お茶堂 
お大師様
四万十源流の森
八百とどろ景勝地

ご案内
  
松原 とどろ橋から下流に向けて2km
島中 大串橋から1500m位


大師山の展望台、松原集落一部が一望出来ます。

ゆっくりと 息の切れない 88か所巡りをしましょう。
林道から、御大師堂まで不思議なことに、880メートルと88が続いています

松 原 ミニお大師様88カ所巡り
 今年のお大師様縁日   (旧暦3月21日)  (旧暦7月21日)が縁日です)旧暦に合わせて行います
お祭り日には、午前10時~午後4時頃
まで、お参りの皆様を、地区の当番が
ご接待いたしますので、是非お大師様
ミニ88カ所巡りにおいでください




国道439号 梼原、津野町方面から来られると、
中平トンネルを抜けて二つ目の橋(とどろ橋)
から、右にハンドルをきり川沿いに山道を来て下
さい。(石が落ちていますので、気を付けてください)
-  2025年 令和7年の縁日
 
  太陽暦  9月12日 (金曜日) 
 是非 健康のため お参り散歩に来てください
 弘法大師空海が弘仁6年(815年)に四国霊場を開創して
(2014年)で
1200年 目の吉祥の年を迎えました。

 2014年には、お大師山のミニ88か所の中心にある
 お堂「御大師様」では
弘法大師1200年の記念年で、
 楽しい餅投げを実施し、沢山の参拝者から袋一杯に
 お餅を持ち帰ってもらいました。
       まずは、 お 茶 堂 のご紹介 
令和2年3月の縁日からは、新型コロナウイルス感染症
予防のため、会食による接待は中止しました が,今年からは、
新型コロナウイルス感染予防に気を付けて
ご接待します
国の文化審議会により、梼原町を含む四万十川流域の
5市町村が連携した取り組みとしては、全国で初めて
「四万十川流域の重要文化的景観」選定された”お茶堂〝
松原の中心部にある、お茶堂(御大師様をお祭りしています) 
草ぶき屋根は、2011年4月24日に新しく葺き替えていただきました。
このお茶堂は、松原部落が堂守(
どうもり管理者)を置き維持管理をしている。

                       
2016年秋頃から、屋根の棟から雨漏りがしだしたので、
棟を修理をすることに

しかし、昔のように部落民を集めてやることはできず
(やれる人がいない)

越知面地区に、かやぶきを継承している方がおり、お願いする。
   竹、萱、ロープ、縄等準備して、修理していただきました

   早速20017年3月30日 3人の職人さんが来られて

早速 取り掛かり、古いカヤを取り除き、新しいカヤと交換


20017年3月30日 完成
   お茶堂の中には、御大師様をお奉りしています。

年老いて山に上がれない方が、ここでよくお参りをしていましす。
 熱心方ですが、体調が悪くなり、ミニ88カ所のお大師様に

 お参りが出来ないと、

 お茶堂のお大師様を拝まれています。



島中      松原
堂守 久岡浅子さん  
R5.4.1から堂守 吉村栄男さん



令和5年4月14日 金 晴れのち雨
この日は、古くなった札所名を新しくつくりました
1番札所から88番札所までを3人で立てました。
前堂守の久岡健市が13日午前10時から
午後6時30分までかかり アクリル板を杭にねじ止め、88本出来、午前9時から午後3時まで
かかり 完成
堂守 久岡浅子様 と吉村栄男様 
そして前堂守 久岡健市

植沢浜子様のお声がけで「、古くなり、見づらくなっている 札所をつくっては?」のお声がけで つくりました
各札所を立てるのに4人が金50,000円の
協力金をいただきました
(久岡浅子様、松岡若子様、植沢浜子様、久岡作男様)
ありがとうございました。
 松原お大師様

