ヒンケイ、アシタス2001.10.26徳島新聞
「貧鶏、晨す」と書ける人は少ないだろう。これはもう死語に等しい。「オンドリに代わってメンドリが夜明けを告げる」という意味で、俗っぽく言えば「かかあ天下」。女が勢力をふるいすぎると災いが起こりがちだ、という古臭い警句でもある。
戦後強くなったのは女と靴下、と誰かが名言を吐いて以降も、その傾向はますます顕著になってきた。男女同権や機会均等は、自然で当然な歴史の進歩と思うので、私ももちろん、女性の発言力が増すことを歓迎し、いっそうの社会進出に拍手を送る一人だ。
どのカルチャー教室でも大多数が女性で、私の属する演劇鑑賞会も男性はたった一割。「美しい性」と言われる女性の経済的・精神的な自立が進み、いっそう賢く強くなるにつれて、男性の影は薄くなりがちでさえある。
しかし、こんなに社会が進化しているのに、夫や恋人からの耐えがたい暴力に泣いているカ弱い女性がいまだに多い。加害者の男はきっと「比翼の鳥」が「連理の枝」に止まっている光景など想像もできないし、「貧鶏、晨す」には我慢ならない化石的人間だと思う。
せっぱ詰まった女性の救済策としては、明治はじめまで「駆け込み寺」があった。これについては、敬愛する湯浅良幸さんの近著「泰山木」に収録されている二つの好文(縁切寺、三下り半)がお薦めだ。ぜひご一読を。
ところで、現代の「駆け込み寺」を法制化した「ドメスティック・バイオレンス(DV)防止法」が、今月13日からようやく施行された。配偶者からの暴力は犯罪であるとして、国と自治体にその防止と被害者保護を義務づけるものだ。暴力夫に対して裁判所が住居からの退去や接近禁止を命令できることになり、初事例が先日あった。
来年度に県が設置する「相談支援センター」(現・婦人相談所)も、真に頼りがいある「駆け込み寺」になってほしい。たとえ夜中でも、ワラにもすがる思いで駆け込んできた女性を説教して帰宅させるようなことは、絶対にあってはいけない。いくら立派な文言の法律や施設ができても、被害者を救う心と態勢がなければ「仏作って魂入れず」のそしりを受けるだろう。
弱者をいたぶるDVを私は嫌悪する。だからわが夫婦は、かかあ天下でも亭主関白でもなく、「貧鶏、晨す」ということもない。ただ、家計は「貧鶏、足出す」ことがママあるようだ。