農業と原発
月刊愛農 2011年9月号 時代を見る眼より
東日本を襲った災害、特に津波による被害には、テレビの映像を息を呑む思いで見つめるばかりであった。加えて福島の原発事故が加わり、被害が広範囲に拡大し、その深刻さと重大さは計り知れない。降り注ぐ放射能は農業に大きな打撃を与えた。土地を汚染した放射性セシウムは長期間残留するため、早期に除去することが困難であり、再び農業が営めるかもわからない。一般野菜から始まった放射能汚染は、牛乳、お茶、さらに牛肉へと広がった。特に牛肉の汚染源は、原発から100kmも離れた地域で生産された稲ワラであった。農業ができない人たち、作っても出荷できない人たち、風評被害に苦しむ人たち、農民は八方塞がりの中に置かれ、やり場のない苦しみ、悲しみに、ただ呻くことしかできない。放射能は広範囲に被害を及ぼす。かつてのチェルノブイリ原発事故の時、わずかではあったが私の牧場でも牛乳から放射能が検出された。畜産の自給粗飼料の生産は、栽培する面積が広いだけに被害が大きくなる。汚染された牧草を梱包したまま積み上げている農家、うずたかく積み上げられた汚染稲ワラの映像を見て胸が痛んだ。前々回の口蹄疫(2000年・宮崎県で発生)では中国産の稲ワラが疑われた。その後政府は稲ワラの自給政策を進めたが、今回はそれが裏目に出る皮肉な結果となった。汚染稲ワラを食べた牛の体内に残るセシウムは一割くらい、あとは糞尿などによって体外に排出される。有機農業にとって堆肥は欠かせないが、これらの糞尿は堆肥として使えず、また糞尿が処理できない畜産は成り立たない。これは農業の根底でもある自然循環を断ち切るものであり、農業そのものを破壊する。真に農業と原発は相容れないものと言わざるを得ない。
食物は人の生命を守り育てるもの。それを放射能が毒物に変質させた。生産者と消費者はこの食物を通じて信頼関係を結んできたが、その関係が破壊された。その痛みは双方共に大きく、ただ戸惑うばかりである。農家は住み慣れた土地に愛着を持っており、家畜も愛情を持って育てている。だから少しでも放射能を減少させる努力をするであろう。しかし、仮に国の定めた基準以下でも、毒物が混入していることに変わりはないのだから、生産者としては心の痛みを感じないわけにはいかない。原発は農業の仕組みを根底から破壊し、生産者と消費者の信頼関係を破壊した。ここに原発の持つ悪魔性があらわになっている。
わが国の経済成長を支えてきたのが原発であり、その建設に利益優先の思想が貫かれ、安全性が犠牲にされてきた。特にアメリカ製の原発には津波に対する想定がなかったとのこと。ノンフィクション作家・柳田邦男氏によれば、福島第一原発の安全基準を作成するにあたって、津波への安全性を高めよとの声もあったが、コスト、電気料金が上がる等の理由で抑えられたそうだ。想定される津波の高さについては、明治以降の最大記録をベースに検証し、最大5メートルの津波が来ても耐えられるように設計されたという。しかし明治以前にさかのぼれば、巨大津波は各地で起きている。海抜20mの私の生まれた所にも大津波襲来の言い伝えがある。1707年の宝永地震の時、20mを超える津波が襲来し高知平野は水没、水が引くのに3ヶ月もかかったとのことである。
戦後、わが国再建の国家目標を富の豊かさに置いた当時の吉田茂首相は、安易にアメリカに依存する国づくりを選択した。このボタンの掛け違えが今日の状態を引き起こしている。朝鮮、ベトナム戦争の特需で経済が活気づき、これをバネに高度経済成長へと突き進んだ。この延長線上にある原発、これなしに成り立たない経済構造、今回の原発事故は、この日本の歩みに対する神さまの審きだと思うようになった。我々はこの審きに深く頭を垂れ、共にその責を負い続けなければならない。
今までは物質的豊かさを求めて来たが、もうそれができない時代へと進んでおり、豊かさに対する価値観の変更が求められている。先日、NHKのクローズアップ現代で世界の食糧問題が取りあげられた。現在は穀物生産を上回る消費需要があり穀物価格は高騰しているが、これは今後も続くであろうとし、日本は今後、自給率向上に力を入れるべきだし、消費者に対してもただ安値を求めるのではなく、自給率を高めるために少々高くてもよいとする方向へ、意識を転換する必要があると話していた。
今の物質文明を支えた産業構造は、高度経済成長期に、地方や農山村などに住む生産基盤の弱い人々を都市へと押しやった。今回の津波で、これらの低地に降り立った人々がさらわれていった悲しい現実がある。人口が一極集中するような今のような産業構造ではなく、国土全体にわたって人々が住み、生産、生活が築ける産業構造にしなければならない。今日本の産業は弱体化しており、これに円高も加わって産業の空洞化が進み雇用の状況も深刻になっている。このような中にあって、崩壊しつつある農林業の復活、これが多くの人々に生産、生活の場を与えるのではあるまいか。ここに愛農の果たす役割・使命があると思っている。
斎藤藤陽一さんプロフィール
◆米と野菜、養蚕を営む農家の長男として1934年高知県に生まれる。1960年に家を継いだ後、水田に作った牧草で牛を飼う水田酪農を始める。その後1968年からは、日本芝を植えた急勾配の山の斜面に放牧して牛を飼う山地酪農に切り替え、40年以上、山地酪農一筋で歩んでこられた。愛農会会員で、愛農高校理事長、愛農会理事を務められたこともある。 |