  
今から百数十年前、現在の松原地区は松原村として独立していた頃の話。
  当時松原地区では、奇妙なことに様々な災難や病人が多く出て、
  村の人達は困却していた。 
  その頃、村内に竹内寛道
(たけうち かんどう)という僧侶がおり、
  彼もまた災難に苦しんでいる村の人々を見るにつけ、心を痛めていた 
  ひとりであった。
  寛道氏は、これは「何かの祟りか怨霊の仕業ではないか」と考え、
  お祈りでもして鎮めるべく、早速祈祷の場所を安良川奥地にある
  滝の側と決めて祈り始めた。
  数日後、どこからともなく
「島中の山の頂上を掘ってみよ」、と声が
  聞こえたような気がした。
  もしかしてこれは神様のお告げかもしれぬ、そう考えると早速山の
  頂上(現在のお大師山)に登り、そこを掘り始めた。
  しばらく掘るとそこから石の仏像のようなものが出てきたのである。
  「
これこそ仏像ではないか」?。
  そう思うと寛道、丁重にその石を掘り出し、すぐさまその石に
  向かって祈祷した。
  以来、地区の災難が急減し平和な里に戻り始めた。と伝えられている。

  こんな事があって、地区の人はこれこそ弘法大師の教えであろう、
  と信じお大師像を作り四国88カ所霊場の如く配置し、ミニ札所参りを
  しながら 地域の安全と繁栄を祈願してきた。
  戦後、今日のように集祭したものだが、今ではこの山をお大師山と呼んで
  地区の人々に慕われている。 
  お大師山は島中部落の背後にあり、大串橋を渡っておよそ1.5km
  現在は八百とどろ橋からも行ける。とどろ橋の袂から下流に2Km
  途中交差点から 
右上に880m行くと天空の御大師様に到着
  88か所巡りまで道路があり、舗装しており普通車でも頂上まで行ける。
  登ってみると、山がハチ巻きをしているようにお大師様が
  整然と八十八体並んでおり、一週が約300m位で、それぞれを拝んで
  廻ると30分はかかる。
  誰が、何時行っても、安全に行けるよう松原部落と島中部落が一年
  交代で年に2回 道の草刈りや掃除をし、いつ行っても清掃が出来ており、
  
  現在でも 旧暦の3月21日、7月の21日には、地区民が当番で
  参拝者に接待が行われ、当番の方達の手料理や、お茶、コーヒーの
  接待が受けられる。



                   
お堂を中心として、ミニ88か所の石像があります
今のように自家用車の通れる道はなく、手掘りで作った山道
それぞれ、石像を作り それぞれが担ぎ上げたと思われます。
凄いことです。

今は、車が通れる道が出来ました
国道 439  松原八百とどろ橋から下流に向けて
一本道の町道を 2㎞行きます
初めての交差点から、お堂まで 
880mで到着
お大師様がお参りできます。

駐車場から、歩道があります
梼原町松原866-2 で山の高さが 標高420m

    本日、ラジオ取材で(有限会社アイデアライズ)山﨑様が来られました。

 島中堂守 久岡浅子 と 松原堂守 久岡健市 が取材に同行しました



 ラジオを聴きましょう

今度、取材の準備のため、昔歩いて上ってきた道を、ひとつ ひとつ

 一番札所から~88番札所まで歩いて体験されました。

 88か所巡りのご希望の方

 

   
 ラジオ遍路・88の音巡りとは

2014年に開創1200年を迎える四国88カ所霊場、
日本の心のふるさと”ともいうべき偉大な精神文化
遺産を、地元四国の4つのラジオ局が、ラジオなら
ではの手法であらためて紹介します。
山の静寂、川のせせらぎ、移り変わる四季折々の
表情豊かな音たち、そして心に染み入るような響き・・・1200年の歴史を刻む魂のふるさと、四国88カ所
霊場を一緒に”音”で巡りましょう。
2022年 5月22日 と 5月29日 の放送予定   ラジオです。
四国放送
  (日)7:50~8:00
高知放送  (日)7:00~7:10
南海放送  (日)7:35~7:45
西日本放送 (日)7:25~7:35
 
スマホでも聴くことが出来ます。
 RKC高知放送 ラジオパーソナリティ 渡辺さおりさんが
 巧みな話術で、山の中の御大師様 ミニ88か所巡りを、
 ラジオを聴かれている皆さまとご
 一緒に回られているかのように感じられると思います。

令和元年8月21日 水曜日 曇りのち晴れ?  
 
