2014  中山道を行く

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2014年4月11日フェリィーで徳島発  昼過ぎに潮岬通過  左の白い塔が灯台。 右の白い建物はレストラン
船は、太平洋を航行でなく、本州の沿岸の近くを航行している。船からはいつも陸地が見えていた。 
       12日早朝、東京・有明着  そこからJR新宿まで自転車走行。
  新宿発の特急あずさで、山梨県の塩山まで輪行。


JR塩山で下車。自転車を組み立ててサイクリングの旅が始まる。
4月12日は武田信玄の命日で恵林寺(塩山市)で法要が行われる。
この寺は、武田氏滅亡の時、織田軍に寺を焼かれた。
この時、快川紹喜は「心頭を滅却すれば火もまた涼し」と、火中に没した。
境内を拝観中に、信玄公に供える朝食?を見ることができた。廊下で出会った坊さんに誘われて同行。
大根に菜の花が刺さっていたのが印象的でした。

祭りは昼から始めるようで、ただいま準備中!

朝、かなり寒い。


躑躅が崎館跡  
今は武田神社になっています。甲府の町からはずっと登り道。気温がぐんぐん上昇している。
信玄公まつりの一環で、境内では舞台で能を演じていましたが、パンフレットの解説を見るまで意味不明でした。


諏訪神社下社秋宮
甲府から韮崎で泊。翌日、茅野経由で諏訪湖着。
同じ敷地と思われるホテルにこの日は宿泊   諏訪神社は諏訪湖に4つあるのを知りました。


諏訪湖から富士山を見る。富士山は肉眼では見えなかったけど写真には写っているんですね。
これから行く杖突峠の方向ばかり気にしていました。



下社秋宮から見ると諏訪湖の対岸にある諏訪大社上社



杖突峠経由でコヒガンザクラの高遠城跡へ
杖突峠入口の道路情報に「桜三分咲き」とのメッセージ。
それを見て期待はしていなかったけど、別種の桜は満開でした。
みなさんシートを広げて楽しい昼食の時間を過ごしていました。

織田&武田の高遠城の戦い(1582年)では織田軍の一歩的な戦いと言われていますが、
双方とも戦死者が2500名で武田軍の仁科盛信も善戦している。
武田氏滅亡時、まともに戦ったのはこの城だけでした。

季節柄、花見客の猛烈な人出で、国道から城跡の駐車場まで車の大行列でした。
ガードマンの方にたずねると、川沿いに上ると城の裏手に出るからそちらを進められてそれに従う。


高遠城の裏手にある絵島の囲い屋敷
時代劇でしばしば目にする絵島は、高遠に流されて、この部屋で27年間過ごし60歳で没している。


奈良井の宿  昔の宿場町が残されている。
国道からは直接見えないので、もう少しでやり過ごすところでした。


奈良井から鳥居トンネルを経て宮ノ越へ。 ここ宮ノ越は義仲が育った場所で、木曽では義仲は英雄。
運悪く、立ち寄った義仲館は休館日でした。

物語に出てくる巴御前は、鎌倉から逃れた義仲が頼った家の娘さんで子供のころ、この河原でよく遊んでいたらしい。
観光案内の看板にはそのように案内されている。

巴淵


妻籠宿から馬籠宿に通じる旧街道
鳥居峠から妻義まで下り勾配で、下り坂最高のサイクリングでした。
県道から旧中山道に入ったら数十メートル先から石畳がなくなって、普通の山道になっていました。
自転車を押していけると思ったけど、途中から担いで歩きました。
出会った外国人のおばちゃんから「oh,challeng」って言われたけど、この道を自転車で行くのは「crazy」
看板にだまされた、と思いました。


苗木城跡
馬籠宿は山の頂上にありそこから一気に下って中津川の苗木城の入り口にある宿で泊。
宿の主人に勧められて苗木城跡へ。入り口に博物館もある。
苗木城から木曽路を見る。中津川からは100m以上の崖になっている。
この城の娘さんが武田勝頼に嫁いで、信勝を生んでいる。
遠山の金さんの故郷でもある。


岩村城跡
中津川から恵那へ。恵那から90度左折して山の方向に登っていくと岩村にだどりつく。

城の入り口からここまで30分は歩いたような気がする。山の尾根筋全体が城になっている。
武田&織田軍で2度の戦があった。長い籠城戦になった理由は行ってみれば理解できる。


犬山城  
恵那から輪行で美濃加茂まで行く。そこからサイクリング再開。
犬山では城下町が再現されている。


各務原航空宇宙科学博物館


岐阜城
疲れていたのでロープーウエイにためらうことなく乘りました。
麓から天守まで毎日通うとかなりの健脚になるはず。


関ヶ原古戦場
資料館をスタートして黒田長政ののろし場・石田・小西・宇喜多・大谷の陣後を回る。2時間ほどで回れる。
狭いが起伏があるので隣で何が起こっているのか見えなかったと思う。
特に宇喜多の陣営は細長いので前方で戦いが始まっても、後方はのんびりしてたのかな?



姉川古戦場跡  
関ヶ原から後方を北上する感じで伊吹山のすそ野を北國街道を行く。
やがて姉川に到着したので古戦場を探すが、川を超えたところに案内があった。
この戦い、8割がた浅井軍が勝っていた。徳川軍がいなかったら信長の首が小谷城にさらされていたでしょう。


小谷城の登り口にある記念碑  ここに自転車を置いて徒歩で本丸へ



麓から舗装された道を40分ほど歩いて到着
途中、車や人と出くわさず、ほんまにこの道でいいんかいなと不安になりました。
山全体が小谷城でした。浅井氏が滅亡した信長軍との戦いで本丸に火災は発生せづ、
浅井長政はこの右下にある家臣の屋敷で切腹したそうな。
奥の京極丸に行こうと思ったけど、誰もいないし、クマに注意と看板がありここでおにぎりを食べてから下山。
下りは山の尾根づたいに直線的に下山出来ました。
結局、この小谷城では熊と人間ともに、出会いませんでした。

受付でおばちゃんが暇そうにしていました。
それでも後から2人ほど訪れる方がいました。


鉄砲も大筒も肩当がなく手首で支える構造だけど、命中するのかな?
この時代、日本の鉄を加工する技術は世界でも有数でったような。


佐和山城跡
麓の龍潭寺の境内が登山口でした。そこには石田三成の胸像がありました。


佐和山城から彦根城を見る。
佐和山城は落城したが炎上はしていなくて、建物は彦根城や城下の寺に移築されています。
軍事的に見ると彦根城より佐和山城が見晴らしもよく街道の抑えも効くと思う。
新しく城主になった井伊直政が関ヶ原の鉄砲傷がもとで2年後に亡くなった。
石田三成の祟りが嫌だったのか、息子の代に現在の彦根に移っている。




ひこにゃん一人で30分の演技。無言ですがなかなか役者です。


彦根城にある井伊の資料館


安土城跡
江戸時代は入山禁止にしていたので遺構はかなり残っている。
石垣はそのまま残っているので、一部でも再建してほしい。

安土城 天守台から琵琶湖を見る。


近江八幡にある豊臣秀次の像。
この町は彼が作っている。彼は決してバカ殿ではないらしい。
歴史は勝ち残ったものが自分の都合のいいように書き残したものである。
彼は高野山で切腹しているが、秀吉のやり方に抗議のための切腹らしい。
驚いた秀吉が、自分に火の粉が降り注ぐのを防ぐため、秀次を悪人に仕立て上げて妻子も処刑したらしい。