貫き、批判の色をあらわにする。
「さっさと別れればいいのよ、良夜みたいなトカゲ男」
「りょーやん、ひどぉ〜」
「えっと……別に邪魔というわけでもありませんし……」
即座に悪者になる良夜、彼はイジイジとテーブルの上にのの字を書き始めるのだった。
「始めるわよ。えっと、傾向はね……あの教授、四年ごとに同じ問題出すのよ。だから、今年は……――」
四人の額がテーブルの真ん中に寄り合い、その中心でアルトがボソボソと小さな声で話し始める。その様子はまるで脱獄の計画でも立てている囚人か、銀行襲撃でも企てている強盗団だ。そんな外見ではあるが、やってる本人達は真剣そのもの。良夜はアルトの言葉を通訳しながらも、必死で記憶しようとしているし、タカミーズもメモを取りながらふんふんと首を何度も縦に振っている。
ただ一人、さっぱり話を理解できていなければ、する気もない美月を除いて。
最初こそ、彼女もタカミーズ同様頷く振りくらいはしていたのだが、それも数分の間だけだった。すぐに彼女は大きな目を潤ませ初め、他の三人の顔をチラチラとのぞき込み始めた。しかし、覗き込まれたところで彼らが面白い顔などするはずがない。ただただ、真剣にメモを取ったり通訳したりするだけ。
そして、さらに五分が経過した。
プチ……プチ……プチプチプチプチ……
部屋の隅に丸まる小さな背中。そこからプチプチシートを潰す小さくも確実に耳に残る音が発せられ始める。
『……なんてうっとうしい拗ね方をする人なんだろう?』
美月の丸い背中に四人の視線が集中、しかし、誰も声はかけない。否、掛けられない。なんだか、背後から怒りの炎を感じるからだ。一言声を掛けたら、泥沼にはまってしまうんではないのだろうか? そんな雰囲気をたっぷりと醸し出している。しかしほっといて事態が好転すると思えるほど、彼らは楽観的な人間でもなかった。
がつんっ!
貴美の細い足が良夜の足を蹴っ飛ばす。思わず引っ込めた良夜の足がガラステーブルを突き上げ、その上に乗っていたアルトの体をステンとひっくり返した。それと同時に貴美の顎がクイクイと二度ほど跳ね上がる。睨み付ける視線には殺気が籠もっていた。
貴美の言わんとしていることは彼にも理解できる。良夜は助けを求めるように視線を巡らせるが、直樹はそっぽを向くし、尻餅をついたアルトは思いっきりアカンベーをしていた。彼に差し伸べられる救いの手などどこにも存在しないのだ。
仕方がない……心の中だけで呟き、良夜はゆっくりと美月の方に振り向いた。その時!
ぶちぶちぶちちちちちちちちち!!!!
破裂音が連続で響き渡り、それが消えるとしばしの沈黙が訪れる。そして、ガサガサと小さな音がしたかと思うと、再び彼女の手元からプチプチと小さな音がし始めた。
「絞ったね……」
貴美の言葉に三人はコクンと小さくうなずき、上げられた視線が良夜の顔に集中した。その視線、その目が言葉以上に雄弁に語っている。
『もう限界だ、さっさとどうにかしろ』
普段は大人しい直樹までもが、美月の背中と良夜の顔をチラチラと見比べ、申し訳なさそうな顔をしている。もはや彼に逃げる道などどこにもありはしない。
テーブルの上から視線を美月の背中へと動かす。その背後からでも美月の頬がふくれているのが判った。その背中に良夜は、おずおずと控えめな声を掛ける。
「みっ……美月、さん?」
「はい! 良夜さん!! なんですかっ!?」
きゅんっ! と言う効果音でも聞こえそうな勢いで、美月の首が振り向いた。脹れていたはずの頬はすっきりほっそり、満面どころか花が咲いたような笑顔がそこに存在してた。思わず、可愛いなと良夜は数秒見つめたが、彼の後頭部に誰か――多分貴美――が投げた消しゴムが彼に次なる言葉を促す。
「あっ! えっ……えっと……暇ならゲームでもしてませんか? 二−三時間も勉強したら終わりにしますし、その後、ちょっとだけ、ちょっとだけ飲みましょう?」
四つんばいになり、良夜は美月の顔を見あげた。顔色をうかがうように……本人には判らないことだが、もしかしたら彼の顔は引きつっていたかも知れない。
「……二時間で終わりにしませんか?」
再びプックリと頬がふくれ、雑巾のように絞られたプチプチシートが、さらにその手の中で丸められてゆく。残っていた僅かばかりの気泡がプチプチと小さな音を立てた。
良夜は思わずコクンコクンと何度もうなずき、彼女のためにテレビゲームを用意し始める。