令和元年8月21日 看板を作りました。
松原郵便局の 山崎局長に、書いていただきました。
  中央の赤い旗   天空の御大師様
            
  ミニ八十八か所巡り
 天空の御大師様
  
ミニ八十八か所巡り

駐車場

ミニ88か所はここから ゆっくりと歩いて お参りが出来ます。

   御大師様 旧暦 7月21日 御大師様縁日 

部落では、当番を決め参拝者の接待をしています。
       
   松原エコ住宅を、ご家族で利用されて

楽しんでいた方が、来ていただきました。

松山市で、コーヒー豆の販売をされているとか


坊やが可愛く 私の膝の中で、泣きもせず、

ジーと耐えていました。
     
漫画家 ・ 小室孝太郎 氏が、伝記、忠実をふまえた漫画 「空海」を読み
        これだと思い、勝手に転記しました。

      
 弘法大師 空海 を読んで 抜粋したものです。許可も得ず書きました。
    
       まあ  時間があれば 読んでください

      ・774年 (宝亀5年)6月15日  佐伯家に誕生  幼名を 「真魚 まお」と名付けた。
      ・真魚が13才の時、讃岐の聖堂(国学)に入学
      ・2年ほどたち、聖堂を中退して都へ
      ・身分が低く、讃岐の領主程度の子が入学資格がないと、試験では満点にでしたが、入学できず。
      ・母方の叔父阿戸大足や讃岐の国の出身岡田博士の努力により、三年後聴講生として入学許可が下りた
      ・真魚は18歳になり、卒業したら役人になれる明経科に入る。
      ・真魚は人々が天才、秀才と噂するほど抜群の成績だった。
      ・学問とは何なんだと悩み、大安寺の勤操和尚を訪ね相談する。
       「お前の素晴らしい才能を人々のためにつかわれなければならない。
       素晴らしい頭を人々を助けるために使ってほしい。」といわれる。
      ・大学を中退し、真魚は名を教海(きょうかい)と改め、修行の旅に出た。
      ・出家して浅く、悩んでいるとき、修行中虚空蔵求聞持法を修すればすべての
       経典の言葉も意味も 覚えこむことができる。と夢枕に出る。
      ・山にこもり,食を絶って30日飢えに苦しむ、食欲、金欲、性欲と戦い悩む。
      ・土佐の国(高知県)室戸岬の海岸ぶちの洞窟で宇宙の心理を悟るため、
       虚空蔵菩薩に ノボウアキャシャ・・・マリボリソワカと祈る。
      ・法身仏がわかりかけた時、天に光る虚空蔵菩薩が口の中に入る。
       
        
その時、海岸線と朝日が(空と海が)一つになった。
      ・真魚が教海から如空(にょくう)とかえ、日本中を旅している。
      ・大和国(奈良県)高千郡久米寺!で法身仏を説いたお経大日経全七巻にであう. 
       大日経と出会ったのが23歳の時であった。
      ・23歳で大日経にであった真魚は・・・・・  
       24歳で三教指揮帰という儒教・道教・仏教をくらべて仏教が最もすぐれている・・・・・
       やはり自分の進むべき道は仏教であるという論文を書き上げた 
       それ以後30歳まで・・・その行方は知れない・・・ 
       おそらく全国の野山を歩き大日経の研究をしていたものと思われる。
      ・遣唐船にのるため大安寺の僧として届け出をし、大安寺の僧坊として過ごす。
      ・この時、届け出の法号は、四国で虚空蔵求聞持宝成就した頃、
       室戸岬で空と海が一つになるのを目にした私を祝福してくれるがごとく・・・
      ・「法号は空海」とした。

