日の丸・君が代 1999.7.31 徳島新聞夕刊「視点」 

 

 

 二人の息子が戦死した老母の、うめくような短い詩を最近二度も目にした。 「にほんのひのまる/なだて(なぜ)あかい/かえらぬむすこのちであかい」。 そのつぶやきは小さくて静かだが、なんと悲しくて激烈だろうか。

 

戦無派の私などには、日の丸・君が代に何の恨みもつらみもない。 でも、この老母の痛恨とか侵略された国々の嫌悪感・憎悪は、もちろん理解できる。 戦前戦中の澱(おり)をそのままにしながらの、性急で唐突な「法制化」は、つらい体験を持つ自他国民の気持ちを逆なでするものだ。

 

真に「定着」していないからこそ、法律を作ってまで強制しなければならないのだが、これまでも学校現場での押し付けは、校長と教職員・生徒たちとの信頼関係を壊し、悲劇を生んできた。 また、ある体育大会での式典で起立斉唱をしなかった人が、退場させられたり警察から事情聴取されたりというケースさえ出ている。

 

 こんな調子だと先々には、祝日に「日の丸」を掲揚することを町内会などで申し合わせ、同調しない人用に「非国民」という死語が復活しかねない。こわいことだ。

 

 問答無用の強制からは、「内心」での愛着や誇りは決して生まれないと思う。 オーストラリアだったか、国民投票によって国歌を決めたときの首相の談話がさわやかだった。 「当選したA曲より私はB曲がいいと思うのだが…」と、笑顔で話したそうだ。そこには、国民の意思と合意を尊重する民主主義が感じられた。

 

 わが日本でも、そういう方法が取れないはずはない。 ひょっとしたら、心底からみんなに愛される新しい国歌や国旗が誕生するかもしれない。 カラオケで熱唱する人が増え、国旗グッズがあふれるかもしれない。

 

 先日、この問題を考えるシンポジウムに参加し、国歌・国旗について改めて考える人が増えているのを感じた。 このように、戦後五十余年にして初めての率直でオープンな話し合いが広がりつつあるのに、衆議院ではたった13時間の論議で法案を採択した。これはやはり拙速にすぎる。

 

 徳島新聞社説でも「論議が尽くされたと言えるのか」と強調されたように、私も「ちょっと待ってよ、21世紀の主役となる若者たちを含めて多くの意見を聴こうよ」と言いたい気持だ。

 

 うさんくさい憲法調査会なんかより、こっちの調査会をつくるべきだと思う。 全国各紙には、「さくらさくら」や「ふるさと」を国歌にしたら? という具体的な提案さえいくつも載っている。 「四季の歌」なら「式の歌」になる…これは私のダジャレ癖。忘れて忘れて。

 

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