高き彼物 2003.9.10掲載 徳島新聞夕刊
かのもの、と読む。日本語ならたいていは読めると自負していたのに、また常々、「僕をウオーキング・ディクショナリーと呼んで」なんて冗談半分に豪語していたのに、初めて出合った言葉だった。まだまだ青いな、と言われそう。
『高き彼物』とは、来月県内で上演される俳優座劇場制作の演劇のタイトル。その出所は吉野秀雄の短歌で、「屑煙草集め喫へれど志す高き彼物忘らふべしや」だと知った。消したタバコを灰皿から拾ってまた吸う、そんな貧しい暮らしをしていても「理想や夢」は忘れてはなるまい、という意味だろう。
そんなにまでして吸わなくてもいいのに、という声が聞こえてきそうだが、歌の心はよくわかる。昔の寮生活を思い出した。部屋で飲んでてタバコをきらした時に時々やったし、そのうまかったこと…。
でも、この歌や芝居に込めた作者二人の思いは、青臭い私たちがコップ酒をあおり、「ボロは着てても心は錦〜」とがなりたてていたような「低きこの者」とは、ちと違うようだ。数段上の「遠大で高邁な思想」のようなもの、なのだろう。それは、「見果てぬ夢」と重なるのかもしれない。
先の短歌は、主人公の一人である元高校教師(高橋長英)がよく口にする。彼との出会いにより、事故で友人を亡くした受験生の自責の念・傷心が癒され、立ち直っていく、というストーリー。教頭の父親が「俗物」に思え反発していた受験生が、酒の飲み方から始まって、学ぶこと・生きることの大切さや楽しさを教わっていくのだ。爽やかな感動と深い余韻に充ちた舞台になっている。
こう書くと生真面目で固そうな感じを受けるが、そうじゃない。人気作家・マキノノゾミらしい現代的な喜劇性で舞台は大いに弾む。彼の娘に振られる巡査、飄々とした老父、再婚相手になりそうな元同僚の女教師、教え子だった娘の婚約者などを、個性的な役者が自在に演じる。青年座、文学座、俳優座、自転車キンクリート、M・O・P、無名塾など、有名無名さまざまな劇団から参加しているのも見どころだろう。
この作品に深みと味わいを与えたのは、まずは昭和53年の静岡の田舎町を舞台にしたこと。たおやかで情感豊かな風土、温かい家族がそこにはある。そして、熱血教師だった彼を退職に追い込んだ想像を越える「ある事件」。なぜ教師を辞めたのかがラストで急転直下、明らかにされるのだ。ハラハラが納まって、のどかな汽笛で幕が下りるのが象徴的ではある。
見終えた時、誰にも忘れられない言葉になるはずの「高き彼物」。だから今は、結末がどうなったか聞かぬもの。
まくあい 徳島市民劇場機関紙 2003.10.14発行
「高き彼物」という言葉の出所と意味を知って、考えた。僕にとってのそれって何? ちょっと照れながら言えば、少しでもいい世の中にと願って微力を注ぐこと。平和と民主主義が当たり前の世界。飢餓や貧困が当たり前でなく、そこそこの衣食住が保障される社会。そして願わくば、誰もが気軽に文化や娯楽に浸れる環境と条件が欲しい。
「感動」は「偏狭」を駆逐し、広い心と優しい気持ちを培うだろうから。それらすべてが、僕にとっての「高き彼物」…。
猪原先生たちには、だから強く共鳴する。名声や地位には無頓着。市井の一教育者たろうとする、愚直なまでのひたむきさ。肩肘張った石部金吉ではなく、人情味あふれて魅力的。みんないい人。喜劇性を持った「真面目」な舞台だ。そのピュアーな思いを、照れずに正面から受け止めたい。