      ・一年後、延暦23年(804年)5月12日遣唐船は、難波津から唐へ向けて出発し、
       田浦で、遣唐使船は4隻になり、唐に向かった。
      ・ 時に空海は31歳。
      ・田浦を出て23日目の8月10日 長渓県赤岸鎮の南 赤岸鎮の河口についた。
       入港すべき明集州の港から百里あまりも南に流されていた。 
       4隻で出発したが、途中嵐に会い、3隻は帆も舵も壊れ飛ばされた。(長官の乗った船は、大破した)
       空海の乗った船だけが、祈りが通じたのか助かった。
       しかし、ここでは船の長官がいないため、上陸が許されず一行は船を修理し、食料をととのえて、
       福州へと向かった。

      ・11月初め空海や葛野麻呂の一行は、長安へ向って出発した。 
        福州から長安まで四百五十里(1,800km)である。
       (福州から開封までの三百七十里を川や運河をさかのぼって行った。 
        開封から長安までの約七十里は陸路を歩いた。(1里は4km)
      ・12月21日一行は、初冬の長安へ到着した。
      ・長安の宮殿では、遣唐使に対して、歓迎の宴が開かれた。 もちろん空海も参加した。
      ・長安には、世界中の思想が集まっている、世界の文化の中心だ。
      ・空海は、外来の宗教をすべて視察した。
       {仏教、ゾロアスタ経、キリスト教、マニ教、イスラム教とすべてある。
      ・西明寺による、西明寺では、仏教辞典をつくっている。
       (仏教は、原典を調べて、本当の意味が分かる)
        サンスクリット(梵)語の原典の意味を調べ、唐語になおしている。
      ・空海は、密教の最もすぐれた師を教えてもらう。
       「それは(青竜寺
(しょうりゅうじ)の恵果阿闍梨(けいかあじゃり)でしょう。」と
      ・しかし、密教を持ち帰るのは大変、青竜寺の門弟の数が2,000人以上、
       恵果阿闍梨に会うことすら難しい、
       法を伝える大阿闍梨になるには・・・・・伝法灌頂を受けなければならない。
       まして異国の者に留学期間の20年ではとてもたりないとのこと。
       (日本からの留学は、20年と決められていた)
       それにサンスクリット語を学ぶだけで、3年はかかるとのこと。
      ・しかし空海は、むずかしいサンスクリット語を3か月で学び取ってしまった。
       醴泉寺で経典の翻訳をしている 般若三蔵様は、空海に「おまえほどの者・・・初めてじゃ」
       「むずかしい サンスクリット語をたった3か月で学び取ってしまった。」
       「わしはインドから唐に来て翻訳のかたわら、日本の留学生にサンスクリット語を教えてきた。」  
       「しかし・・・今まで一人として学び終えたものはいない。」
       「わしも、もう 年じゃ、お前が最後の弟子になるだろう。嬉しいぞ。」
       「おまえは全ての経典を原典のまま読める。 
        できるだけ早く青竜寺の恵果阿闍梨のもとへ行くがよい」と紹介された。
      ・恵果阿闍梨のもとに入門して、2週間のち、空海は、恵果の手によって結縁灌頂をうけた。
       それは胎蔵界五部の灌頂というものだった。
      ・胎蔵の曼荼羅の前でそこの描かれた大日如来はじめ仏たちとの縁を結ぶ儀式である。
      ・入門してからの空海はおびただしい数の経典類を読みぬき、不眠不休の毎日だった。
      ・一カ月後の七月、今度は金剛界五部の灌頂をうけたのである。
      ・これで空海は二千人ともいわれる門弟の中で、五本の指に入る高弟となった。
      ・それまで、両部の灌頂を許されたものは、四人しかいなかった。
       さらに一カ月後の八月には伝法灌頂を許された。
      ・「これであなたはりっぱな大阿闍梨となった。 
       これからは遍照金剛を名のるがよい」と、名をいただいた。
      ・その年十二月十五日 
       全ての役目を果たしたかのように 恵果阿闍梨 は、二度と帰らぬ世界へ旅立った。
      ・やがて恵果の葬儀が行われ、空海は全ての弟子を代表して、墓の碑文を書いた。
      ・空海は、あちこちで偉業を成し遂げた。
       こうして各地の伝説とともに 
四国八十八か所などの霊場ができた。
      ・空海の足跡がないのは、北海道と沖縄だけである。
      ・嵯峨天皇より、高野山開創勅許は下った。  
       弘仁七年(816年)空海四十二才であった。
       寺院建立が始まると、空海の名をしたって寄進が後をたたず、
       どんどん大きなものに成っていった。
      ・その後も、空海の真言密教は、人々のために力をふるった。
      ・弘仁十二年(821年) 五月 朝廷の命令で、讃岐国の万濃池修築の指揮をした。
       その工法は、現代のアーチ式ダム工法の原理と同じだった。といわれている。
      ・天長元年(824年) 大日照りとなり、空海は雨乞いの祈禱を修した。 
       雨は三日三晩降り続いた

