ら抜きの殺意 2000・10・6 徳島新聞
車からのポイ捨てや所かまわぬ携帯電話などはカンにさわる。社会道徳は、ふつう成長過程で自然と身につけていくはずなのに、不可解な現象だ。たいがい楽観主義の私でも、日本の行く末をつい案じてしまう。
そんな由々しきマナーやルール違反と共に、周期的に大きな話題になるのが「言葉の乱れ」だ。その代表格が「食べられる」を「食べれる」という「ら抜き言葉」。以前このコラム欄でも「徳島で見れない映画を見る会」が俎上に乗せられた。「見れない」は話し言葉として定着している感があり、私は「ら抜き」についてはさほど気にならない。しかし、ダメだという人も多く、「論争」は繰り返されるだろう。
時代と共に、間違った使われ方をすることわざも増えてきた。ぼろ儲けを表す「濡れ手で粟」を、ぬれた手が泡だらけと解釈する若者がいる。「かわいい子には旅をさせろ」を誤用し、友達と旅行に行かせてと親に甘える娘や息子もいる。「乱れ日本語」の花盛りだ。ズバリ、それらをテーマにした傑作喜劇がある。井上ひさしを育てた「劇団テアトル・エコー」の大ヒット作だ。タイトルが何と『ら抜きの殺意』。作・演出は、当代一の人気作家・永井愛。
ある通販会社に高校教師が夜間バイトに来るが、そこは乱れ言葉の見本市だった。ら抜き言葉を連発する社員、コギャル語好みの社長、性差別に抵抗して「…妻夫」や「女男同権」と言う社長夫人、乱暴な男言葉やデタラメ敬語のOL…。先の彼は国語教師だけに見逃せない、聞き捨てならない。そこで始まるスッタモンダ。会話上の摩擦が、いつか憎悪と殺意さえもたらすのだ。
県下で来月上演されるこの芝居、ドタバタ調の喜劇ながら、ラストはさわやかで後味スッキリだ。仕事向け・私事向けと器用に言葉を使い分けていたOLが「自分の言葉を持て」と諭され、懸命に自分らしい言葉で恋人に思いを伝えようとする場面など、いとしささえ覚える。意味不明のカタカナ言葉だった青年が、「お国言葉」で素直に心情を語り始めるラストも感動的だ。
思わぬ副産物だが、女言葉には命令形がないということにも気づかされた。古くは儒教思想、そして明治の良妻賢母教育の影響のようだ。「やめろ」という命令が、女言葉では確かに「やめて」と懇願するしかない。歴史や社会が透けて見え、興味深い。
私は、言葉の野放図ぶりには歯止めをかけたいと願う反面、そう目くじらを立てなくてもいいか、とも思う。なんて書くと、どんなクジラかと聞かれるかも。でもやはり言葉は人なり、文は人なり。
★2003年1月、永井愛さんの『見よ飛行機の高く飛べるを』〔青年座公演〕が徳島市民劇場の例会になりました。