鬼子母神の不在 2001.8.23徳島新聞夕刊 

 

 

かわいいわが子は目の中に入れても痛くないというが、彼女らにとっては、家の中に入れるのも我慢ならなかったのか。胸の締め付けられるような悲惨な事件だ。

 

尼崎市でゴミ袋入りの小学一年生男児の遺体が発見された。全身あざだらけだったというから、よほどひどい暴行を受けていたのだろう。若い両親による「児童虐待」死。普通なら優しいパパやママ、おばあちゃんらの愛につつまれた楽しいピッカピカの一年生であるはずなのに…哀れにすぎる。

 

度重なる親の虐待から逃れて児童相談所に保護され、そこから通学していたそうだ。ところが施設は、親の「引き取りたい」という申し出は拒めなかった。どうして?と思う。もう虐待はないと判断したのか。だとすれば、周囲の大人の、そして児童相談所の責任はとても重い。

 

しかし、タダでさえ福祉司の配置基準は低いのに、それさえ満たしていない県が半数もあるのは問題だ。徳島県では児童福祉司が12人しかいないことを初めて知って驚いた。児童相談所の受付件数が全国で19千件(10年前の17倍)もに急増しているそうだから、その現実に、相談態勢が質量ともに大きな遅れをとっていることは明らかだ。

 

国を守る?戦闘機を少し減らせてでも人と施設を拡充させ、将来国を支える子供たちが安全に健全に育つ環境をつくらねばならない。隣近所の通報の協力を含む社会的な保障や態勢づくりも急がれる。

 

理解しがたい児童虐待を生む根底には、将来不安や経済困難によるあせりや動揺、人心腐敗があろう。弱者を大切にしない政治の冷たさと無能ぶりの反映であることは間違いない。悪政のツケといえる。

 

しかし同時に私は、このような事件が明るみに出るたびに、親(保護者!)になる資格も資質もない「当事者」への怒りを強く感じる。育てられないなら産むな、と言いたい。

 

結婚したころの私たちだって、将来への見通しは決して明るくなかった。しかし、ぜいたくや見栄はなく、飢え死にはすまいという楽天性があった。だから、一人なら育てられるという思いがあった。そして、愛情いっぱいの子育てを楽しめたのだ。でも娘よ、やっぱり目の中に入れたら痛いと思うよ。

 

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