俳優座劇場機関紙「ひろば」121号 2012.04.01掲載
恥ずかしながら香川・三本松高校3年の頃、「履歴書」を「ふくれきしょ」と読んでいた。
誰もが「りれきしょ」だと言うので少し自信が揺らいだが、
それでも、再就職の際に使うのが「ふくれきしょ」なんだと、強弁した。
「凡例」は「ぼんれい」でないと知って驚いたのも、同時期だった。 紅顔ならぬ厚顔・汗顔の美少年?だったようだ。
こういう独善的な思い込み癖が、僕にはあった。
愛媛・三島小学3年の担任が教えてくれた「実るほど頭の垂れる稲穂かな」という句が好きだったわりに、自信過剰の傾向が長じてからも続いていたように思う。
そういう素地が災いしたのかどうか、建設省を辞め23歳で徳島市民劇場の専従事務局長になって30年目の2001年、青天の霹靂といえる役員会の分裂と混乱に遭遇した。
80年以降まったく順風満帆に発展してきた組織に大きなヒビが入り、連続的な後退が始まったのだ。
この歴史的危機に大半のサークル代表者が敏感に反応し、幾たびかの対策会議や臨時総会に馳せ参じてくれた。
そしてどうにか翌02年から「正常化」が進み、2010年には創立50周年の祝賀会を開くことができた。「一陽来復」の兆し。
ただ、僕たちが「失われた10年」と呼んだ年月を越えた今も、会員減少の流れを断ち切れていないのが、まだるっこっしい。
僕自身は、後ろ髪も前髪も少し引かれつつ、3年前に「定年退職」し、小澤恵さんにバトンタッチした。
草葉ならぬ酒場の陰からでも若い事務局長を支えていかねばと思い、欠かさず役員会や運営サークル会、四国会議には参加している。 これが、また予想以上に楽しいのだ。
専従時代に、最大時600万円超の累積赤字を抱えていた時も、年に2か月分しか活動費(給与)が取れなかった時も、10年に一度くらい知恵熱?が出た時も、苦しいとか辞めたいとか思ったことは一度も、一瞬たりとも無かったけれど、無職の「今」が、輪をかけて楽しいのだ。
毎月のように観劇上京をしたり、平日昼間!に地元の湯につかったり、そして、最高時179という高めの血圧や、脂肪肝や胆のうポリープなどの改善のために、近所の低額スポーツジムで筋トレしたり…。 庶民的な幸福感を味わっている毎日だ。
1年前の震災時には高田馬場に居たが、新宿のカプセルホテルまで歩き、6時には大浴場につかっていた。
あの時も痛感したのが、「わが町」での「ありきたりの日常」の素晴らしさだ。
僕たちが若いときから享受してきた、普通に働き、普通に食べ、普通に芝居や映画を楽しむ生活。
そういう「当たり前のこと」が、ますます求められる時代になっている。
「妙な潮流」に惑わされず、地元で腰の据わった活動を続けていきたいと思う。
ま、徳島には大した「徳」は無くても、そう、「フクシマ」には早く「福」が充ち満ちてほしいと願う。
以上、僕の「りれきしょ」みたいになったが、改めて真底思うのは、演劇鑑賞運動に巡り合えて良かった〜!ってこと。
いい芝居、美味い酒、賢くて心優しくて情熱のある仲間。 これ以上のものはない。 掛け値なし。
劇団俳優座の山崎菊雄さんが演劇雑誌「テアトロ」に連載しているとおり、僕も、「いつも誰かが照らしてくれた」のだ。←削除部分
ここまできて、妻の言う「天才バカボン」みたいな、数多い極楽トンボ的エピソードを書き漏らしたのに気づいた。
代わりに、昨日見つけた「楽天的」な一文を無断転載しておこう。
「夜の次には、朝が来るんだ。冬の次には春が来るさ。…仕合せと不仕合せとは軒続きさ。ひでえ不仕合せのすぐお隣りは一陽来復の大吉さ。ここの道理を忘れちゃいけない。来年は、これあ何としても大吉にきまった」(太宰治「新釈諸国噺」より)