       ・天長五年(828年)綜芸種恥智院しゅうげいしゅうちいん)という、学校をひらいた。
       身分貧富の差なく、誰もが無料で学べるようにした。  現在の小学校のはしりである。
      ・弟子たちを集め、別れの時が来た 
 「私は、明年三月二十一日入定する と言って 
       
 「大日如来にいただいた命、大日如来のもとにかえるだけ」
        「会いたくば
 遍照金剛と呼ぶがよい どこでも現れよう」
        言葉通り、空海は水も食事も絶って、入定した。
       ・承和二年(835年)三月二十一日 寅の刻  六十二歳であった。
       ・入定して八十六年後の、延喜二十一年(921年) 
        醍醐天皇は、空海の徳をたたえて
弘法大師というおくり名をおくられた



      
お大師山の88カ所周り頂上にある本堂の中に
       御大師様



  お大師様 お堂

 



製の仏像にもいわれがある。 (調査中)

(風に飛ばされて倒れたか?

首から上が無くなっている)残念。


  お大師様の 堂守 (管理者)

  島中地区   久岡 浅子

  松原地区   吉村 栄男
  (R5年4月1日に替わりました)






    
竹内寛道 分身墓

 
八十八カ所の存在を知る人は良くお参りに来て、しばらくすると願ほどきにまた

 山へ登るのを見かけるそうだが、願い事も叶うようである。 
 
 不思議なことに現在でも時々お大師山から雷音ともつかず異様な轟きが聞こえたり、

 奇妙な灯りが見えることがあるという。 

 豊かな生活に慣れ豊かさばかりを追い求めている我々にお大師様は

 何かを知らせたがっているのではないだろうか。

 
謎?

 もしそうであるなら、その謎を解く鍵はどこかにあるはずです。

 私はお大師様を拝んでいるうちに教わりました。

 それは何処かって? 知りたかったら是非一度訪ねてください。 
 きっと教えてくれます。

 
<<記載されている内容は事実に基づいて書いております。(山脇氏記録より)>>

 記述の竹内寛道は元治元年十月十二日松原で生まれています。

 昭和十年三月二十四日(1864~1935) 
 島中影地にて七十二歳の生涯を終えています。

 
竹内寛道 

 生存中は、地区の苦情処理や悩み事相談を受けたり、人徳豊かで信頼あつき人物で
 あったようです。 

 
・・・合掌・・
お大師様は、松原と島中地区が、当番制で参拝者の皆様を
接待しています。

 行事は、旧暦で行う( 3月21日 ・ 7月21日


   
 
