奇蹟の人1997.6.27「徳島新聞夕刊」掲載 

 

 

ヘレン・ケラーとサリバン先生の事を聞いたり読んだりしたことがない人は、恐らくいないだろう。三重苦を克服した偉人伝として、子供の頃に本や映画で感動したに違いない。ただ、私の場合もそうだが、その感動も、言葉が持つ哲学的な意味にまで思い至ったのでは、まずなかったはずだ。

 

一歳で熱病に侵され光と音を失った少女ヘレンは、言葉を持っていない。「ものにはすべて名前がある」ことに気付いていない。例えば水に触れても、冷たいとか、ヌルヌルとか、サラサラといった感触しかないのだ。しかも、「水」という名前も、「冷たい・ヌルヌル・サラサラ」という言葉さえないのだ。

 

ひとり闇の世界で生きるヘレンは、両親からいっぱいに愛情を受けて育つ。でもそれは「人間」として成長したものではなく、せいぜい食べ方の行儀などを訓練された「動物」でしかなかった。サリバン先生と運命の出会いをするまでは。

 

ヘレンが七歳のとき、その人が新しい家庭教師としてやってきた。アニー・サリバン、まだ二十歳になったばかり。後から知って、これも意外だった。もっと経験豊かな教師だと、どこかで思いこんでいたから。

 

動物の訓練ではなく、ヘレンを人間として「開眼」させるためには、何よりも、ものには名前があり、人間には言葉があることを分からせること。そのことに確信を持ち、信念を貫き、奇蹟を起こした人がまだハタチだった。大人になって私は、そこにも素朴に感動した。「教育」の大変さと素晴らしさもよく理解できた。世の多くの若き教師にエールを送りたい気持ちにもなった。

 

『奇蹟の人』(東京演劇アンサンブル公演)からは、さまざまな思いが泉のように噴き出す。でもやはり、すべての基本は、言葉。人類が数百万年かけて獲得してきた「言葉」、この価値ある財産をもっと大切にしなければいけないと、改めて思う。そして人間の言葉で語れる人間性あふれる政治と社会を希求せねばならない、つくづくそう思う。

 

ヘレンの自伝にこうある。「私に訪れた不思議な新しい視力(言葉)によって、すべてのものを見た」。

 

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