徳島市民劇場50年の歩み

(琵琶演奏台本)
 


                           

 

 

 

 

 

 

安保反対、声轟きて、騒然とする日本列島。 その片田舎、阿波の徳島。 

「文化果つる地」の汚名あり。 いざ返上と、1960年の7月に、生まれいでたる徳島労演。 

労音誕生の6年後、記念のスタート例会は、労働者詩人の生涯描く、東京芸術座『京浜の虹』。 

体育館にイス並べ、生の舞台を味わうも、会員わずかに417名。 前途多難の船出なり。

 

文化センターいまだなく、63年落成までは、新町小の体育館、はたまた徳島ホールで観劇す。 

会員数も伸び悩み、300、400の域を出ず、見る見るうちにふくらむ赤字。 

未払い総額150万。 会費月額150円だったから、今に直せば2千万。

 

若さで走る役員達の、熱い思いが報われず、粉骨砕身ままならず、幾たび遭遇、解散の危機。

その時、支えてくれたのが、新劇普及を志す、欲得抜きの、多くの劇団。

先輩から語り伝わるエピソード、舞台に負けぬ感動残す。

 

上演料が払えずに、かきあつめても半分足りず、小銭まじりで差し出す役員。

その半分だけ受け取った、劇団の言葉が温かい。 

「今はこれだけ貰って帰る、ぜひとも再建がんばって」。 

東京演劇アンサンブルと、劇団名は変わったけれど、忘れはしない「三期会」。

 

またある時は、劇団民藝。 決まっていた例会を、お金が無いから断念したい、お詫びに行った役員に、

「金が無いからやめるとは、そんな馬鹿なことはない。 おれがチンドン屋やってでも、集めてやるから、やってみろ」。 

新劇運動重鎮の、宇野重吉の、叱咤激励。 「涙が出た」と当時の役員、労演初期の語り草。

 

「演劇運動の両輪」と、互いに思う劇団の、心意気に支えられ、会員・サークルも奮闘し、1000名突破が増えてくる。 

ジリジリ前進、始まった。

 

その頃出合った前進座。 待ちに待ったお目見え例会、68年の『佐倉義民伝』。

農民の困窮、直訴、家族愛…、翫右衛門さんらの名舞台。 1000名会員、酔いしれる。

 

いくたびの、杉村春子さんも懐かしい。 

誰もが認める名女優、群を抜いてた人気と評判、会員増を後押しす。 

当時のピーク、新記録、1700名を突破した、欣喜雀躍、『女の一生』。

 

文化センター満杯で、次なる願いは、2ステージだ。 

魅力あふれる例会続く、ここぞとばかりに、初の挑戦、乾坤(けんこん)一擲(いってき)、夢への挑戦。 

されど虚しや70年代。 思うがように会員増えず、倍半分の変動続く。 

1800名で大成功と喜びあった直後には、1100名になる始末。 

一回だけの入会多く、二年半の悪戦苦闘。 

ついには更なる財政窮迫、創立以来の夢だった2ステージを断念す。

 

落胆、落涙する人多し、「夜一回」に逆戻り。 

合わせて運動も逆回転で、個人入会を認めたり、一回だけでも歓迎と、間口を広がる思惑が、期待に反し、裏目の連続、七転(しちてん)八倒(ばっとう)。 ワラにもすがる思いもあったか、77年、名称変更。 

愛着あった「労演」を「市民劇場」にしたものの、揺らぎに揺らいだ会員制。 

「貧すりゃ(どん)」の、そのままに、サークル制も弱まって、470名まで後退一路。 ここに困窮、極まれり。 

 

されど、サークルしぶとくて、持てるエネルギー無尽蔵、みんなで越える剣が峰。 

とっても高い授業料、払ったと思って、抜本(ばっぽん)塞源(そくげん)、制度改革に着手する。

献身的な活動家、一部のサークル代表者、そこにだけ頼るは無理がある。

みんなで守り育てよう、創立以来の精神を、形にしたのが運営当番。

仙台基点に広がった、運営サークル、総参加。 一陽来復、再起が始まる。

 

徐々に体力回復し、2ステージへ二度目の挑戦。 

「自分らは夜一回でも支障ない。だけど、不規則勤務の人がいる。だから二日公演に」、

優しい思いが広がって、87年『こころ』『罠』、そして『越前竹人形』、一気呵成に2100名、2ステージを確立す。 

かくなる今こそ大きなチャンス。 

間、髪入れずに、登れ坂。 次なる課題は3ステージだ、昼例会への挑戦だ。

 

