B.C. 722 隠公 1年
□まず、春秋左氏伝の暦(陰暦)では、春は1〜3月、夏は4〜6月、秋は7〜9月、冬は10〜12月
であることはいうまでもない。原文には「夏五月辛丑の日」のように記述されているが、本書では
単に「五月辛丑の日」のように記すことが多い。

●五月辛丑の日(5月23日)(一説に5月22日?) 鄭の大叔が共(キョウ)に出奔した。
□新城暦では5月23日、杜預注では5月22日という意味である。確かに杜預の注では5月22日
となっているが、杜預の春秋長暦の伝本(『左伝注疏及補正』)によれば、五月朔日の干支は己卯
(16)であるから、辛丑(38)の日は、38-16+1=23日であるはずである。現行暦では5月28日にあたる。ほぼ
2000年にわたって、このような単純な誤りが検証されなかったのであろうか。あるいは筆者の引く
『左伝注疏及補正』の朔日表に後世の改竄が加わっているのであろうか。いずれにせよ、可能な
限りあらゆる暦を比較検討するのが筆者の立場である。これと同様の杜注の誤りは本書で6個発見
された(隠公1、桓公14、僖公1、8、33、昭公21)。

●十月庚申の日(10月14日)(一説に10月15日)、恵公を改葬した。 
□現行暦の12月13日にあたる。


B.C. 721 隠公 2年
●八月庚辰(7月9日か)(一説も7月9日か)隠公、戎ト唐(トウ)ニ盟ス。
□新城暦・杜預暦・周暦に八月庚辰なし。7月庚辰なら現行暦6月30日。9月庚辰(9月10日)なら現
行暦8月29日、新城暦・杜預暦・周暦みな9月10日。夏暦に八月庚辰あり、8月10日、現行暦の8月
29日。丙辰なら新城暦・杜預暦ともに8月15日、現行暦8月5日である。

●十二月乙卯(12月16日)(一説も12月16日)、夫人子氏(シシ)薨ズ。
□現行暦12月2日。

B.C. 720 隠公 3年
□新城暦原案は、この年の日数は354日なのに,大の月は2・3・5・7・9・11・12月、小の月は1・4・6・
8・10月とする。その日数は30×7+29×5=355日で1日多い。よって12月大の月を小の月に改変する。

●二月己巳(2月2日)(一説に2月1日)(現行暦では2月14日) 、日、之ヲ食スルコト有リ。
□この日食は魯の都曲阜では早朝7時15分ころで、蝕分0.44であった。この日の日の出が7時18分
であるから、欠けたままの日の出であったはずである。⇒『日蝕表』隠公3年

●三月庚戌(3月13日)(一説も3月13日)、天王(周の平王)、崩ズ。【経文】
□現行暦3月22日。

●三月壬戌の日(3月25日)(一説も3月25日) 、周の平王が亡くなられた。【伝文】
□現行暦4月8日。

●四月辛卯(4月24日)(一説も4月24日)、君氏卒ス。
□現行暦5月7日。

●八月庚辰(8月15日)(一説も8月15日)、宋公和(カ)、卒ス。
□現行暦8月24日。

●十二月癸未(12月20日)(一説も12月20日)、宋ノ穆公ヲ葬ル。
□現行暦12月25日。

●十二月庚戌の日(11月17日か)(一説も11月17日か) 、鄭伯(荘公)の乗っ た車が済水(セイスイ)に
落ち込んだ。
□新城暦・杜預暦ともに十二月庚戌の日は無い。十一月庚戌なら新城暦・杜預暦ともに11月17
日、現行暦の11月22日。夏暦では十二月庚戌は12月18日で現行暦 翌年1月21日に当る。この日
は新城暦・杜預暦・簡易周暦の1月18日,仮想周暦の1月17日である。

  『目次・参考文献』 『春秋長暦の例』 『トップページへ戻る』 『日蝕表』 『中国古代史関連リンク』