「真実」の報道を2003・4・10徳島新聞
戦争では往々にして、人命だけでなく「道義」や「良心」と共に「真実」が犠牲になる。かつての第二次大戦でもベトナム戦争でもしかり。時の「大本営」発表がさも真実のごとく報道され、従軍記者はいいように情報操作のお先棒を担がされたのだ。
私たちが同時代体験をした湾岸戦争でも、発達した通信技術によるリアルタイムの映像が第三者の心証形成に多大な影響を与えた。「敵国が破壊した」施設の油にもがく水鳥の無残な姿とか、「敵兵が子供を投げ殺した」と泣きじゃくる少女の映像を繰り返し目にしたものだ。
ところが実際は、環境破壊の原油流出も誰がいつどこで行ったのかが結局不明のままだったし、いたいけな少女の「目撃証言」もどこかの大使館の娘の「演技」だったことが後日判明した。ふだんでも時々ある「やらせ」報道に誰もがまんまと引っかかったわけだ。しかし、それを鵜呑みにした視聴者を責めるわけにはいくまい。あんな映像には誰もがだまされる。だからこそ、真実を追求すべきメディアの責任は重い。
そんなことを改めて考えさせられたのも、いま真っ只中のイラク戦争に関する報道に「違和感」を覚えてしょうがないからだ。連日、そしてNHKではほぼ全日にわたって流されているものの、まだまだ全容も本質も伝えられてはいない、と私は思う。
軍事評論家が、訳知り顔で各種兵器の性能やイラクの戦術・米英の戦略について得々としゃべるのを見ていると、腹立たしく鼻白む。そこにはまったく血が通っていないからだろう。たんたんと犠牲者○○名と発表される数字の裏にどれだけ多くの血が流され、どれほどの悲しみや怒りや恨みが渦巻いていることか。
米イ両国に認められている「従軍」記者が600人いても、確かに報道の自由を守り真実を伝えるのは困難を極めると思う。それでもなお、私たちは期待したい。少なくても、どちらか一方の側に立っただけの戦況解説や針小棒大な戦果よりも、膨大な惨禍をあるがままに詳しく伝えねばならない。
そして攻撃開始後も広がり続けている戦争反対の声を支持し励ます立場で、即時停戦を総力挙げてキャンペーンすることこそが今あるべき姿と思うのだ。よく言われることだが、失われた命の「戦後復興」なんて決してありえなのだから。