 
沢山の方々のお参りをお待ちしております。

 接待の当番が、軽食を用意してお待ちしています。

 この日は、静かな御大師山に、歌声や笑いが絶えません。


 
御大師山の88カ所をお参りし、本堂での接待を受け、午前中の大雨が嘘のように晴れ上がり、

温かい日差しの中で昔話に花を咲かせていました。
ご接待料理

 是非 ここ 御大師森 (御大師様ミニ88か所是非ご参拝ください)

 縁日は、旧暦 3月21日 と 7月21日です  
 縁日には、9時ごろから午後4時ころまで
 地元民が、食べ物を用意して、ご接待しております。

           
展望台
出来ました
2011年にはお大師堂を修理しました

2012年6月に、木製の展望台を造りました。
松原が一望できます。  


 久岡美永大工さんと堂守の久岡健市で、平成24年5月28日から
 2日半かかり出来ました。

 下記の方々にご寄付いただきました
  電柱  久岡 武さん  久岡國雄さん  下元一利さん 久岡静男さん
 ユンボで整地等作業奉仕、展望台の控え線、鉄骨等寄付 久岡健市

 展望台見学料はお大師堂の賽銭箱にお気持ちをお願いします。
 
御大師様の接待
四万十源流の森 景勝地のご案内
ここで 目を閉じて座っているだけで 心が癒されます。

 山の中を散策するもよし、川で魚を釣るもよし、四万十源流の森の碑の前で写真を撮ったり、
自然に体を預けてください。
鷹取の家で食事をして四万十源流の森でゆっくりと心身ともに自然に癒してもらってください

 
四万十源流の森 これを命名されたのは、梼原町島中(大串)の山脇博幸氏。

 当時 大正営林署 担当区 職員を退職された後、四国でも ここにしか残っていないであろう
原生林の針葉樹、もみ、つが林の切りかぶに名前をつけた。
(カブ名札は現在は無くなっているかも?)
 針葉樹にもかかわらず、70年以上前に切られたであろう 大木の株が絶えることなく切り口の
周囲の皮が巻き込み、色々な形を残し21世紀に生存している。(枯れてないのです) 
 当時、山脇氏は[御大師様四国88箇所]にちなみ、(白ベー、黒ベー)の2コースに分れた
88番札所を作った。
(もみの木のカブ) 白ベーコース、 (つがの木のカブ) 赤ベーコース

 R439梼原町中平から津野町に抜ける途中、
 国有林の枝が覆いかぶさるようにして守られた四万十源流の碑がある。
 四万十源流の碑の前は、清流が白い泡をたて流れている北川川  
 「
北川川は(梼原川に合流し、四万十町大正で四万十川に合流)。」
 右にそびえたつ鷹取山国有林、四万十源流の森(石碑)の前からから登り、
探索すると、
 原生林の大木、素晴らしい大自然を満喫できる。
 原生林からの気を(フィトンティット)もらい、白ベーコース、赤ベーコースの
八十八カ所巡りと共に、心身ともにリフレッシュでき、健康維持に役立つ自然の
守り神です。写真には 出しませんので、来て すごさを味わってください

 健康づくりのがこの山の守り神です。
 
現在は、白ベーコース、赤ベーコースの88箇所めぐりにはしておりません。
 看板から、遊歩道があります  ゆっくりと探索し、身体全身を癒してください。
 最近は 久保谷からの水路に沿って歩く セラピーロードが人気です
 現在は、国有林が学術保護林となり、小枝1本折ることができません。 
 あ~あ 山に入ることも出来ないとか。


八 百 轟   (八百とどろ)
普段は静かな川だが、
一度雨が降れば 暴れ川となる
増水した 八百とどろ とどろ橋から下流を見た
川から見た 
普段の八百とどろと八百とどろ橋
五月の連休頃、川一面に咲き誇る 
土佐しもつけ
四万十川流域で見られるのは、ここまで これ以上上流には咲いていません

川つつじ  洪水などの濁流に傷つけられても5月には、
しっかりとピンクの花を付け石にしっかりと根を張らしています。