「人間、万事塞翁が馬」と古代から言わるるごとく、姿現す消費税。 

稀代の悪税、消費税。 戦前からの入場税の、姿を変えて消費税。 おぞましき怪物、誕生す。

89年4月」ゆえ、語呂を合わせて「白紙」に戻せ。 反対署名にも取り組んだ。 

署名集めは初めてよ、そんな会員多く居た。 やはりサークル、力はすごい。 

春秋二度とも3千数百。 反対運動、広がった。 だけど強行、消費税。 

苦しい生活、ささやか文化、そこへの課税は許すまじ。 

 

しかし、我らは意気軒昂。 阿波踊りにも初出場。 連の名前は「とちら連」。 

鑑賞運動、トチっちゃダメよ。 70年代への自戒もこめて、20年続く「とちら連」。 

大きな「劇」の一文字が、藍の浴衣で躍動す。

 

そして迎えた90年。 歴史にさんぜん、輝く飛躍。 

中四ブロック分離独立、四国で独自の歩み始まる。 記念に初の共同企画。 

大滝秀治に加藤剛、実力俳優がっぷり四つ、気迫に満ちた『夏の盛りの蝉のように』。 

3500名大きく越えて、3ステージが磐石に。

 

それだけでなくこの『蝉』は、阿南に市民劇場を、作り始めの第一歩。 

とんとん拍子に、こと運び、3年後にめでたくも、阿南市民劇場、誕生す。  

四国はその後も順風満帆(じゅんぷうまんぱん)、新星・阿南は1400名、2ステージにも挑戦す。 

快走続ける高知では、全国一の9千名。 四国はほとんど、ベスト10入り。

 

阿南に続けと鳴門でも、94年から例会始まる。 

地元会員の意気高く、みるみるうちに千名突破。 97年7月に、鳴門市民劇場、誕生す。 

県下で三つの鑑賞会、力合わせて6千名。 全国からも注目浴びる。

 

ところがどっこい、その頃が、今から思えば「うねり」の頂点。 

「好事、魔多し」と言わるるごとく、体調不良見え隠れ。 

前例会クリアーなんて、当たり前田のクラッカー、そう思ってたのが大間違い。

『奇跡の人』を境にし、寸進尺退、繰り返す。 増えたり減ったり、減ったり減ったり…。

 

「祇園猿ノの鐘の聲、諸行無常の響あり。 娑羅雙樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。 

おごれる人も久しからず…」。 そんな言の葉、心に痛い。

 

「飲み会」で、おごりおごられすることは、何度もあったが、運動で、おごることは無かったと、思いはするが、人のやること。 どこかでやはり気の緩み、達成感や安堵感、ぬるま湯的になったのか…。 

有為(うい)転変(てんぺん)は世のならい、わかっちゃいるが、悔い残る。

 

そろそろ気分一新し、99年高松の、全国会議きっかけに、反転攻勢、その気概、再度ふつふつたぎってきたが、役員会に組織の緩み。 

世界が震えた米国の、9.11多発テロ、奇しくも同じ2001年。 

我らが組織も驚天動地、世紀の混乱始まりし。

「運営サークル三目標」、手にしたばかりだったけど、発展続ける九州の、後を追いかけ、いざ行かん。 

そんな決意の直後に起きた、夢にも思わぬ波乱万丈。 その後も九州、前進し続け、後姿が遠ざかる…。

 

団結してても困難な、とっても厳しい時代にあって、役員会が分裂してちゃ、発展どころじゃないのは自明。 

長い歴史のその中で、最悪、最大の影落とす。 

投げ出すことはたやすいが、踏ん張らなきゃ、女もすたる。 男もすたる、と踏ん張った。

 

臥薪嘗胆、捲土重来…、腹の中で唱えつつ、新役員を中心に、頑張りぬいた10年加え、ここにめでたく半世紀。 

この10年をチマタでは、「失われた10年」という。 

されど得られた新たな人、人。 堅忍不抜の精神で、新たな時代を切り開け。

 

我らの市民劇場よ、半世紀越す運動よ、多くが世のため人のため、そして何より自分のために、そんな思いで前進したい。 

100周年とは言わないまでも、みんなでずっと続けたい。 

 

ここに会した仲間たち、素敵な思い出よみがえらせて、新たな思い出づくりをめざし、虚心坦懐、いざ踏み出さん、確かな一歩、元気な一歩を。 手と手をつなごう、未来のために。

 

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