良夜が好きなゲームは基本的にはRPGだ。着実にレベルを上げてゆけば馬鹿でもクリアーできるゲームが好み。しかし、この場でこんなゲームを与えたところでそんなにゆっくりする暇はないし、楽しむことも出来ない。そこで、彼は縦スクロールのごく標準的なシューティングゲームを用意した。難易度を下げて、コンティニューさえすればこれもそこそこ進めるはず。RPGよりかはマシだろう。
ぽちっとスイッチを入れゲームを立ち上げる。その背後からは美月が物珍しそうに首を突っ込んでいた。背中には美月の手が押しつけられ、彼女の吐息が耳に届く距離。良夜の鼓動はいやが上にも盛り上がる。が、通訳不在の学舎からは冷たい視線が物理的な力を持って彼を威嚇する。
「えっと、やり方はこうでこう……簡単でしょ?」
「はぁ……なんだか難しそうですね……」
手渡されたパッドに美月は興味深そうとも不思議そうともつかぬ顔を見せた。そんな表情でひっくり返したり握ってみたりを繰り返す事数分。美月はすぐにピコピコとゲームを始めた。後に聞いたことだが、美月は今までゲームという物を買ったことがないらしい。最近の若者としては珍しいタイプだ。もっともおままごとにマイセンのカップとティセットを使っていた美月を、まともな子供と比べる方が無茶なのか知れない。
彼女の興味がゲームに映ったことを確認すると、良夜は小さな声で「それじゃ……」とだけ告げ、テーブルに引き返した。
「なんや、修羅場かと思ってたのに」
「コラコラ、何を期待してんだよ……始めっぞ? もう九時過ぎてるし……」
貴美との会話を適当に切り上げ、良夜は意識をアルトの方へと向ける。同時にアルトもくつろいでいた本の上から立ち上がり、それぞれのノートを女教師よろしく見て歩く。
「ここ、ここの活用がおかしいわよって直樹に伝えて。ついでに良夜、ここのスペルが全然違う……判らない単語をローマ字で書くの、いい加減に止めなさい。辞書はなんのためにあるの?」
アルトの指摘は直樹と良夜に集中し、貴美は少し仲間はずれになる。元々の頭の良さと常日頃の勉強量が違うのだから、この辺りはいかんともしがたい部分だ。むしろ段々と貴美が直樹に教え、アルトが良夜に教えるという役割分担が明確になっていく。
そんなこんなで表面上は静かにお勉強の時は流れゆく……
「なおのアホ……子供? 単位取れんでも私は追試料金貸さんよ? バイトの時間増やして稼ぎぃ?」
「良夜って本当に馬鹿ね……さっきも同じ所を間違えてたわよ? これだから勉強癖のついてない『ゆとり』はいやなのよ」
訂正。出来る奴らは出来ない奴に冷たい。出来ない男二人は出来る女二人から与えられる言葉の暴力にその精神をすり減らしていた。すり減らしつつも単位のためと彼らは涙をグッと飲み込んだ。
その隣では――
ちゅっどぉ〜〜〜ん!
「ふぇ〜またです〜〜〜」
ぼっか〜〜〜ん!
「むむぅ、ちょこざいな!」
どっかぁ〜〜〜ん!
「あぁ〜〜〜返り討ちです〜〜〜」
美月の賑やかな叫び声と耳に五月蠅い効果音がBGMと化していた。まるで子供だ。彼女は腕ごと体ごとパッドを右や左に動かしているのに、ゲーム画面の中の彼女は画面中央からろくすっぽ動きやしない。雨あられと降ってくる敵と敵の攻撃にその身を晒し続けていた。
そこにできるだけ意識を持って行かれぬよう、四人は意識を集中させようとする。しかし、『意識しないように』と考えている時点で意識しているも同然だ。その努力もむなしく……
「だからね、ここは過去形じゃなくて……ボムを使えば良いんよ? ……あっあれ?」
「だから、そこは三単現でしょ!? ドイツ語の動詞はもっと複雑なのよ! だから、ここではレーザーにパワーアップしなきゃ駄目なわけ! ……えっと……」
「……あの……」
「おい……」
彼女たちの説明に怪しげな単語が混ざり始めた。チラリと何とも形容しがたい視線が二組、彼女らの横顔を見つめる。その視線から逃れるように二人はそっぽを向いて鼻歌を口ずさむ。しかし、良夜と直樹の視線はその横っ面を捉えたまま……
そして十秒、一時間にも匹敵する十秒が過ぎた。
「ふえぇ〜〜〜ん、りょーやさーん、助けて下さい!」
その美月の楽しそうな悲鳴が沈黙を打ち破る。
「やめ!」
「そうよ、今夜は中止! ゲームよっ! ゲームしかないわっ!!」
貴美がガラステーブルに手の平を叩きつけると、同時にアルトがぽーんと良夜の頭の上に飛び上がる。
かくして、お勉強大会はゲーム大会へと成り代わった。
「……ドイツ語……追試かなぁ……」
直樹の小さな溜息に良夜は心で涙した。でも、ゲームはする。彼はそう言う男だった。